雨の降る日は屋上で -4-


コトコトコトと、煮炊きする音がする。
鼻孔を擽るのは、味噌汁の匂い。
先にぐうと腹が鳴ってから、ゾロはゆるゆると目を覚ました。
手元の時計はまだ6時前だ。
アラームが鳴る前に、匂いで起こされた形になる。

なんだったかなと身体を起こし、そう広くはない部屋の隣、台所に見慣れない背中を見つけた。
ゆっくりと昨夜の記憶を辿り、ああそうだったかと思い出しながら大きく欠伸をする。
その気配に気付いたか、サンジはお玉を持ったまま振り返った。
「おはよう、起こしたか?」
「いや、起きるとこだ」
途端にピピッと鳴り始めたアラームを掌で止め、ゾロは両手を上げて伸びをした。
「早いんだな、今日は土曜授業ねえだろ」
「部活あんだよ」
「ああ、そっちが本業だったっけか」
言いながら、それじゃ丁度よかったと火を止める。
「もうすぐ飯炊けるし、朝飯食う?」
「…食う」
即座に返事して、ゾロは遅まきながら首を傾げた。
「お前、何してんだ」
「ん、勝手に台所借りて飯作ってる」
見りゃわかるだろと言われ、確かにそうだと納得した。
「飯、作れるのか」
「おうよ、うちは実家がレストランやってっから、ガキん時から包丁握ったんだぜ」
どこか誇らし気なサンジに、ふうんと気のない返事を返してゾロはベッドから降りた。

「お前、どこで寝たっけ」
「そこのソファ借りたみてえだな。毛布取っててすまん、つか、世話になったな」
口と一緒に手もテキパキと動くサンジとは対照的に、寝起きのゾロは動きが鈍く反応も遅い。
フローリングの上を裸足でペタペタ歩きながら、スウェットの上に装着した腹巻に手を突っ込んで腹をボリボリ掻いていたらサンジはあからさまに嫌そうな顔をした。
「なんだなんだだらしねえなあ、まんまオッサンじゃねえか。かっこいいロロノア先生が台無しだぞ」
「なんだそれ」
「生徒にそう言われてっぜ。ま、お前はそういうの気にしなさそうだけど」
んなもん知るかと、また一つ大きく欠伸をして洗面所に入る。
冷たい水で顔を洗い、申し訳程度に髪を整えて出てきたら、食卓の上には豪勢な朝食が並べられていた。

「さあどうぞ、つってもあり合わせだけどな」
「こりゃすげえ」
素直に感嘆してから、ちょっと悔しくて一人でむっとする。
「材料、どうしたんだ」
「参ったぜ、お前んちの冷蔵庫ほんとになんもねえんだもん。しょうがねえから、必要な分だけ近所のコンビニで買ってきた」
だから高くついてるぞと、半ば脅すように言う。
「材料費ぐらい、払う」
「冗談だって、ったくシャレの通じねえ奴だな」
お椀がないからマグカップに味噌汁をよそい、自分の分はコーヒーカップによそっていた。
「全然自炊してねえの、モロわかりだ。そもそも食器がねえ。冷蔵庫ん中は卵もねえし、ビールばっか」
「食いもんなんざ、買ってくりゃ済むだろ」
「ああもう、憐れだねえ可哀そうだねえ。作ってくれる彼女もいねえのかよ」
「んなもんいるか、めんどくせえ」
そう言いつつ、ゾロはパンと手を合わせた。
味噌汁を一口すすって、目を瞠る。
美味い、との言葉が喉から飛び出そうになったが、寸でのところで飲み込んだ。
いろいろと癪だからだ。
その代りものも言わずに掻き込んでいけば、向かいに座ったサンジがコーヒーカップを傾けながら目を細める。
「そんなにがっつかなくても、飯は逃げねえっての」
カップを持つ指は、細くて長い。
手の甲が筋張って、手首の骨の尖りも目立った。
ゾロと同じ大きな男の手だが、分厚さがなくて料理に向いている手のようにも見える。
この手が、今までろくに使われることもなくほぼ眠ったままだった台所の包丁を器用に操ったのだ。
ようやく日の目を見て、まな板も鍋もフライパンも満足だろう。
なぜか擬人化して想像しながら、もぐもぐと口だけを動かした。

