Arpeggio  -3-



日脚が伸びて、家に帰ってからも夕暮れの朱が薄いカーテン越しに部屋の中に差し込んでいる。
少し猫背気味のオバケの背中も、朱色に染まっていて。
日を追うごとにその影が薄くなっていくことが、ゾロには気掛かりだった。

「俺が傍にいて、お前の体調が悪くなったりしねえか?」
クラスの女子の怪談話を聞いてきた後、オバケはしきりにそのことを気にしていた。
だがゾロからしたら、体調が悪くなっているのはオバケの方じゃないかと思う。
元から色素が薄いのだろうに、文字通り本当に透けている肌は蒼白さを増していた。
日差しの下では輝いている金髪も白っぽく映って、そのまま薄闇に溶けて消えてしまいそうだ。
「具合悪いのはお前の方じゃねえのか」
ゾロは、いつも母親がしてくれるようにオバケの額に手を当ててみた。
当然、そこに触れるものは何もないし、そこだけ空気がひんやりしているということもない。
ただオバケの姿だけが映っているだけの、何もない空間。
「熱っぽいか?」
なのにオバケは、ゾロの手を額に押し当てるようにじっとして真面目な顔でそう聞いていた。
それがあんまり間抜けで、おかしくて。
けれど何故か胸がぎゅっと締め付けられて、ゾロは馬鹿かと呟きながら手を引っ込めた。
オバケに触れられないことが悔しくて仕方がなかった。



いつかオバケは消えてしまうかもしれない。
現れた時と同じように、意味もなくきっかけもなく、ただ突然にゾロの前から消えてしまうかもしれない。
そう考え出したら、なんだか落ち着かなくなってきた。
学童の時間もそこそこに、何かと理由をつけて家に走って帰る。
剣道の練習だけは欠かさずに行ったけれど、そこでもどこか上の空でいつもは優しいお師匠さんが怒るより心配してくれた。
「なにか、悩み事でもあるのですか?」
実は、家にいるオバケがいつか消えてしまうんじゃないかと心配なんです。
なんて、いくらお師匠さん相手でも正直に相談するのは躊躇われて、ゾロはただ黙って首を横に振った。
悩み事がないなら「ない」ときっぱり言う筈のゾロが沈黙で答えたから、お師匠さんは余計心配になっている。





今日も、「ただいま」と帰ったら「おかえり」と笑顔で出迎えてくれた。
そのことにほっとして、けれど視線を下げたらオバケの長い足の先がうっすらと消えかけていて。
なるべく下を見ないように、消えかけていることに気付かないふりをしてランドセルを下ろした。
「家にいるだけで暇じゃねえのか?」
「んー、それが不思議と退屈じゃねえ。あんまり時間の流れ方が感じられないみたいだ」
オバケはゾロの横で体育座りして、何もない天井を見上げた。
「俺、結構煙草吸うんだよな。けど、お前の傍にいてまだ一度も吸いてえとか思わなかった。まあ、煙草も持ってねえんだけど」
「持ってたって、持てねえだろ」
「火も点けられねえよな」
二人顔を見合わせて、笑う。
「腹も減らねえし寝ることもねえし、料理できなくても別に平気だし。なんだろ、なんかなにもかもどうでもよくなったってこのことだろうか」
これが死ぬと言うことだろうか。
オバケの呟きに、ゾロは初めてぞっとした。
オバケが死ぬ。
いや、このオバケはもう死んでいるんだ。
そう思うと、急に首の後ろの毛が逆立ったみたいにチリチリとした。
怖いんじゃない、猛烈に襲い来る悲しみの感情にゾロ自身が戸惑っている。

「お前、死ぬのか?」
「違うだろ、俺は死んでるんだろ」
だからなにもかもがどうでもよくて。
腹も減らず眠りもせず、煙草も吸わない。
ただここにいる。
吹き抜ける風にも揺らがない「姿」だけの存在。
それももうすぐ、薄れて消えていく。
「幽霊だってえなら、何か心残りがあって化けて出て来てんだろ」
怪談好きの女子はそう言っていた。
死んでも死に切れない想いがあるから、幽霊になるのだと。
「だったら、それを遣り遂げるまで消えねえだろうが」
ゾロの必死な物言いに、けれどオバケはゆっくりと首を振る。
「それはもう、いいんだ。俺の願いは叶った」
「え・・・」
すうと、一瞬オバケの身体そのものが遠退いた気がして、ゾロは片膝を立てて身体を起こした。

