愛のある場所 -2-


どくりと心臓が大きく鳴ったが、表情には出なかった。
だがどうしても立ち去りがたく、足に根が張ったかのようにその場から動けない。
警視庁勤務になったとはいえ、ゾロは私用で過去のデータベースを覗き見するようなことはしなかった。
だからと言って、関心がないわけではない。
今目の前に、当時の証拠ファイルが存在している事実がゾロの胸を掻き乱す。

立ち去ろうとしないゾロを不審に思ったか、ブルックは箱の蓋を捲ってみせた。
「これなどはもう30年近く前の証拠品です。保管年月はとっくに過ぎているのですが、なかなか処分しきれずそのままになっておりました。私が退職するのを機に、思い切って廃棄しようと思いましてね」
「・・・そうですか」
ゾロの視線が釘付けになっているものに気付き、ブルックはああと声を上げた。
「これはお父上が関わった事件の証拠ファイルですよ、お気付きでしたか?」
「いいえ」
父の字など見覚えているわけがない。
だが、何かを感じてそのファイルに意識が向いたのだと、ブルックも勝手に推測してくれた。
「過去の事件を洗い直す目的以外で、職員と言えど無関係の者が閲覧することはあまり感心しませんが、これも何かの縁でしょう」
そう言ってから、おおっと驚きの声を上げた。
「なんという偶然、ここには今日の日付が入っていますね。そうですか、あの子が発見されたのは今日と同じ・・・3月2日のことでしたか・・・」
懐かしげな表情を浮べながら、ブルックはゾロにファイルを差し出してくれた。
一瞬ためらいながらも、それを受け取る。

「その表書きは、父上が書かれたものです。本来は生活安全課の私の管轄でしたが、彼が撮影した写真等を独自にまとめたものでした。一緒に預かって保管して置いたのです」
父親の字は毛筆といえどもどこかゾロの筆跡と似たところがあり、偶然目が行ったのも頷けるものがある。
ゾロはあくまで、かつての父親が残したファイルを見る目的で、パラパラとファイルを捲った。

すぐに色褪せた写真が目に飛び込んできて、ほんの少し眉間に皺が寄る。
「・・・これは―――」
「児童の監禁事件でした。お父上が偶然発見したから良かったものの、恐らくはこのまま闇に葬られていてもおかしくない状況でしたね」
「そうですか」



そこには、一人の少女が写っていた。
裾が膨らんだ青いワンピースに白のエプロンドレスを着た、痩せ細った少女。
長い金髪は綺麗に巻かれ肩の辺りで踊るように跳ねている。
頭を飾るリボンはやや大きすぎるほどで、まるで等身大の人形のような印象を与えた。
壁に凭れて膝を立て、自らの指を舐めるかのような仕種で片手を口元に持ってきている。
指の間から覗く舌と唇の角度で笑っているように見えるが、真正面から捉えた瞳は死んだ魚のようだ。
両脚を大きく開いて座っているが、盛り上がったスカートの中に幾重にもレースの生地が重なっていて突き出た足の根元は見えない。
媚態と表情があまりにアンバランスで、幼い子どもなのにどこか疲れ切った老人のような影があった。

「・・・随分と、幼く見えますね」
父親に発見された当時、サンジは推定で10歳前後と判断されたはずだ。
だが、写真の中の少女はそれよりももっと幼く小さかった。
発見時より以前に写された、コレクション用の写真だろうか。
「私が面会した時もそのぐらいでしたよ。長い年月、暗い部屋に閉じ込められていたため骨が脆く、足の筋肉も萎えていました。成長を抑えるために食事は必要最低限しか与えられていませんでしたし、ホルモン注射も施されていましたから」
ぐっと眦に力が入った。
だがそれはごく普通に、誰もが嫌悪感を滲ませる程度のノーマルな反応の粋に留まっている。
「酷い話でしょう。けれどこの子は運が良かった。手遅れになる前に発見されたのですから」
「・・・発見されないまま終わる、ということもありえるのですか」
ブルックは重々しく頷く。
「恐らくは、我々が知ることの何倍も何十倍も多くの悲劇は、人知れず闇に葬られて終わっていることでしょう。その痕跡を、私は幾つか目にしています。あくまで痕跡でしかないところが、哀しくももどかしいのですが・・・」
ブルックは長い指を伸ばして、ゾロの手からさり気なくファイルを抜き取った。
それ以上は見てはならないと、無言で諭しているようだ。

「ロロノア警部補は捜査一筋でしたから、こういった少年・・・と言うより、幼児絡みの犯罪にはあまり免疫がありませんでねえ。それはもう、激怒なんてもんじゃなかったですよ。こう、現場の空気がビリビリ震える感じで、場慣れしているはずの仲間ですらその迫力に竦み上がってました。まさしく悪鬼のごとき形相でね」
写真もろくに見ていない実親だが、なんとなく想像ができる気がする。
「それで私に聞くんですよ。ブルック、あの子はどうなった?どうなったってね、何度もね。でも、施設への手続きが済めば私達の管轄からも離れますし、その後のことを追跡することはできません。してはならないことです。事件は事件として、我々がすべきことは犯罪を暴き捕らえ、罰するべき場所へ送ることです。何らかの縁があったとは言え、被害者のその後の人生に関与することはなりません」
暗に、養子縁組の話をしているのだろうとゾロは悟った。
そしてブルックはおそらく、当時反対の立場だったのだ。
だがそのことをゾロが知っているとは思っていないだろうし、ゾロもその話題に触れるつもりはない。

