雨の降る日は屋上で -10-


ゾロは滅多に外食しないが、行くとすれば定食屋か居酒屋だ。
基本的に和食が好きだし、そもそも食べ歩きにも小洒落た店にも興味はない。
ただ、この「バラティエ」だけは別格だった。
当時付き合っていた女がどんなだったかは覚えていないが、ここはいいなと思った記憶がある。
自分で食べに通うことはないとしても、もし誰かを連れてきたいと思ったならここだろう。
だから今日、ゾロはサンジをこの店に連れてきた。

「フレンチ、好きなのか?」
意外そうに問うサンジに、ゾロはこう答えた。
「ここは美味いし、ちょっとした特別感があるじゃねえか」
「特別感…ねえ」
フレンチレストランだと言うのに、スタッフの応対は魚市場のように乱雑だ。
けれど供される料理はどれも美麗で、繊細な味付けが施されている。
このギャップがまたいいと、どこかの雑誌に紹介されていたっけか。
サンジが過去の記憶をひも解いている間に、次々と料理が運ばれてくる。
このスピードも、ゾロには会うのだろう。
一皿一皿時間を掛けて味わうのではなく、客の食事の進み具合に合わせて料理を出す。
だから余計、厨房は戦場のようになる。

コツコツと独特の足音がして、サンジはぴくっと背筋を強張らせた。
ゾロは、「お」っと驚いたように片目を見張っている。
「いらっしゃいませ、お口に合いますかな」
姿を現したのは、恰幅のいい老人だった。
白髪の混じった金髪に、見事な口髭を三つ編みに編んだ特徴的な外見だ。
ゾロはつい、三つ編みを束ねたリボンに集中しがちな視線を逸らして頭を下げた。
「とても美味しいです」
「それはよかった」
そう言って、料理長は傍らのサンジを睥睨する。
「元気そうだな」
「ジジイもな、まだくたばってなかったか」
いつものサンジらしくない乱暴な口調に、ゾロは驚いて顔を上げる。
「知り合いか?」
料理長とサンジの顔を見比べれば、どことなく似ている…ような気もしてきた。
顔立ちも髪色も全然違うのだけれど、どこかが。
「…ここは、俺の実家だ」
サンジが苦々しげに呟くのに、料理長もそっぽを向いてふんと鼻息を吐いた。
「いつもチビなすがお世話になっております」
ゾロに向かって頭を下げるのに、サンジが真っ赤な顔をして小声で怒鳴る。
「チビなす、言うな!」
いつも取り澄ましているサンジが、子どものようにムキになって言い返す様子に呆気にとられ、それからゾロはごくんと唾を飲み込んだ。
うっかり吹き出しそうになったのを、誤魔化すためだ。
「サンジ先生にはお世話になっています。化学教師のロロノア・ゾロと申します」
折り目正しく挨拶すると、料理長は満足げに目を細める。
「そうですか、同僚の先生ですか」
「いえ、同僚と言っても私はこの秋から勤め始めました。サンジ先生には教えていただいてばかりです」
はにかむように話すゾロを、サンジは奇異なものでも見るような目で見つめた。
誰だコイツ。
「サンジ先生にご指導いただいて、なんとかやっていけています」
「いやいや、いつまでも落ち着きのない、どちらが生徒かわからないような教師でしょうが、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ」
お互いに頭を下げ合う二人を、サンジはブスくれた表情で睨み付けながらパクパクと食事を平らげた。
さっさと食べて店を出ようと言う魂胆らしい。
「せっかくのご馳走だ、ゆっくり食おうぜ」
ゾロの言葉に、うっかり喉にモノを詰まらせる。
苦しがるサンジに料理長が水を注ぎ、料理長は「まったくもってそそっかしい奴で」と小声で詫びた。
「それでは、失礼します」
「はい、ありがとうございます」
どこまでも礼儀正しく挨拶を交わし、歩き去っていく料理長を見送ってゾロはサンジに視線を戻した。
「お前のじいさんなのか」
「…ああ」
サンジは拗ねたように口元を尖らせて、注がれた水をチビチビと飲んだ。
すっかり子ども化している。
「そういや家はレストランだって言ってたっけか。でも納得したな、だからお前の作る飯は美味いんだなあ」
「―――え?」
虚を突かれたようにパチクリと瞬きするサンジに、ゾロは悪戯っぽく笑う。
「こんなすげえ店持ってるじいさんがいるんだから、お前が料理美味いのも当然だな。すげえな」
「―――・・・」
サンジは目元を赤らめつつ、どこか悔しげに唇を噛んで俯いた。
「そうでも、ねえよ」
「いや、いいこと知った」
「なんで」
絡むような言い方になったのに、ゾロはあっけらかんと返事した。
「好きな奴のこと、いろいろ知りてえって思うだろうが。今日はお前のこと知れて、よかったよ」
「――――――・・・」
今度こそ絶句したサンジの背後で、別のテーブルに皿を持って行ったスタッフが気遣わしげに振り向いている。
それにゾロは悪びれることなく、小さく会釈を返した。



