Albireo 2




「サンジ君は?」
「男部屋で寝てる。さっき茶と一緒に睡眠薬飲んだことも気付かなかったみたいだな。」
「そう。」

ナミは眉を顰めて小さく溜息をつくと、部屋の隅に目をやった。
畳まれた毛布の上で小さなトナカイも寝息を立てている。
「チョッパーがあのままだってことは、ルフィ達の力も戻ってないのよね。」
「おう、伸びないぞ。」
ぐるりと腕を回してみせるルフィの隣でロビンも静かに頷いた。

グランドライン特有の突然の嵐に見舞われた直後、サンジが昏倒し、チョッパーはトナカイになってしまった。
海に落ちたルフィは自力で泳いで船に上がり、悪魔の実の能力を失ったことに気付いたのだ。
ロビンもまた、花を咲かせることなど出来ない。

「一体、どういうことなのかしら。」
「まあ、ルフィやロビンみたいに能力者が一斉に力を失ったってのは、なんか理由がありそうなんだけど、サンジがおかしくなったのはなんだろうなあ。」
ウソップも腕を組んで首を捻る。
「睡眠薬が茶に混じってることに気付かないなんて、ありゃあマジでサンジじゃないぜ。」
「料理の腕はもとより、根本的に違う性格よね。身体はコックさんみたいだけど、中身は別人だわ。」
「あーもう、なんだか厄介ねえ。」
ナミは苛々とペンでこめかみを掻いた。
広げた海図を指で指し示し、小さな島を辿る。

「ねえ、ロビンはこの海域でなにか怪異があるとか、聞いた話はないの?」
「ええ特に。」
「うちの船だけなのかしら。能力者の能力がなくなるなんて・・・」
「まあ自然になくなったんだから、放っときゃまた復活すっだろ。」
あくまで呑気にルフィが言う。
「まあね、でもくれぐれも肝に銘じておいてよ。今のあんたはただの人間なんだから。ゴムじゃないんだから。銃で撃たれたら死ぬし、殴られたら骨折するの。それだけは忘れないでよね。」
「おう、わかった!」
あっさりにぱっと笑って応えるから、ナミは益々あーあと頭を抱える。
「まあ、サンジくんは多分甲板で転んだ時に頭を打ったせいでしょうから、暫く放っておきましょうか。」
「こんな時にチョッパーがいてくれたらいいんだけどなあ。」
未練たらしくウソップは部屋の隅に目をやる。
ただのトナカイになったチョッパーは知らん顔して規則正しい呼吸とともに毛皮を揺らしているだけだ。

「・・・それにしても・・・」
ぷ、とナミが鼻で笑った。
「あのサンジ君。可愛いわよね。またゾロによく懐いて・・・」
その言葉にウソップも失笑した。
さっきから黙ったままのゾロにじろりと睨まれて、慌てて口元を隠す。

「あのコックさんは戦争のない国で生まれ育ったみたいね。」
ロビンも穏やかな微笑を湛えて、冷めたカップを手に取る。
「ちゃんと家があってお父さんもお母さんも、妹もいるお家なんですって。」
ナミは一瞬目を輝かせて、頬杖をついた。
「いいわよね。例え一時でも、夢でも妄想でも、サンジ君にそんな家族があるなんて素敵なことじゃない。ずっとこのままだと大変だけど、今の間だけ…夢の続きを見せてあげたいよね。」
それは多分、サンジだけじゃなく誰もがみんな心のどこかで願っている穏やかな世界。
「そうね、もうすぐその島に着くんでしょう。私達のことはなにか情報が入るかもしれないから、それに期待しましょう。コックさんはトナカイ君が元に戻ってからでもいいかも。」
「そうだな、暫くサンジはぱーのままで置いといてやろうぜ。あいつも色々ここんとこ働き詰めだったからな。」
やや楽観的ながら、放置の方向で話は終わった。

ゾロはやれやれと立ち上がり見張り台に向かう。
その後ろ姿が見えなくなってから、ナミはそうっと口を開いた。
「結局、一言も喋らなかったわね。」
「寝てっかと思うと人のこと睨んだりして、ありゃあ相当機嫌悪いぞ。」
「いてもいなくても一緒なんだから、さっさと見張りに行けばいいのに、ここにいたってことは気にはなってるみたいよねえ。」
「仕方ないわよ。暫くコックさんのお守りは彼に任せたらどうかしら。」
ロビンの提案に、その場にいたものはみんな笑って賛成した。


寝ぼけ眼で大きく伸びをしたら、危うく落っこちそうになった。
落ちる?
どこから?
辛うじてバランスを保ったがどっちが上だか下だかわからない。
目を開けても真っ暗闇で自分がどんな体勢でいるかもわからなかった。
固い網みたいなものに縋り付いて、なんとか片手を伸ばす。
ベッドサイドに携帯があるはずなのに、何も手に引っ掛からない。
いつもなら目覚まし時計の蛍光でかすかに明りがある筈なのに・・・
おかしいなと身体を起こして、派手に落っこちた。

落ちた。
どこから?

