恋の奴隷 1



その日、サンジは厄日だった。

顔を洗おうとして手を伸ばしたら、手元が狂って歯ブラシが洗面所と壁の間に落ちた。
キャベツをざくっと真っ二つに切ったら、中にいた青虫まで輪切りにしてしまった。
戸棚の奥に隠しておいた、後2日はねかして置きたかったブランデーケーキが消えていた。
カップを手に取ったら、取っ手部分だけ残して後は床に落ちて割れた。


―――なんだ、こりゃ。
自分のミスだけではない不可抗力も含めて、今日はどうもロクなことがない。
ケーキに関しては、起きて来たルフィを張り倒して溜飲を下げたが、その間にフライパンを熱しすぎてバターを焦がしてしまった。
「畜生、キツネ色じゃなくてタヌキ色だ。」
それはそれで美味そうなんだが、サンジは一人ごちる。

ルフィの前に山盛りのキャベツの千切りをどんと置いて、サンジはいつものバカを起こしにキッチンを出た。
男部屋にはいない。
格納庫にもいない。
倉庫も。
甲板も。


―――あのアホ、緑ゴリラめ。
苛々して歩き回っていたら、飛び出ていた釘にエプロンが引っかかって裾がほつれた。
怒り心頭である。

ようやくみかん畑でゾロを見つけた。
いくら気候がいいからって、こんなとこで寝るか陸マリモ。
夜露に濡れた緑髪が朝日に光っている。
その無防備な横腹に、今朝からの諸々をすべて込めて激しい一発をお見舞いした。
「・・・ぐぉ――」
息を詰めてうめく声をバックに、サンジは足早にキッチンに戻った。


皆揃っていて賑やかな朝食風景が始まっている。
「おはようコックさん。お先頂いてるわ。」
「サンジ〜、なんで俺葉っぱばっかなんだぁ。」
「サンジも早く食べろよ。」
キャベツに辟易しているルフィにドレッシングを追加してやって、サンジも席についた。


戸口にゆらりと影が現れた。
最悪な顔つきでゾロが立っている。
額には青筋が浮かび、汗が流れている。
「おはよ、ゾロ。また素敵なお目覚めね。」
ナミのからかいの言葉に眉だけ上げて、サンジを睨みつける。
「――てめーは加減ってモンを知らねえのか。毎回毎回、人の身体なんだと思ってやがる。」
「毎回毎回、痛え目に遭っててこりねえ頭をマリモ頭ってんだ。筋肉脳ミソとも言うがな。」
サンジはせせら笑う。
「嫌なら、明日からウソップのカンシャク玉でもお見舞いしてもらえ。」
横でウソップがぶんぶんと首を振っている。
「起こされるまで起きねえてめえが悪い!何度蹴られても懲りねえてめえが悪い!以上!」
ぴしりと言われて、返す言葉はない。
どれもこれも正論だ。
ゾロの起床は喧嘩の種にもならならい日常だったが、今日はサンジの虫の居所は悪すぎた。
「―――カタツムリ・・・」
子供じみたゾロの呟きに、過剰に反応する。
「ンだとおらぁ!人を軟体動物扱いしやがって・・・上等だ!表へ出ろ!!」
サンジの怒鳴り声に、ゾロも凶悪なカオでねめつける。
「今日という今日は、きっちりカタをつけてやる!」

「はじまっちゃったよ。」
「まあ、喧嘩は表でやってよね。」
「この葉っぱ、どんだけ食っても減らねえぞ。」



いつの間にか、風が強くなってきていた。
マストに張られた縄に、サンジ特製のスルメがずらりと干してある。
その下にゾロが仁王立ちになった。
刀を1本抜き、構える。
幾度となくサンジと喧嘩をしたが、真剣を抜いたことはなかった。
確かに奴の足は立派な凶器だが、刃物を振りかざすのはフェアじゃないと思ったからだ。
しかし、今日は違う。
思えば、サンジに蹴り倒されて意識を失うことはあっても、ゾロがサンジを失神させたことはない。
表の喧嘩では――。
これ以上サンジが調子こくようなら、みね打ちの一つでも決めてやる。
サンジはポケットに手を突っ込んだまま、高く足を上げ、戦闘体制に入った。
おもしれえ。とことんやってやるぜ、クソ野郎。


「おー、やってる。やってる。」
食事を終えたギャラリーが集まってきた。
「ゾロ、真剣抜いてるぞ。」
「うひゃ、こえー。」
「うまい!サンジ君、流石身が軽いわあ。」
滑らかに剣を振るゾロの動きは剣舞のようだ。
サンジは流れるようにソレをかわし、蹴りを繰り出す。
「たまにはこういうのもいいわね。スリル溢れるスピード感があって。」
「・・・サーカスかよ。」
ゾロの剣を靴底で止めて、二人はしばし睨みあった。
「ギラギラした眼、しやがって。」
弾けるようにお互い飛び退き、また仕掛ける。

