Alone -5-



どれほどショッキングな出来事があろうとも、狂わない体内時計がいっそ恨めしい。
定時に自然と目が覚めたサンジは、ゆっくりと身体を起こして、まだ残る鈍痛に顔を顰めた。
カーテンの向こうは清々しい朝の光に満ちている。
今日も、いい天気だ。

サンジは腫れぼったい瞼を冷やすために入念に顔を洗い、身支度を整えた。
広い台所に下りて、ほぼ無意識に冷蔵庫を開ける。
中には、ゾロのために買い置きされた食材がきちんと並んでいた。
これを並べていた時は、本当に幸福だったと他人事のように思い返す。
あんな風にワクワクした気持ちには、もう二度となれないんじゃないか。
そう考えるとなんとも言えない寂寥感が湧いて来て、堪らない気持ちになった。







当初の予定通り朝食を作り始める。
昔から、どんな不安定な精神状態の時でも、料理を始めると不思議と気持ちが落ち着いた。
だが今は、包丁を操る手を不意に止めねばならないほど、心が散漫としている。
―――このまま、この家にい続けることは到底できない
あいつの顔なんて、もう二度と見たくない。
汚らわしい。
腹立たしい。
厭わしい。

―――本当に?





「おはようございます」
背後から唐突に掛けられた声に、うっかり包丁を取り落としそうになった。
「早いですね、先生」
パジャマ代わりのスウェットを着て、ゾロがのっそりと立っていた。
短い髪に寝癖がついて、眼鏡の奥は眠そうな半眼だ。

「俺、朝は弱いんですけど、なんかいい匂いがするんで起きちまいました」
スウェットの裾から手を入れてボリボリ脇腹を掻きながら近付いて来る。
サンジは思わず菜箸を持った手で制した。
「起きたらまず、顔を洗って来い」
「あ、そうっすね」
ゾロは腹を掻きながら回れ右して台所から出て行った。
その後ろ姿は、寝起き特有の間抜け感が漂っているけれども決して悪びれた風はない。

覚えてないのか?
とぼけてんのか開き直ってんのかそれとも・・・
「あれは、夢だったのか?」
思わず口に出して呟いたが、今も残る鈍痛がそれをすべて否定している。







「いただきます」
パンと勢い良く手を合わせ、ゾロは嬉しそうにお椀を手に取った。
口を尖らせて湯気をふうふうと吹き飛ばし、そっと啜る。
「あっち・・・」
口を歪ませて笑い、顔を上げた。
「あっついけど、美味いです」
はじめてサンジの手料理を食べたときと、なんら変わりない邪気のない笑顔。
サンジは煙草を指に挟んだまま、ぎこちない笑顔を返した。

「これでもう、お前との約束を果たしたろ」
横を向いて煙草を吸えば、ゾロは箸を止める素振りも見せず、口だけで「え?」と問い返して来た。
「お前に朝飯食わせたし、これでもう俺はお役御免だな」
「なんでそうなるんですか」
ゾロは不服そうに口元を尖らせた。
「昨日契約を交わしたばかりだし、俺としてはずっと先生に居てもらいたいです。先生だって、こんな中途半端にバイトを辞める理由はないはずだ」
「なんでそうなるんだよ」
さすがに呆れて、サンジは声を荒げた。
ゾロの方が驚いたように目を瞠っている。

「お前、俺に何したかわかってんのか?」
自分の声に呷られたように、俄かに興奮が高まる。
「お前は昨夜・・・俺に、俺を―――」
レイプしたんだと、さすがに言えず口篭る。
「やっちゃったの、まずかったですか?」
さらっと返されて、思わず噎せた。
煙草の煙が目に沁みる。
「けほっ、ま・・・まずいに、決まってんだろっ」
「まあ確かに、先生ヴァージンだったしね」
「問題はそこじゃねえ!」
サンジはどん、とテーブルを叩いた。

「あのなゾロ、お前はまったく警戒すらしていなかった俺をいきなり縛って、つか自由を奪って、無理矢理やったんだぞ。なんの了解もなしに、俺の尊厳を踏み躙って傷付けたんだ」
「あ、太股大丈夫でしたか?」
「ああ、深くなかったから血も止まって、今は筋がついてる程度で・・・」
あっさり応えて、いやそうじゃないと首を振る。
「その傷もだが、ともかくお前は俺を傷付けたんだ。あんな屈辱、もう思い出したくも無い」
言っているうちに、昨夜のことがまざまざと脳裡に浮かび上がって来た。
あまりのショックで所々の記憶が飛んでいるが、とにかくとんでもない痴態だったことに間違いはない。