会計をゾロに任せ、サンジは先に店を出た。
顔見知りのスタッフにからかわれるのは嫌だし、そもそもゾロが「礼をしたい」と言って誘って来たんだから、思う存分奢らせてやろう。
そしてこれで貸し借りなしだ。
縁は切れた。
そう思って先に歩き出したのに、いつまでたってもゾロが後を追いかけてこない。
追って来てほしいとは思ってないけど、ついてこないと気になって振り返れば、緑色の後頭部がまた見当違いな方向へと進んでいくのが見えた。
「おまっ!どこ行く気だよ」
「あ、お前こそどっち行ってんだ」
「俺は元来た道を帰ってるだけだろうが!」
置いていくつもりだったのに、つい回収してしまった。
こんなんだから俺はダメなんだと内心悔やむも、性分は変えられない。

「さ、次はどこに行く?」
「はあ?飯食ったんだからもうこれでお開きだろうが」
「そうはいくか。腹ごなしに、散歩でもするか」
そう言うゾロを、サンジはふふんと鼻で笑った。
「お前一人で散歩に出たら、腹ごなし程度じゃ済まねえだろ。帰って来んの、明日の朝ぐらいになるんじゃね?」
「だったら、お前が案内しろよ」
馬鹿にされても機嫌を損ねた風でもなく、ゾロは逆に一歩踏み込んだ。
「この辺りに住んでるとは言え、俺は自宅と大学の往復くらいしかしてねえ、今は学校との往復だけかな。だから土地勘ってもんがさっぱりだ」
「威張るな!」
「なにより、てめえと歩きてえ」
さらりと言うと、サンジはまた微妙な顔付きをした。
怒っているような困っているような、それでいて口端がむずむずと緩んでいてなんとも締まりがない。
つまりこれは、照れているんだろうとゾロは勝手に判断した。
「てめえと一緒にいて、同じものを一緒に見たらそれだけで、いつもと違う景色になるんだよ」
「――――このっ、タラシ野郎!」
「ああ?思ったことを口にするだけでタラシ認定か?」
「うるせえ」
顔を真っ赤にして早足で歩き出したサンジを、ゾロは微笑みながらゆっくりと追いかけた。

最初の出会いは喧嘩から始まったけれど、その後もサンジの印象はくるくると変わる。
女好きでチャラい仕種なのに落ち着いた美しい文字を書き、生徒に「君」付で呼ばれて喜んでいるのに時に厳しくきちんと指導して、軽いノリでいい加減に生きているようでプライベートでも生徒のことを第一に考えている。
見れば見るほど違う顔を覗かせて、その度ゾロの胸に深く切り込んでくる。
ただ驚かされるだけではない、尊敬と慈愛を滲ませて心に響くサンジの存在自体に、ゾロはいつの間にか夢中になっていた。
いままで知らなかったけれど、もしかしたらこれが“恋”と言うものかもしれない。
恥ずかし気もなくそんなことを夢想しながら、ずっとサンジの後を付いて回った。

