雨の降る日は屋上で -6-


廊下に甘ったるい匂いが漂っていた。
コンビニ弁当はちゃんと食ったが、ちょうど腹が減る時刻だ。
あと1時限で放課後で、たるいな〜と思っていたから余計に、腹に来る。
匂いを無視してガシガシ歩いていると、背後から轟のような足音が迫ってきた。
まるで雀のようにキャッキャと囀りながら、多くの生徒がゾロを追い越していく。
「こら、走るな」
「はーい」
「すみませーん」
口先だけ謝ってまったく速度を緩めない団体に眉を潜めると、生徒の中に教師が混じっているのに気付いた。
「ルフィ先生!」
「おーう、ゾロも行くか?」
高校生より落ち着きがない男だが、これでも英語教師だ。
なんでも、若いうちから世界を放浪していたとかで多言語に精通しているが、常識には欠けている。
「廊下を走っちゃいけません」
「だってよう、早くいかないと食いっぱぐれる」
だから行こう!と、無理やり肘を掴まれ引っ張られた。
「俺は授業があるんです」
「そっか、俺はもうねえぞ」
「なら一人で行けばいいでしょう」
邪険に腕を振り払ったが、ルフィ先生は気分を害した風でもなく、シシシと笑った。
「サンジが作るクッキーって、そりゃあもう頬っぺた落ちるほど美味えんだからな」
またサンジか。
どいつもこいつも、サンジ・サンジ・サンジ君だ。
「なんで学校で、クッキーなんて焼くんです」
「調理実習だからだろ。今日は秋の旬って課題だったらしいけど、オマケでクッキー焼くって情報得てるから、みんな急いでるんだ」
「彼は国語教師でしょうが」
「調理実習では補佐役に付くんだぜ。つっても、ほとんどサンジがメインだけどな。サンジが作る料理って、そりゃもうめちゃくちゃ美味えんだから」
そんなん知ってる、と言いかけてぐっと堪えた。
なんだろう、ものすごくムカムカする。

ルフィ先生自体は、歓迎会の時から人の3〜4倍食べる超大食漢の第一印象があるが、それ以外でも気さくでさっぱりとした気持ちの良い性格だとわかっていた。
だから好ましく思っていたのだが、なぜか今はちょっとムカつく。
なぜだろう。

「サンジの作る飯は料理でもお菓子でも、食いっぱぐれたくねえんだ」
ああこれか、「サンジ」と呼びつけるのが気に食わないのだ。
「ならさっさと行ってください、生徒はもう行きましたよ」
「あー!お前らズルいぞう」
じゃあな〜と、廊下なのに砂煙でも立てそうな勢いで突っ走っていくルフィの背中を見送って、ゾロは自分の化学室に向かうべく角を曲がった。
一つ曲がり損ねて、そこからさらにぐるぐる回ることになったのは別の話だ。



甘ったるい匂いから逃げるように、放課後は屋上に上がった。
空は曇天模様で、夕暮れというより夜に近い暗さだ。
一雨来そうな気配だが、降ったら下に降りたらいい。
いくら何でも、雨に当たれば目が覚めるだろうと自分のことなのに若干不安に思いつつ、冷たいコンクリートの上にごろりと横になる。
天気がいいと床自体も温もってポカポカと気持ちいいが、これから寒さに向かう季節となると、ここで過ごすのもなかなか厳しくなりそうだ。
――――テントでも持ち込むか。
バカなことを考えていたら、カツカツと革靴の音が近づいてきた。
ちっと舌打ちして、身体を起こす。
「あー、やっぱりいた」
まるで探してでもいたような口ぶりで、給水塔の陰からサンジが顔を出した。
「雨降るぞ、いくら水生植物でも雨で水分取るな」
「誰が水生植物だ」
「マリモだろ」
失礼なことを言いつつ、サンジは煙草を咥えてゾロの隣に腰を下ろす。
「ほい」
膝の上に軽く投げられたのは、小さな紙袋だった。
赤いチェックにハートのシールが貼ってある。
実にちまちまとしていて、女子はこういうのを見ると「可愛い〜」とか言うんだろうが、ゾロにとっては面倒臭さの象徴みたいに見える。
「なんだこれは」
「クッキー、おやつにどうぞ」
甘いものは嫌いだと言い返して突っぱねることもできるが、先ほどからゾロの腹は控えめにグウグウ鳴っていたので、誘惑に負けてつい封を開けてしまう。
「かぼちゃとさつまいもとジンジャーのクッキーな。腹持ちいいぜ」
サンジは持参したポットから湯気が立つほど熱いコーヒーをカップに注ぎ、はいと手渡した。
「クッキーが喉に詰まるといけねえし」
まさに至れり尽くせりだ。
ゾロは口の中で礼だけ述べて、焼き立てらしくまだ温かいクッキーを摘まむ。
さほど甘くなく、ほろりとした食感だ
サツマイモの風味が鼻から抜け、ついで噛めば噛むほどじんわりと甘みが広がる。
歯触りが良くてつい、次に手が伸びた。
二口目もサツマイモだったが、やはり口の中で溶けながら自然な甘みが広がって、もっと食欲が湧いてきた。
かぼちゃのクッキーはさいころ型に小さく切ったかぼちゃの食感がまたよくて、ジンジャークッキーは程度なスパイスで腹がホコホコとぬくもった。
結局、サンジが煎れてくれたコーヒーを片手に無言でもぐもぐと貪り食い、あっという間に紙袋を空にしてしまった。
「美味かっただろ」
咥え煙草でにやんと笑うサンジに、素直に美味かったというのはどうにも癪で、けれどどうひっくり返っても美味かったことには変わりないから無言で頷く。
ふと、足元に灰色の丸い染みが浮いた。
「あ」
「あ」
顔を上げると、ポツポツと頬に飛沫が掛かる。
「降って来たな」
サンジは立ち上がると、ゾロに向かって手を差し伸べた。
「なんだ」
「ゴミ」
空になった紙袋を受け取って、綺麗に畳んでポケットにしまう。
「濡れっから、降りるぞ」
「ああ」
サンジの後ろからついて歩きながら、ゾロはつくづくと考えた。