「もうお前の顔なんざ金輪際見たくないし、この家にも居たくない」
ゾロは瞠目したまま箸を止めた。
まじまじと、まるで珍しいものでも見るかのようにサンジの顔を凝視している。
「・・・なんだよ」
なんだか極まりが悪くてサンジの方から目を逸らす。
「先生、俺のこと嫌いになったの?」
「・・・おう」
「もう、顔も見たくない?」
「おう」
「なんで?」
なんでそこで、「なんで?」になるか!

サンジはうがあっと声にならぬ雄叫びを上げて立ち上がった。
「お前は俺に酷いことをしたんだよ!わかれよ、俺、泣いてただろーが!」
「ああ、あれはよかったなあ」
「思い出すなそこで!思い出に耽るなっ、消去しろ消去!」
ゾロはご飯茶碗を庇うようにして背を逸らした。
「食事中に興奮しないでくださいよ」
「誰がっ、つか誰のせいだ!」
「俺ですか?」
ゾロは澄ました顔でご飯を掻き込むと、味噌汁を飲み干してお代わりを要求した。

「そうは言いますが、先生だって気持ちよかったでしょ?」
「だ、な、が・・・っ」
興奮のあまり口がうまく回らない。
「初めてにしちゃ、めっちゃ感度良かったですもん。センセだってわかってるはずだ」
「馬鹿言うな、この強姦魔!」
反射的にテーブルの端を掴んで、引っくり返しそうになった。
そこで玄関の扉が開く音がする。




「おはようございます〜」
晴れやかな声を響かせながら入ってきたのはシゲさんだ。

「坊ちゃま、サンジ先生。おはようございます」
「おはよう」
にこやかに挨拶するゾロと、テーブルを掴んだ状態で固まったサンジ。

「どうしたの、こんなに朝早く」
「それがですね坊ちゃま、とうとう生まれたんですの」
シゲさんは満面の笑みを浮べて、拝むように両手を合わせた。
「今朝、明け方に。女の子ですのよ」
「それはおめでとう」
ソツなく祝いの言葉を述べるゾロの後で、サンジもようやく口を開いた。
「お、おめでとうございます」
何はともあれ、この世に時レディが増えるのはいいことだ。

「ありがとうございます。ほんとにもう、可愛いものですわねえ。私、女の子が欲しかったの」
とめどなく溢れる悦びを隠すように、シゲさんは両手で口を覆ってうふふと笑った。
「それでですね、サンジ先生には申し訳ないんですけど、私しばらくお暇をいただこうと思いまして」
「えっ?」
「ああ、それはいいですね」
サンジが何か言う前に、ゾロが口を挟んだ。
「ご覧のとおり、サンジ先生はとてもよくしてくださいます。安心していいですよ」
ね、と同意を求めるようにサンジを振り返った。
つられて首を振りかけて、ぎこちなく顔を強張らせるに留める。

「ああよかった。いえね、奥様には今朝メールで了解をいただいておりますけど、一言サンジ先生にお詫びしなければと思ってましたの」
「奥様に、メール?」
そう言えば、すっかりゾロの母親の存在を忘れていた。
「奥様は明け方にお戻りですから、4時くらいなら連絡がつきますのよ」
ああよかったと、大仰に胸を撫で下ろして、シゲさんは改めてサンジに向き直った。
「それではサンジ先生、くれぐれも坊ちゃまのこと、よろしくお願いいたします」
「は、はあ・・・」
サンジが二の句を次げずにいる間に、シゲさんはゾロにも頭を下げていそいそと部屋を出て行ってしまった。

玄関の扉が閉まる音がして、初めてサンジは我に返った。
「え、えええっ!シ、シゲさん来なくなるの?」
今更な叫びに、ゾロが隣でぷっと吹き出す。
「先生って、面白え〜」
その言い方があまりに暢気で、ほのぼのとし過ぎていて・・・
サンジは妥当なリアクションができず、ただ呆然と立ち尽くしていた。




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