雨の降る日は屋上で -5-


ここだけはさほど迷わない、屋上へと続く階段をゆっくりと昇る。
壊れた柵がほんの少し開いていたからもしやと思えば、やはり先客がいた。
だらしない姿勢で給水塔に凭れ、ぼんやりとした表情で煙草を吹かしている。
「ここは俺の休憩場所だっつっただろ」
「バーカ、俺の秘密の場所なんだよ」
知られてたら秘密じゃねえだろと口の中で呟いて、距離を取って腰を下ろした。
そのままコンクリートの床にごろりと寝そべる。

「お前ね」
「んー」
「白衣ぐらい脱いで来いよ。汚れるだろ」
「もう汚れてる」
確かに、ゾロの白衣は随分と年季が入っていてあちこちに訳のわからない染みがついているし、皺くちゃだ。
「マキノ先生の白衣はいつもぴしっと綺麗で、白さが眩しかったのに…」
嘆くサンジをよそに、ゾロは両手を頭の後ろで組んで手枕にして目を閉じた。
薄曇りで眩しくはないが、やはりなんとなく瞼の裏が明るい。
寝入ってしまうと夜まで目が覚めない危険があるから、このぐらいの方がいいかもしれないが。
「ものぐさな野郎だなあ」
ガサガサと音がした。
ゾロが薄目を開けて視線を送ると、サンジは傍らに置いてあったトートバッグからラップに包まれた何かを取り出している。
「せっかく、一服してから飯食おうと思ったのに」
「いま、昼飯か?」
取り出したのは、筒状に包まれたパンらしきものだ。
サンジのことだから、多分手作りなのだろう。
「昼は、生徒が質問に来たりして職員室で食ってらんないだろ。いつでも摘まめるようにちっさいサンドイッチ作って来たんだ」
言いながら、どうだ?と一つ差し出された。
ゾロは「いい」と断るつもりだったのに、身体は勝手に起き上ってしまう。
「さんきゅ」
しかも声に出して礼を言い、受け取ってしまっていた。
サンジから食い物を貰う行為が、条件反射みたいになっているのが内心悔しい。

「そういや、いつもお前生徒に囲まれてるよな」
教室でも廊下でも、職員室でも入れ代わり立ち代わり、生徒達がやってくる。
みな一様に「サンジ君」呼ばわりするのが他人事ながら癇に障って、つい気になってしまうのだ。
「しょうがねえだろ、俺人気者だから」
「―――― …」
無言でかぷりとサンドイッチを頬張った。
なにが入ってるのかわかないが、ゾロ好みの味で美味い。
「お、それレバーペーストか。食うまで、なに入ってるかわかんねえんだよ」
「ほかに何かあるのか?」
「ん?ハムとかチーズとか…あ、これレタスはみ出してるからツナな。あとはジャムとかあんことか…」
「甘いのはいらねえ」
「なんだよ、まだ食う気かよ」
さっさと食べ終えてしまってサンジの手元を覗き込んだゾロは、はっとして身を引いた。
こんなところで人の昼食を横取りするなんて、みっともない。
「いや、ごちそうさん」
「食えるなら、食っていいんだぜ」
「もう充分だ」
ゾロだってちゃんと、職員室でコンビニ弁当を食べた後だ。
こんなサンドイッチの一つや二つや三つ四つくらいペロリと平らげられるが、これはサンジの昼食なのだから手を出しちゃいけない。
「お前はちゃんと食え。そんなんだからヒヨっこいんだ」
「誰がヒヨっこいんだ、この筋肉達磨」
「ヒヨっこだろ、黄色い頭でピーピーガーガー」
「あんだとお?!」
言い合いを仕掛けたところで、キンコンカーンとチャイムが鳴った。
サンジは「いっけね」と叫んで腰を浮かす。
「しょうがねえ、そいつは食っておいてくれ」
「…おい」
ゾロの手にトートバッグを押し付けて、携帯灰皿に煙草を押し込みながら身軽な仕種で屋上を後にする。
慌ただしく立ち去ったサンジを見送って、ゾロはしょうがなさそうにトートバッグを見た。
中に入っているのはサンドイッチが4本。
結局サンジは、1本しか食べられなかった。

自分で茶化すような物言いをしているが、実際サンジは人気のある教師だと思う。
生徒達に慕われているし、自分からオープンな態度で飛び込んでいる風にも見え、ゾロはそんな部分が気に食わなくもあり眩しくもあった。
自分にはできない芸当だが、そういう教師もいてもいいかなと思い始めてもいる。
そんなサンジが一息つける場所が、ここだったんじゃないだろうか。
今のところ屋上で、サンジ以外の人間を見かけることはない。
ゾロが学生だった時も、ここはゾロひとりの場所だった。
昼休みにコンクリートの床にごろりと横になって、手で庇を作りながら寝こければ、気が付いたら夜だったこともざらにある。
夜露に濡れて朝日で起こされたときは、さすがにやばいと焦ったっけか。
朝帰りしたら親に怒られたが、「うっかり寝入った」と言えばそれで納得してもらえた、ある意味信用のある学生生活ではあった。
そんな思い出を振り返り、手にしたサンドイッチにぱくりと齧り付いた。
うん、やはり美味い。
ジャムもあんこも、甘いけど美味いじゃないか。
もぐもぐと咀嚼しながら、休憩の邪魔をして悪かったなとちょっぴり思った。
けれど、だからと言ってこの場所は明け渡さないぞと半ば意地のように決意して、結局4本のサンドイッチをすべて平らげた。