ご苦労なこった。
わざわざ作ったものを持ってきて、なおかつ食べ終わったごみは引き取って持ち帰る。
赤の他人のためにそこまで細々と気遣う神経が、そもそもゾロには理解不能だ。
ゾロは基本、貰ったら貰いっぱなしで特に礼など返さない。
それで礼儀知らずだと疎遠になるような相手なら別にそれで構わないし、見返りなど求めずただ人にものをやるのが好きなだけの人種も確かに存在するから、それはそれで好きにすればいいと思う。
来る者拒まず、去る者追わず。
過去の恋愛に関してもそうだったから、ゾロから特別誰かを求めたり何かを欲したりする経験はなかった。
これからもないだろうと、漠然と思っていたのだが――――

「おい」
「ん?」
非常階段を降りたところで、雨は本降りになっていた。
屋根のある渡り廊下に走り込むまで、ほんの数メートルで濡れるだろう。
そう思って一瞬足を止めたサンジの肩に手を掛ける。
振り向いた顔があまりに近くて、お互いにぎょっとした。

「…なに」
「あー…てめえの袋、借りたままだ」
袋?とサンジは首を傾げた。
間近で見ると、薄暗い中で金色の睫毛が灯りだした外灯の光を弾いて、白く浮き上がって見える。
「前に貰った、サンドイッチが入ってた」
「ああ、トートバッグか」
思い出して微笑んだ。
いつもは透き通った青い瞳が、今は沈んだ灰色に見える。
「いいよ別に、やるよ」
「いらねえよ」
青いデニム地に、確か内側がさくらんぼかなにかの柄模様だったと思う。
あんなバッグ、ゾロが使うことなどない。
「いらねえから、今度俺んち来い」
「――――は?」
ええい、と屋根のある場所から飛び出しかけて、サンジは中途半端に足を止めた。
早くも水たまりができ始めていたアスファルトで、飛沫が上がる。
「なんで?」
「なんでも」
ゾロ自身、なに言ってるかさっぱりわからなかったが、とにかく口実だと思ったのだ。
「バッグを返してえから、俺んち来い」
そんな強引な論法がサンジ相手に通じるはずもないとわかっていたけれど、意外なことにサンジは「おう」と返事した。
「しょうがねえ、行ってやるよ」
そう言って、今度は振り向かないで一直線に渡り廊下へと飛び込んだ。