「消えるなよ」
眉を顰め目を吊り上げて、怒ったようにもう一度言う。
「お前、消えるなよ。勝手に人の前に現れて、また勝手に消えるなよ」
対してオバケは、酷く穏やかな表情で黙って微笑んでいる。
「いくら新米オバケだからって、めちゃくちゃじゃねえか。なんか理由付けろよ、でねえと俺は、なにがなんだか
 わかんねえまま、また一人になるだろうが」
くしゃりと、オバケの顔が歪んだ。
泣く直前の幼子みたいな表情で、口元を真一文字に引き結んでいる。
「ゴメン、ごめんなあマリモ」
「謝るな、謝るくらいなら消えるな」
オバケの口元が小さく戦慄いた。
その時―――



鼻を突く臭いに、ゾロははっとして横を向いた。
「なんだ、この臭い」
「臭い?」
オバケにはわからないのだろう。
ゾロの反応に一拍遅れて、オバケはすうっと流れるように部屋の外に出て行った。
数秒後、オバケの姿より先に怒鳴り声が返って来る。
「火事だ、隣の隣から火が出てる!」
「なに?!」
血相を変えたオバケが、扉から上半身だけ突き出した。
「火事だ、逃げろ」
「待て」
まだ火が出たところなら消せるんじゃないか。
つい最近学校で避難訓練と消火器の扱い方を習ったばかりのゾロは、廊下を出た辺りに置いてある消火器のことを思い出した。
外に出た途端、隣の隣の部屋の窓がガシャンと割れて、黒煙が吹き上がった。
「やべえ」
「消すのは無理だぞ、部屋に鍵が掛かってる」
アパートの住人は、皆働きに出ている。
昼間に誰もいないからこそ、気付かれずに火の手が回っていたらしい。

「煙出てるから、きっと誰かが通報する。とにかく逃げろ!」
オバケが必死な声で叫んだ。
熱を孕んだ風に煽られて、ゾロはよろめきながら外階段を下りる。
パラパラと降りかかる火の粉からゾロを庇おうと、オバケは両手を広げて盾になろうとしているのに。
無情にもその身体を通り抜けて、焼けた木屑がゾロの肌を焼いた。
「ゾロ、早く!」
「火事だーっ!」
ゾロは大声で叫びながら表に出た。
何事かと、家から出て来た人々が驚いて携帯を取り出すのを目の端で確認する。
はっと気付き、慌てて踵を返した。
「ゾロ、なにしてっ」
「ばあさんがまだだ!」
いつも開いている窓が、今日は閉じている。
ゾロは躊躇わずドアノブを回した。
鍵が掛かっていて開かない扉を、力任せに叩く。
「ばあさん、いるか?ばあさん!」
「ゾロ君?」
火事に気付いていないおばあさんは、か細い声で応えた。
「ごめんね、ちょっと横になってて・・・」
「鍵を開けろ、火事だ!」
「ええっ」
そうしている間にも、1階の天井が黒く焦げてきた。
安普請のアパートだから、このまま焼け落ちるかもしれない。
「ばあさん、早く開けろ!」
「ゾロ君逃げて、すぐに出られない」
「ゾロ!」
オバケは扉を蹴破る勢いで足を振ったが、空振りばかりだ。
くそうと、悔しげに地団太を踏んでいる。
「ちっ」
ゾロは諦めず、力任せにドアノブを捻りながら引っ張った。
バキッと音がして、外れたドアノブの隙間から指を入れロックを外す。
「・・・お前の馬鹿力は、この時からか・・・」
呆然と見入るオバケを尻目に、ゾロは部屋の中に飛び込んだ。
「ばあさん!」
「ゾロ君、逃げて」
すでに室内には煙が立ちこめていた。
布団の上に座り込んだばあさんの腕を引っ張り、足が立たないとわかってそのまま背中を向けた。
「腕を伸ばせ、背負う」
「ゾロ君、無理よ」
泣きそうなおばあさんを叱咤して、ゾロは無理矢理尻と足を抱え上げて中途半端な背負い方のまま外へと飛び出す。
「ゾロっ!上がっ」
オバケの声に視線を上げるのと、天井がバキバキと音を立てながら崩れてくるのが同時だった。
―――まずい

このままでは背負ったばあさんを直撃すると、ゾロは背中を庇うようにして仰向けに倒れた。
その上に、オバケは泣きながら覆い被さる。
耳を劈く衝撃音と焼け付くような痛み。
一瞬の間に暗転した視界の中で、ゾロの意識はゆっくりと薄れていった。






