Bon appetit! -氷の村と妖精のお話-  1


ふかふかのベッドで目覚める朝。
お気に入りの侍女が指先で優しく天蓋から流れ落ちるドレープを捲ってくれると同時に、柔らかな日差しが降り注ぐ。
鼻腔を擽る、ホットミルクの甘い匂い。
テーブルに飾られた、朝摘まれたばかりの薔薇の花の芳しい香り。
とっくに目を覚ましていながら、彼女のおはようございますの挨拶が聞きたくて寝たふりを続けてみたりして。
そう、こんな風に―――


「ぐがーっ」
地響きと同時にサンジの身体が大きく上下した。
がばりと頭を上げ、埋もれたシーツの中から這い出ようともがく。
そうしている内に覆い被さっているのは、いつもの絹布団ではないと思い出した。
くたびれて毛羽立った、毛糸の塊。
否、腹巻。
呼吸と共に上下する波のような腹の動きに翻弄されつつ、サンジは辛うじて頭だけを腹巻の外に出す。
外はまだ白み始めたところなのか、梢の間から覗く空には薄紫色の雲が筋状に棚引いて見えた。

「ふわ、あ」
「がぐーっ」
寝息と共に揺れる腹の上にぺたりと座り、サンジも大きく伸びをした。
旅立って初めての、外で迎えた朝だ。

正確にはゾロの腹巻の中で眠ったのだから、野宿というものではない。
が、宿主たるゾロは立派な野宿だった。
腹巻に覆われていないシャツは夜露に濡れて湿っているし、胸の上で組んだ腕は無意識にか肌を擦っている。
辛うじて雨露が凌げる大きな樹の下とは言え、ノースの夜は冷え込みが厳しい。
夜中中燃えていた薪も、今は小さな火種を残して煙を燻らせている程度だ。
――― 一晩中、見張ってたんだもんな。
さすがに枕(というか寝床)が変わると、サンジも深くは眠れなかった。
夜中にちょくちょく目を覚まし、その都度ゾロが起きているのを確認した。
森の中には狼や熊もいる。
火を焚いていても寝ている内に消えてしまっては役に立たないし、一人旅では火の番をして夜もおちおち寝ていられないだろう。
―――ずっとこうして、暮らしてきたのか。
安全な場所でぬくぬくと、自分だけぐっすり眠ってしまったなと少し後ろめたくも思った。
だから、起こさないようにそっと腹巻の中から滑り出し、ゾロの膝の上をトトトと伝い歩いて地面に降り立つ。
なにか、朝ごはんになりそうなものを探してこよう。

つやつやの緑の葉にころんと転がる朝露を両手で掬い、顔を洗った。
湿った土の窪んだところに堪った水溜りは、サンジにとっては池に等しい。
大回りしながら迂回し、時に草を掻き分け、茎によじ登って花の蜜を集め、食べられそうな実を捜した。

木の枝伝いに登って行くと、川のせせらぎの音が聞こえた。
明るい日差しの下で、水面がキラキラと光っている。
よく目を凝らせば、何匹かの魚がすいすいと揺らめく水草のように泳いでいた。
これはいいと伸び上がって覗き込んだら、草の茎がくなんと撓った。
「ふわっ」
まずいっと思った時には、葉の間から滑り落ちていた。


ぱしゃんと立った水音はあまりに小さくかすかで、草の一本が揺れている程度の変化しかない。
が、サンジにとっては突然ガボガボと大きな音が耳元でがなり立て、視界は歪み息が継げなくなった。
―――やべえ、落ちた。
一応、いざと言う時に対処できるよう、体術から水泳まで一通り英才教育を受けてきたサンジだが、流れの早い川に落ちてはどうしようもない。
天地の区別も付かないままただバタバタと手足を動かしたが、急な流れに翻弄され渦の中に巻き込まれていく。

不意に流れが塞き止められ、身体を浚う動きが止まった。
ぷはっと顔を上げて大きく息を吸い込む。
今までサンジを押し流そうとしていた水の抵抗がなくなり、そのままザバリと引き上げられた。
「なにやってんだ」
小川の淵にしゃがんだゾロが、目の高さまで手を持ち上げて、濡れ鼠になったサンジを凝視している。
近過ぎて、ちょっと寄り目だ。
「お、はよう」
ゾロの親指に捕まって、サンジはへらりと笑った。