「今度」と言ったからには「今度」だからと、その週の日曜日にゾロはそわそわと自宅待機していた。
試しにサンジの携帯に「何時に来る?」とメールしたら「いまからでもいいか」と返事がきた。
やっぱり、サンジも今日来る気なのだ。
時刻は昼前で、この時間帯に来るということは何か作ってくれるつもりなのかもしれない。
あれから、特にキッチンを使用していないので別に散らかってはいない。
出来合いの弁当や総菜を買っては食っていても、ゴミだけきちんと分別して定期的に捨てていれば、台所は汚れないものだ。
ゾロはどことなく落ち着かない様子で、無暗に朝かけた掃除機をもっかい引っ張り出していたら、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
慌てて押し入れの中に押し込み「おう」と返事しながら玄関に向かう。
「こんちはー、お邪魔―」
「…いらっしゃい」
自分で呼びつけておいてなんだが、なんで呼んじゃったかなーと思わないでもない。
だがそんな懸念はおくびにも出さず、ゾロはサンジを部屋に上げた。
「おう、相変わらずなんもねえ部屋だな」
「荷物、どっかその辺に置け」
そう言ってから、「荷物?」と二度見した。
サンジはケータリングよろしく、大荷物だった。
「昼飯まだだろ、適当に作って運んできた」
「お…おう」
確かに、この時間だから昼飯を期待してはいるが、まさか持ち込みできてくれるとは。
「テーブルは片付いてる、いつでも食えるぞ」
「お前、このつもりで呼んだだろ」
「まあな」
この野郎と口で悪態を吐きつつも、サンジは嬉しそうに笑っていた。
ゾロも、柄にもなくニコニコしてサンジから荷物を受け取ってしまう。
自分自身驚いているが、学校でサンジに会っているときと今とでは、我ながら随分と態度が違うことに気付いた。
学校では生徒や教師の目があるからか、必要以上につっけんどんな物言いをしているような気がする。
これも偏に、中途採用で経験も未熟だから舐められないようにとの自己防衛かもしれない。

ゾロが自己分析をしている間にも、サンジは勝手知ったるで茶箪笥から食器を揃え、あっという間に食卓を作ってしまった。
「お前んち、レンジにオーブン機能付いてねえんだもんな」
そう言いながら、チンして温め熱々の状態でゾロの前に並べる
「ポークの野菜巻いと、ポテトとタコのマスタード和えな。それから野菜のゼリー寄せに天むすお握り…」
「すげえ」
目を輝かせるゾロに、サンジはへへへと得意げに胸を張った。
「お前絶対、野菜足りてねえと思うもの。バンバンジーも特製ドレッシングで、たっぷり野菜と一緒に食うんだぞ」
「わかった、いただきます!」
パンと手を合わせ、子どものようにがっつくゾロをサンジは目を細めて満足そうに眺めていた。
家に呼んだだけでこんなご馳走を食わせてもらえるなら、あのトートバッグはずっと人質(物質?)でとっておこうかと真剣に考えたゾロだった。



「ご馳走さんでした」
「お粗末様でした」
米粒一つ残さずきっちりと食べ終え、ゾロはけふーと軽く息を吐いた。
基本、朝も昼も規則正しく食べることなく、腹が減ったら外食かコンビニで食いたいものを食いたい時に食ってきた。
こんな風にきちんとした食事など、実家で暮らしていたころ以来だ。
いや、こないだサンジが作ってくれた朝食以来か。

サンジは食後の一服とばかりに長々と煙草を吹かし、横を向いてふうと煙を吐き出した。
「…んで、用件は?」
「あ?」
なんだっけ。
「俺のトートバッグ、返してくれるんじゃねえの」
そう言う、サンジの目が笑っている。
多分サンジも本気でバッグを返してほしくて、ゾロんちまで来た訳じゃないのだろう。
それでも、こんなにご馳走を携えてやってきてくれた辺り、本当に人にものを作って食べさせるのが好きな性質らしい。
「ああ、そうだった」
ゾロは思い出して、冷蔵庫の扉を開けた。
中にトートバッグが入っている。
「なんで冷蔵庫?それ保冷用じゃねえぞ」
保冷用でも、バッグごと冷蔵庫に入れることは普通ない。
ゾロはそうだっけ?と生返事しながらバッグを取りだした。
「要冷蔵って書いてあったから、このまま入れたんだ」
「なんだ、ケーキか」
トートバッグの中には、ケーキの箱が入っていた。
ただバッグを返すだけではさすがに味気ないとゾロでも思って、確か前に付き合っていた女が「ここのケーキ好きー」と言っていたのを思い出し、近所のレストランにケーキだけ買いに行った。
もともとはフレンチレストランだが、テイクアウト用のケーキも美味いと評判で午後には売り切れるからと、開店の1時間前から店の前で待って買ってきた。
「…これ、バラティエの…」
「お、知ってんのか?なんか美味いって評判だったからよ」
ほんとに評判かどうかは知らないが、当時の女はそう言っていたからそうなのだろう。
サンジはふへんと、何とも言い難い表情で頬を緩めた。
まるで子どもみたいなその崩れように、ゾロの胸がときんと鳴る。

「俺、ここのケーキ大好きなんだ。ありがとうな」
「…そうか」
そりゃよかったと頷きつつ、ゾロはなぜか熱く火照った自分の頬をゴシゴシ撫でた。





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