最後の泣き顔ばかりが記憶に残って、それがとても残念だ。
できるなら、笑っている顔の方がいい。
初めて墓場で会った時みたいに、菜の花を思わせるような屈託のない笑顔で。
青い空を映した瞳のままで、ずっと見守っていてくれたなら―――

「ゾロ?」
涙と鼻水をいっしょくたに流しながら、顔を覗き込んでいるのは母親だった。
よかったと、呟く声が掠れていて嗚咽に変わる。
天井も壁もカーテンも、どこもかしこも白に彩られた見知らぬ部屋の中で、ゾロは横たわったまま目を覚ました。
「ったく、あんたは・・・無茶ばかりしてっ」
両手で頬を捕まれて、乱暴に揺すられる。
止めに入った医師が優しい口調で質問してくるのに、わかる限り律儀に答えていく。
もう大丈夫でしょうと太鼓判を押され、母親はへなへなとゾロの胸の上に倒れこんだ。
「いてえ・・・」
「痛いに決まってるでしょ!」
泣き笑いしながら、怒る真似をして手を振り上げた。
それからまた、よかったーと声に出しながら胸元に抱き付く。
「・・・いてえ」
「馬鹿」
心配掛けたのだろう事はゾロにもわかるから、多少の痛みは我慢しなければならないと子ども心にも思った。

医師と看護師が部屋を出て行って、ゾロはほっと息を吐いた。
「おば・・・」
オバケは?と聞きかけて、言葉を止める。
その先を察したか、母親は涙が滲む瞳で笑った。
「おばあさんは無事よ。でもあんたを心配して泣きっぱなしだったから、早く元気になって安心させてあげないと」
ああ連絡しなきゃ、と母親は慌しくパイプ椅子から立ち上がった。
「寝てなさいねゾロ、ちょっと電話してくるわ」
部屋を出る母親に手も触れず、ゾロは横たわったまま頷いた。

静かになった部屋の中で、ゾロは視線だけを巡らせて必死にその影を探す。
多分もう、家はない。
オバケがいる場所はなくなってしまった。
もしかしたら、オバケも一緒に燃え尽きてしまったんじゃないだろうか。
そんな馬鹿なことがと思いつつも、姿が見えないことに一層不安を募らせて無理にでも起き上がろうとした時―――

―――ゾロ・・・
耳元のすぐ近くで囁かれ、動きを止めた。


「オバケ?」
いや、コックか。
「コック!」
思いの外大きく響いた声に呼応するかのように、目の前に白い影がそっと現れた。
以前より薄くなった影は、輪郭がわかる程度でしかない。
腰から下はすっかり見えなくなっていて、随分と幽霊らしくなっていた。

「コック」
「ゾロ・・・よかった」
最後に見た泣き顔じゃなく、寂しげではあるけれど安堵して微笑む顔を見て、ゾロの方がほっとする。
「心配掛けたな」
「・・・馬鹿野郎」
顔をくしゃくしゃにしながら、ふわりと宙を漂いゾロの首に手を回す。
母親と違って重さがないから、痛みのない抱擁だった。
その肌の感触すらないのだけれど。
「よかった。俺が逝ってしまう前に、会えて」
「何言って・・・」
再び怒り出しそうなゾロの眼前で首を振り、オバケは人差し指をそっと唇の前に立てた。

「もう、俺は死んでいるんだ」
「嫌だ」
ここだけは子どもらしく、駄々を捏ねる。
いくらオバケでも、透けて見える幽霊であっても。
オバケが死ぬのは、ゾロは嫌だ。
「オバケでも幽霊でもいいから傍にいろ。消えるな」
「ゾロ」
ありがとうなと、オバケは穏やかに微笑んだ。
「でもなゾロ、こんな姿になってお前の傍にいたら、俺が辛いんだ」
「なんでだ?」
「だってお前のこと、助けられなかった」
目の前で小さな命が消えそうになっていた時でさえ、叫ぶ以外なにもできなかった。
悔しくてもどかしくて、自分が死んだ方がましだと慟哭した。
どれほど泣き喚き悔やんでも、今の自分にはなにもできない。
ただ幻のように揺らぐ以外、なにもできない。
あまりに無力で、無意味な存在。

「最期に一目、会いたかったんだ」
オバケはそう言うと、深く息を吐いた。


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