早速火を起こしてくれて、サンジは震えながら服を脱いだ。
まだお天道様が昇りきらない朝の空気は冷たいくらいで、立っているだけでガクガクと身体が震える。
葉っぱの陰に隠れて脱いだ衣服を絞っていたら、ゾロの手がばさっと草を掻き分けた。
「ぎゃっ」
「あんだ?」
慌てて足を振り上げ蹴り付けるサンジに、ゾロは弾かれたように掌を引っ込める。
「服、乾かさないと風邪引くぞ」
「うっせえ、覗くな変態!」
「変態って」
ゾロにしてみれば、ちっこい男が真っ裸になってるのを見たところで、人形の服を脱がせたような感覚しかない。
がしかし、濡れた服を抱いて後ろを向いた小さなサンジの尻は、小さいなりにぷりっとしていた。
「お前、色白えなあ」
「ジロジロ見んな、あっち行け!」
「そうツンケンすんなって」
しゃがんだサンジをそのまま掌で包み込んで持ち上げる。
ふと手を止めて、自分の目の高さまで持ってくるとそろそろと指を開いた。
「ばかやろー、見んなって」
「や、どうなってんのかな・・・と」
こんな小さいのに、一丁前に付いてんのか。
ゾロの素朴かつ不埒な疑問は、鼻先を思い切り蹴り飛ばされて霧散した。

「馬鹿!変態!クソマリモ!」
散々悪態を吐いて、ダイブするように腹巻の中に頭から飛び込む。
ゾロは仕方なく、赤くなった鼻を摩りながら小さなサンジの服を指先で絞って、火に当てて乾かした。


ゾロが指先でパタパタとはためかせながら火に炙ったら、小さな衣服はすぐに乾いた。
改めて繁々と見入る。
小さいのに細部にまで凝った刺繍が施された、仕立てのいい上等の服だ。
どこぞの城付きのコックだとか言っていたが、いくら魔法が使えるとは言え大人数の食事を賄えるほどの力があるとは思えない。
大方、王族か貴族の愛玩用だったのだろう。
勝手にそう結論付けて、腹巻の中に指を突っ込んだ。
「おい、乾いたぞ」
「ならそう言え、なんでいちいち指突っ込んで触るんだ馬鹿!」
また指先を蹴られた。
多少の痛みには耐性のあるゾロでも結構痛い。
こんなに乱暴で口が悪いペットなんてうるさかろうが、鳥籠の中にでも入れておけばそこそこ見られるのだろうか。
そんな光景をなんとなく想像して、なぜか不愉快な気分になった。

ゾロの手から服を引っ手繰ると、サンジは再び腹巻の中にひっこんでゴソゴソと着替え、ぴょこりと顔を出した。
「ああ、さっぱりした」
朝から水浴びしたようなものだから、ツヤピカな顔でよじよじとゾロの腹をよじ登る。
「飯にしようぜ、つか、なんか食えそうなもん取れよ」
ゾロはん?と俯いた。
胸元に張り付いているサンジの襟首を掴み、そっと切り株に下ろす。
「お前が朝飯、作ってくれるんじゃねえのか」
「そりゃ作るけどよ、俺の飯は本来ちっさいもんを魔法ででかくしてるだけだから、栄養素とかエネルギーとか、そう言うのは絶対的に足りてねえんだよ。腹は膨れるけどな」
なるほど、そう言うものか。
「だから、なるべくならお前が食材取ってこい。調理は俺がするから、持参したスパイスなんか使ってうんめえの作ってやっから」
「わかった」
それじゃあと立ち上がり、周囲をざっと見渡してそのまま繁みの辺りへと走って行った。

ゾロの後ろ姿を見送りながら、図体はでかいが(サンジから見れば)身のこなしは軽いなと感心した。
どういう素性かわからないが、行動は大雑把でも粗暴ではない。
サンジに対する態度は紳士的とも言えるし(途中、裸を見ようとした前科はあるが)、人の言うことをきちんと聞く耳を持っている。
自分の思い込みで状況判断したり、サンジが小さいからと侮ったりもしない。
なんでも真に受ける阿呆なのかもしれないが、サンジにとっては扱いやすい従者が増えたようなものだ。
「俺って、超ラッキーかも」
自家製の巻きタバコを吹かしながら副菜作りに専念していたら、繁みから出てきたゾロが、頭に葉っぱをつけたままスタスタと反対方向に歩いていくのが見えた。
片手には、収穫したらしき野鳥が2羽握られている。
「おーいゾロ!」
サンジなりに大声を出して呼び止めれば、耳はいいらしくすぐに足を止めて振り返った。
「あ、そこか」
「はあ?!」
ゾロの間の抜けた台詞に、サンジは切り株の上で硬直した。
「ちょっと待ておい、今お前はその繁みに入って、出てきただけだぞ」
「ああ」
大股で近付き、しゃがみこむ。
「てめえ小さえから、すぐ見失うな」
「俺の大きさの問題じゃねえだろ、どこ行く気だったんだ」
サンジは伸び上がって両手を振り回し抗議した。
「せめて半径3m以内でも現在地を把握しろよ。ったく、どんだけ強烈な呪いなんだよ」
「まったくだな、すげえな」
「感心してる場合か!」
せっかくいい従者が手に入ったと思ったのに危うく置いてかれそうになって、サンジは半端なく焦っていた。
これからはゾロがどこに行く時でも腹巻の中に入っていなくては、危なっかしくてしょうがない。

