Albireo 1





見上げればいつも、空には輝ける星ふたつ


「肝試しに、行ってみねえ?」
言い出しっぺは秋山だった。
林間学校は浜辺でキャンプの予定だったのに、突然の台風襲来で急遽民宿に分宿となった。
海で泳ぐことも出来ず、自然暇潰しにそんな提案が出てくる。
「荒れる夜の海ってめっちゃ怖いぞ。シャレになんねえよ。」
「怖気ずいてやんの。」
「そこの窓から下の浜辺まで降りれるんだよ。堤防があるから、波は大丈夫だろ。」
怖いもの知らずの悪ガキたちは首を伸ばして暗い海を見た。
轟々と風が逆巻く音がして、半数は逃げ越しになっている。
「でもすげー波って見たことねえよな。」
「なんか白くて細長い手が海から無数に突き出て、見に来たもんを引き込むってよ。」
「ありがちー・・・」
本当はみんな怖いくせに虚勢を張って、それじゃあ行くかと窓を開けた。
なんとなくノリで俺もついていく。

「ゾロはどうするよ。」
と杉本が振り返って見れば、まだ煌々と灯りがついているのに、ゾロは布団の中で既に爆睡していた。
「あ、ゾロは寝んの早いから。しかも一旦寝ると起こすのは無理だぞ。」
そう言って笑って、俺はそっと窓を閉めた。


足元の草が濡れて滑りやすくなっているから、皆おっかなびっくり坂を下りる。
「暗くてよく見えねえな。」
「でも目、慣れて来た。結構近くまで波来てんじゃねーの。」
「お、あそこ見ろよ。渦巻いてるぜ。」
定期的に押し寄せる波に浚われないように、それでも限界まで近付いて黒い海面を覗き込む。
白い手が無数に伸びてきたって不自然じゃない不気味な雰囲気だ。
「もう、行こうぜ。すげー涼しくなった。」
「…だな。」
来てはみたもののなんとなく薄ら寒ささえ覚えて、さあ戻ろうと海に背を向けた途端、多分何度目かの不定期な高波がいきなり背後から押し寄せた。

何がどうなったのかはまったくわからない。
ただ真っ黒になった視界と猛烈な圧迫感。
息苦しくて、もがこうにも手足さえ自由に動かせない。
なにもかも暗い渦の中で、俺は意識を失った。





ゆうらゆうらと身体が揺れている。
覚えのない感覚なのに、不思議と懐かしいような安心感があって心地良い。
でも俺って船酔いするんだよな。
軽く突き上げて落ちる衝動に、不思議と気分は悪くならなかった。
普通酔うよな、おかしーなあ。
どこか他人事みたいに思いながら、俺は目を開けたんだ。

すごく至近距離に、えらく長い鼻があった。
鼻?
うん、多分鼻だろうこれは。
どっちが元かと視線を左右に揺らしてだんだん太くなっていく方向を辿る。
その先のどんぐり眼と目があった。
「サンジ、気がついたか?」
人並みハズれた長い鼻が喋った。
もとい、長い鼻をした男が喋った。
本物かよ、その鼻。
「大丈夫か?どっか痛いのか?」
ぱちぱちと頬を叩く。そういえば、なんだか身体がだるい。
「おーい、みんな、サンジが目を覚ましたぞ!」
どこかに振り仰いで叫ぶ男の喉仏をぼうっと見ていたら、どやどや乱雑な足音が近付いてきた。
「大丈夫か、サンジ!」
えらく元気そうな男が視界に飛び込んでくる。
どうやら寝っ転がった体勢らしく、よく見えないから肘をついて身体を起こした。
なんだかあちこちの関節が軋んでるみたいで動きにくい。
「無理するなよ。ほんの数秒とは言え、呼吸が止まってたんだから。」
すごく真剣な声で長い鼻の男が喋る。
「…それ、本物?」
俺は掠れた声を出して、その鼻に触った。
思ったより柔らかい。
「サンジ?」
ぽかんと口を開けたまま、男はじっと俺を見つめる。
「どっから鼻の穴なんだ?」
「あほかーーーっ」
いきなり後頭部を張り倒された。