なんとなく目が覚める。
ここは――――
船の中だ。

夢からまだ覚めてないらしい。
昨日の話を思い出してみれば、ここはGM号と言う名の海賊船の中。
自分はコックをしているサンジで、仲間達はみんなガキみたいだけど海賊なんだ。

「・・・マジかよ〜」
ぼりぼりと頭を掻いて、サンジは床から立ち上がった。
ハンモックで寝るなんて始めての体験だ。
でもこの身体の方はそうでもないらしい。
思ったよりあちこち痛くない。
こんなものに寝慣れる生活してんだな。

それ以上寝ている気になれなくて、手探りでドアを探して部屋の外に出た。
辺りはまだ暗い。
甲板に出ると視界一面に水平線が広がっていた。

「すげー・・・」
思わずサンジは声に出して呟いた。
四方八方どこを見渡しても海しか見えない。
空と海の境目から少しずつ白い光が差してきていて、荘厳な雰囲気さえ感じられる。
「なんて、綺麗なんだ。」
夜明けだろうか。
これから朝日が昇ると一面光に包まれるんだろうか。
サンジの手が無意識に胸ポケット辺りを弄った。
改めてあれ?と思う。
・・・俺、何探してんだろう。
なんとなく、今何かしたかった気がする。

ふと甲板を見渡した。
昨日はパニクっていてよく見ていなかったけど、割と小さな船だ。
こんなんで海賊船なんて名乗れるんだろうか。
でも大砲らしきものはちゃんとついている。
畳んであるけど帆もあって、もしかしてあそこにドクロマークなんて描いてあるんだろうか。
ずっとマストを目で追って行くと、鉄片の天辺の見張り台みたいなところに緑頭が見えた。
ゾロだ。
「なにしてんだろ。」

この世界でも俺が唯一知ってるゾロ。
でもこっちのサンジが俺じゃないように、ゾロも俺の知ってるゾロじゃないんだろうな。
それはわかっちゃいるんだけど、どうしても頼るのはゾロになってしまう。
だって本当に、他の皆は知らない人ばかりだから。

サンジはおっかなびっくりマストを登ってみた。
一度手を掛けると、やはり体が覚えているらしく手や足を繰り出す感覚やタイミングが考えなくても合っている。
するすると自分でも驚くほど身軽に登って丸い手すりから中を覗き込んだ。

予想に反してゾロは起きていた。
いつも、暇さえあれば寝てばかりいる奴なのに。
「おはよう。」
ゾロはマストに凭れて座ったまま目だけぎょろりとこっちに向けた。
口をへの字に曲げて挨拶一つ返さない。
随分無口で無愛想だ。
まあ、あっちのゾロもそう愛想がある方じゃないけど、挨拶だけはしたぞ。
「こんなとこで、なにしてんだ?」
サンジは構うことなく手すりを乗り越えて隣に座った。
おっかないゾロには慣れている。
ゾロは少し腰を浮かして寄り添うように引っ付いてきたサンジから距離を取って身体をずらした。
わざとらしく顔を背けて「見張り」と呟く。
「へえ、見張りかあ。そうだよな。海賊だもんな。」
サンジはぼうっと前を見た。
さっきより空が明るくなって、波間がきらきら光っている。

「・・・って、見張りってもしかして、一晩中起きてたのか?徹夜?」
ゾロは何を今更といった顔でうんざりと眉を顰める。
「そっかー大変だなあ。ってもしかして俺もすんのかなあ。」
呟きながら、また無意識に手が胸元を探った。
「・・・さっきから、俺何探してんだろ。」
「煙草だろ。」
ゾロの声に、えっと振り向く。
「俺、煙草吸ってんの?」
「・・・とんでもねえヘビースモーカーだぞ。」
「へえ・・・」
なんだか実感はわかない。
ダチで吸ってる奴もいるけど、自分は吸う気にはなれなかった。

「煙草吸うのかあ。んでもって早起きなんだな。」
こんなに朝が早いのに、妙にすっきりした気分だ。
「いつも一番に起きるんだ。コックだからな。」
声に促されるようにゾロを見た。
ゾロは、相変わらず海ばかり見てサンジを見ない。
「そうか、コックだから朝飯作らねえといけねえのか。」
「そろそろうるせえ奴らが起きてくるぞ。もう降りろ。」
「うん、ありがと。」

