Alone -6-


「お前、大丈夫か?」
今日は何度、そう聞かれたことだろう。

それほどまでにぼうっとしていたのか、あまり自覚は無いが友人達は一様に心配げな顔付きをしている。
「例のバイト先で住み込み始めたんだって?環境が変わったもんで、さすがのサンジも調子狂ったのか」
「・・・まあね」
友人には、受け持った高校生が今時には珍しく、実に礼儀正しく可愛らしいなどと自慢げに言いふらしてしまった手前、なにも言えない。
勿論、何か言うつもりもないのだが。

そりゃ言えないだろう。
可愛い可愛い高校生に、緊縛レイプされましたなんて。

「はあ――――」
今日何度目かの深いため息を、また無意識についてしまった。








足取りは重かったが、ロロノア家に帰らない訳には行かない。
自然と猫背になる姿勢を無理に伸ばして、サンジは大股でがしがし歩いた。

シゲさんが休暇を取った今、食事の支度だけじゃなくて洗濯とか掃除とか、本格的に「お手伝いさん」をやらなければならないのじゃないだろうか。
賃金を貰っている以上働くことに異存はないし、何も考えずに身体を動かす方が却って気が紛れる。
サンジはそう思うことにした。

セキュリティのロックを解除しようとして、中に人がいることに気付いた。
―――シゲさんが忘れ物でもしたのかな?
そう思って玄関を開けると、今朝目にしたままの華奢なハイヒールがそこにあった。
奥様が、いるのだ。

「ただ今帰りました」
気配を感じてリビングに顔を出せば、思ったとおり奥様はソファに凭れて雑誌に目を落としていた。
細い指の間に挟まれたメンソールからたなびく紫煙がゆったりと揺れる。
「あら先生。お帰りなさい」
珍しいですねとも、まだいらしたんですか?とも言えず、サンジは改めて頭を下げた。
「実は、先生をお待ちしてましたの」
慣れた手付きで灰皿に煙草を揉み消すと、奥様は身体を起こした。
仕立てのいい濃茶のスーツに、鮮やかな紅のインナー。
赤の似合う人だ。
高貴で華やかで、それでいてどこか少女のようなあどけなさを感じさせる。

艶を帯びた唇が薄く開いて、白い歯が覗いた。
正面から見上げられて、訳もなくドキドキする。
「シゲさんがお休みを取られたの、もうご存知ですよね」
「は、い」
ただ返事するだけなのに、妙に上擦った声が出てしまった。
いかんいかん。

「先生に何もかもご負担を掛けるわけにも行きませんから、今日からハウスキーパーを雇うことにしました」
「あ、そうですか」
意気込みが空振った感じで、拍子抜けする
「ですので、先生には契約どおり息子の勉強と食事面をお願いいたします」
それだけ言って、奥様はすっと立ち上がった。
ふわりと漂う花の香りが、鼻腔を擽る。
奥様の格好はどう見ても余所行きで、これからまたお出掛けらしい。
「本当にサンジ先生が居てくださって助かります。息子もすっかり心を許しているようで、安心だわ」
ずきずきとサンジの胸が痛んだ。
心を許すというよりも・・・こっちが寛容にならざるを得ない状況なのですが―――

「サンジ先生がいらっしゃらなかったら、あの子ろくなもの食べないんですもの」
そう言いながらリビングを出ようとする奥様に、サンジはつい声を掛けた。
「あの、奥様がお作りになったものなら、きっと喜んで食べると思います」
奥様は少し寂しげに目を伏せて振り返った。
何気ない仕種がゾクゾクするほど色っぽい。
「そうかしら。でも残念だわ、だって私お料理が作れないんですもの」
「・・・つか、やる気がないだけじゃないですか」
思わず、言葉が口をついて出ていた。
しまったと思ったが、もう遅い。
明らかに失言だと思ったのに、奥様の黒目がちな瞳がじっとサンジを見詰めている。
例えるならその表情は、どこか「きょとん」として見えて―――

「まあ、そう言われればそうなのかも知れないわ」
それは、純粋な驚きの声だった。
皮肉でもなんでもない、淡々とした素直な感嘆。
その声の調子を、その反応を、サンジは極最近、身近なところで目にした事がある気がする。

「さすが先生、鋭いところがおありなのね」
既視感に戸惑うサンジを置き去りにして、奥様はさっさとお出掛けしてしまった。









サンジはなんとも遣る瀬無い気持ちを抱いたまま、とりあえず夕食の支度に取り掛かった。
あれだけ酷い目に遭わされながら、どうしてもゾロに対して憐憫の情が沸く。
財力に恵まれて、家庭環境だって決して悪くは無い育ちなのに、どこか空疎で温もりの無い家族。
幼い頃から母親以外の誰かの手で育てられることを、ゾロは「異常だ」とは思わなかったのだろう。
そして中学の時に初めて迎えた家庭教師が、ドM・・・
サンジはつい額に手を当てて、はあと溜息をついてしまった。

