Arpeggio  -1-


菜の花の上を、ふよふよとモンシロチョウが舞っている。
いかにも春らしいのどかな田舎道を、ゾロは前だけ見てタッタッタと小走りに駆けていた。
ゾロの視線は2m先ぐらいに定められており、余所見はしない。
周りの状況もあまり見ない。
時には足元の小石を蹴りながらも道草はせず、基本まっすぐに田んぼ道をひた走る。

いつもは学童で解放されている公民館からみんなと一緒に帰るのだけれど、今日は木曜日で稽古の日だ。
お寺に隣接された剣道道場で一頻り汗を掻き、日が暮れる前にと家路を急いだ。
剣道の先生は、日が暮れたら送っていくからたまには夕ご飯を食べていきなさいと毎回誘ってくれているけれど、
ゾロはきちんと家に帰るのが義務だと思っているからその度に丁寧に断っている。
先生の家で夕飯を食べたら、きっと美味しくて楽しいだろう。
けれどゾロが先に家に帰って、ちゃんと電気を点けて待っていてあげなければ母ちゃんが心配する。
だからゾロは毎週、ギリギリまで道場にいて駆け足で帰るのだ。



どんなに急いでいてもこれだけは忘れない道を曲がり、山裾の墓地に寄る。
夕暮れの墓地は子どもに限らず、誰にとっても近付きたくないホラースポットだけれど、ゾロはいつもここに寄って
挨拶して帰るのが習慣だ。
道場の先生の娘で、幼馴染だったくいな。
今は故人の彼女だが、ゾロにとっては生涯のライバルで永遠の友人だ。
まだ新しい墓石の前で手を合わせ、今日あった出来事を報告する。
それでゾロの一日が暮れるのが日課だったが、今日は少し違っていた。

空気自体がかすかなオレンジ色を帯びた夕暮れの中、半分透き通った人が群れて咲く菜の花の前に立っていた。
透けてはいるけれど色が付いている。
菜の花よりも濃い色の黄色い髪をして、顔と腕の白さが景色の中で浮き上がって見えた。
黒のパーカーに細身のジーンズで。
ゾロから見たら「大きいお兄さん」的年齢で、街中を歩いているのがしっくりする格好なのに、その存在感はあまりにも希薄だった。
「オバケ?」
立ち止まり声を上げたら、オバケははっとして顔を上げ、目を見開いた。
昼間の空みたいな、青い色の瞳だ。
今は夕暮れなのに、目の前に青空と菜の花の風景がさっと広がったみたいに錯覚した。

「マリモ?!」
オバケは小さく叫んで、まさかと呟きながら片手を口元に当てている。
オバケの声って普通なんだなと、ゾロは不思議と恐れる気持ちもなしに繁々と見上げた。
「マリモってなんだ」
担任の先生が正月に北海道に行ったとかで、教室にはお土産のマリモが飾ってあった。
女子達はくすくす笑いながらそのマリモを大切に育てているけれど、ゾロはなんだかいい気分がしない。
「これ、なんだかゾロ君に似てる」と呟く声が聞こえたからだ。

「俺はマリモじゃねえぞ」
むっとして言い返すと、オバケはますます目を丸くして、それから腹を抱えるようにして腰を折った。
オバケらしからぬほがらかな笑い声を立てる。
「悪い悪い。なんだガキのくせに、いっちょまえの口利きやがって・・・」
儚い見た目とは随分かけ離れた、口の悪いオバケだ。
オバケはくすくす笑いを残しながらも、なぜだか泣き出しそうな目でじっとゾロを見返した。
「マリモだろ、緑頭」
「違うっつってんだろ、そこ退けよ」
オバケの姿が頼りなく揺らめいた。
手で払ってもなんの手応えもない空間を掻いて、ゾロはくいなの墓の前にしゃがみこむ。
「お参りの邪魔して、悪いな」
「なんで俺が参るって知ってんだ」
子ども特有の丸みを残す顔立ちできつく睨み付けられ、オバケは気障な仕草で肩を竦めた。
「俺はなんでも知ってんだ。ここはくいなちゃんのお墓だろう?」
きっとゾロの顔が更に険しくなる。
「俺も一緒にお参りしていいかな」
「・・・はあ?」
一転して間抜けな顔付きでポカンと口を開けたゾロの隣で、オバケは静かに膝を着いた。
実際に地面に接する訳ではないから、格好だけだ。
足元の砂利はオバケが跪いたからといって、動きもしない。

