遠雷 -8-


ゾロは腕を伸ばし、寝転んだままのサンジの髪に触れた。
真っ暗な中空に視線を上げたまま、サンジがぽつりと呟く。
「てめえは、気楽に俺をガキ扱いしやがるな」
「・・・気楽じゃねえよ」
ためらって逡巡して、それでも触れたくなるから手を伸ばすのだ。
「気楽だよ、だって簡単に触るじゃねえか」
廊下に伸ばした腕を枕にして、サンジが肘の内側でごしごしと目元を擦る。
「俺だって、触りてえのに」
サンジの独り言と共に、低く雷鳴が鳴った。

おいおいおいおい
今のは空耳か、都合のいい妄想か。
サンジの髪に指を絡めたまま、中腰で動きを止めたゾロを、首を傾けてゆっくりと見上げる。
「てめえだって、時々めっちゃガキくせえじゃねえか。そういう時はこう、そのツンツン頭をグリグリっとかしたくなんだよ」
何故か口元を尖らせて詰るように言う。
それは抗議しているのか拗ねているのか、甘えているのか。
「・・・すればいいじゃねえか」
「ああ?」
だらしなく寝そべったまま、怪訝そうに瞳を眇める。
「頭だろうがなんだろうが、てめえがしたいようにしろよ。俺は嫌じゃねえ」
サンジは一瞬ぽかんと口を開けてしまってから、きゅっと唇を閉じた。
鼻の先まで朱に染めて、落ち着きなく視線を彷徨わせている。

―――ああ、酔ってんな
こいつも、俺も

少し汗ばんだ地肌を指の腹で擦りながら、ゾロはサンジの顔の横に片手を着いて身を屈めた。
どこを見たらいいのかわからないように、青い瞳がきょときょとと動く。
視線を合わせようと顔を近付けたら、ストロボを焚いたように周囲が瞬いて、バチンと弾くような音と共に真っ暗になった。

一際大きな雷鳴が轟く。
続け様に稲光が走り、一瞬、黒い窓ガラスに重なった二人の姿がまるで鏡のように照らし出された。


―――ぎ
あああああああああああああああああああああ





何が起こったかわからず、ゾロははっと顔を上げた。
電灯が瞬きながら光を取り戻し、家の中がすぐに明るくなる。
奇妙な音が聞こえた方向が真下だと気付いて、慌てて視線を落とす。

サンジは仰向けに仰け反って、力なく首を傾けていた。
長い前髪から覗く瞳は白目を剥き、口端から少量の泡を吹いている。
「おい!」
ゾロは驚いて身を起こし、上に跨ったまま首に触れた。
念のため顎を上げさせて気道を確保し、口元に耳を近付け呼吸を確かめる。

息はしている。
脈もある。
だが、意識がない。
過呼吸かと思ったが、苦しむ様子もなかった。
ただコトンと、まるで電池でも切れたかのように意識を手放している。

「おい」
軽く肩を叩き、耳元で呼び掛けてみた。
もし脳の障害なら、無闇に動かすのはよくないだろうか。
こういった発作は前からあったのか?
そもそも、さっきの叫び声はなんだったんだ?

冷静に対処しながらも、内心ではひどく動揺していた。
それでもサンジを気遣う一心で、ゾロはそっと痩躯を抱え起こす。
そこで初めて、廊下の板の間に流れる染みに気付いた。
サンジは失禁していた。













チュンチュンと、鳥が囀る音で目を覚ました。
頬を撫でる朝の風が心地よい。
台所からは食器が擦れ合う音がして、味噌のいい匂いが鼻先を掠めた。

―――あれ、ジジイが朝飯作ってる
寝坊したとどやされるんじゃないかと、慌てて飛び起きた。
が、すぐに自分が部屋のベッドで寝ているんじゃなく、畳に敷かれた布団の上だと気が付く。

「あれ?」
「おう、起きたか」
手に菜箸を持ったまま、ゾロが台所からひょこりと顔を覗かせた。
どうやら朝食の支度をしてくれていたのは、ゾロだったらしい。
「わりい、俺寝てた?」
「ゆっくり寝てろ、飯は作った」
たまには俺にも腕を奮わせろと、ゾロが威張った調子で言っている。
「つっても、魚焼いただけだけどな。出汁はお前が取っておいてくれたから、適当に具を入れて煮ただけだ」
「ああ、そりゃいいけど・・・」
サンジは立ち上がり、ゾロの背後でぐつぐつ煮立っている鍋に目を剥いた。
「って、味噌汁は沸騰させんじゃねえよ!」
「ああ?」
抗議するより素早く手を伸ばし火を消して、サンジがはーと溜息を吐く。
「お前、グラグラになってっぞ」
「煮込み味噌汁」
「どうりで、味噌のいい匂いがすると思った」
とは言えここから徹底的に指導するつもりはなく、後は任せたと言って洗面所に向かう。



時計を見れば、もう9時前だ。
随分長いこと眠ったらしい。
つか、俺夕べいつ寝たっけか?