びっくりして顔を上げてはじめて、周りはみんなまったく知らない人ばかりだってことに改めて気付く。
見渡せば見覚えのない部屋。
なんだか暗くて部屋全体がぎしぎし軋んでる。
座ったベッドごと揺れていて、まるで船に乗ってるみたいだ。
「サンジ君。大丈夫?」
女の子の声に顔を上げた。
戸口にめちゃくちゃスタイルのいい女の子が立っている。
「うわv君可愛い〜、名前なんてえの?」
勢いで立ち上がろうとしてうまく足が動かずにけつまずく。
さっきの知らない子が俺の腕を支えてくれた。
「あ、さんきゅ。俺サンジっての、よろしくー。」
得意の全開の笑顔で笑えばナンパ成功率は結構高い。
なのに、その子はぽかんとした顔をして反応が薄かった。
でもすごく可愛いなあ。

「えっと…どうしちゃったのかしら。」
「おいサンジ、俺がわかるか?」
さっきの長鼻男が俺の肩に手をかける。
「いや男はいらねえ。お前なんか知らねえよ。」
少々邪険にそう言って、足元にうずくまる動物に気付いた。
なんだこれ。
ピンクの帽子なんか被って、でかい角。
鹿かなあ。
すぐ隣から赤いシャツを着た男が顔を近づけて覗き込んできた。
「なんかおかし〜なあ。サンジじゃねえみたいだぞ。」
「もしかして、記憶障害じゃないかしら。ほら、頭も打ったんじゃない?」
「外傷はなかったけど、一時的に酸素欠乏状態になったから脳に障害が起こったのかな。詳しく検査しないと…」
そう言いながら長い鼻の男が困ったように鹿を見下ろした。

「私の名前、わかるかしら。」
いつの間に側まで来たのか、すらりとした美女が俺の隣に立っていて、思わずぼうっと見蕩れてしまった。
「すげー・・・綺麗なお姉さん。お名前を是非、教えてください!」
両手を合わせてお願いする俺の背後で、盛大な溜息が漏れた。
「・・・記憶障害だな。」
「間違いないわね。」
「治るのかよ、これ。」


俺はお姉さんの隣にゆっくりと腰を下ろして、部屋の中を見回した。
「ここ、どこなんだ?なんで揺れてんの。なんか暗いし・・・」
額に手を当てて考えた。
確か俺は、海に向かったんだ。
「・・・あ、俺―――溺れたかも・・・みんなで肝試しに行って・・・」
「みんな?」
お姉さんの声が落ち着いていて気持ちいい。
「うん、クラスの奴ら。台風で民宿に缶詰になってたから、暇だったんだ。」
取り囲んだ人たちは、黙って俺の顔を注視している。
ひいふうみい、全部で4人か?
後1匹。
「なんか波に浚われた気がするんだよなー。もしかして俺溺れてて、助けられたのかな。」
それなら船の中ってのも合点が行く。
この人たちは、命の恩人かもしれない。

「クラス?民宿?」
「重症みたいね。」
白々とした空気が漂ってきて、俺は不安になった。
夢ならもう覚めて欲しいし、現実なら俺は誰も知らないところに一人で放り込まれたことになる。
でも、なんでこいつら俺の名前、知ってるんだろう。

「何やってんだ、お前ら。」
聞き慣れた声がして、弾けるように顔を上げた。
「ゾロ!」
叫ぶより早く、俺は駆け出していた。
正面から抱きついて首根っこにかじりつく。
「なんだよお前、一緒だったのか。もうっ」
なんか首周りが太くなってる気もするけど、ゾロの頬に額をくっ付けるようにして顔を見た。
なんだかこいつまで反応が薄い。
「お前、部屋で寝てた筈だよな。なんでいるんだ?」
少し身体を離してマジマジと顔を見た。
ひどく機嫌の悪そうな顔だ。
眉間に皺も寄ってるし。
それすっと人相悪くなるからやめろって、俺はいつも撫でてやってるのに。