この広い家の中をあれこれしなくて済んだのには、正直ほっとした。
冷静に考えれば、洗濯一つとってもゾロや自分のだけでなく奥様の衣類まで洗うことになるのだから、そりゃあ自分じゃ家政婦は勤まらないだろう。
つかほんとに、あの奥様はどうにかならないだろうか。

「ただいま」
気が付けば、ゾロが背後に立っていた。
気配を殺すなよ。
マジむかつく。

額に青筋を浮かべながら、サンジは煙草のフィルターを噛んで振り返った。
「おかえり」
地の底に響くくらい、低い声で不機嫌を露わにする。
だがゾロはそんなサンジの態度にも頓着せず、ニコニコしていた。
「今日の飯なんですか?」
「・・・牛肉の赤ワイン煮込み パルマンティエ トリュフ風味」
「あ、なに?」
「冗談だ、バカ」
いっそこいつの嫌いな食べものばかり出したいが、こいつが嫌いなものなんて今のところ思い付かない。
「楽しみだな」
ゾロはでかいスポーツバッグを肩に担いでキッチンを出掛け、ふと戻って来た。
「なセンセ、今晩夜食持ってきてくれたら、いいもん見せてあげるよ」
「あ?」
反射的に表情が険しくなる。
だがゾロはそんなサンジに頓着せずに、さっさと2階へと上がってしまった。

「・・・いいもんだと?ろくなもんじゃねえだろ」
つい言葉に出して呟いてみて、嫌な予感にぶるりと震えた。
ろくなことじゃない、きっとろくなもんじゃない。






2人向かい合った食卓が沈黙に包まれていても、ゾロにとっては気詰まりなものではないらしい。
明らかに打ち解けた様子で、学校での出来事やクラブの様子を屈託なく話してくれる。
サンジは完全に無視するわけにもいかず、適当に気の無い素振りで相槌だけ返した。
昨日までならば、こんな風にゾロが話してくれたなら、どれだけ嬉しくなって会話が弾んだことだろう。
けれどサンジはもう、ゾロに気を許せない。
ゾロがしたことは、到底許されるものではない。
だがゾロにどう言えば、そのことが、サンジの気持ちが伝わるのだろうか。

「先生、あんまり食わねえんだね。食が細いの?」
―――誰のせいだ
「そんなだから痩せてんだよ。でも筋肉はいいよなあ」
何気無く口にした言葉に、サンジの頬が微妙に引き攣る。
それにも気付かず、ゾロはいつもどおりの食欲で全てを平らげると、行儀よくご馳走様と手を合わせた。
椅子を引いて立ち上がり掛け、少し照れたように顔を伏せる。
「先生の飯が美味いって、腕のせいでもあるんだろうけど・・・誰かと一緒に食うって美味いね」
サンジはそんなゾロの様子をじっと観察した。
「学校でも合宿でも、確かにクソまずい飯でも美味く感じたかもしれないなあ」
少し視線を漂わせてそう呟くと、ゾロは口元を緩めたままダイニングから出て行った。

その動作をすべて見送って、サンジはやれやれとテーブルに肘をつくと煙草を取り出す。
―――あれはなんだ、全部演技か?
無邪気を装って、サンジに揺さ振りを掛けているのか。
可愛げを見せて油断させておいて、昨夜の記憶を引き出すようなことを言って動揺させ、混乱させる。
優しい振りをして、その実狡猾な手段でサンジを追い詰め弄ぶつもりなのか。
それとも単に、常識を知らない度外れた阿呆なのか。

「・・・わかんねー・・・」
火の点いていない煙草を弄び、サンジは髪を掻き上げた。
恐らくは手に負えない。
できるなら、早めにこの家から立ち去った方が賢明だ。
そう思うのに、わかっているのに、それを実行する理由が何故か見付からないでいた。






ゾロの言葉どおり、夜食を携えて部屋をノックする。
すぐに応えがあって、ゾロ自らドアを開けてきた。
「ありがとうございます。美味そう」
湯気の立つ鍋焼きうどんをトレイごと受け取ると、いそいそと机に乗せた。
「先生の飯で腹いっぱいとか思うのに、いくらでも入るもんすね」
いただきます!と手を合わせ、ゾロはたっぷり七味を掛けた。

「―――で、俺に見せたいものってなんだよ」
サンジは昨夜の椅子にどかりと腰を下ろして煙草に火を点けた。
奥様だって嗜んでるんだ。
この部屋が煙草臭くなろうが、もう関係ねえや。
ゾロはうどんを口から垂らしたままやや迷惑そうに目を細めたが、文句は言わなかった。
「これっすよ」
代わりに手を伸ばして、サイドテーブルにあるパソコンを引き寄せる。
サンジは背凭れに身体を預け、視線だけ寄越した。
目を眇め、無意識にフィルターを噛み締めた。
それが何なのか理解した途端、心臓が飛び跳ねどっと汗が滲む。

