青嵐 -3-


それから、サンジは極力部屋から出ずに一人で過ごした。
外に出て、父の顔を見るのが怖かった。
父は何度もドアの向こうから呼びかけては来たが、無理に入って来ようとはしなかった。
それが、父も何かに怯えているのではないかとの更なる疑念を呼び起こして、サンジを一層頑なにさせる。

このままではダメになる。
父も自分も。
自分の中に生まれた恐ろしい疑念を確かめなければ、もう何処へも進めないとわかっているのに、実の父でありながら、面と向かって聞く事ができなかった。
真実を確かめることが恐ろしくて、そしてもしもそれが真実でなければ、おぞましい記憶を生み出した自分自身を許せなくて。
この目で父の顔を見ればわかるだろうか。
あの日見た“鬼”の姿を、同じように左の瞳で見れば或いは―――

サンジは、常に左目に垂れかかっていた前髪を上げた。
掌で右目を多い、明るい窓辺へと顔を向ける。
辺りは闇に包まれたままだ。
ひと筋の光さえ見い出せない。
その時初めて、左目の視力が失われている事に気付いた。


いつからか、ドアの外に置かれた食事にも手をつけなくなった。
父からの呼びかけの声も聞こえなくなった。
ただ膝を抱えて座ったまま、無作為に時が過ぎるのをじっと見ている。
眠っているのか起きているのか、それも定かではなくなってしまった。
気がつけば時計の針が回っている。
そんな感じだ。
腹も減らないし、眠りたいとも思わなかった。
学校のことや友人たちのことも、すっかり抜け落ちてしまった。
ウソップの顔も思い出さなかった。
目を閉じれば、鬼の父が目に浮かぶから横になることもできなくて。
ただ黙って座って、どこともない場所に視線を彷徨わせ時が過ぎるのを待った。
このままでいればいつか自分は跡形もなく消えていけるんじゃないかと、仄かに期待して。





ある日、父の声がいつもと違って耳に届いた。
「サンジ、今度お父さん転勤することになったよ」
そうはっきりと聞こえて、サンジはゆるゆると顔を上げた。
「アメリカの支社に行くんだ」
ドア越しに、くぐもった声が聞こえる。
「初めての海外勤務だし、慣れないからお父さん一人でいくよ」
一人で・・・父が一人で、家を出る?
「だからサンジは、日本で留守番しててくれるかな」
一人で。
「お母さんのお父さん、お前のおじいさんが東京で暮らしてるんだ。そこに行かないか?」
初耳だった。
祖父が日本にいるなんて。
「フランス料理の店の店長さんなんだ。少し足が不自由だけど、すごく元気で威勢のいい人だよ」
祖父が、そんな人がいたなんて。
「お前のことを知らせたら、うちに連れて来いって怒鳴られた。お父さん、いっぱい叱られたよ」
乾いた笑い声がする。
「どうする、行くかい?」
「・・・行く」
久しぶりに出した声は掠れていて、上手く発音できなかった。
だからサンジは声を張り上げて、もう一度はっきり言った。
「行く、俺じいさんとこに行く」
「そうか」
ドアノブが回った。
鍵を掛けていた訳ではないから、いつだって部屋に入れたのに。
今ようやく父は、部屋の扉を開けてくれた。

久しぶりに見る父は、サンジと同じように憔悴した顔をしていた。
イタリア人とのハーフで、彫りの深い顔立ちをしたイケメンだったのに随分と老け込んだ印象だ。
そんな父はサンジの顔をじっと見つめて、悲しみを湛えたまま笑った。
「じゃあ、じいさんとこ行こうな」
そう言って、パジャマを着たままのサンジの身体をぎゅっと抱き締めた。
酷く痩せて細い身体を、父の懐かしい匂いが包み込む。
溢れんばかりの親の愛情を感じさせる、力強い抱擁。
あの日の鬼と同じ顔をした父なのに、サンジはもう恐ろしいとは思わなかった。





東京の祖父の家に移り住んでから、サンジの生活は一変した。
まず、痩せ衰えたサンジの顔を見た祖父は自己紹介もそこそこに雷を落とす勢いで怒鳴りつけ、現場にいたスタッフ総出で介抱されてしまった。
初めて口にした祖父のスープは、身体の隅々まで染み渡るほどに暖かく力強い味がした。
人見知りや物怖じしている暇もないほど、賑やかで騒々しい荒くれ男たちに囲まれ、サンジは少しずつ自分を取り戻していく。
祖父は学校に行けとも言わず、外出することもないサンジを咎めることはしなかった。
家にいたときのように一人で閉じこもれる環境ではなかったから、サンジは仕方なく見よう見真似で店の手伝いを始めた。
掃除や皿洗いを黙々とこなしていくうちに、身体を動かすことが楽しくなってきた。
料理の世界にも興味が湧いた。
パティやカルネのごつい手が、繊細な盛り付けをするのを楽しみながら眺めている内に時を忘れた。
祖父の味を求めて遠くから足を運ぶ客たちを迎えるため、接客も覚えた。
シンク磨きからカトラリーの準備、野菜の下拵え、食材の買い付け。
祖父はありとあらゆる分野にサンジを誘い、すべての事柄にサンジは興味を持った。
皿一枚の中に厳選された素材と色と味と香りがぎゅっと詰め込まれた、料理という名の小宇宙。
サンジはそこに、自分の居場所を見つけた。