「いい食いっぷりなのに、その調子だといつもは朝飯ろくに食ってねえだろ」
「…食うより、ぎりぎりまで寝ていてえ」
「だめだぞ、食は生活の基本だ」
今日はたまたま味噌汁の匂いで起こされたようなもので、いつもならアラームが鳴っても知らんぷりで寝続けて、ギリ遅刻が鉄板だった。
だからこんな風にゆっくりと朝食を、しかも誰かと一緒に摂るなど久しぶりのことだ。
「剣道部の顧問とかいう以前に、あんたも現役の選手なんだろ?身体づくりが基本だろうが」
「食えるときは食ってる」
「日頃の食生活が大事だって言ってんの。せめて冷蔵庫ん中は充実させとけよ」
ゾロはお代わりしたご飯に熱い茶を掛けて、さらさらと流し込んだ。
「うるせえな、昨夜の酒が抜けなくてまだクダ巻いてんのか。巻いてんのは眉毛だけにしとけ」
「誰がだ、この腹巻マン!」
確かに昨夜のサンジは酔っぱらってグダグダだったが、特に悪い酒でもなかった。
すぐに足に来る体質らしく、まともに歩けない様子だったから肩に担いで、めんどくさいのでそのまままっすぐ自分ちに帰った。
サンジも「悪いなあ」とかなんとか言いつつ、さほど頓着せずにソファに寝転んでぐうぐう寝た。
朝食を食べたことでようやく目が覚めたか、今頃になっていろいろと思い出してきたゾロだ。

「ごちそうさんでした」
一応礼儀として手を合わせ、頭を下げたらサンジは満足そうに頷きつつ自分も頭を垂れた。
「お粗末さまでした」
「帰ったら片付けとくから、放っといてくれ」
「おう、水に浸けとくな。俺も出勤すっから、一緒に行こう」
「部活、持ってんのか?」
そう言えば、ゾロはサンジのことをあまり知らない。
「いや、俺持ってるの文化部だから原則、土日に活動ねえんだ。けど、もうすぐ文化祭あるから準備しとかないと」
「文化部…書道か?」
あの字なら、その可能性があるかと言い当ててみた。
「ビンゴ、あと茶道部も兼務してる」
「茶道部?!」
これは意外だった。
どちらにしろ、思い切りサンジの見た目イメージとかけ離れている。
「書道部は週2だし、茶道部は週1だからそう負担じゃねえんだよ。
「…そう、か」
なんとなく呆然としたゾロに、サンジは少し困ったような顔をして笑う。
「ガラじゃねえだろ?」
そうだなと頷きかけて、首を振った。
「いや、似合ってる…つうか、納得できる」
それはサンジに対してと言うより、自分自身に話しかけているような呟きになった。
サンジはへへっと笑って、そりゃどうもと軽く答えた。



毎日通う道のりを、サンジと連れ立って歩くのは新鮮な気分だった。
もともと東海大学への通勤過程がグラ学になっただけで、路線は同じだからいくらゾロでも職場までの道のりでは迷わない。
だが、学園内に入った途端、職員室がどこかわからない不思議現象に見舞われていた。
なのに、サンジが一緒だとそれがない。
他愛もないことを話し、時に喧嘩し合いながら歩いていたらいつの間にか目的地についていた。

「おはようございます、昨夜はありがとうございました」
「おはようサンジ先生、あれからロロノア先生と一緒だったの?」
「おはようございます。ロロノア先生にお持ち帰りされちゃいました」
サンジの軽口にゾロの方がぎょっとして、少し慌てた。
「いや、こいつ酔っぱらったら足に来て…」
ガツンと、誰にも気づかれることなく素早く、けれど強烈な蹴りが脛に入った。
ゾロは一瞬目を剥いてから、言い直す。
「たまたま家が近かったんで、泊まってもらいました」
「あーお持ち帰りだ」
「お持ち帰りですね」
「ロロノア先生って、意外とマメだったんですね」
どこからが冗談でどこまで本気なのかわからない。
けれどサンジが、「昨日と同じシャツってヤバいですよねー」とあくまで軽い口調で応じているので、むきになって言い訳する方がみっともないと悟った。
ゾロもサンジに合わせて先生方のからかいを軽く受け流してみる。
これで、もし昨夜本当にアレコレあったら冷や汗を掻いただろうなと想像し、アレコレってなんだよと自分で考えてぎょっとした。
同年代の男を家に泊めておいて、そこまで発想が飛躍する自分の思考が信じられない。



