青嵐 -2-


「幽霊って本当にいると思うか?」
友達が戯れに話を振ってくる。
絶対いるとかいやいないとか、いたら怖いとかいないと寂しいとか。
「僕の田舎のおばあちゃんが死んだとき・・・」と具体的な怪談話に発展して盛り上がったり。
かと思えば、幼い頃に病気で母親を失くした子が、「幽霊でもいいから、もう一度会いたいなあ」と呟いて、妙にしんみりしてしまったり。
サンジはいつも何も言わないで、へえとかふうんとか適当な相槌ばかり打っていた。
心の中では、「絶対幽霊なんていない派」だと思っていたけれど。
だってもし、ママが幽霊になったりなんかしたら、とても可哀想だ。
あんな酷い殺され方をしたって知ったら、とても可哀想だ。
あんなに綺麗だったママが、あんな酷い殺され方―――
どんなだったっけ?



少しずつ身体が大きくなっていって、友達との会話の中に好きな女の子の話とか、身体の話とかが混じるようになっていった。
夏服は下着が透けて見えるから、ブラジャーの線が浮いて見えるとドキドキするなあとか。
開けっぴろげで揶揄めいて、照れと本音をごちゃ混ぜにして笑い話で済ませようとする軽い猥談の走りのようなもの。
それが、サンジにとって耐え難い嫌悪の対象となっていく。
女の子を性的な目で見ることに対する、生理的な不快感。
健康な男子として当たり前の性徴が、新たなストレスとなってサンジを襲った。
友人達の笑い声が下卑た響きに聞こえ、好奇心旺盛な瞳はケダモノの目に見える。
それらの行動すべてが女子または世の中すべての女性に対する冒涜に思えて、理不尽な怒りが抑えきれなくなっていく。
それは自分自身に対しても同じことで、夢精した翌朝は嫌悪のあまり吐き気が止まらなかった。
いやらしい想像が頭の中に浮かんだとき、対象の女の子の顔はママのそれと重なっていく。
逆さまになった白い顔。
丸い乳房の向こうで動く鬼の姿を思い出し、無意識の内に興奮する自分に気付いて戦慄した。
己の生理機能を認めたくなくて自慰すらできず、友人達との付き合いも疎遠になっていく。
かつてニュースから遠ざかったように、今は自分を苦しめるあらゆる情報を遮断してしまいたかった。
聞きたくないことには耳を塞ぎ、思い出したくないことは忘れてしまえれば。

ウソップは他の友人達と違い、雑学の知識は豊富なのに純朴でがっついたところがなかった。
生来の優しさと気さくな性格で誰とでも友人になれる奴だったが、サンジとは何かと馬が合い、男子の中では浮きがちなのを気遣ってか、いつも一緒にいてくれた。
女子達も、サンジの一風変わった言動を面白がりこそすれ概ね好意的に受け入れてくれていて、優しい人達に囲まれた日常はそれなりに幸せだった。
複雑な思春期を抱えつつ、中学生活はそのまま平穏に過ぎていくかに見えた。
修学旅行の夜に、思いがけないアクシデントに見舞われなければ。





友人達に戯れに見せ付けられたAV画像。
そこに映っていたのは、仰向いて喘ぐ金髪の女だった。
丸く豊かな乳房を大きな手で揉まれ、白い歯を見せて愉悦に耽っている。
その女の上で腰を振る男の顔に、かつての“鬼”を見た。
“鬼”だと思っていた、思い込んでいた男の顔を、見てしまった。
思い出してしまった。

病院で意識を取り戻しはしたものの、担任の問い掛けにも反応を示さないサンジを心配して、父親が駆けつけた。
あの日と同じような白い部屋の中で、再び父親と対峙する。
あの時と同じ、心配で青褪めた父の顔。
大丈夫かと伸ばされたその手を、サンジは反射的に身を引いて避けた。
一瞬気まずい空気が流れたが、なんとか笑顔を取り繕って大丈夫だと声を絞り出す。
血圧が下がってはいるものの、身体も脳波にも異常はないと診断され、その日のうちに父とともに帰宅した。
帰路、気遣ってあれこれと話し掛ける父に頷きだけを返し、家に帰ってからは部屋に閉じこもってベッドの中に潜り込んだ。
シーツを頭から被り、冴えた目を見開いて暗闇を見詰める。

目を閉じればどうしても、脳裡に閃いたあの光景が浮かんでしまう。
逆光で見えなかったはずの、母を犯す鬼の顔が、今ははっきりと視えてしまう。
目はギラつき口は耳までで裂けたような、恐ろしげな表情をした父の顔が。