包丁を握ることを許された頃、家に刑事が訪ねてきた。
事件が時効を迎えたのだという。
祖父とサンジの前で手を着いて頭を下げた担当刑事の禿頭を見下ろしながら、サンジは喉元まで出掛かった台詞を何とか飲み下した。
―――犯人が国外逃亡している場合は、時効はその間停止するんじゃないですか?
言いたかったが、おいそれと言えることでもなかった。
10年経ってからいきなり蘇った記憶に、信憑性などないのだから。

相変わらず、新聞もテレビも見ることができなかった。
ほぼ毎日載せられる、殺人のニュース。
被害者の痛みを我がことのように感じて唇を噛み締め、涙を流すことなどもうできない。
被害者の息子が、実は加害者の息子でもあったとしたら。
もしそうだったら、一体どうすればいいんだろうか。

勧善懲悪でなければならない。
悪人はどこまでも非道で、善人は常に清廉潔白であらねば。
そうでなければ、人は誰も憎めなくなってしまう。





バラティエ以外での人との接触を絶っていたとは言え、サンジは本能的に女性が大好きだった。
店の常連客とは親しく言葉を交わしたが、特にお天気キャスターのナミにはメロメロだった。
素敵だ好きだと来る度に誉めそやし、ナミの一挙一動に舞い上がって喜んだ。
そんなナミから突然の提案を受ける。
「ねえ、私の恋人になってくれない?」
いつもの煌く瞳で悪戯っぽくそう囁かれ、サンジはとっさに顔を強張らせた。
そんな反応にナミの方が驚いて、けれど聡明な彼女はそれ以上追及してこなかった。
「あくまでふりでいいの、私もう男はこりごりで誰とも付き合う気はないんだけど、フリーだと何かとうるさいのが寄ってくるのよ。モノを貢いでくれるだけなら大歓迎なのに、男ってすぐ図に乗るし」
だから、恋人のふりをして欲しいのだという。
「サンジ君なら、見た目的にもそんじょそこらの男じゃ太刀打ちできないだろうし、私の彼よって大々的に宣伝できればそれでいいから」
サンジはにっこり笑って二つ返事で引き受けた。
「もちろん、ナミさんの彼氏だなんて光栄ですよ」

それからの、ナミとの付き合いは楽しかった。
二人でデートと称しては、食事や映画を楽しんだ。
女の子と付き合うってこういうことかと、サンジは今更ながら人生の楽しみ方を知った。
ナミは魅惑的な女性ながらさっぱりとした男らしさも併せ持っていて、恋人同士のふりをしながらも友人としての付き合いが深まっていった。
時には小旅行にも出かけ、一つの部屋で泊まることがあっても、お互い頓着する必要はなかった。
広いダブルベッドでナミの胸に抱かれ、柔らかな感触といい匂いに包まれて落ちる眠りは何よりも深く穏やかだ。
そんな風にサンジの世界がまた一つ広がった頃、ナミに誘われ田舎の村へと足を運んだ。
そしてそこで、ゾロと出会った。

―――その翌年に、父が死んだ









「おい」
コンとノックの音が聞こえ、サンジは顔を上げた。
珍しく、ゼフが2階まで上がってきたらしい。
義足は階段を上がるより降りる方が危ないから、帰りは付き添ってやろう。
そう思いながら立ち上がりドアを開ける。
「なんでえ、全然片付いてねえじゃねえか」
ゼフは渋面で部屋の中を見回した。
「片付けてねえもん」
サンジは荷造り用の箱一つを、顎で指した。
「必要なもんだけ持ってくだけだからな。またいるもんがあったらいつでも取りに帰る」
「いつまでここに入り浸るつもりだ」
「俺にとっちゃ、家が2つに増えたようなもんさ」
ゼフの憎まれ口も意に介さず、サンジは手早く箱の中を整理して蓋を閉めようとした。
「これも持ってけ」
ゼフは、後ろ手に持っていたものをつっけんどんに差し出す。
少し色褪せたフォトフレーム。
「え?」
そこに懐かしい両親の笑顔を見つけ、サンジは動きを止めた。

父と母、その真ん中に幼い自分が挟まれて顔を寄せ合うように笑っている。
なんの屈託もない、幸せに満ちた笑顔。
サンジの記憶の奥底にも残らなかった、輝くような家族の肖像。
「俺が持ってるよりいいだろう。あっち持ってけ」
サンジはそっと受け取って、改めて母の顔を見つめた。
女優のように美しい、白い花のような女性。
サンジの耳に、あの日の母の優しい声が蘇る。

―――ねえ、サンジはパパとママ、どっちが好き?

どちらも好きだよ、選べないよ。
今でもずっと、選べないよ。
俺にとって、大好きなパパとママはこの世に一人だけなのだから。


「ありがとう」
サンジはそう呟いて、顔を上げた。
「これ、ゾロに見せてやるんだ。俺の両親だって」
大切な、大好きな
この世にただ一人だった、愛すべきパパとママを。

ゾロはきっと穏やかに笑って、頷きながら聞いてくれるだろう。
幸福な家族の思い出話を。




END


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