堕天花 11



ガチャガチャと音を立てながら、クロコダイルは風を切る速さで長い回廊を足早に歩く。
後ろから数人の侍従が着いて、マントを取り去り甲冑を外したりと忙しい。

「変わりはないか。」
「は、実は・・・」
クロコダイルの動きに遅れぬように、慌しく肩に上着を着せながら、侍従は言葉を濁した。

「また、新しいペットを咥え込んだのか?」
酷薄な笑みを浮かべ、クロコダイルは毛皮を翻して開け放たれた重厚な扉の向こうへ大股で踏み込んだ。












白で統一された、広過ぎない瀟洒な部屋。
大理石の床は冷たい光を放ち、家具は小さなチェストとカウチだけで奥に据えられた天蓋付きの大きなベッドがやけに目立つ。
全体に殺風景な部屋だが、なぜか暖かな食事の匂いに満ちていた。

「早かったな。」
振り向かずそう言って、咥え煙草から紫煙をくゆらす。
忙しなく動かす手元では、小さなフライパンで肉がフランベされて香ばしい匂いが立ち昇った。

「時間が掛かり過ぎだ。魚人相手に少々梃子摺った。」
エプロンを掛けた腰に腕を回し、クロコダイルは背後から覗き込むようにサンジの痩せた肩に顎を乗せ、抱き締める。
サンジは軽く笑って、フライパンから手早く皿に盛り付けた。
「俺が言ってんのは、窓からてめえ帰ってくんの見えてからが早いっての。この最上階まで駆け登って来たのかよ。」
「そんなものだ。」
軽く首を伸ばし頬に近付けた唇にフライ返しを押し付けて、サンジはするりとクロコダイルの腕の中から抜け出す。

「料理中は構うなっつってんだろ。ちいとも『待て』を覚えねえなあ。」
フライパンをコンロの上に置いて、エプロンを外し煙草を灰皿に押し付けてから、サンジはくるりとクロコダイルに向き直った。


「おかえり」
満面の笑みを浮かべて手を広げれば、クロコダイルは無言のままその痩躯を抱き締める。









眠るためだけの退屈な部屋の片隅に、サンジが望むままにキッチンを設えた。
それ以来、クロコダイルが口にする食事はすべてサンジが作っている。
素材は城のシェフが調達し部屋まで届けているが、サンジは調理ができるだけで満足なようだ。
そうして部屋からは一歩も出ずに暮らしていても、どこからか悪い虫は湧いてくる。

「飯が冷めちまう。後にしろよ。」
挨拶の抱擁からそのまま抱き上げられて、サンジはクロコダイルの膝の上に抱きすくめられる格好でソファに深々と身体を沈めてしまった。
首筋に口付けられながら、何度も髪を梳かれる。

「くすぐってえっての。」
「俺の留守中に、悪い虫はつかなかったか?」
「つかねえよ、んなもん。」
ほんの少し頬を上気させて、そっぽを向いた横顔の、金髪の間から覗く耳に噛み付く。

「てっ・・・」
「どうも、この城に来てからお前は嘘を覚えたようだな。」
「・・・嘘じゃ、ね・・・」
荒々しい靴音が近付いてきて、サンジはぎくりと顔を上げた。


「失礼します。」
声を掛けると同時に白亜の扉が開き、鎧姿の兵士が数人、毛足の長い絨毯の上に踏み込む。
「曲者を捕らえました。」
恰幅のいい兵士が足元に男を突き倒した。
薄汚れた、貧相な男だ。
両手を後ろ手に縛られ、膝をついて蹲っている。

「ほう、また随分と大きなネズミだな。」
にやりと笑うクロコダイルの横で、サンジは小さく息を呑んだ。
兵士は男の頭に手を掛けると、無理やり顔を上げさせる。
目の下に隈を作った無精髭だらけの顔はげっそりと痩せて、額から血が流れていた。