「・・・」
ゾロはしばし、“墓参りするオバケ”という世にも奇妙なモノを観察していた。
見たことも会ったこともない筈なのに、このオバケはなんだかとても馴れ馴れしい。
ずいぶんと親しげな目で、自分を見つめる。
長い前髪で半分隠れた横顔は端整なのに、よくよく見れば眉尻がくるりと巻いていた。
それに気付いてうっかり噴き出しそうになって、唾を飲み込んで堪える。
こんな特長的な顔をしたオバケならば余計、見忘れることなどないだろうに。

「さ、マリモ小僧もお参りしろ」
オバケは腰を上げると、すっと横に退いた。
「マリモ小僧とか言うな」
なんなんだこいつとムッとしながらも、ゾロはとりあえずくいなの墓に手を合わせた。
いつもなら今日あった出来事なんかを報告するのだが、得体の知れないオバケの手前、形式的に手を合わせる
だけでさっさと済ませる。

「やべ、暗くなってきた」
顔を上げたら、もう夕闇が迫っていた。
オバケにかかずらっていたせいで、いつもより遅い時間になっている。
ランドセルを背負い直して墓地から駆け出したゾロの後を、オバケが当然のように追いかけて来た。
「待てよ、危ないから一緒に帰ろう」
「なんで付いてくんだよ」
「俺を墓地に一人で置いてきぼりにする気かよ」
「お前、オバケなんだから当たり前だろう」
走りながら言い返したら、オバケは「え?」と小さく声を上げ立ち止まった。
なるほど、オバケと言えども足があるから立ち止まれるのだ。
「俺が、オバケ?」
何を今更とも思うが、オバケは自分の身体を点検するかのように肩や胸の辺りに顔を向けて、それから両手を目の前に掲げた。
「透けてる!」
「最初から透けてたぞ」
今だって、オバケの身体越しにうっすらと後ろの田んぼや山並みが見える。
「なんだこれ」
頬でも摘もうとしたのか、オバケは自分の顔に手をやって指をすかすか動かした。
どうやら自分の身体にも触れないらしい。
「マジで?俺どうなってんの?」
「知るか」
ゾロは冷たく言い返すと、またスタスタと歩き出した。
待てよと慌ててオバケが付いてくる。
「畜生、どうなってんだ」
「俺が知るか」
早足から駆け足になっても、オバケはぴったりと付いてくる。
こんなの家に連れ帰ったら母ちゃんが卒倒するかもと、追い払おうとして手や足を振り回してみたがオバケの身体に
触れることもできなかった。


「付いて来んなよ」
「しょうがねえだろ」
言い合っている内に家に着いてしまった。
仕方なく、ゾロはランドセルの中から合鍵を取り出す。
「鍵っ子か」
「母ちゃん遅いからな」
律儀に返事して、慣れた手付きで鍵を開け中に入った。
その際オバケを締め出す勢いで素早く扉を閉めたのに、オバケは身体を半分ドアに埋め込ませた形で中を覗き込んでいた。
「お邪魔します」
「なんでお前が入ってくんだよ」
手で押しのけようにも触れないことは分かっているから、声だけで威嚇しながらポイポイと靴を脱ぐ。
踵が潰れた運動靴が玄関ドアに当たって跳ね返るのに、オバケはコラっ!と鋭い声を出した。
「靴は脱いだらきちんと揃えろ」
「めんどくせえ」
「バカ、それが行儀だろう」
ゾロは渋々玄関に戻り、散らかった運動靴を拾って揃えた。
道場ではきちんとしているが、家ではその反動でか、わざと乱暴に脱ぎ散らかしていたのだ。
なのに、このオバケは母親より口うるさい。

