雨の降る日は屋上で -13-


放課後の図書室に人影を見つけ、サンジはドアの木枠を軽くノックした。
「ナミさん?悪いけどそろそろ締めるよ」
「え?」
戸口に背を向けて本を読み耽っていたナミははっとして顔を上げ、笑顔で振り返る。
「やだ、もうこんな時間」
「ごめんね、借りて帰る?」
「ううんいいの」
手にしていた新書を元の場所に戻し、カバンを肩に掛けて立ち上がった。
「今日はバイトなかったのかな」
「急なシフト変更を頼まれちゃったの。即席で他のを探してもよかったんだけど、またスモやんにバレたらうるさいから」
悪びれず言うナミに、サンジは苦笑した。
グランドライン学園では基本的にバイトは禁止しているが、生徒の事情によって許可されているものもある。
ナミの家庭事情はかなり複雑で困窮状態にもあるので、特別に許可されていた。
ただし、学校の許可が下りた職場でないと働けないため、臨時のバイトはご法度だ。
「たまには、こんな時間も必要だよ」
「そうね、ゆっくり本を読んだのは久しぶり」
図書室に施錠して、二人で並んで歩く。

「こんな時くらい、友達と買い物に出かけたりしないのかな」
「別に、プライベートの時間まで一緒にいたい子なんていないわ。出歩けばなにがしかお金がかかるし、私だけ食べない飲まない払わないじゃあ、他の子達もつまらないでしょう」
ナミは同学年のウソップとは仲が良く一緒にいるのを見かけるが、同性の友人がいるように見えなかった。
危惧していた通りだと、サンジはわざと明るい口調で言った。
「ナミさんは、大人っぽいからね」
「単に世間擦れして冷めてるだけよ。実際、クラスの子達が話してる内容なんて子どもっぽくて聞いてられないわ」
「…ナミさん」
表情を曇らせるサンジに、ナミは眉を上げて快活な瞳を更に大きく見せる。
「そんな顔しなくても大丈夫よ、学校では相手に合わせてちゃんと付き合ってるんだから。こんなこと言うの、サンジ君の前でだけよ。私が器用なことは知ってるでしょう?」
「それは、そうだろうけど」
でも、やっぱりそれじゃいけないんじゃないかとサンジは思う。
子どもの時間は、ちゃんと子どもらしく過ごさなければ。
この年齢でないと体験できない大切なことは、たくさんあると思うのに。

「急いで大人になる必要なんかないんだよ」
「そう?私は必要だと思うわ。もちろん、ゆっくりと大人になっていく子も、いつまでも大人になりきれない子だっていると思う。それこそ人それぞれよ。でも、私は早く大人にならなくちゃ」
大人になって、お金をたくさん稼いで、引き取ってくれた養母の暮らしを楽にさせてあげたいのだ。
打ち解けたサンジにだけは事情を話し、ナミは「だから心配しないで」と屈託なく笑う。
「うちの家の話なんてめったに人に話さないのに。不思議ね、サンジ君には話を聞いて貰いたくなっちゃう」
「光栄だね」
「どうしてかしら、サンジ君はわかってくれる気がするの」
ナミは足を止めて、じっとサンジを見つめた。
ただでさえ顔立ちの綺麗な子なのに、慕わしげに見つめられるとドキドキして頬が熱くなってしまう。
教師の立場を忘れて、この場でクルクル回ってしまいそうだ。
「サンジ君も、きっといろんな経験をして寂しい想いもして、だから人の気持ちがわかるんだと思うの。私が何を話しても、ちゃんと受け止めて自分のことのように感じ入ってくれるって」
「―――・・・」
似たような言葉を最近聞いた気がして、より一層頬が赤くなった。

「ロロノア先生とは、正反対よね」
「―――ふぁっ?!」
いきなり「ロロノア」の名前が出て、不覚にもキョドってしまった。
「え、なに?」
「や、なんでそこでロロノア先生?」
「ん〜だって、サンジ君と同じくらいの年の先生でしょ?」
なんとなくセットで連想しちゃうのよねと、悪気なく笑う。
「ロロノア先生の授業、実験は面白いんだけど板書は読みづらいし説明もわかりにくいし、不評よ」
サンジはドキッとして振り返った。
「え、ほんと?」
授業は評判がいいとばかり思っていたのに。
「マキノ先生の時からわかって授業に付いてきてる子達はいいんだろうけど、ちょっとわかんなくて聞いてる方がモゴモゴしてても、ロロノア先生って立ち止まらないのよね。どの辺りで生徒が躓くか、考えてないみたい。授業中に脱線する話の方が面白いんだけどそっちはテストに出ないし、突き詰めて話し出すとマニアックになるし」
それはわかる気がした。
最初のデート(やはりあれはデートだったのか?)の時も、ゾロは専門分野の話をし始めると暴走したように止まらなくなっていた。
聞いていたサンジは内容が半分もわからなくて「???」の連続だったのに、そのことにも気づかないようだった。
相手の反応などお構いなしに、ずっと我が道を行くタイプなのだ。
「…研究者肌なんだね」
「まさしくそうね、黙って立ってたら脳みそまで筋肉の体育教師みたいなのにね」
歯に衣着せずズバズバ言い切って、ナミは虚空を睨み付けながら唇を尖らせた。
「多分、ロロノア先生って挫折したことないのよ。剣道で実績残してるみたいだし、職場は大学の研究室だし、多少マニアックではあるけど頭いいんでしょ?体格にも恵まれて顔もまあ、そこそこいいじゃない。クラスの子でも憧れてる子は結構いるわ」
「…そうなんだ」
「なに、ヤキモチ?」
意地悪く訪ねて来るのに、サンジは曖昧に頷いた。
「まあね」
「サンジ君の方が、ずっとずっと素敵よ」
「ありがとう、ナミさんにそう言ってもらえたらそれだけで充分」
ナミは足を止め、階段に向かって踵を返した。
「じゃあねサンジ君、見回りお疲れ様」
「ああ、気を付けて帰ってね」
「また明日」
可愛らしく手を振って、スカートの裾を翻しながら軽やかな足取りで駆け降りていく。
サンジは手すりに手をかけて、その後ろ姿を見送った。

