Arpeggio  -2-


8時過ぎに帰宅した母親は、まずゾロが起きて待っていたことに眼を丸くした。
続いて食卓の上に準備された食器類に喜びの声を上げる。
元気ではあるが暇さえあれば寝てばかりいる息子の思いもかけない気遣いに、大感激だ。
感激のあまり小さな子どもを褒めるみたいに抱き寄せて頭を撫でた母親から、ゾロは慌てて飛び退いた。
いつもならされるがままになっているけれど、今回ばかりは人目がある。

母親が帰ってくるまでに姿を消せと命じたにも関わらず、姿の消し方を分からないオバケは結局押し入れの中に身を潜めたままだ。
どうやら新米オバケらしく、オバケらしいことは何一つこなせていない。
それでいて、年上ぶってゾロに指図ばかりするのは癪だが、こんなに母親が喜んでくれるなら別にいいかと納得した。


買ってきた惣菜を温め、軽くビールを開けながら母親は上機嫌でゾロと今日あった出来事を話し合った。
ゾロが生まれる前に事故で夫を亡くした母は、以来、女手一つでゾロを育ててくれている。
幼少時は近所の世話好きなおばあさんに預けられ、幼稚園では延長保育、小学校では学童で放課後を過ごし、休日でもあまり
母親とはゆっくりと過ごせない。
けれどゾロは特に寂しいとも思わなかった。
勤勉な母の姿は誇らしくさえ感じていて、常に傍にいられなくともさほど恋しくはない。
低学年から通い始めた道場で思い切り身体を動かし、ある程度の礼儀も覚えた。
一人で過ごすことも苦痛ではないし、どこででもすぐに眠れるのはゾロの特技だ。

それでも、毎日ほんの数時間でもこうして母親と共に過ごせるのはゾロにとって幸せなひと時だ。
が、今日はなんとなく勝手が違う。
あの透けて間抜けなオバケが押入れの中から息を詰めてこちらをじっと覗いていると思うと、素直に母親に甘えることも躊躇われた。
「今日は宿題までほとんど済ませちゃってるの、すごいね」
一体なにがどうしちゃったの?と仰天され、別にとそっぽを向くことしかできない。

それでも風呂に入ってゆっくりと浸かっている辺りから、ゾロの頭の中からオバケのことが薄れ始めた。
思い出したのは、風呂から上がって部屋に戻り、きちんと敷かれた布団を目にした後だ。
布団を取り出すには押入れを開けなければならない。
ふすまを開けてすぐにあのオバケがいたら、いかに気丈な母親と言えど悲鳴の一つも上げただろう。
それがなかったということは、オバケは無事消え去ることに成功したのだろうか。
元来、物事をそう深く考えないゾロは、漢字の書き取りに取り掛かり始めた頃にはもうオバケのことは忘れてしまった。






「よ」
学童からの帰り道、友達と別れて自宅近くの曲がり角を曲がった辺りで、不意に頭上から声を掛けられた。
顔を上げて、唐突に思い出す。
「オバケか」
「コックだっつっつてんだろ」
ゾロから見たら高い塀の上に、トラネコと並んでオバケがしゃがみこんでいた。
ネコは尻尾をぴたんぴたん揺らして、隣にオバケがいることなど気にしないように目を閉じている。
「夕べどうしたんだ」
「ああ、いつの間にか押入れん中から外に出ててよ。気が付いたらここにいた」
「ずっと塀の上にいたのか?」
そう聞けば、まさかとオバケは気障なしぐさで肩を竦めた。
「いま気付いたんだよ。お前と会ったのは昨日だよな。なんか、記憶が飛んでる」
へえ・・・とゾロは気のない返事をして、またタッタッタと駆け出した。
待てよ、とオバケが追い掛けてくる。
「お前、色々気にしないにも程があるぞ。もうちょっと俺の話し聞いて、なんでそんななんだとか言ってくれればいいのに」
「なんでそんななんだ?」
「・・・さあ」
ゾロは足を止めてやや冷たい視線でオバケの顔を見つめた後、また駆け出した。
やれやれとオバケがついてくる。
「なんだよもう、素っ気ねえなあ」
「お前がわかんねえモン、俺がわかるわけねえだろ」
正論だ。
「おかしなことがあったって、仕方ねえだろ。お前はオバケなんだし」
ゾロの言葉に、オバケは一瞬泣き出しそうに顔を歪めた。
が、すぐに口端を引き上げて無理やり笑顔を作る。
「そうだな、俺オバケだもんな」
その表情が痛々しくて、ゾロはなにか悪いことでも言ったのかと、少しバツが悪い気持ちになった。

