青嵐 -1-


夜中に目を覚ますのが怖かった。
まだ明かりの点いている部屋から、いさかいの音が漏れてくるから。
いつもは甘く優しいママの声が、耳を突くように甲高い。
いつもは穏やかで陽気なパパの声が、空気を震わせるほどに荒々しく響く。
昼間の二人とはまったく違う顔で、声で。
だからサンジは、ベッドの中で目を覚ましてしまった時はすぐさま毛布を頭まで被り直して、再び眠りが訪れるのをひたすらに待った。
恐ろしいパパとママは、夜だけ現れる別の何かだと思っていた。

「ねえ、サンジはパパとママ、どっちが好き?」
金色の長い髪と吸い込まれそうな蒼い瞳を持った母は、すれ違う人すべてが振り返るほどに若く美しく、無邪気だった。
自分と同じ白い肌のサンジの手を優しく撫でながら、少し舌ったらずな甘えた声でそんな意地悪なことを囁く。
その度サンジは、パチパチと大きな瞳を瞬きさせてじっと愛しいママの顔を見つめた。
「どっちも好きだよ」
綺麗なママ、優しいパパ。
サンジにとって、ママはママでパパはパパで。
どちらもこの世に1人しかいない、大切な人だ。
どっちが好きかだなんて、選べるはずがない。
それなのに、ママは毎日繰り返し聞いてくる。
たわいもない調子で、あどけない笑顔で。
「ねえ、サンジはパパとママ、どっちが好き?」


大抵の子どもがそうであるように、サンジも狭いところが好きだった。
特に階段下の収納スペースはお気に入りで、秘密基地と称して毛布やクッションを引っ張りこんで自分だけの快適な“巣”を整え、扉までぴっちりと閉めて隠れるのが楽しみだった。
ママも心得たもので常に掃除しておいてくれたから、“秘密”ではなかったのだけれど。

その日も、一人かくれんぼをして遊んでいた。
もうすぐママがおやつに呼んでくれるだろうから、それまでここに隠れているのだ。
サンちゃん、どこ?と一生懸命探してくれるママの背中をこっそり見られるよう、扉にほんの少しだけ隙間を空ける。
そうして息を潜めている間に、いつの間にか眠ってしまったらしい。

ゴン、と床に響く音にびっくりして目を開けた。
周囲があまりに暗くて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。
目の前にいつも一緒に眠っているアヒルのぬいぐるみがあったから、ああ、秘密基地だと思い出す。
一体どれくらい眠ってしまっていたのだろう。
ママが探しているかもと、光が漏れている隙間に手をかけようとしたら、また表から妙な音がした。
ゴン、ゴツ・・・
手を止めて、サンジは無意識に息を詰めた。
なんだろう。
何か、いる?

背伸びして、戸の隙間に左目を当てた。
右目を閉じてよく見えるよう目をこらす。
玄関から続く廊下に、ママの金色の髪が散っている。
その上に逆さまのママの顔。
逆さまだからか、ぱっと見ママには見えなかった。
いつもにこやかな綺麗な笑顔を浮かべたママが、今は酷く歪んで目も口も開いたままで。
見開いた蒼い瞳は、どこかを睨み付けたみたいに固まっている。
鼻から流れ出た血は、頬を逆流して目尻を伝い、こめかみへと続いていた。
金髪の生え際まで赤く染まって、血の気の引いた白い顔の上でそこだけが鮮やかだ。
逆さまになったママの顔の上に、真っ白な乳房があった。
さらにその上には、太い男の両手。
ママの、細くて長い綺麗な太股。
そして、大きな男の身体。

夕日が直に玄関に差し込んでいて、男の顔は逆光で見えなかった。
ただ、男の陰にいるママの白い身体だけが浮き上がって見える。
どちらが現実なのか、それとも全部夢なのかもわからない。
ただ、ママの上で男が何かをしている。
そうしながら大きく息を吐いて、その目がちらりとこちらを向いた。

―――鬼だ
サンジは左目でその視線を受け止めて、ひゅっと息を呑んだ。
血走った白目、爛々と輝く瞳。
髪は逆立ち、歯を剥いた口元は大きく歪んでいる。
―――鬼・・・

サンジの意識は、そこで途切れた。





気がついたら白い部屋の中だった。
天井もカーテンも、壁もベッドも何もかもが白い。
パパが逆さまに覗き込んでいて、目が合うと顔をくしゃくしゃに歪めた。
「サンジっ、よかった・・・」
そう言って、がばりとシーツの上から抱きついてくる。
パパの大きな身体が重たくて、身動きできないのが苦しくて、サンジは戸惑いながら視線だけを彷徨わせた。
「ママは?」
パパの背後にいた看護師さんが、思わずといった風に口元を抑えている。
「パパ?」
サンジの髪を撫でる大きな掌を追いかけるように首を巡らせると、パパは涙に濡れた顔を上げた。
「サンジ、ママはもういないんだ」
けれど、サンジが無事で本当によかった。
そう呟いて、荒い息を吐きながら頬擦りしてきた。
涙に濡れた頬が気持ち悪くて、サンジはベッドの上で身を捩って押さえつけられたシーツの下から、なんとか片手を出す。
パパの身体を押し退けようとするのに、パパは余計にしがみ付いてきておいおいと声を上げて泣いた。
泣きながら、無事でよかったと繰り返した。
なんで「よかった」なんて、言うんだろう。
ママはもういないのに。


警察の人が来て、少しずつ色んなことを聞いてきたけれどサンジはうまく答えられなかった。
あの日は、いつもと変わりなかったこと。
ママがおやつを呼びに来てくれるまで、秘密の場所に隠れて待っていたこと。
少し眠ってしまっていたこと。
気が付いたら、恐ろしい鬼が玄関にいたこと。
それだけだ。