「乱暴するな、ケガしてるじゃないか!」
サンジの声に男はぴくりと視線を向けて、慌てて逸らした。
「我々に捕らわれる際、こやつは大暴れしたのですよ。兵士が3人死にました。只者じゃありません。」
「ほう、でかい上に只者でないネズミか。」
楽しそうにクロコダイルは肩を揺すり、膝の上のサンジを抱え直した。

「それで、お前はこのネズミを知っているんだな。」
背後から覗き込まれて、サンジは不自然な方向に顔を背ける。
「これ以上、嘘は許さぬぞ。」
「別に、知っている訳じゃ・・・」
言いかけて、クロコダイルと男の顔に交互に視線を走らせ口篭る。
「まあ、ネズミに聞けばわかることだ。口と舌さえ残して置けば、最期は何か言うだろう。」
「乱暴は止めろよ。」
サンジはクロコダイルの膝の上で腰を浮かせて肩に縋る。

「別に怪しい奴じゃねえんだ。なんか城の中で迷子になってて、そりゃあ腹空かしてたんだ。だから飯を食わせただけだ。」
必死に訴えるサンジに、クロコダイルは目を細めていちいち頷く。
「で、この部屋に招き入れて、食事をさせたと言う訳か?」
「ああ。腹いっぱいになったら、ちゃんと帰るって約束したから・・・」
「食事だけか?」
クロコダイルの鉤爪が、ゆっくりとサンジの脇腹をなぞる。
「痛っ・・」
強く押し付けられてサンジは肩に縋り付いたまま身を捩った。

「こんな怪しい男を部屋に通しておいて、何もなかったで済まされると思うか?」
「なんで?ほんとになにもねえんだぞ?」
クロコダイルのもう片方の手が、サンジの白いシャツの裾から差し込まれる。
びくんと身体を震わせて、青い目が不安げに揺れた。

「確かめるか?確かめさせるか?その男の前で、そやつらにも皆、確認させるか。」
「よせっ!」
サンジは蒼白になってクロコダイルの膝の上で脚を竦めた。
必死で腕を押さえようと肘を突っぱねるのに、クロコダイルの両腕が怪しく動く。
「い、た・・・」
羞恥と苦痛に顔を歪め身を捩るサンジに、男は焦ったように膝立ちのままにじり寄った。

「よせ!その人は関係ねえんだ!」
「ほお・・・」
クロコダイルはサンジを嬲りながら片頬を歪める。
「間男が庇い立てをして、なんの意味がある。」
「違う、その人は本当に、俺に飯を食わせてくれただけなんだ。俺みたいなの、怪しみもしねえで・・・俺だって、吃驚したけどよ・・・」
サンジはクロコダイルに取り縋ったままぶんぶんと頷いた。
「ほんとに、こいつ迷子なんだって。帰り道わかんなかったんだよな、そうだよな。」
「まこと、慈悲深き天使よ。」
クロコダイルはサンジの額に口付け、口元を歪めたまま男を見据える。

「私としても。愛しい天使を疑うような哀しい真似はしたくはない。だが、バロック公国の中枢にして最奥の、この強固な警備の敷かれた城の最上階に、よもや迷子が入るとは考えられまい。お前が正直に身元を明かせば悪いようにはせぬ。お前にも、我が愛しき堕天花にも。」
言いながら、クロコダイルは冷たい鉤爪をサンジの喉元にぴたりと当てた。
男は息を呑み、不自由な体勢のまま身体を揺らした。
「止めてくれ!その人は本当に関係ねえんだっ」
「ならばお前の名は?」
畳み掛けるようなクロコダイルの声に一瞬喉元を詰まらせて、それでも血に濡れた目で睨み付ける。

「・・・ギン」
「何をしに、ここまで来た?」
「・・・」
「言わぬのか?」
く、とサンジの白いうなじに鉤爪が食い込んだ。
サンジはぴくりとも動かず、ただ不安げにクロコダイルのギンの間で視線を彷徨わせている。
「止めろ、傷付けるな。」
「言え、何しに来た。」