今いち昨夜の記憶がなくて、サンジは頭を捻りながらタオルで水気を拭いていく。
着替えようとシャツを引っ張って、夕べ着ていた服と違うことに気付いた。
「あれ?」
ハーフパンツに中のパンツ。
確認してから慌てて台所に戻る。

「ゾロ、俺服着替えたっけ?」
「ああ、俺が着替えさせた」
ゾロは味噌汁をよそいながら、こともなげに答える。
「なんで?つか、俺夕べいつ寝たっけか」
サンジの間抜けな台詞に、ゾロはオーバーに肩を竦めて見せて、意地悪くにやりと笑った。
「やっぱりな、覚えてねんだろ。てめえはへべれけに酔っ払って、廊下で派手に焼酎倒してくれたんだよ」
「ええええっ?!」
サンジは両手で頭の両端を押さえた。
まったく覚えていない。

「酒まみれになるわ臭えわそのまま布団に寝かせられねえわで、しょうがねえから勝手に服脱がして風呂で丸洗いしてやった。その間も全然起きねえんだもんな、お前飲み過ぎんの気をつけろよ」
「ひいいいいい」
サンジは恥ずかしさと申し訳なさで居た堪れなくなったのか、首に掛けたタオルを揉みしだいている。
「あの、わ・・・わ・・・」
悪かったなと言いたいのだろうが、あまりに動揺し過ぎたのか口元がアワアワするばかりで声にならない。
ゾロがすかさず手を伸ばし、サンジの寝乱れた髪を乱暴に撫でた。
「俺の前なら飲み過ぎんのは、OKだ。つまり、俺の前だけにしとけよ」
「・・・おう」
それでも申し訳なさそうなサンジの額を、指で軽く弾く。
「酔っ払いの面倒見るのは慣れてっし、てめえは寝ちまうだけで楽なもんだ。気にすんな」

いってえなと額を擦りながら、サンジは口先を尖らせておうとかなんとか言っている。
不貞腐れた表情になった辺り、自分のペースを取り戻したのだろう。
「着替えて、飯にしようぜ」
ゾロに促されて居間に向かい、ぴたりと足を止める。
振り向いたサンジの顔は、先ほどまで上気していた頬が白く青褪めていた。
「なんだ?」
様子に気付いて、ゾロが皿を置く手を止めた。

「お前、俺を風呂場で洗ったって、言ったよな」
「ああ」
―――ってことは
こくんと、サンジが唾を飲み込んだ。
開いた唇が、かすかに震えている。
「み・・・見た?」
ゾロはテーブルの向こうから真正面にサンジを見据え、視線を合わせる。
その瞳に笑みや憐れみは感じられず、ただどこまでも真っ直ぐだった。

「気にすんな」
「・・・・・」
サンジは虚を突かれたようにはっとして、静かに頷いた。
「ああ」
それから踵を返して、居間でもそもそと着替えを済ませる。

ゾロが気にするなと言うからには、気にしなくていいんだ。
別に気にすることじゃない。
そん通りだ。
ゾロにそう言われると、そうだなと素直に思える。




「豪華な朝飯だな」
「俺にできる精一杯だ」
ゾロは自慢げに手を広げて見せ、座るように促す。
テーブルの上には湯気の立つ味噌汁と炊き立てのご飯、それに焼き魚に冷奴が添えられている。
「まあ、魚焼いて豆腐切っただけだがな」
「いやもう、上等上等」
サンジは感嘆の溜息をついて、神妙に手を合わせた。
「俺、ジジイ以外の誰かに朝飯作ってもらったのって、初めてかもしんねえ」
「そうなのか?」
それは、「ジジイ」以外に家族がいないということにも、繋がるのだろうか。
ゾロはそう推測したが、口には出さない。

「あ、そうだ。昨日これからお前が食うといいなと思って、作り置きしたのがあんだ。出していいか」
「おう」
サンジは冷蔵庫からタッパを取り出す。
「出汁とった後の昆布でごま昆布作った。それから大豆があったから鉄火みそ、どっちも冷蔵庫に入れとけばある程度日持ちするはず・・・」
「美味いな、飯が進む」
ゾロが旺盛な食欲で、パカンパカンと口に放り込んでいる。
「日持ち・・・させる必要もねえかも」
サンジは呆れながら、にんまりと微笑んで食事を始めた。