違うと、何度も頭を振って考えを打ち消した。
そんなはずがない。
あの鬼が、父であるはずがない。
あの日、父は仕事で留守だった。
いくらなんでも父親だったら、子どもでも姿でわかる。
見間違えるはずもない。
あれは知らない男だった。
見知らぬ鬼が、母を殺したのだ。
そう何度自分に言い聞かせても、頭の中に焼きついた光景が消えてくれない。

あれから10年。
捜査に進展はなく、母の命日には担当刑事が訪問してくれるけれどいつも頭を下げて詫びるばかりだった。
警察だって馬鹿じゃない。
殺人事件ならまず身内から疑って掛かるのが常套だと聞いたこともあるし、こんな身近に犯人が潜んでいたらすぐにわかるだろう。
アリバイだってあるはずだ。
何より父が、犯行を目撃したはずの息子を長い間手元に置いておくはずないじゃないか。

そう思えば、鬼の顔は薄れてきた。
やはりあれは父じゃなかった。
単なる思い違いだ。
もしくは、幼い頃目にした原風景が不意に甦っただけかもしれない。
閃いた記憶にはなんの確証もなく、真実がどこにあるかなんて自分の中にさえ見出せやしないのに。

未だ犯人が見つからないのは、有力な証拠がないからだ。
母の中には傘や靴べらなどがめちゃくちゃに突っ込まれていたのに、精を放たれた痕跡はなかった。
現場に残されていたのも、家族の指紋や体毛だけ。
―――家族のものだけ

犯行の状況から、猟奇殺人もしくは怨恨の線で捜査されていたが、以降、近所で類似事件は起こらなかった。
専業主婦で当たり障りのない交友関係しか築いてこなかった母には、特別な恨みを買うような関係性も見出せず、捜査は暗礁に乗り上げている。
残された遺族である父は、そんな警察に憤りを見せることも非難することもなかった。
ただ粛々と妻の死を受け入れ、遺された息子を育てるのに必死な毎日を送ってきた。
そのようにしか見えないのに。

父の愛情を疑うことの罪深さは、サンジもよくわかっている。
父は本当にサンジを大事に思い、大切に育ててくれた。
母の事件のあと目を覚ましたサンジを心配して、つきっきりで傍にいてくれたのだ。
片時も離れず、ずっと傍にいて。
サンジを心配して。
――― 一体何を、心配して?

そんな考えに至る自分を、サンジは髪を掻き毟り頭を枕に打ち付けて責めた。
考えるな。
いらぬことを考えるな、思い出すな。
あの日母は殺されて、父はサンジの無事を喜んでくれたじゃないか。
涙を流して、「よかった」と言ってくれたじゃないか。
サンジを思って、泣いてくれたじゃないか。
疑うな、父の愛を。
何の確証もないただの幻影で肉親を疑うなんて、最低だ。
そう思うのに、一旦心の中に芽生えた疑念は払拭できない。

父は、母が亡くなってから毎晩違う匂いをまとって帰宅するようになった。
友人から「お前の父ちゃん綺麗な女の人と一緒だったぞ」といらぬ報告を受けたこともある。
知らない女性が家に来たことも何度もある。
しかもすべて違う人で。
幼い頃、こんな風にベッドの中で耳を塞いで過ごした夜に、夫婦の諍いの元となったものがなんだったのか、今ならわかる気がした。
陽気なお調子者で、女癖の悪い夫。
無神経なほどに無邪気で、わがままな妻。
そんな二人から愛が失われたら、残されたものは破滅しかなかったんじゃないのか。
“殺す”あるいは“殺される”理由は、あるんじゃないのか。

サンジは叫びだしたい衝動を抑え、枕を噛んだ。
疑い出したらキリがない。
しかも証拠は、どこにもない。
自分の記憶がいかに当てにならないかは、サンジ自身がよくわかっている。
嫌なことからすべて逃げてきた自分だ。
記憶だって捏造される。
あれが、あの鬼が父だったなんて記憶は、信憑性の欠片もないのだ。
なのに脳裏にはあまりにも鮮明に、鬼と化した父の姿が浮かび上がる。
何か口汚く罵りながら、母の股間に何度も何度もモノを打ち付ける鬼の姿が。
憎しみに満ちた、狂気の姿が。

サンジは枕に口を押し付けたまま吼えた。
咆哮は、暗闇の向こうへと吸い込まれていった。


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