DOUBLE 10


不自然な体勢で圧迫された腕は、戒めを解かれてもなかなか感覚が戻らなかった。
くたりと力の抜けた身体を、ルイジは後ろから縋るように抱え込んで、一心に手首の赤い跡を撫でている。
サンジの耳の後ろにうずめた顔は、泣き出しそうに歪んでいた。

―――泣きてえのは、こっちだぜ。
まだ酔いが残って、頭がぽわぽわする。
ガキにいいようにされたのはあまりに癪だが、今更怒る気にもなれない。
痺れた左手でルイジの頭を押し退けて、うぜえと毒づいた。

ルイジは顔を上げないでサンジの手首を擦る手に力を込める。
ぴりぴりと痺れて熱さだけが伝わる。

「悪かった。」
悔恨を滲ませた、素直な声。
この声で詫びを聞くたあ、天地がひっくり返りそうだ。
そんな思いが一瞬頭を過って、サンジは自分自身に吐き気がした。
どこまで引き摺れば気が済むのか。
最低なのは、俺の方だ。

ルイジが益々力を込めて、サンジの裸の肩を抱きしめる。
「あんたが好きだ。」
心地よい響きは唇の動きと共に胸の奥まで伝わって、サンジを不快にさせる。
あれほど長く抱き合っていたのに、触れることすらなかった言葉に、たかが1月共にしただけで易々と辿り着く、
ルイジの若さに腹が立った。

「アイシテるんだ。離れたくねえ。」
右手が自由なら、視界の端に映る髪を鷲掴んで、横面を張り飛ばしたい衝動に駆られた。
お前に何がわかるのかと。
それでも本当は、ルイジにそう言わせてしまっているのは、自分だとわかっていて―――――


頬に当たる硬い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜて、サンジはあやすようにルイジの肩を叩いた。

「オールブルーって、知ってっか?」
知る筈はない。
賞金首の手配書すら滅多に出回らない辺鄙な島だ。
海賊王の話も、大剣豪の話も欠片も伝わってこなかった。

「グランドラインのどこかにあるという、4つの海が交じり合った海域だ。世界中の魚がそこに集まってるってえコックにとっちゃ夢のような幻の海。」
この海の名を、サンジはこの5年間一度も口にしていない。
昔、海の上で仲間と交わした言葉を最後に、長いこと封印してきた。
「その幻の海を、俺は探してた。人はそんなのおとぎ話だって笑うけど、俺は何処かにあると信じてた。」
サンジの肩越しにルイジがもそりと顔を上げる。
「なら、探しゃいいじゃねえか。」

「おとぎ話みたいでも、あるかもしれねえじゃねえか。だって、おとぎ話みたいな空の島はあったんだろ。雲の絨毯の上、歩いたんだろ。」
サンジの胸がじわりと熱くなる。
荒唐無稽な冒険談をルイジはちゃんと聞いていた。
「おう、あったさ。羽の生えた天使もいた。雷を操る横暴な神は、俺らが倒したんだ。」
遥かな海の果てで、彼らは今も冒険している。

「海に出よう。てめえ一人じゃ不自由だろうけど、俺も一緒に行く。俺が手伝えばコックとしてやっていけんだろ。
 あんたいい腕してるんだし。一緒に行って、そのオールブルーってのを見つけようぜ。」
ルイジの睦言は限りなく甘美だ。
サンジはうっとりと目を閉じた。
二人なら、行けるかもしれない。

「オールブルーでいろんな魚捕ってよ。いろんな料理作ってやる。きっと美味いぞ。」
サンジは調子に乗って歌うように言った。
ある筈のない未来。
「食わしてくれ。あんたの作ったもんは何でも美味い。きっと滅茶苦茶美味いだろう。料理作ったって喰う奴がいなけりゃダメだろ。俺に食わしてくれよ。」
ルイジの言葉がただ素直に嬉しかった。
一時だけでも夢を見せてくれた。
もう、充分だ。

「約束、してくれ。俺に食わしてくれるって。」
約束の響きは重い。
サンジは静かに首を振った。
「ルイジ、海に絶対はねえように、気安くできる約束も、ねえんだよ。」
サンジの胸を抱く腕が、きゅうと締まる。
「約束、してくれねえのか。」
「ダメだ。」
サンジは真っ直ぐ前を見て、ルイジの顔を見ようともしない。
耳元で、嗚咽に似た吐息が聞こえる。
「・・・一緒に行きてえよ、俺は。」
声が詰まる。
力を込めた指が、サンジの腕の引き攣れに痛いほど食い込む。