「いいか、まず血抜きして湯引きして毛抜いてー」
サンジの指示に、ゾロはテキパキと従う。
今までも一人で生き抜いてきたのだから、一応調理はできるだろうと踏んでいたのだが、話を聞いていくとどうやらそうではなかったようだ。
食べ方は主に丸焼き、もしくは生で丸齧りだったとのこと。
「お前それでよく、生き延びてきたなあ」
「腹は丈夫な方だ」
「いや、そう言う問題じゃねえと思うぞ」
下拵えだけさせて後は自分の出番とばかりに腕を揮っている間、ゾロは寝床にしていた木の幹に凭れて居眠りを始めた。
この男は、動いているか寝ているかのどちらかだ。
だからこそ、ちゃんと食わしてやんねえと。
大きな食材を前に奮闘しつつ、サンジはなぜか使命感に燃えていた。


美味い美味いと二人で朝食を平らげ、いよいよ森から出るべく歩き出した。
サンジは太陽の位置と樹木の葉の繁り方を見ながら、ゾロの左肩に乗り指示を出す。
この位置は視線が高くて周囲がよく見渡せ気持ちがいい。
実にいい眺めだ。
「あの丘越えたら、次の村が見えて来るはずだぜ」
「もうか?」
「・・・そもそもこの森は、そう広くねえはずなんだが・・・」
サンジにしては控え目な口調で突っ込みつつ、自身も伸び上がるようにして丘の向こうに目を凝らした。
色の違う幾何学模様が、パッチワークのように並んでいる。
よく整備された畑だ。
やはり、人里が近い。
「ほら、あれだ」
「ああ」
ゾロは感激したように目を細め、進む足を速めた。
「そうまっすぐ・・・って、おいおいおい!」
「ああ?」
サクサク進むゾロに振り落とされないよう、シャツに掴まりながら、サンジは声を荒げた。
「まっすぐだっつってんのに、なんでこっちに向かうんだよ」
「あ?まっすぐだろうが」
ゾロが指し示す方角が、すでに左斜め45度だ。
まっすぐの概念はどこに行った。
「あああ、まさしく東の果ての魔女の呪いは超一流だ。つか、なんて酷なことなさったんだアルビダ姉様」
「知り合いか?」
「いや、面識はねえがお噂は聞いている。絶世の美女だと!」
自分が小さく生まれついた元凶でもあるのだが、相手が美女ならすべて赦せてしまうサンジの哀しいサガだ。
「10歳にもなってねえ、年端も行かねえてめえに呪いをかけて、そのまま10年も彷徨わすなんざあ・・・」
言いかけて、はたと動きを止める。
「あ?え?」
「どうした?」
サンジに修正されて、ゾロは今度こそまっすぐに丘を下り始めた。
「お前、今一体いくつなんだ?」
「いま、海円暦いくつだ?」
サンジが答えると、それならとゾロは口を開いた。
「ちょうど19だな」
「んなんだとおおおお?!」
耳元で叫ぶから、ゾロは肩を竦めて顔を顰める。
「なんだうるさい」
「ふざけんな、俺ももうすぐ19だぞ」
「・・・はあ?!」
今度はゾロが唖然とする番だ。
「冗談だろ、てめえどう見ても4つか5つ・・・」
「んな訳あるかーっ」
勢いで回し蹴りしたら、ゾロはその場で弾かれたように吹っ飛んだ。
サンジも危うく肩から転げ落ちかける。
「痛えな」
「てめえこそ危ねえな」
「どっちがだ」
肩にしがみ付くサンジを掌で掴んで目線まで持ち上げた。
「冗談だろ、てめえがタメ年たあ」
「そりゃあこっちの台詞だ」
なるほど、確かによく見れば身体が小さいだけで、それなりにしっかりした体格はしている。
よくよく目を凝らせば、目立つ金色の髪の下に小作りな顔があり、眉毛が面白い形に巻いていた。
顎にはうっすら髭らしきものも見える。
「小っせえのに、一丁前に」
「だからジロジロ見んなって」
長い足が飛んできて、再び鼻面を蹴り付けられた。
本当に凶暴な男だ。
「そんなおっさん臭え面してタメ年たあ上等だ、もう遠慮なんざしねえからな」
「お前の今までの行動のどこに、遠慮があった?」
「うっせえよ、今度は右に曲がってんぞ、まっすぐっつったらまっすぐー!」
「うるせえ、耳元で怒鳴るな」
喧々諤々言い合いながら、それでも仲良く先を急ぐ二人の影はようやく森の外に出た。



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