大量のキャベツをなんとかやっつけたルフィが、のそりと顔を出した。
「お、スルメ見っけv」
何も考えずに手を伸ばす。
わしっと掴んで綱ごと引っ張った。

サンジがデッキに両手をついてとんぼ返りする。
綱が足に引っかかった。
テンポがずれる。
ゾロが刀を振り下ろし・・・


ぽき―――


「あ」


ナミが間の抜けた声を上げた。

「あ」
「あ」
「あ?」
「ああ・・・」


小さな音よりはるかに大きな手ごたえを感じたゾロが、口をあけたまま固まった。
「――――あ・・・」

そして、

「ああああああー!」
サンジの絶叫が響き渡った。




「両母指第一関節単純骨折」

チョッパーの口調は、事務的だ。
「全治一ヶ月ってとこかな。まあサンジは治るの早いけど、ギプスしとくから一週間は動かしちゃだめだよ。」

包帯でぐるぐる巻きにされた両手を、サンジは呆然と見詰めていた。
親指。
しかも両手。
――サイアク・・・

これから一週間、自分がすべきことと出来ないことが頭の中をぐるぐる廻る。

ルフィはとりあえず、見張り台にくくりつけて、日干しの刑に処せられている。
ゾロはナミのお説教だ。
勿論、これが事故であることはサンジは百も承知だが、何せ手、しかも両手を使い物にならなくして、ショックは隠せない。

あの時、テンポの遅れたサンジの両手がデッキを離れる間際、僅かに残った親指の上を、ゾロの刃が叩いた。
背ではあったが、実に綺麗にすっぱりと・・・折れたというより、切れたんである。
骨だけが。


「ゾロって凄いよね。」
チョッパーは正直な感想を述べている。
これで切断でもされてたら再起不能だが、骨折で済んだのは幸いだった。
鞘ごと殴られて、骨を砕かれるよりマシだし。
―――まあ、不幸中の幸いってことか。



ポケットを探ろうとしてままならない。
煙草一つ取り出すのも、ひどく難儀だ。
「私たちもできるだけ手伝うから、何でも言って頂戴。」
ロビンの手がサンジの腕から生えて、包帯を巻いた手にそっと添えられる。
「ありがと。」
サンジは少し、笑った。



「大鍋に湯、沸かしてくれ。それから冷凍庫にピザの生地あるから、取り出して麺棒でのばしてくれる?」

キッチンはいつになく大人数だ。
ウソップとチョッパーがちょこまかと動き回り、ロビンの手があちこちに生えている。
「みんなの手を借りられる内に、出切る仕込みは済まさせて貰ってもいいかな。」
どこか遠慮がちな台詞に、ウソップが振り向いた。
「あったり前だろ。今の内なんて言わず最低一週間は何でも言えよ。俺たちだってやればできるんだからな。」
なんだかウソップ、頼もしいぞ。

そこにナミがゾロを連れて帰ってきた。
「あら、皆やってるわね。あたしも手伝うわ。」
ゾロを振り返り
「奴隷もいらっしゃい。」


―――ど、奴隷?


「今日から一週間、ゾロはサンジ君の奴隷になるから、何でも言ってやって頂戴。」
なんですと?

「ゾロが奴隷・・・なんて魅惑的な響き。」
サンジの呟きに、ゾロは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「でもよお、直接手を下したのはゾロだけど、きっかけを作ったのはルフィだぜ。」
ウソップは困ったようなおかしいような顔をしている。
「確かに俺たち喧嘩してたわけだし、喧嘩両成敗って言うでしょ、ナミさん。」
サンジも今回ばかりは調子に乗れない。
「あら、サンジ君先に成敗されちゃったじゃない。だからこれからゾロを成敗するのよ。」

そうか?
そんなものなのか。



「はい、あーんして。」
「あ〜〜〜ん」
「美味しい?」
「とーってもv」
「じゃあコックさん、今度はこちら」
「はい、あ〜んv」
サンジが目をハートにして、ナミとロビンに食べさせてもらっている。
「何かいいよなあ。たまには怪我するもんだな、おい。」
鼻の下を伸ばしてしょうもないことを言っている。
「たまに、はいいけど直ぐ飽きるわね。明日からは奴隷にしてもらいなさいな。」
ナミの言葉にサンジは冷水を浴びせられたような顔をした。
「な、なななナミさん!」
「あら、本来は奴隷の仕事よ。今は面白いから私がしてあげてるだけ。」
さらりとかわされて、サンジが青くなる。

ああ、どうして俺を怪我させたのが、ナミさんやロビンちゃんじゃなかったんだろ。
百歩譲ってもチョッパー、いやこの際ウソップでもルフィでもいい、とにかくゾロだけは嫌だ。
絶対嫌だ。
シャレにならないから。
落ち着きのないサンジをナミが笑っていても、ゾロは何も言わない。



食後の後片付けは、ゾロに任された。
「かちゃかちゃ、音を立てるな。」
「水を出しっぱなしにするな、勿体ねえ。」
「皿は裏まで丁寧に洗え。」
口うるさいサンジにも、逆らわず素直に従っている。
サンジはなんだか苛々してきた。
「てめえ、俺になんか言うことないのかよ。」
ゾロが胡散臭そうにサンジの顔を見る。
「ごめんなさいは?」
ゾロが僅かに眉をしかめた・・・ような気がした。

「ごめんなさい。」
サンジは耳を疑う。
至極あっさりと、ゾロの口から信じられないような言葉が出た。
何事もなかったように皿洗いを続ける。


ご、ごめんなさいだと?
あのゾロが。
俺にごめんなさいだとお?
激しく動揺する。
何で自分がこんなに衝撃を受けるのかわからないが、ショックでくらくらしている。
嫌だ。
こんなゾロ、見たくねえ。


ふらふらと後ずさりして、椅子に腰をおろした。
ポケットの煙草を取り出すのに、またひどく苦労する。
手間取っているとゾロが手を拭いて近寄ってきた。
サンジから煙草を取り上げて、口にくわえさせる。
マッチを擦って、火をつけた。

嫌だ。
こんなゾロ、嫌だ。
サンジは泣きそうな顔になっていた。


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