電車を乗り継いで、ゾロが知らない駅で降りる。
綺麗に整備された広大な公園は紅葉に彩られ、ここが街中であることを忘れさせるような静けさがあった。
たわいもないことを話しながら、人気の少ない林の中を二人でゆっくりと歩く。
グランドライン生徒だったときのこと。
剣道のこと。
なぜ化学が好きになったのか。
仕事のこととなるとつい口が止まらなくなって、気が付けばサンジは相槌も打たず曖昧な表情で笑っていた。
どう噛み砕いて説明しても、ゾロがどっぷりと嵌った化学の魅力は理解してもらえそうにない。
けれどサンジは、お返しとばかりにいかに言葉が美しいかを滔々と説明してきた。
それは、ゾロにとってはさっぱりわからないことだらけだったけれど、サンジの口から流れ出る“言葉”はどんな音楽よりも美しくゾロの耳に響いた。
やっぱり、つまりはそういうことなのだ。

寒空の下、香ばしい煙を立てて焼き栗の屋台があった。
サンジが足を止め逡巡している間に、ゾロは一袋買ってそのまま差し出す。
「ほら」
「サンキュ」
半分払うとか奢るだとか奢られるだとか、そういうのは抜きにして二人でもそもそと栗を食べた。
小ぶりな栗の方が、味が凝縮するのか甘味が強い。
そう言って顔を上げたサンジの、仄かに色づいた頬に栗の皮のかけらが付いていて、ゾロは思わず指を伸ばして頬に触れた。
びくっと弾かれるように身を仰け反らし、サンジは後ろに下がった。
「――――あ・・・」
「そんな、大げさに反応すんなよ」
ゾロは苦笑して見せたが、サンジはバツが悪そうに眉を下げて小声で「悪い」と詫びる。

「なんか、意識しちまって・・・」
「そう言われると、俺も意識すんだろうが」
お互いに俯いて、靴先で落ち葉をつついたりしてしまった。
なんだこの、モジモジ感は。
いい加減背中が痒くなって来て、ゾロは首を巡らせると大きな木の下にあるベンチを見つけた。
「ちょっとあそこ、座ろうぜ」
「ええー」
不満そうなサンジの声に、むっとして眉を寄せる。
「ベンチに座るくらいいいだろうが」
「だってよ。なにが嬉しくて休日の午後に、男二人で公園のベンチに並んで座るわけ」
「男二人だろうが女二人だろうが、並んで座るためにベンチってのはあるんだろうが」
栗が入った小袋を抱え、もう片方の手でサンジの手首を掴んだ。
驚いて手を引っ込めたから上着の袖口を掴む形になったけれど、構わずそのままぐいぐいと引っ張って歩く。
「引っ張らなくても、ついてくから」
「おう」
拳二つ分くらい間を開けて並んで座り、またもそもそと栗を食べる。

「飲み物、買ってくりゃよかったかな」
「…そだな」
生憎、目に付くところに自販機は見えない。
喉に詰まらせないようにと慎重に栗を噛んでいると、サンジは隣でごそごそと懐を探り出した。
「一服、いいか?」
「ああ」
灰皿はないが、いつも携帯灰皿を持っているからいいのだろう。

まだ3時過ぎだがもう日暮れの色が見える空を、白い煙がゆっくりと立ち上っていく。
煙草を吸えば「煙草を吸う人」になるが、煙草も吸わないゾロはただ、「栗を食べる人」のままだ。
携帯を取り出して弄れば「携帯を弄る人」になるのだろうが、「なにもしない人」のままでいるのは案外と難しい。
愚にもつかないことをつらつらと考えていると、サンジは1本吸いきってからふっと息を吐いた。
「俺さあ、物心ついた時から、ジジイと二人暮らしだったんだ」
「…あ、ああ」
いきなり始まった自分語りに、ゾロは遠慮がちに相槌を打った。
せっかくだからきちんと聞きたい。
サンジの気が変わって話を止めてしまわないようにと極力気を遣いながら、じっと続きの言葉を待つ。
「あの店ももうずっと前からあってさ。ジジイは忙しいわけよ、俺は店の隣にある住宅で毎日留守番してた」
「小さい頃からか」
「うん、幼稚園の時から…かな」