「ゾロ君、おかえり」
横から声を掛けられ、ゾロよりオバケの方が文字通りその場で飛び上がった。
透けた身体越しに窓辺から顔を出すおばあさんを見て、ゾロがこんちはと会釈する。
「どうしたの、大きな声で独り言言って」
「はあ」
独り言ということは、オバケの声はほかの人には聞こえないんだろうか。
ゾロはそう判断して、宿題なんですと意味不明の言い訳を返す。
「そう宿題、大変ねえ」
がんばってねと手を振るおばあさんに再度頭を下げ、ゾロはアパートの階段を上がる。
追い付いたお化けが身を屈めて、ゾロの耳元で声を潜めた。
「びっくりした、おばあ様の気配わかんなかったよ」
「足が悪いんだ、よくああやって家の中から俺に挨拶してくれる」
別にオバケが声を小さくしなくていいのにと、そう思いながらランドセルから鍵を取り出した。

「今日も俺んちついてくんのかよ」
「他に行くとこねえし」
昨日の今日だし、無碍に追い返す理由もなくて、ゾロはあっさりと家に入れた。
オバケがいては昼寝もままならぬことは、すでに学習している。
言われる前に靴を揃え、手を洗ってうがいをした。
「すげえなあ、仔マリモは学習能力があるんだな」
「そのマリモっていうの止めろ」
俺はゾロだと言い返せば、オバケはなんだか意地悪そうにニヤリとした。
「それなら、お前も俺のことオバケって呼ぶの止めろよ。俺はコックだぜ」
「それ、職業だろ」
「いいから」
茶化しているように見えて、オバケの瞳はなんだか真剣だ。
コックと呼ばれたがっているのかと思い当たり、ゾロは少し声を低めた。
「・・・コック」
オバケの青い瞳がしっかりとゾロを見つめている。
一呼吸置いて、オバケはその特徴的な眉毛をへにゃんと下げた。
「やっぱ、違うな」
「なにがだよ!」
「なんでもね。さ、宿題宿題」
すいーと身体を翻し背を向けるオバケに下唇を突き出して、ゾロは仕方なくランドセルの中身を取り出し始めた。



「俺がモノに触れたらな。お前におやつ作ってやるのに」
さっさと書き取りから始めたゾロの前に両肘を着いて、オバケは切なそうに溜め息を吐いた。
「おやつ?ああ、お前コックだっけ」
「なにが食べたい?なんでも作れるぞ」
「なんでもって、作れねえんだろ」
あっさりと突っ込まれ、オバケはうううとその場で顔を伏せる。
「お前ってもう、身も蓋もねえ」
「ほんとのことだろうが」
ゾロは幼少時から、何事も直裁だった。
子どもらしくないとか可愛げがないとか言われなくもなかったが、こればっかりは性格なのだから本人にはどうしようもない。
それに、小学校4年生の今となっては寧ろ同学年の子ども達より大人びて見えて、担任の教師にも一目置かれる存在となっている。
長じればもっと、ゾロにとってプラスの方向に傾くだろう。

「ああ、ホットケーキとか蒸しパンとかアップルパイとかフォンダンショコラとかドーナツとか、作ってやりてえ」
「腹が減るから黙れ」
ふぉんだってなんだと頭の隅で考えつつ、しっかりと手を動かす。
「口しか利けないなんて、幽霊ってのは不便だな」
「お前、やっぱり幽霊なのか?」
不意に顔を上げて問いかけたゾロに、オバケの方がは?と間抜けな声を出す。
「え、違うの?」
「俺に聞くな。幽霊ってのは死んだ人が化けて出てくんだろうが」
「・・・だって、俺のことオバケっつったのはお前じゃないか」
同じ調子で言い合う態度は、とてもゾロより年長には思えない。
「オバケっつったのは得体の知れないモンって意味だ。お前が幽霊なら、もう死んだってことなんだろう?」
途端、オバケ(幽霊?)は顔を歪めた。
が、またしても無理やり口端を引き上げて、泣き笑いのような表情を作る。
「俺もわかんねえよ」
「覚えてねえのか」
「ああ」
「自分がコックって呼ばれてたことは、知ってるのに?」
ゾロの的確な突っ込みに、オバケはふいと背中を向けてそのまま床に寝転がった。
「うっさいな、勉強がんばれ」
「なんだ、勝手な奴だな」
不貞腐れたオバケの背中を眺めながら、ゾロはせっせと宿題を済ませていく。
自分でも不思議だが、こんなに得たいが知れない幽霊かもしれないオバケなのに、なぜか恐ろしさは感じなかった。



休み時間の他愛無いおしゃべりの中で「オバケ」とか「幽霊」なんて単語を聞くと、つい聞き耳を立ててしまう。
大概が女子同士の会話の中だ。
どこからか聞きかじった怪談話を、怖そうに、けれど実に楽しそうに話し合っている。
ゾロは机に突っ伏して寝ていた顔を上げ、すぐ傍で固まっている女子に声を掛けた。
「オバケって、見たことある奴いるか?」
よほど用事でもない限りゾロから話しかけられることはなかったから、女子はびっくりして目を見開きながら周りの友人達に視線を移した。
「ううん、私はない」
「私もー」
「私のイトコのお姉さんは、見たって言ってるよ」
いずれも、誰々が言ってたという伝え聞き止まりだ。
「ほんとに見た奴いねえのか」
声に落胆の色が混じっているのがわかったのか、最初に話し掛けられた女子が不満げに口を尖らせる。
「えー、だってオバケなんて見たら身体に悪いじゃん」
「え、そうなの?」
ゾロより回りの女子が食いついて、また話が盛り上がる。
「毎晩幽霊が現れるマンションで暮らしてた人は、日に日に顔色が悪くなって痩せ細っていったって、聞いたことあるもん」
「死んだ恋人が通って来た人も、結局最後は死んじゃうんだよね」
「えー、オバケって身体に悪いんだー」
「見ただけでもダメなのかなあ」
ゾロはふむ、と頬杖を着いてそれらの話を聞いていた。
そうか、オバケは身体に悪いのか。