部屋の電気を点け、ランドセルを下ろして電気ポットのコンセントを差した。
炊飯器のスイッチも入れ、そのまま寝転がろうとしてまたしてもオバケに叱咤される。
「家に帰ったらまず手洗いとうがいだろうが」
「うっせえなあ」
「ほらしろ、今しろ、ちゃんとしろ。するまで言い続けるぞ」
実体のないオバケにとって、唯一の実行力は声だと気が付いたらしい。
ガミガミとうるさいのに辟易しながらも、ゾロは一旦寝転がった身体を起こした。
「ほんとにうるせえなあ」
「てめえ、尻が泥だらけじゃねえか、そんなんで床に座りやがって・・・」
尻でも叩きそうな勢いだが、実際にゾロに触れないのが悔しいらしい。
背後でウロウロしているオバケに舌打ちしつつ、言われた通り手を洗ってうがいをした。
ついでに玄関まで出て尻の泥を叩き落とし、肘や膝に付いていた汚れも落とす。
さあこれで文句はあるまいと意気揚々と部屋に戻り、そのまま座布団の上に寝転がったら、すいーとオバケが身を寄せてきた。
「なにしてんだ?」
「あ?寝るんだよ」
「宿題は?」
「母ちゃん帰ってからにする」
言ってる傍からもう眠気が襲ってきて、ゾロはふわあと大きく欠伸をした。
「待てよおい、母ちゃん何時に帰ってくるんだ?」
「ん?んー8時くらい、かなあ」
「それまで寝る気か?」
「ふん」
「コラ待て、起きろってんだ」
起きろ起きろ、起きるまで騒ぐぞ。
耳元でがなり立てられ、ゾロはぐああと大声を出した。
「うるせえっつってんだろ」
「あ、起きた」
ガバリと身を起こしたゾロの前に腰を下ろし、オバケはへらへらと笑っている。
「なんで人が寝るの、邪魔すんだよ」
「お前が寝たら、俺がつまんねえじゃねえか」
なんだか、構い方がゾロと同年代かそれ以下の無邪気さだ。
がっくりと脱力しつつ、あああ〜と頭を掻き毟る。

「お前、ほんっとにとっとと帰れよ」
「どこへ」
俺に聞くなと噛み付きかけて、オバケの心底途方に暮れたような表情に気付く。
「気が付いたらこんなになってて、どこに帰れってんだよ」
こんなに、と透けた両手を目の前に差し出され、ゾロの方こそ困惑した。
これではまるで、自分がオバケに意地悪してるようなもんじゃないか。
「どうやって帰れるのかもわかんねえし、ちょっとだけここに置いてくれねえかなあ」
急にしおらしくなったオバケが少し気の毒に思え、ゾロは不承不承頷いた。
「その代わり、母ちゃんが帰ってきたら消えろよ」
ビックリするからな。
そう言えば、オバケは神妙な顔付きで頷いた。
「レディを驚かすような真似は絶対にしねえよ。消えるかどうかはわかんねえけど、やってみる」
レディって誰だよと思いつつ、昼寝もさせて貰えそうにないから、仕方なくランドセルを引き寄せた。
「宿題するんだな、偉い偉い」
「誰のせいだ」
ブツブツ言いながらも、国語や算数の教科書とノートを取り出す。
ふと思い付いて、算数の宿題から始めることにした。
「こら、ノートを広げる前はまず机の上を片付けて・・・て、なんで他の教科書の上にノーと乗せて広げるんだよ。
 各場所はきちんと平らに、退けるんじゃなくて積み上げて整理しろ。場所を広く取って・・・あ、下敷きしろ、ちゃんと!」
オバケはどこまでも口うるさい。
一々反論するのも面倒なので、言われるままに素直に従った。
ついでに、ぱっと見てわからない場所を指で示す。
「この問題の意味がわかんねえ」
「なにい?どれどれ・・・」
オバケがゾロの頭越しに覗き込んできた。
顔の角度に沿ってさらりと流れ落ちる金髪が、頬に触れそうなほどの近さだ。
なのに、オバケの気配も匂いも、何一つ感じ取ることができない。