何度も繰り返し尋ねられる度、サンジの脳裏の逆さまのママの顔が蘇る。
けれど不思議と怖くはなかった。
白い肌に赤い血が、とても綺麗でママによく似合っていたと思う。
けれどそのことは、誰にも言わない。
パパがきっと、悲しむだろうから。
ただ、鬼のことを思い出すのは怖かった。
普段それほど人見知りもしないサンジは、特に誰かを怖いと思ったことはなかったのに。
あの鬼だけは怖かった。
思い出そうとするだけで、あの鬼がまた目の前に現れそうで。
それが怖くて、警察に何度聞かれても「見えなかった」と繰り返すしかできなかった。
だって見えなかったのだ。
後ろの夕日が眩しすぎて。
ママの白い顔が美しすぎて。
それ以外、なにも見えなかった。

「もういいでしょう」
パパはいつも、サンジが困った顔をすると庇うように前に出て警察の人と距離を置いてくれた。
「この子は、母親の死を目の当たりにしてるんです。それを無理に思い出させようとするなんて、酷過ぎる」
そんなことを言いながら、サンジの前に立ちはだかった背中はとても広くて大きかった。
パパの側なら鬼が来たって大丈夫って、安心感があって好きだった。




病院を出てから、もう前の家には戻らずにパパと二人で社宅に住んだ。
前の家の、ママの匂いが残ったキッチンやお気に入りの秘密の隠れ家、カラフルな子ども部屋やおもちゃなんかを全部置いてきてしまったのは残念だったけれど、辛そうなパパの横顔を見ているとサンジには何もいえなかった。
新しい住まいで、パパと二人だけの暮らしを始める。
社宅の管理人さんや隣の人達はみんな親切で、パパが仕事に行ってる間に保育園で過ごすことにもすぐに慣れた。

どんなに寂しくても悲しくても嬉しくても、もうママに話をすることができない。
ママに会えない。
あの、優しくて綺麗でいい匂いがするママはもう、どこにもいない。
子ども心にもそう理解できて、駄々を捏ねてパパを困らせるような真似はしまいと決めた。
もうママがいないって僕は知っている。
死んでしまったママを、この目で見たから。

小学校に上がる前の検査で、左目の視力が極端に落ちていることがわかった。
このままでは右目にも影響が出ると言われたけれど、サンジは眼鏡を掛けるのを嫌がってパパも仕事が忙しかったせいかそれ以上強く薦めはしなかった。
右目を閉じて左目だけで世界を見ると、どこかから“鬼”がやってきそうだ。
それならば、右目だけで世界を見ていた方がずっといい。




ママを殺した犯人が、掴まったという話は聞かなかった。
最初の内は家のあちこちに新聞記者やニュースの人達がうろうろしていたみたいだけど、いつの間にか事件について聞かれることはなくなってきた。
小学校の友達達は、何も知らないのか家の人達に口止めされているのか、サンジにママがいないことを深く追求したりしてこなかった。
そんな風に普通の暮らしをずっと続けているうちに、誰もママが死んだことなんて知らないんじゃないかとも思えてきて。

サンジはママが大好きだった。
あの綺麗な顔も白い手足も、少し舌ったらずな話し方も優しい声も、なにもかもが大好きだった。
もう一度ママに会いたい。
あの手で抱き締めて欲しい、あの柔らかな胸に顔を埋めて、ママの匂いを胸いっぱいに吸い込みたい。
なのに、ママはもういない。
ママの“死”もその“存在”すらも、すべてをなかったことにされてしまうように、誰もがサンジに対して過去を触れなかった。
そのことが逆にサンジを苛立たせた。
素敵なママが確かにいたのに、誰かに殺されてしまった。
ボクからママを奪った、憎い誰かがこの世に絶対いるはずなのに。

サンジは常に“被害者”の側にあった。
テレビを見ていて、または新聞が読めるようになって気が付けば、そこには毎日のように殺人や事故のニュースが流れている。
その度、サンジは殺された側の立場に立って胸を痛めた。
どんなにか恐ろしかっただろう、どんなにか痛かったろう。
悔しくて悲しくて苦しくて、それでも今は物言わぬただ塊になって、多くの人々の目に晒されて。
なのに犯人はのうのうと生きている。
どことも知れない場所に隠れ、或いは素知らぬ顔で普通の生活を営んでいるのだろうか。
よしんば逮捕されたとしても、食うものも住む場所にも困らず、いつか刑期を終えたら堂々と普通の生活に戻るのだろうか。

他人事であってもまるで我が事のように、サンジの胸には怒りや憎しみや焦燥が募った。
考えただけで目が眩み、息が詰まりそうになる。
辛い痛い苦しいとの怨念が、紙面や画面からサンジの心へと直接響いて、見知らぬ犯人への憎悪が募る。
毎日毎日新しい事件が起きて、事故が何度も繰り返されてその度サンジの胸はずたずたに傷付いていった。
腹が立って眠れなくて、悲しくて涙が止まらない。
学校に行っても楽しげに話し合う友達の笑顔さえ憎らしく見えて、このままではいけないと、子どもながらに心配になった。

辛くて苦しくなるのなら、最初から見なければいい。
それは“逃げ”だと思うけど、最初から何に立ち向かっているのか、“敵”が誰なのかサンジにだってわかりはしないのだ。
それなら最初から、見なければいい。
以降、サンジは例え宿題で必要となったとしても、テレビや新聞の類には一切目を向けなくなった。
何も見なければ、知らなければ心は痛まない。
この先を“真っ当に”生きていくには、それしか手立てはないのだから。



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