文化祭とは文化部だけが忙しいのかと思ったら、剣道部にも発表の時間があったらしい。
生徒だけできちんと準備を進めていたから、ゾロは気付いていなかった。
「今年は、剣道部の歴史の展示をするんです」
主将のサガに説明され、それで“発表”になるのかと再度尋ねれば展示プラス、舞台で剣舞を披露するのだという。
「ロロノア先生に参加していただけると、すごい話題性があると思うんですが」
遠慮がちに申し出てきた要請は、あっさりと断った。
文化祭は、あくまで生徒が主役であるべきだと思うからだ。
サガは残念そうな顔をしたが、それ以上食い下がっては来なかった。

「ロロノアせんせい〜」
廊下で呼び止められ、ゾロは仏頂面のまま振り返った。
教室から上半身だけ覗かせて、可愛らしく手を振っている女子生徒がいる。
ゾロは目を眇め、しばらくしてから「ああ」と思い出した。
「確か、石井…」
「イシリーです、こないだはありがとうございました」
廊下まで出てきて、ぴょこんと深いお辞儀をする。
途端、教室の中で様子を窺っていたらしいほかの女子生徒たちが興味津々といった顔で飛び出してきた。
「なになに、イシリーったらロロノア先生のお世話になったの?」
「えーどうしたんですかあ」
「どこかで会ったの?ずるいー」
いつの間にか女子生徒に取り囲まれ、ゾロは仏頂面のまま突っ立っていた。
「なんでもないのー、ただお世話になっただけ」
「えーなんのお世話?」
「いいなあ、私もロロノア先生に迷惑かけたい」
「なにそれ」
勝手に話が進んでいくので、ゾロは女子生徒の足を踏まないように気を付けつつ前に進んだ。
「あー先生、待ってー」
「用がないなら職員室に・・・」
「イシリーちゃん!」
前から歩いて来たのはサンジだ。
なぜか救いの神のように見えて、ほっとする。
「あ、サンジ君!こないだはありがとうございました」
ゾロにしたように深々とお辞儀したので、他の女子生徒たちが更に色めき立つ。
「なになに、なんで?ロロノア先生だけじゃなくサンジ君まで?」
「ふふー実はロロノア先生とサンジ君と、一緒に歩いたの」
「えーなんでなんで?」
「イシリーずるい!」
廊下できゃあきゃあとさんざめく声を掻き分け、その場から脱出しようとしたゾロと入れ替わるようにサンジが前に進み出た。
「イシリーちゃん、一緒に職員室行こうか」
「え?」
イシリーはきょとんとしてから、さっと蒼褪めた。
「職員室、なんで?」
「一応ちゃんと報告しとかなきゃね。大丈夫、俺も一緒に行くから」
「やだ、スモーカー先生?」
途端に、泣きそうな表情になる。
ゾロは直接話をしたことがないが、スモーカー先生は生活指導担当で、相当強面だった。
「やだやだやだ、サンジ君ひどい!」
「一応俺も先生だから、きっちり筋は通さないとね」
サンジはあくまで優しく、けれど凛としてイシリーを諭す。
「イシリーちゃんにとってはささやかな、ちょっとした冒険だったって俺はわかってるよ。だから一緒に、話をしに行こう」
「・・・ほんとに、一緒にいてくれる?」
「もちろんだよ」
これは、一応一緒にいた自分も同行すべきなんだろうか。
ゾロは一瞬迷ったが、サンジが自分の方を見ないから不要なのだろうと判断した。
サンジに連れられていくイシリーを女子生徒たちが見送っている隙に、ゾロは踵を返して逃げるようにその場を離れた。
部活動の指導も授業も結構楽しいし遣り甲斐があるが、生徒との関わりはいつまでも慣れなくて苦手だ。



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