祖父と二人暮らしと言うことは、両親はいないのだろうか。
色々と聞きたいことはあったが、その部分までは踏み込めずただ息を詰めて続きを待つ。
その気配を察したか、サンジは火の点いてない煙草を弄びながらふっと笑った。
「俺の両親は事故で死んだんだって。俺はあんまり覚えてないから、最初からいないようなもんでさ。だから特別寂しいとか、そんな風に思ったことはないんだけど。でも、やっぱ一人っきりってのは寂しいもんだよな」
ゾロ自身、共働きの両親のもとで育ったが姉妹もいた。
小さいころから剣道の道場に通っていたお蔭で、両親が留守中も多くの子どもたちと混じって一緒に過ごしていた。
だから幼いサンジが一人でじっと祖父の帰りを待っている姿を想像すると、胸が締め付けられる。
「それでも、やっぱ小学校入った辺りからああうちってちょっと違うかな〜って気が付くようになった。俺も結構気を付けてたけど、やっぱり忘れ物とかあるし、家の人に手伝ってもらってっていう宿題も結構あったし」
「うん」
「着てる服がさ、違うんだよな。ジジイが買ってくれる服はそれはそれでいいんだけど、なんとなくちょっと違うって言うか」
「うん」
「でも、そういうのガキの口から言えねえし。まあ、俺もあんまり気にしなかったけれど」
きっとそれだけじゃないのだろう。
ゾロの母は忙しい合間にも、子どもたちの宿題の進み具合はチェックして、週に何度か時間割も確認していた。
宿題で子どもの頃の思い出などの聞き取りがあっても、楽しそうに応じてくれた。
休みの日には、おやつも用意してくれていた。
「まあ、そのお蔭で俺は自分のことは自分でできるし、ジジイの許可が下りてから台所で火を使うこともできたし、人間的に成長できたってのは否めないな」
そう言って、サンジはふふんと顎を上げる。
「俺がなんでもこなせるのはそういうことだ、すげえだろ俺」
「ああ、すげえ」
ゾロは素直にそう応じた。
人間的にも教師としても、サンジは完璧に近いとさえ思える。
サンジは茶化すように笑ってから、すっと顎を引いた。
長い前髪がさらりと流れ落ち、目元を隠す。

「いつだったか、うちに友達が遊びに来たんだよ。家が留守だってわかったからか、それから毎日誰かがやってきた。俺、うちが賑やかになるの嬉しくてさ、自分でおやつとか作って食べさせたりしてた」
「ああ」
よくある光景だ。
ただ違うのは、本当にその場所が子どもだけだったということ。
大人の目が、まったくなかったということ。
「その内さ、家の中勝手に探検されたり、冷蔵庫の中からモノ食われたりしてさ、友達が帰った後がすごい散らかってて、片付けんの大変だったんだ」
「――――・・・」
「でも俺さ、友達来てくれんの嬉しかったから、自分が片付ければそれでいいって思ってた。けど、勝手に寝室入ってジジイの机とか荒らされた時は、さすがにまずいと思った」
「・・・」
「モノを壊されるとこまで行かなかったけど、こっから先はダメって線引きが俺できなかった。ダメだっていうと、みんなすげえ面白がって余計にその先に行こうとすんだよ。今思うとガキだなあって思うんだけど」
「うん」
「それで、ある日ジジイにバレてさ。ジジイが怒って、休みの日に待ち構えてて俺んち来た友達に雷落した」
「―――・・・」
それは相当、怖かっただろう。



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