「今日は何時に帰るんだ?」
「いつもの3時過ぎの電車、送ってくれ」
「勿論」

朝食の後片付けもゾロがして、その間サンジは洗濯物を干している。
昨日の大雨が嘘のように空は青く晴れ上がり、地面はとうに乾いていた。
「昼までに、畑に種植えてくる」
「たしぎちゃんに貰ったやつ?」
パンパンとシーツを叩きながら、サンジがひょいと首を傾けた。
「そうだ」
「なら、俺も行っていいか?」
ゾロはスポンジで洗う手を止めて、振り返った。
サンジが畑についてくると言うのは初めてだ。
「来るか?いいぞ」
「おう」
サンジはもうシーツの向こうに隠れて、洗濯ばさみに手を伸ばしていた。
細長いシルエットが風にはためくシーツの波と共に揺れている。




日焼け止めを塗ってタオルと帽子を被り、ゾロの長靴を借りて畑に入った。
庭や道は乾いているとは言え、畑はまだ水分が残っていてぐちょぐちょだ。
「この辺、水捌けが悪いんだよな」
ゾロの後に従って、綺麗に整備された畑の中を歩いた。
見覚えのある葉っぱに一々足を止めて、サンジは実がなっていないか眺めている。
「ナスもトマトも、随分傷ついてるな」
「風が強いからな。それにもうだいぶ小さくなってる」
ゾロは何も植えられていない場所に鍬で筋を作り、石灰を撒いた。
「ここにほうれん草の種を撒いてくれ」
「どうやって?」
「小さい種だろ、適当にバラまいていいぞ。ゴチャッと芽が出たら間引きすっから」

サンジがぱらぱらと種を撒き始めると、ゾロは血相変えてちょっと待てと手を出した。
「なんだ?こうやって撒いちゃいけねえ?」
「いや違う、封筒を貸せ」
横から引っ手繰るようにして、封筒を手に取る。
確かに表書きには「ほうれん草」と書いてあるのだが・・・
「ったく、青梗菜じゃねえか」
「え?違うの」
残りの封筒から「チンゲンサイ」と書かれたものを取り出し、中身を手のひらに出した。
「こっちがほうれん草だ」
「確かに、色は違うけど・・・」
どちらも芥子粒ほどに小さくて細かい。
「似たようなもんだが、石灰を撒いた方に撒くのがほうれん草だ。こっち植えてくれ」
「先に撒いちゃったのは・・・」
「拾い集めるのは至難の業だろ、まあ生えればどっちでもいいさ」
しゃがんで目を凝らせば種を拾えないこともないが、サンジも潔く諦めて上からほうれん草の種を撒いた。

「間引き菜、柔らかくて美味いんだろうな」
「今度来た時、間引いてみろよ」
「いいの?」
芽が出る楽しみに気を取られながら、慎重に種を撒いていく。
ほうれん草が終わったら、次はチンゲンサイだ。
そして赤カブ。
大根の種は大きくてわかりやすい。


一心不乱に種を撒き、壊れ物でも扱うようにそっと土を掛けていくサンジを、ゾロはさりげなく
見つめていた。
そう言えば、庭で草むしりをしていた時も脇目も振らずに没頭していたっけか。
何も考えず、ただ無心に土に触れることが、サンジにとっての癒しになるのだろう。
そう気付いて、ああと一人で納得した。
サンジはここに、癒しを求めて来ているのだ。
何がいいのかわからないが、それでサンジが心安らかになるのならそれが一番いいだろう。
ならば二度と、邪魔はするまい。
自分の一方的な激情をぶつけようとするなんて、論外だ。

「どうした?」
ゾロが鍬の柄に両手を支えてぼうっとしているのに気付いたのか、サンジがしゃがんだままいぶかしげに見上げていた。
「一休みして物思いに耽る、じいさんみたいだぞ」
「誰がじいさんだ」
怠けてないでとっとと手を動かせと言うと、ひでーと抗議しながらも慎重に土を掛けている。
土を被せ過ぎると芽が出ないと忠告したのを、堅実に守っているのだ。

晴れた空の下で、土の匂いのする風に吹かれながら、こうして二人で過ごせる時間を愛しいと思う。
サンジもそう思っていてくれるなら、そしてこれからも望むなら、ゾロはいくらでも場所と時間を共有できる。
けれどいつかその癒しがサンジにとって必要となくなったなら、その時は潔く身を引こう。