「結構、綺麗に映ってっしょ」
ゾロがクリックしてスピーカーをONにした。
途端、安物のポルノまがいの息遣いが部屋一杯に鳴り響く。

「あ、やめろ・・・やめ―――」
そこに映っているのは、紛れも無い昨夜の自分だ。
固定カメラの向こうで、AV女優顔負けの痴態を演じている。
大きく広げられた足の間には、えげつない玩具。
最後にゾロにイかされた場面。

「あ、ああ・・・あああ―――」
サンジは固く拳を握り、もう片方の手で咥えていた煙草を掴んだ。
素手で揉み消す熱さも気にならない。

「・・・なんの真似だ」
感情を押し殺した、低く冷たい声が出た。
ゾロは気にならない様子で、一人うどんを啜っている。
「上手く撮れてっから先生に見せてやろうと思って、さ」
汁の飛んだ頬をお絞りで拭き、得意そうに顔を上げた。

自分でも、驚くほどに冷静だった。
人間あまりにショックを受けすぎると、却って感情は昂ぶらないものかもしれない。
目の前に映る画像が、すべて作り物のように思えて感覚すら麻痺したようだ。



「・・・俺はなあ、こういうのが一番キライなんだよ」
サンジは薄ら笑いさえ浮べてゾロを見つめた。
本気で頭に来たのだ。
この瞬間にこいつの頭を粉々に砕いても、首を締めても後悔なんてしない気がする。

「こんなもんで俺を脅すつもりか、だったらお門違いだ。脅しは俺には通用しねえ」
我ながら天邪鬼だとわかっているが、サンジは昔から頼まれたことは断れない癖に、命令や押し付けはどんなことであろうと無条件に反発した。
上から抑え付けられるのが我慢できないのだ。
脅しなど最たるもので、人の不安要素につけ込んで思い通りに動かそうと画策するのは下衆の浅知恵だと思っている。
「その画像をどうにかするってんなら勝手にするといい。俺は構わねえ。そんなもんの一つや二つ、怖えことなんかあるか。別に嫁入り前のレディじゃねえんだ。そんなことで傷付くか、ボケが」

サンジは新しい煙草を取り出すと指で弄びながら椅子に深く座り直した。
「いいか、俺はてめえを軽蔑する。それから可哀想だとも思う。そんな手段でしか、人を繋ぎ止められねえんだもんな。なあ、てめえは気の毒だよ。なんで、たかが高校生なのにそんな風になっちまったのかな・・・」
段々ゾロが哀れに思えてきた。
強がりではなく、それがサンジの本音だ。
屈辱もここまで極まると、却って開き直るせいかどうでもよくなってくる。

ゾロは咥えていたうどんを一息に啜ると、よく噛んで飲み込んだ。
そうしながら、少し眉を寄せて困ったような顔をしている。
「・・・先生、何言ってんの?」
ゾロの言葉にも、サンジは表情を変えず黙って見返すだけだ。
「俺は別に先生を脅そうとか、コレを誰かに見せようとか思っちゃいねえよ。つか誰が見せるか勿体ない」
「じゃあなんで、俺に見せた」
サンジは腕組みをして尊大に見据えた。
ゾロの小賢しい言い訳は、もう飽き飽きだ。

「だって先生が言ったじゃないか。あんなのちっともヨくなかったって」
そう言いながらリプレイを押す。
耳を覆いたくなるような喘ぎ声が聞こえてくるが、サンジは腕組みをしたまま表情を崩さない。
「ほら、ね。先生すんごい善がってるでしょ。だから、心底嫌ってことはないんだ」
ゾロは満足そうに頷いて、改めてサンジに向き直った。
「俺、先生が気に入ったんだ。先生だって、いずれ俺のこと気に入るはずだ」
「ふざけんな」
サンジは溜息をつきながら立ち上がった。
これ以上、話していても言葉が通じる気がしない。
不意にゾロの手が伸びて、サンジの手首を掴むとぶつかる様に圧し掛かって来た。
反射的に膝で鳩尾を蹴る。
ゾロは呻いたがそのまま倒れ込み、苦痛に歪んだ顔をサンジに近付ける。

「ほら、やっぱり・・・」
ゾロが口端を上げて笑った。
その手は、サンジの股間に当てられている。
「これ見て、興奮した?」
サンジはためらいなくゾロの頬を張った。
眼鏡が飛び、壁に当たって床に落ちる。
「痛―――、ひで・・・」
ゾロは薄ら笑いを浮べて頬に手をやると、サンジの上から退いて眼鏡を拾いに行く。

その隙に立ち上がり、サンジは部屋の外に出た。
ゾロは追ってはこなかった。







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