「・・・堕天花を、攫いに・・・」
青い目が驚愕に見開かれる。
「すみません!騙すつもりはなかったんです、ただ・・・ただ、様子を伺いに来ただけでっ・・・」
「それはそうだろう。いかにサンジが無防備とは言え、警備は強固だ。そうおいそれとは逃がさぬよ。故に、ネズミの一匹や二匹泳がせるなど造作もない。」
くっくと笑い、クロコダイルはサンジを抱え直した。
「調べはとうについておる。海賊クリーク団の戦闘隊長、ギンだな。」
がくりとギンは膝をついた。
今は何より、サンジの目が痛かった。

「クリーク団はサウスの海で拿捕済みだ。お前のことはいい口実になるだろう。よくやった。」
そう言い、素手でサンジの頭を撫で抱き寄せる。
サンジは首を振って身体を起こすと、ギンに向かって身を乗り出した。
「お前が海賊だなんて、嘘だろう?嘘だって言ってくれよ。」
「すみません・・・」
ギンは床に額を擦り付けるようにして、ひたすらに詫びる。
「な、悪い奴じゃないんだよ。こうして謝ってるじゃねえか。なあ、許してやってくれよ。」
サンジはクロコダイルに振り返って懇願した。
その様に愛しげに目を細めて、クロコダイルはゆっくりと頷いた。

「お前に免じて赦してやろう。案ずることはない。」
「あ・・・」
ぱっと薔薇色に顔を綻ばせて、サンジはクロコダイルに抱き付いた。
笑いながらその背をあやすように撫で擦り、クロコダイルは冷たい目で兵士に向かって顎をしゃくる。

「引っ立てい。」
兵士たちに引き摺られ、ギンは俯いたまま部屋から出て行った。

それを笑顔で見送って、サンジは改めてクロコダイルの太い首を囲うように抱き締める。
「大丈夫だよな。ちゃんと自分で正直に話したから、あいつ酷い目に遭わないよな。」
「ああ勿論だ。私がお前に嘘をついたことがあるか?」

サンジは乱れた前髪越しにじっとクロコダイルの顔を見つめる。
「料理してえっつったら、キッチン付けてくれたし、俺の飯食ってくれるし・・・ノースはそっとしといてっつったら、手出ししてねえんだよな。」
クロコダイルが大きく頷く。
「アラバスタでは、戦はしなかったんだよな。コブラは元気かな。ビビちゃん、駆け落ちしたって聞いたんだけど・・・」
「ああ、あのお転婆は海賊になったらしいぞ。勇ましいことだ。」
「へえ・・・」
サンジは目を白黒させて、ふわりと笑った。
「すげえな、あーんなか弱い王女様が海賊かあ。驚いた。」
「私はお前に嘘をつかない。もうすぐ、海を見せてやれる。」
サンジが息を呑んだ。
「魚人どもを大方蹴散らした。アーロンの拠点を叩けば、そこにお前のための城を築こう。海と空の彼方まで見渡せる、見晴らしのいい場所にお前の部屋を設けよう。」
サンジはそっと、クロコダイルの固い髪に指を梳き入れた。

「てめえ、なんか違う匂いがする・・・」
「これは潮の匂いだ。ずっと海から吹く風に晒されていたからな。」
サンジはちろりと珊瑚色の舌を出して、秀でた額を舐めた。
「・・・・しょっぺ?」
クロコダイルは苦笑しながら片手でサンジを抱き上げてベッドへと歩み寄る。

「もうすぐだ。もうすぐ本物の海を味合わせてやる。お前との約束は決して違えぬ。」
「クソワニ・・・」
サンジはクロコダイルの薄い唇に自分から口付けると、にかりと笑った。


「んじゃ、先に飯食ってからな。」
言い置いて、するりと腕の中から抜け出す。

クロコダイルは一瞬呆けた顔をして、ばさりと上着を脱いだ。
仕方あるまいと呟きながらも、表情は柔らかかった。



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