昨夜のことを、サンジは本当に何一つ覚えていないようだった。
酔いがそうさせた訳ではない。
サンジの心の中には明らかに、尋常でない何かがある。
そしてここまで綺麗さっぱり記憶が残らないということは、逆にその状態が深刻であることを示していた。
どちらにしろ、素人が手を出せる領域ではない。
そう判断し、ただ傍にいて見守ることだけをゾロは選んだ。



畑から戻り、シャワーでさっと汗を流して軽く昼食を摂った。
ついでに夕ご飯のおかずを作り置きして、冷蔵庫に仕舞う。
いつもそうだが、ゾロの家から帰る日はなんとなく朝から憂鬱だ。
今回は2泊もしたから、余計、名残惜しいのだろうか。

―――また来月の休みに、来ればいいんだけど
なんでだか、また来月も「帰って来よう」とか考えていた。
いつの間にか、ここがサンジの帰る場所になっている。

―――ゾロは、迷惑じゃないのかな
たしぎのような魅力的な女性が傍にいることもわかったのに、まあ、恋愛関係に発展することのない間柄だというのもわかったけれど、この村にだって他に素敵なレディはたくさんいるだろう。

―――俺みたいな野郎に、いつまでも付き合ってくれてる訳にもいかないだろうなあ
それでも、ゾロが迷惑そうにしない限りここに帰って来たいと思う。
ゾロがそれを、許してくれている間くらいは。



「そろそろ出るぞ、また雲行きが怪しくなってきた」
玄関からゾロが呼んでいる。
気が付けばもう、3時前だ。
この家にいると、時間の流れ方が異様に早く感じる気がする。

「また降るのか?昼間はあんなに天気がよかったのに」
靴を履きながら空を見上げれば、西の方角に黒雲がぽっかり浮かんで、まるで生き物のようにゆっくりと近付いて来るのが見えた。
「わあ、降りそう」
「だろ」
乾いた農道を、ガタガタ車体を揺らせながら軽トラが走り抜ける。
そんなに早く駅に着かなくていいのになと思うのに、すぐ目の前に町が見えてきた。

「あのさ、ゾロ」
「なんだ?」
サンジはちょっとためらってから、リュックからノートを取り出した。
「実はよ、前にうちに野菜送ってくれただろ?あれから色々考えたんだ」
「ああ」
「梱包とか、よくできてた。野菜は傷んでなかったし、汚れるほど土もついてなかったし、あれなら直送いけると思う」
「そうか」
「んでな、ただ野菜を送るだけじゃ能がないから、その野菜のレシピとか一緒に入れるといいんじゃねえかと思ったんだ」
なぜそれを早く言わない。
喉元まで出掛けた突っ込みを、ゾロはぐっと飲み込んだ。

言ってる間に、車は駅の駐車場に入る。
「俺なりに色々考えて、レシピ作ったりした」
「見せろよ」
「無理だよ、もう電車来るし」
だから何故、今頃そんな話になる。
サンジはノートを仕舞って、代わりに切符を買うために財布を出した。

「まだレシピは途中だし、今回こっちで作った料理とかもまとめたいし、また野菜を送ってくれたら他にも開発できるからさ。もしよかったら産直する時に参考にしてみてくれよ」
「それは有難いが、結果的にそのレシピを移して箱に入れるのは俺なんだよな」
「そりゃそうだ」
何を当たり前なことを、サンジが首を傾ける。
「それで、もしそのレシピについて何か質問されたらどうすんだ」
「そりゃあ・・・俺にメールででも連絡くれたら答えるよ」
そんくらい、アフターサービスは付くと笑う。
「季節によって野菜も変わって来るし」
「その度考えるか・・・どっちにしても、お前が産直を本格的に始めるって決めた時の話でいいだろ」
軽く言い放つサンジに、ゾロはしばし言葉を止めた。

―――お前が傍にいて、一緒にやってくれたらいいんだ
先月までのゾロだったら、きっとこの場を借りてそう言っていただろう。
けれど言えない。
もう言えない。
サンジがゾロに求めるものは、無心に過ごせる癒しの時間なのだから。

「まあな、またそん時は頼む」
ゾロの言葉に、サンジは一瞬寂しげな表情をした。
けれど笑顔を作り直し、それじゃあと軽く手を挙げる。

「またな」
「またな」
いつでも来い。
いつでも、待ってる。
その言葉は口に出さず、ゾロは改札の向こうに消えたサンジに背を向け駅から出た。



駐車場に停めた軽トラの中から、2両編成の車両が駅に滑り込むのを眺めていた。
泥で汚れたフロントガラスに、ぽつぽつと雨の滴が落ち始める。
せめてサンジを乗せた電車が駅を出るまで、雨が降らなければいい。
ハンドルに手を掛けて暗い空を見上げながら、ゾロはぼんやりとそんなことを願っていた。



END


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