礼を言って立ち上がろうとしたら、いきなり胸倉を掴まれて引き倒された。
ガンっと派手に後頭部をマストにぶつける。
一瞬視界に火花が散って何が起こったかわからなかった。

「いい加減にしろよ、てめえ・・・」
すぐ側で唸るようなゾロの声が聞こえた。
目を開けるより早く揺さぶられる。
「ふざけんのも大概にしろ!なにが『ありがと』だ、とっとと目え覚ませ!!」
言い終わるか終わらないかの内に、ゾロの拳が頬に入った。






「なにやってんの!ゾロ!!」
甲高い声が聞こえたかと思うと、締め上げていた手の力が緩んだ。
サンジは床に倒れ伏せて咳き込む。
奥歯が折れたんじゃないかと思うほど痛い。
手を当てればぬるりとした感触があった。
口からの出血じゃない、鼻血が出てる。

「大丈夫か、サンジ。」
ウソップが駆け上ってきてあーあと声を出した。
「ゾロ、無茶すんなよ。」
恐る恐る顔を上げれば、ゾロは唇を噛み締めてそっぽを向いている。
「サンジ、大丈夫か。降りれるか?」
ウソップに助けられて、サンジはなんとかマストを降りた。

「ったく、あの単細胞バカ。ろくなことしないんだから。」
ナミはサンジの頬に冷たいタオルを当ててくれた。
いつの間にか、起きて来ていたらしい。
「大丈夫。びっくりしただけだから・・・」
サンジがそう言って笑うと、二人とも複雑な表情になる。
「怒らねえんだな。」
「喧嘩にも、ならないのね。」
ナミは困ったように眉を顰めて、それでも微笑んで見せた。
「わかったわ、私も腹を括る。あなたはサンジ君じゃない、よくわかったから。」
ゾロにもよく言って聞かせないとね、と独り言みたいに呟く。
「あの、俺朝飯の支度っての、やってみる。」
サンジはそう言って立ち上がった。
「大丈夫なの?」
「うん。あ、でも味は保障できないよ。昨日みたいなものしか無理だ。」
そう言って笑って、サンジは足早にラウンジに入った。

まだ胸がどきどきしている。
びっくりした。
あんまり驚いて痛くて、何も考えることすらできなかった。
まさか、ゾロに――――
殴られるなんて・・・
サンジはゾロに殴られたことがショックで、ほとんど何も考えないで手を動かした。
朝食のメニューとか、在庫の置き場だとか頭で考えないで勝手に身体が動いている。
そんなことも気付かないくらい、サンジはショックを受けていた。
だってゾロは幼馴染で、幼稚園の頃からくっついて回った大の仲良しだったから。
元々無口で愛想のないゾロは、サンジ以外特別な友達もいなくて、一緒に行動することが多かった。
剣道に夢中で道場に通ってたりもしたけど、それ以外は殆どサンジの家に入り浸っていたと言っても過言ではない。
高校を先に決めたのもサンジだ。
ゾロは当然みたいに同じ高校を選択した。
授業中は寝てばかりだし、クラスメイトとバカな話ひとつしないゾロは、クラスでも結構浮いた存在だった。
でも幼馴染のサンジにだけは心を開いているのか、普通に接している。
いや、サンジのゾロへの接し方が普通なだけなのだろう。

ゾロは、その態度や目付きから相手に冷たい印象を与えて敬遠されることが多い。
強面で腕っ節も強いから、上級生でも絡んで来ない。
まるで腫れ物に触るかのような周囲の扱いの中で、サンジだけはダイレクトにゾロの胸元にまで飛び込んでくる。
天性の明るさや屈託のなさが、ゾロの中に普段隠れているモノをも引き出してしまうみたいに。
だから、サンジと一緒にいる時のゾロは、他の友人達からも受け入れられる。
なんとなく、サンジはそんなゾロが放って置けなくて、あれこれと世話を焼いてしまうのだ。
もう高校生なんだからいい加減女の子と付き合ったりもしたいんだけど、ゾロが気になって休日にデートの約束も取り付けることができない。
だって、俺がいないとゾロはだめだからなあ。
サンジはそう思っていた。

なので――――
そんなゾロに胸倉掴まれて揺さぶられてぶん殴られたのは、非常にショックだったのだ。


「まあ、いつもの朝食みたいね。」
ロビンが平坦な声で感想を述べた。
テーブルの上には豪勢な朝食がずらりと並んでいた。
サンジ自身、驚いて声も出ない。
「どうしよう、俺こんなに作っちゃって・・・」
今更ながら青褪めた。
一体何人分、自分は作ったんだろう。