―――やっぱり、女の子は可愛いなあ。
ナミはとても大人びていて、サンジでさえ時にドキッとするような鋭い指摘を受けたりもする。
実際、なんでも相談してしまいそうになるのはこちらの方だ。
ナミならきちんと話を聞いてくれ、時に的確なアドバイスもしてもらえそうで。
そんな風に錯覚してしまうほど賢くてしっかりとした子ではあるけれど、本当はまだ17歳の女の子なのだ。
親にも甘えたいだろうし、教師も慕いたいだろう。
ナミこそが迷い悩み挫けそうになった時、自分は彼女を支えられる存在でありたい。
そんな風に想いを馳せながら、サンジは人気のない教室をぐるりと確認して回った。



「お疲れ様ですー」
化学準備室の扉を開けたら、白衣を着たゾロがのそりと振り返った。
「お、もうこんな時間か」
「なに、実験の準備?」
「おう」
返事しながら再び背を丸め、低い水場で丁寧に容器を洗う。
ゾロの大きな手が繊細なガラス瓶を器用に取り扱うのを、ついじっと見つめてしまった。
「・・・なんだ?」
「あ、いや…意外と丁寧だなあと」
「洗浄は大事だからな」
水切り籠に伏せて、裾が汚れた白衣で手を拭った。
「あ、この馬鹿。言ってる傍からそんなもんで手ぇ拭いて・・・」
ぞんざいなんだか慎重なんだか、わかりやしない。
サンジがポケットからハンカチを取り出して渡すと、申し訳程度に手の甲を拭ってみせた。
ハンカチを返し、掛けていた眼鏡を外して瞬きする。
「お前、目ぇ悪かったっけ?」
「ちょい遠視気味だ。実験するときは掛けた方が楽でな」
黙って立ってればジャージが似合う体育教師だが、こうして白衣を羽織り眼鏡をかけるとそこそこ化学系に見えなくもない。
って言うかちょっと――――

「なんだ、俺の顔になんか付いてるか?」
無意識にじっと見つめていたようで、サンジは慌てて視線を逸らした。
「いや…ただそうやってっと、ちょっとは教師っぽく見えるなって」
「―――・・・」
さて次の見回り〜とばかりに踵を返したサンジの肘を、後ろからがしっと掴んだ。
「へ?なに」
振り返った顔があまりに無防備だったから、ゾロは何も言わずに顔を寄せた。
「――――!!」
唇を押し付けて3秒後に、ドカンと腹に衝撃が走る。
「…ぐほっ」
「こ、んのっ、クソが」
サンジは顔を真っ赤にして、唇を手の甲で拭いながら片足を振り上げた。
「ここは学校だぞ、なに考えていやがる!」
「いや、てめえがあんまり可愛い面しやがるから」
「俺のせいかよ!ってか、可愛いってなんだ。このジェントルティーチャーを捕まえて!」
怒るとこそこか?と思いつつ、ゲシゲシと蹴られ続ける脛を押さえた。
「痛えって、もうしねえよ」
「当たり前だ、場所を弁えろボケっ」
顔を真っ赤にさせてぷんすか怒る姿も可愛いと、口に出して言うとまた面倒だから黙る。
「ったく、さっさと戸締りして来いよな」
「待てって、すぐ片付ける」
ゾロが声を掛ければ足を止めるのが、また憎からず愛おしい。
不意打ちでキスされた照れ隠しか、手持無沙汰な様子でポケットの中を弄っていた。
大方、無意識に煙草を取り出そうとして止めたのだろう。

「お前、実験好きだよなあ」
「ああ、俺は講義が上手くないからつい実験に走っちまうな」
ゾロの言葉に、サンジは「え」と目を瞠って振り向いた。
「講義が上手くないって…」
「苦手なんだよ、実習でもわかり辛いってダメ出し食らってた」
なんだ、自覚あるのか。
声にせずとも顔に出たか、ゾロはサンジを見て苦笑した。
「なんだ、心配しててくれたのか」
「…誰が!」
「まあ、慣れだろ。もうちょっと俺なりに、いろいろ頑張ってみる」
そうなのだ。
なんのかんの言っても、ゾロが教師として勤め始めてまだ1カ月しか経っていない。
自分と同じ年だからとキャリアも同等のように錯覚していた。
あくまで、こいつは後輩だ。
「わかんねえことや迷うことがあったら、いくらでも俺に言えよ」
「ああ、便りにしてますよサンジ先輩」
「気持ち悪いから、却下」
「なんだよー」
軽口を言い合いながら、揃って準備室から出る。
ゾロは脱いだ白衣を丸めて抱えていた。
「なに、ようやく洗濯する気になったか?」
「あ、これは週末にいるだろ」
「へ?なんで」
サンジが素で聞くと、ゾロはにやりと悪い笑みを浮かべる。
「…お前、俺が白衣着てんの結構好きだろ。今度部屋で着てやる」
「―――――・・・」
すっとサンジが視線を下げたと思ったら、強烈な蹴りがみぞおちに入った。
「―――がはっ…」
「…ほんとに、いっぺん死ねこのクソマリモ!」
激怒してダカダカ歩き去るサンジの背中を、ゾロの声が追いかけた。
「眼鏡もいるか?」

ほんとに一度、豆腐の角に頭ぶつけてしまえばいい。




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