「これは、これがこうなってだなあ」
「ああ、そうか」
オバケの助言を受けて、面白いほどすいすいと問題が解けていく。
いつもは母親の愚痴を聞きながらダラダラとしていたから、宿題だけで2時間ほど掛かっていた。
やり終えて寝る頃には午前0時を超えることだってあったのに、今日はたった20分で大方できてしまった。
「そんで全部か?」
「いや、あと漢字の書き取り」
これは考えなくてもできるから、後回しだ。
書き取りノートだけ残してさっさとランドセルに仕舞うゾロを、オバケはぼうっと見ている。
「・・・なんだ?」
視線を感じて顔を上げれば、目が合った。
蛍光灯の下で、青い瞳はまるで硝子球みたいに透き通って見える。
「俺はオバケだってお前が言ったのに、怖くねえの?」
ゾロより遥かに年長でありながら、どこか心許ない声。
「別に」
オバケだとか薄暗い場所だとか、子どもの頃から無闇に怖がらないゾロだったが、目の前に理解不能な超常現象が
現れても不思議に恐怖感は湧かなかった。
それよりなにより、こいつうるさいと思うくらいで。
「やっぱ、ガキでも肝座ってんだなあ」
「なんだよ」
感心されているのかもしれないが、こういう時どんな顔をしていいかわからないから、いつも以上にきつい目で睨み付けてしまった。
可愛げがないとよく言われるのに、オバケはなんだか愛おしそうに目を細めた。
「ぷっくぷくの頬っぺしてんだな」
「お前、ほんとにもう黙れ」
腕を組んでテーブルに突っ伏したゾロを、オバケは「なあなあ」と声だけで起こす。
「お母さんが帰ってくるまでに、なんか準備とかしないのか?」
「ああ?」
胡乱げに視線だけ上げた。
「食事の仕度とか」
「できるわけねーだろー」
大体いつもならば、母親が帰ってくるまでの間はずっと昼寝しているのだ。
8時過ぎに起こされて、買って帰った惣菜を一緒に食べて風呂に入り、後はテレビを見ながら宿題をする。
母親の就寝時間に合わせると寝床に入るのは日付を越えた頃で、翌朝は時間ギリギリまで寝ているから朝食を
食べないまま飛び出すことがざらだ。

「できないって、最初から決め付けるような奴かよお前は。火を使うのがダメだってんなら、せめてお母さんが帰って
 来たときすぐにご飯が食べられるよう、準備くらいできるだろうが」
さあ立ちやがれと急かされて、ゾロは仕方なく立ち上がった。
このオバケがいる限り、安らかな昼寝はできそうにない。
「ちょっと戸棚開けてみろよ」
指図されるのは癪だが、オバケはモノに触れないからゾロが代わりにしてやるしかない。
言われるままに、引き出しや冷蔵庫も開けて見せた。
「なるほど、結構整理されてるな」
どこになにがあるか、大体分かると一人で頷いている。
「じゃあまず、この布巾を水で濡らして固く絞って・・・」
「なんでお前に命令されなきゃいけないんだ」
大体、お前は誰だよと、声を荒げる。
「俺の名前は知ってるくせに、お前の名前はなんてえんだ」
何もわからないままいきなり現れて勝手に墓場から付いてきて、一方的に自分のことを知られていると思うと、急に
気味の悪さが沸いてきた。
「俺か?」
オバケは、透けているせいで顔色まで悪く見える明かりの下で、なぜか寂しげに笑った。
「俺は、コックってんだ」
「コック?名前がか」
「いや、職業」
「名前教えろっつってんだよ!」
机を叩いて突っ込みを入れても、平然としている。
「いいんだ、俺はコックだ。お前はそう呼べよ」
そう言って、よろしくなと今度は朗らかな笑顔を見せた。


next