「大丈夫よ、うちの船長底なしだからこれくらいすいっと食べちゃうって・・・あ。」
思いついてナミは口に手を当てた。
「そう言えば、今ゴムじゃないんだわ。ルフィ、食べ過ぎちゃダメよ!」
「あ?食べ過ぎって?」
「ナミ、いいんじゃないか。人生に一度くらい食べすぎを経験させてやっても。」
「・・・それもそうね。」

テーブルについて改めて、サンジは首を捻った。
「俺なんで7人分も作ったんだろう。鹿はこんなの食べねえよな。」
「鹿じゃないって、トナカイだって。ったくチョッパーが聞いたら気、悪くするぞ。」
悪くするも何も、当のトナカイは部屋の隅っこでウロウロしている。
「トナカイって何食べるんだ?トナカイフードとかってあるのかなあ。」
サンジがそう言ってうろうろするから、ウソップは隣のテーブルから皿を持って立った。
「多分、これがチョッパー用の皿だよ。味が殆どつけてないと思う。サンジが無意識に作ったんなら、そうだろう。」
そういえば、そうかもしれない。
その皿をトナカイの目の前においてやると、くんくん匂いを嗅いでから食べ始めた。
「へえ、トナカイってなんでも食うんだ。」
「いや、普段はそのトナカイはトナカイじゃないんだぞ。チョッパーって言う人型したトナカイなんだから。」
ウソップの説明はよくわからない。
なんでもありの世界って訳か?

「ともかくいただきましょう。話はそれからよ。」
皆で手を合わせていたら、のっそりとゾロが入ってきた。
瞬間、サンジの身体が強張る。
ゾロはむすっと口を結んだままサンジの背後を通り抜けて席に着いた。
目元に痣があるように見えるのは、なんでだろう。
隣でナミがこっそり耳打ちしてくれた。
「あたしがちゃんと殴っておいてあげたから。赦してやって。」
びっくりして、まじまじと見た。
ゾロって女の子に殴られるんだ。
「はい、じゃあ改めて、いただきます!」
「いただきまーす!!」

「ふええ・・・もう喰えねえ。なんでだろう。」
ルフィが心底情けなさそうな声を出して、テーブルに突っ伏した。
もう喰えないも何も、どうやったらそこまで喰えるんだって量を空にしてるのに。
「どうルフィ。感想を聞かせてv 今のあなたのお腹の状態は?」
「なんか・・・重くて、痛くて、苦しくて、はち切れそう・・・」
「ようく言ったわ!それが食べすぎってやつよ、ルフィ!!」
みんなやんやと喝采して喜んでいる。
事情の分からないサンジはルフィに同情した。
「ルフィ、食べ過ぎは身体に良くないぞ。もう残せ。残りモンは海に捨てたら魚の餌になるんだろう?」
生ゴミとか分別とか関係ないんだろうなあ。
そんなつもりで、サンジはそう言った。
突然、場の空気がぴきんと緊張する。

「・・・?」
サンジはなんとなく気まずくなって、首を巡らした。
「俺なんか、変なこと言った?」
突然ゾロが手を伸ばしてルフィの残った皿を掴むと、一気に口の中に掻き込んだ。
綺麗に平らげて咀嚼しながら席を立つ。
まるで怒っているように振り向きもしないで乱暴にドアを閉めて出て行ってしまった。

「な、なんでゾロが怒ってんだ?ってえかあれ、怒ってんだよな。」
戸惑うサンジにナミは手を振って笑って見せる。
「あああ、大丈夫よ。気にしないで。サンジ君のせいでも、多分誰のせいでもないわ。」
「でも・・・怒ってたぞ。なんでゾロはいつも怒ってるんだ?もしかして・・・」
サンジは今頃になってその可能性に気付いた。
「もしかして、ゾロって俺のこと嫌ってる?」
あっちではゾロと仲良しだったけど、こっちのゾロとはそうじゃないのかもしれない。
嫌われているというより、まるで憎まれてるみたいな目付きだった。

「そんなことないわよ。まあ、仲がいいとまでは言わないけど仲間だし・・・」
「喧嘩仲間だったな。しょっちゅう殴り合いとかしてたぜ。まあお前は蹴り合いだったけど。」
「蹴り合い?」
「コックさんは手が命だったから、戦いには足を使うのよ。」
ナミはナプキンで口元を拭くと、改めてサンジに向き直った。
「ちゃんと話して置いた方がいいかもしれないわね。少なくとも、今のことであなたがサンジ君じゃないって事はわかったから、ここのサンジ君のことを分かって貰っておいた方がいいと思うわ。」
そう言って、ナミはサンジの過去を語り始めた。





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