「―――ゾロって奴の、代わりでも良いから・・・」
ルイジの悲壮な呟きは、サンジの胸の奥底を深く抉った。


今日も混雑する店に、ルミちゃんが手伝いに来てくれた。
何故かおたおたするマスターの隣で、くるくると働いている。
これからこの店は、二人で切り盛りするんだな、とサンジは微笑ましい思いで見つめていた。
漸く昼のピークが過ぎて人の波が引いた頃、マスターが手紙を持って来た。
「ルイジ宛だよ。」
驚いて目を開いているルイジに、薄い封筒を手渡す。
「誰からだ。」
視線を落として食い入るように見ている手元を一緒に覗き込んだ。
女性の名前。
「・・・おふくろだ。」
いきなりくしゃくしゃと丸めてポケットに捻じ込もうとするのをサンジは慌てて止めた。
「ばか、今ここで読め。」
「何でだよ。」
「いいから読め。てめえそのまま捨てる気じゃねえだろうな。」
ルイジはサンジのいい付けを守って、ちゃんと居所は報せたらしい。
「どうせろくなことじゃねえよ。」
「わかんねえだろうが。それともお前のお袋さんは、用もないのに手紙くれるほど、筆マメなのか。」
多分それはないだろう。
ルイジは観念したように、乱暴に封を破った。
サンジは腕を組んでルイジの言葉を待つ。
マスターとルミちゃんは、気にしながらも無関心を装って、さっきから同じ皿ばかり拭いている。

じっと手紙に目を通してから、ルイジが眉間に皺を寄せて顔を上げた。

「俺の、父親ってのに会ったらしい。」
ほおとサンジの口から溜息が漏れた。
「偶然、逢ったんだとよ。俺のこと言ったらすげエ驚いて・・・」
そこで言葉を止めて、きりと唇を噛んだ。
「俺に会いに来るらしい。」
怒っているような悔しそうな表情だ。
サンジはその顔を見て笑って祝福した。
「よかったじゃねえか。」
「よかねえ!」
噛み付くように怒鳴る。
「今更、どんな顔して会えってんだ。俺ができたことも知らねえ癖に、今更父親面されたってたまんねえよ。
 どこの馬の骨ともわかんねえ奴によ!」
激昂するルイジを横目で見て、サンジは煙草に火をつけた。
ふうと吹き出して口の端で笑ってみせる。
「怖いんだろ。」
「ああ?」
途端、ルイジの額に青筋が浮いた。
「てめえの父親ってのに、会うのが怖いんだろ。生まれる前から顔も知らなくて名前も素性もわからねえもんな。小せえ頃から、俺の親ってどんなかなって色々想像してたんだろ。それがいざ会うとなると、そりゃア怖いだろうよ。理想のおやじと違うかも知れねえし。」
「うっせえ、そんなんじゃねえ。」
図星なのか怒りからか、ルイジの顔は首まで赤い。
「そうじゃねえなら、ちゃんと会っとけ。例え相手がへたれジジイだろうが、ごついおっさんだろうが自分のルーツってのをこの際ちゃんと確認しとけ。会うだけで、今更親子の絆持ち出されんのが嫌だってえなら、そう言ってやらあ、いいじゃねえか。」
カウンターの中で、マスターもうんうんと頷いている。
「偶然再会してよ、勝手に自分のガキ産んだ娼婦を殴る奴はいるだろうが、わざわざ会いに来てくれる奴は、あんまいねえぜ。」
言われて、ルイジはもう一度くしゃくしゃの手紙に目を落とした。
握りしめた指は白く浮いている。
「・・・いつ来るんだ。」
「明日、この店の住所に来るらしい。」
そうかと呟いて、サンジは店の片づけを再開した。


ルイジを配達に出させてマスターとルミちゃんでお茶をする。
マスターの煎れてくれたコーヒーの芳しい香りを嗅ぎながら、サンジは目をしばたかせた。
「ごめんマスター。ウェディングケーキ、作れそうにねえや。」
へにょりと、マスターの太い眉が情けなく下がる。
「丁度いい頃合いだと思うんだ。俺はここ、出て行くよ。」
ルミちゃんが、どうして?と鈴の鳴るような声で尋ねる。
「ルイジは多分、ファザコンじゃねえかと思うんだ。どこの誰ともわからねえ父親のことをずっと引きずってたと思う。明日実際に会えるんなら、あいつん中で踏ん切りがつくだろうし、わざわざ会いに来てくれるような人だ。きっとルイジのことを悪いようにはしねえ。」
うんうんとマスターが哀しげに頷いた。

「ここを出て、どうするつもりだい。」
「海に、出ようと思う。」
サンジは照れたようにちょっと笑った。
「潮の匂いのしねえとこに、よく5年も居たもんだって自分で思う。やっぱ俺は海が好きだ。どこかの船に潜り込んでグランドラインにもっかい出てみてエ。」
広い広い海原の未知の彼方へ。
「死ぬときは、海がいい。足手まといだって放り出されたって構わねえ。」
へへっと笑って煙草の火を揉み消した。
「ルイジ君にはなんて言うの。」
マスターはちらちらと表を気にしながら声を潜めた。
「何も言わねえつもりだ。あいつは聞き分けのねえガキだからな。だから、マスターには迷惑掛けることになると思う。」
深く、頭を下げたサンジの肩を軽く叩いて、マスターはルミちゃんと手を握り合った。
「後のことはぼく達に任せて。君がいなくなるのは哀しいけど、もう一度旅立つのなら、笑って見送らせて欲しい。」
サンジはもう一度二人に深々と頭を下げて、綺麗に笑った。


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