授業の準備、授業、宿題の確認、テストの採点、部活の指導。
ゾロにとっては単純なルーティンワークを黙々とこなしている間に、世間では文化祭が始まっていた。
一応顧問として、剣道部の展示室に足を運ぶ。
化学教師の管轄で出番があるかと思ったが、他の先生が担当してくれたようで、実際ゾロは暇だった。
なので、剣道部に顔だけ出したらどこかで寝ようかと不埒なことを考えている。

「先生、カレーどうですか。スペシャルカレー」
「ジャンボたこ焼き、いかがですか〜」
「軽音コンサート、2時からでっす!」
「メイド喫茶にて、男祭り開催中」
まっすぐに体育館に行こうと思うのに、人波に押されて思わぬ方向へと足が向いてしまう。
あっちこっちで呼び止められ、適当に相槌を打っている間にうっかり方向を見失ってしまった。
いつの間にか別棟のセミナーハウスに来ていて、しかも周囲は女子学生だらけだ。
「茶道部、整理券すべてお渡しいたしました」
「午後の部は受付終了です。また明日、お願いしますー」
色とりどりの浴衣姿の女子生徒たちが声を張り上げている。
客として訪れたらしい制服姿の女子生徒達は、あちこちで悲鳴を上げた。
「いやーん、サンジ君のお点前が…」
「だから、もっと早く来ようって言ったのに」
「明日の分の整理券、今ください!」
「すみません、明日は午前の部は9時からと、午後の部は1時から配布します」
ごめんなさいごめんなさいと、丁寧に頭を下げ続ける部員の後ろにすらりとした影が立った。
途端、黄色い嬌声が上がる。

「ごめんね。また明日、ぜひ来てくれるかな?」
いつもと変わらぬ柔らかい笑みを浮かべたサンジは、いつもと違う服装だった。
紺の色無地に縦縞の袴が不思議にしっくりと馴染んで、よく似合っている。
「サンジ君、着物姿ステキ!」
「ありがとう」
「お茶、いただきたいですー」
「また明日ね」
穏やかに優しく、けれど凛として応対するのに、女子生徒たちは名残惜しそうにしながらも一人また一人とそこから立ち去った。
「明日、絶対来るから」
「ありがとう」
「今日のお点前、頑張ってね」
じゃあねーまたねーと、女子生徒達に手を振ってさてと振り返る。
「ロロノア先生も、整理券貰いに来られたんですか?」
「…んな訳、あるか」
憮然として答えつつ、どうしてもサンジから目が離せない。
ゾロ自身、学生の頃に母に縫ってもらった浴衣を着た以外は和装に縁はない。
だが、そんな素人目から見てもサンジの着物姿はよく似合っていた
おそらくは着慣れているのだろう。
本来なら、金髪に青い目、細くて長い手足では着こなせないと思うのにここまで違和感がないことにまず驚いた。
「なに、俺の顔に何かついてる?」
気付けば、サンジはニヤニヤとゾロの顔を覗き込んでいた。
慌てて一歩下がり、「別に」とそっぽを向く。
よく似合ってる、とのど元まで出かかかった言葉はなんとか飲み込んだ。
こんな、生徒が主役のはずの文化祭で生徒より目立ってどうすると、時間が許せば説教の一つもしてやりたいくらいだ。

「剣道部ならこっちだぞ」
サンジが白い手ですっと指示した方に、ゾロは無言で足を向けた。
「今日はもう整理券なくなったけど、明日の分とっとこうか」
「いらねえよ」
「茶菓子も、俺が作ったんだけど」
「・・・」
一瞬、気持ちが揺らいだ。
いや、一瞬どころかものすごく後ろ髪が引かれた。
けれどここは意地でも振り返らない。
手作りの茶菓子になんか、心魅かれたりするものか。

「いらん」
素っ気なく言い捨てて、大股でずんずんと歩き去る。
後ろ髪が全部抜けそうなほど未練があったが、そんな自分を認めるのは癪だった。


剣道部の展示も模擬試合も恙なく終え、なにより「文化」がメインとばかりに部員たちは各クラスでの催しに散っていった。
結局ゾロは、2日目も手持ち無沙汰だったが、かと言って茶道部に足を運ぶような真似はせず、ほとんどの時間を屋上で過ごした。
ここは誰も来ないし天気もいいし、昼寝にもってこいだ。
もしかいたらサンジが来るかなと思わないでもなかったが、結局その心配も杞憂に終わった。
なんせ書道部と茶道部を掛け持ちしていると言っていたから、本当に忙しいのだろう。

今日もあの着物姿で、あの、なんだかよくわからない作法で茶碗やらなにやらをこねくり回して、仰々しく茶でも点てているのだろうか。
茶菓子ってのは、どんなものだろう。
生徒に相対しているときは、むしろ少し猫背でだらしない恰好なのに、着物姿は凛として美しかった。
きっと、彼の手が袱紗を扱う様は流れるように優美で、彼の点てる茶も美味いに違いない。
ゾロの部屋で調理していた、彼が扱う包丁の手捌き一つとっても、ずっと眺めていたいくらい見事だった。
それらが容易に想像できて、どうしても気持ちがそちらへと飛んでしまう。
ここのところ、気が付けば考えているのはサンジのことばかりだ。

「なんかちょっと、やべえなあ」
声に出して呟いたら、本気でやばい気分になってきた。
ゾロは仰向いて手の甲でごしごしと瞼をこすり、そのまま目を閉じて無我の境地に至る。
結局その日も、夕暮れまでそこで熟睡してしまった。





next