「こえー顔すんな。知らない人が怯えっだろ。」
ゾロは漸く俺を見て…
だけどそれは睨みつけるような目で、怒った口調で唸るように言った。

「てめえ、誰だ。」
俺はゾロの首にかじりついたま、ただバカみたいに固まっていた。





「落ち着いたかしら。」
「・・・はい。」

『ナミさん』が入れてくれたコーヒーが部屋中にいい匂いを漂わせている。
目の前にちょんとカップを置かれて、俺は所在無く肩を竦めた。
まるで取り囲むように皆が席について凝視している。
その中で俺が知っている顔は一つしかない。

「それで、サンジ君は名前もサンジ君だけど、まだ17歳なのよね。」
子供に言い聞かせるみたいに優しい声音で問いかけるナミさんに、俺は素直に頷いた。
「で、日本って国に住んでるコーコーセイで、私達のことも知らなくて、でもゾロだけは友達で知ってるのよね。」
こくんと頷く俺の横で、ゾロは嫌そうに顔を顰めた。
――――なんでそんな顔するんだろう。

「こんな症例ってありかしら?」
「記憶障害やで部分的に欠落したりすり返られたりは有り得るんでしょうけど、これは捏造に近いわね。」
捏造ってなんだ!
本当のことだぞ。
「でもよお、まるで本当にそうだったみたいな口ぶりだぜ。このサンジ、やっぱ違うサンジなんじゃねえのか。」
異様に鼻の長い男が大げさな身振りで話している。
なんとなく、こいつっていい奴っぽいな。
「でもサンジはサンジだよ。サンジが意識を失ってチョッパーが診断した時はなんにも変わったところはなかった。」
で、チョッパーって誰?
この鹿?

「そうね。チョッパーがいればもう少し何か分かるんでしょうけど。」
そう言ってナミさんは部屋の隅にうずくまっている鹿…チョッパーをちらりと見た。
チョッパーは知らん顔して背を向けて眠っている。

俺的にはなんとなくわかってしまった。
この身体は、自分のものじゃないってこと。

掌をまじまじと見入る。
確かに俺の手だけれど見覚えのない細かい傷がいくつもついている。
さっき着替える時に服を脱いで驚いた。
肩やら胸やら色んなとこに傷がいっぱいついていた。
見えないけど背中にもでかい傷があるらしい。
なにより筋肉のつき方とかが全然違う。
ちょっと細いけど将来こうなりたいななんて思ってたとおりの綺麗な身体をしてた。
ここの俺は19歳だってことだし、あと2年もすれば俺もこんな身体になれるのかもしれない。

・・・けど―――

俺はそっと左眼に手をあてた。
ほんとは触れる事さえまだ怖い。
少し力を込めて、当然あるべき感触がそこになかった。
上半身裸で鏡に向かってあれこれ点検していた俺は、顔半分にかかる鬱陶しい前髪をかきあげて仰天した。
左眼が潰れている。
夢にしてもあまりにリアルで、震えながらなんで?と周りに聞きまくったのに誰も何故だかは知らなかった。
初めて会った時から、左眼は隠してたっていうんだ。
なんだか船の上で生活してるし海賊だって言ってるし、尋常じゃない世界らしいけど、それにしたって自分の片目が潰れてるなんてひどいショックだ。

「妄想にしても想像にしても、今サンジは普通の状態じゃないから皆であれこれ言うのはあんまり良くない。ともかく、様子を見よう。」

「まあいいじゃねえか。サンジはサンジだ。それより腹減った。」
どっか足らねえようなガキが唐突に口を開いた。
ルフィっつったっけか。
こいつが船長だって言うんだからなあ・・・