今は剣道に夢中になっていて、いつかは日本一強い男になるのが目標のゾロにとって、身体の鍛錬は欠かせないものだと思っている。
それなのに、身体に悪いオバケが家にいては何かと不都合かもしれない。
とは言え、最近のゾロは家に帰るのが楽しみになっているのもまた事実。




「ただいま」
母親が休みの日にしか口にしなかった挨拶を、ほぼ毎日声に出しながら扉を開けた。
「おかえり」
オバケはふわりと現れて、どこか寂しげな微笑でゾロを出迎えてくれる。
時々ふっと消えることがあるが、オバケは基本ゾロの家で過ごしているようだ。
なにもできることがなくてさぞ退屈だろうと思うが、オバケの暇つぶしに付き合ってやれるほどゾロも暇ではない。
靴を揃え手を洗い、口を漱いで電気ポットのコンセントを差す。
最近は、シンクに朝の洗い物が置きっぱなしだったらそれらを洗えるようになって来た。
オバケは相変わらず口だけの指導だが、それでも実践して行く内にゾロにも大体の要領がわかってくる。
湯を沸かしたら自分で茶も煎れられるようになって、ゾロは案外快適な留守番タイムを過ごしていた。

「今日はなんの宿題なんだ?」
オバケは頼りなさ気に見えて、宿題面では結構頼りになる。
わからない部分は丁寧に教えてもらえるし、そのお陰か最近はテストの成績もいい。
ゾロ自身、今までわからないまま放置していた問題を理解できるというのは気持ちよかった。
「お前、鉛筆の先丸まってるぞ。ちゃんと削れよ。あ、体操服ずっと洗濯してねえだろう。靴下に穴開いてんぞ」
相変わらず口はうるさいが、オバケの存在自体は悪くはない。
それなのに、これが身体によくないと言うなら、こうして過ごすことも考え直さなければいけないのか。

「お前、なんか悪いもん持ってるのか?」
「はへ?」
なんら邪気のないオバケは、ゾロの手元を見つめていた顔を上げた。
案外近い位置にある瞳は、透明なビー玉みたいで。
気のせいか、初めて会った時から少し色が薄くなったような感じがする。
「オバケの傍にいると、身体に悪いとか聞いたぞ」
「え、あ、そうなのか?あ、そうかも」
オバケ自身、何か思い当たる節でもあるのか、片手で口元を押さえウロウロと落ち着きなく身体の方向を変え始めた。
「そういやあ、幽霊が傍にいるってあんまりよくないんだよな。霊障って奴だっけ。やべえ、マリモの身体にもよくねえのか?」
まさかオバケ本人が深刻に受け止めるとは思わなかった。
「お前、身体の調子悪いとかあるか?ごめんな、俺気付かなくて」
「別に、どっこも悪くねえし寧ろ絶好調だ」
今日は幅跳びで新記録が出せたし、剣道の師匠にも最近表情が明るいですねと褒められたばかりだ。
ゾロにとって「悪いこと」など何一つ起こっていない。
「そっか、そうならいいんだけど・・・」
それでもオバケは不安そうに眉を顰め、落ち着きなく両の掌を握ったり開いたりしている。
ゾロはそんな表情と仕草を見て、あれ?と唐突に気付いてしまった。
「お前、俺のこと好きなのか?」
「え、えええ?」
半端なく仰天して、オバケはそのまま後ろにひっくり返りそうになっていた。
実際にはなんの影響も与えないのに、その場で透明なオバケだけがオーバーアクションで慌てふためいている。
「いやだってよ、現れてからずっと俺の傍にいるし、話すことは俺のことばっかりだし、真剣に心配したりしているし」
ゾロも色んな大人と接してきたが、ここまで親身になってくれるのは母親か道場の師匠以外思いつかない。
そしてこのオバケはなんだかとてもゾロに対して親しげだ。
ゾロを見守るというより、ゾロのリアクションを喜んでいるように見えた。
常に注目してくれるその瞳に、言葉に表せない親愛の情のようなものを感じて、ゾロとて悪い気分でもない。
「ば、ばばばバカ言ってんじゃねえよ。大人をからかうな」
オバケでも、赤くなんのか。
向こう側が透けて見えるほど薄っぺらい存在なのに、オバケの目元はほんのりと薄いピンク色に染まっていた。
ゾロはその時初めて、その頬に触れたいなと思った。



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