「サンジ、飯。」
俺に向かって言ってやがる。
飯って・・・?
「あ、俺コックだっつったっけ?」
声に出して呟いたら、俺を取り囲んだほぼ全員が目に見えて脱力している。
「大丈夫かよ〜」
「当分美味しいご飯にもありつけないみたいね。」
「無理しなくていいぞ。俺たち当番制でやるからな。」
そう言いながらも明らかに落胆の色が見えるから、さすがに俺も気が引けた。
飯ぐらいなら、作れないこともない。
「んじゃ、まあ作ってみっから。あくまで自己流だぞ。」
そう言って立ち上がると、ルフィってガキはぱっと表情を輝かせた。
「おし作れ!サンジの飯が一番美味いんだ!」
そんなにきっぱりはっきり断言されると悪い気はしねえ。
あんまり自信はないけどやれるだけやってみよう。
「あのよ、言っとくけど俺ほんとにただの学生で、自分で食う昼飯程度しか作ったことねえからな。」
期待されても困るからそう釘を刺しておいてキッチンに立った。


冷蔵庫を開けるとなにか下拵えしてあったような形跡がある。
よくわからないタネなんか作ってあっけど、どうすっかな。
餃子の皮でもあると使えそうなんだけどな。
仕方ねえオムレツにすっか。
卵やハム、ベーコンなんかは一緒なんだな。
野菜もなんとなくわかる。
けど見たことねえやつもあるな。
まあ葉っぱ類は同じだろう。

俺はもっかい振り向いて、ざっと全員を見た。
期待に満ちた眼差しで見つめられてて困るが、ともかく全員で7人か。
6人と1匹?
一度に7人分も作ったことねえぞ俺。

それでも、作り始めれば勝手に手が動いた。
ボールや調味料のある場所なんか考えなくてもわかる。
乾燥パスタも見つけたから、これも使っちまおう。
作り始めたらどんどん夢中になっていった。


「これで、どうだ?」
適当に大皿に盛り付けて俺は手を広げて見せた。
小皿やコップやらは調理している間に皆で準備してくれていて、一斉にいただきますを唱えている。
ナミさんがオムレツを一口、口に入れて微笑んだ。
「あら、美味しいじゃないv」
ああでもそれは
「中身はもう作って冷蔵庫ん中に入れてあったんだよ。」
そう言うと『ロビンちゃん』が小さく頷いてみせる。
「そうね。外側の卵はいつものコックさんのオムレツじゃないわね。」
「そうだな。なんかべちゃっとしててふんわりしてねえ。」
「パスタもなんか柔らけーぞ。」
口々に勝手なことを言い出したからなんか緒俺はなんだかムカついてきた。
だから最初から期待すんなっつっただろーが。
俺の顔つきに気付いたのか、鼻の長いのが慌ててフォローに入る。
「まあハジメテにしちゃ上等じゃねえか。直に勘を取り戻すよ。なんか、身体は覚えてるみてーだしな。」
やっぱこいつ、いい奴かも。
「そのうちひょっこり思い出すかもしれないしね。」
「長い航海だ。気長に行こうぜ。」
慰めてくれてるつもりだろうけど、俺はなんだかうんざりした。
第一記憶喪失になってる訳じゃない。
俺はついさっきまで高校生で、こっちの世界とは何の関係もない普通の生活してたんだって、何度説明してもわからないみたいだ。
なんとなしに仲間だって奴らの顔を順番に眺めていくと、えらく不機嫌な面をしたゾロで止まった。
・・・なんでこんなに怒ってるんだろう。
眉間に皺を寄せてむすっとしたまま黙ってがつがつ食べている。
一気に頬張って口膨らませてんのは同じなんだけどなあ。

「ゾロ、美味いか?」
問い掛けるとぎょっとしたように目だけでぎろりと上に上げた。
三白眼だからそんなことすっと余計迫力が増す。
「んな面すんなよ。女の子にもてねーぞ。」
そう言ったら、ぶーっとウソップが噴き出した。
他の皆ももう耐えられないとばかりに肩を小刻みに揺らして笑っている。
ゾロ一人よけい物騒な顔で意地になったみたいに食べている。
まったく、変な奴らだぜ。



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