「犯人はどうなったのですか?」
事件の成行きに興味が向くのは、刑事としては自然な流れだろう。
そう判断して、さり気なく口に出してみた。
ブルックはさも当然といわんばかりに、仰々しく頷いてみせる。
「監禁と児童虐待の罪に問われましたが、実刑は軽いものでした。弁護士を雇い罰金もすぐ払われましたので、早い段階で刑期を終えましたよ」
想定はしていたが、大きな落胆を覚えてゾロは腹の底に冷たい怒りを押し沈めた。
サンジは作られた人形ではない、どこかで生まれ、誰かの手を通じて売買された人間だ。
だが当時の法律では人身売買を罰する法律が施行しておらず、サンジの虐待に対して被害届を出す人間もまたいなかったのだろう。
親も戸籍もない子どもが闇でどのような扱いを受けていたとしても、その存在自体が認められなければ罪は明るみに出ない。

ゾロが押し留めた怒りや口惜しさは、刑事のみならず“普通の人間”であれば誰もが感じる義憤だ。
だからブルックも、そんなゾロに同調してそっと肩を叩いてくれる。
「長い間刑事をやってましたから、色んな人間に巡り会いました。どこでどう歯車を間違えてしまったのか、本来はこんな人間じゃなかっただろうにと、私から見ても残念な気持ちになる人もいれば、もはや救いようがない、人間の皮を被った悪魔としか思えないような者も確かに存在します。家庭環境、巡り合わせ、どこかで何かのタイミングが違っていれば、或いは過去に遡ってやり直すことができたなら、この悲劇は未然に防げたんじゃないかって、せんもないことを考えたりしてね」
ブルックはファイルを箱に仕舞うと、ぱたりと蓋を閉めた。
ブラインドから差し込む夕陽の中で、舞い上がった埃がキラキラと光を弾く。
「でもね、こうした性的な嗜好に関しては、犯罪者に対しても心のどこかで同情してしまう気持ちがあるんですよ。先天的なものと後天的なものがあるでしょうが、性的に興奮する対象が限られてしまうのは、強ち本人のせいばかりではない」
ぎろりと目線を上げたゾロに、ブルックは慌てて手を振って見せた。
「いえ、勿論いま私が申し上げているのは、法律を遵守する警察官としてはけしからん話です。ですが、それはこれ。ここだけの話にしておいてくださいヨホホ」
「・・・勿論です」
ゾロとて、性嗜好での差別的な見解はできれば控えたいと思っている。
何せ自分自身、世間で言うところのバイセクシャルに分類される性癖があると見做されても、仕方がない事実がある。

「例えば極端な話ですが明日から法律が変わって、男は男・女は女としか恋愛してはならないと決まったとしましょう。・・・勿論例えですからね。そう言われて、すぐに自分の恋愛対象が同性になりますか?」
「・・・場合によりますが」
正直に答えたら、ブルックはかくんと肩を下げた。
「見た目よりリベラルな方だったのですね。まあいいでしょう、普通はそうはいかないんですよ」
「ええ、勿論です」
ゾロはコホンと咳払いをして頷いた。
「もしも、貴方が完璧なヘテロなのにそのような法律が制定された場合、どうされますか。好きな女性のことは諦めますか?」
「感情と法律と折り合いがつかない場合は、せめて法律に触れない程度に気をつけながらも感情を優先させるでしょう」
「そうですね、それが賢明です。ちなみに私だったら、法律なんてクソ食らえと申しましょう」
それもそうだろうとゾロは納得した。
ブルックは、サンジとタイを張るほどの女好きだ。
「世を憚って生きる同性愛者や、所謂異常性愛者は知られているよりもずっと多く存在していると思います。けれど大抵の人は世間や法律との折り合いをつけて生きている。または、その世界のビジネスで救われている人も随分といることでしょう。そのことを異常だから、変態だからと糾弾して迫害し、撲滅してしまいたいとは私は思いません。愛の形がいろいろあるように、人によって愛の表現もまた違います。そのことは、何人であってもお互いに理解し時には見てみぬふりをすることも必要であると思っています。・・・個人的にですが」
「その口ぶりでは、この子を監禁した犯人にもまた同情する余地はあると、そのように聞こえます」
ゾロは不愉快さを顕わにして口を挟んだ。
自分だって同性であるサンジを愛しているのだから、異常性欲者の全てを糾弾できる資格はないと自覚している。
だが犯罪は犯罪だ。
少なくとも、この変態のせいでサンジの人生が大きく狂わされたことは間違いない。
たとえ世間が、ゾロとこの犯人とを同じ穴の狢だと評しようとも。

「その通り、生まれつき幼児性愛の資質を持っていたこの犯人は哀れだと私は思いました」
ゾロのきつい視線に怯むことなく、ブルックは言い切った。
「成人した女性を愛することができず、恋人ができたこともデートをしたこともない男でした。無論、40歳を過ぎていましたが結婚もせず、適当に働きながらも親の遺産を食い潰して生きているだけの日々」
 確かに同情はできるだろう、だが、彼が犯した犯罪はとうてい許されるようなことではない。
「彼が想像の中だけで、あるいは虚構の映像の中だけでその欲望を処理できていたとしたら、見逃されてもいいと思いました。人の心の中は自由なのです。どれほど残虐な場面が繰り返されていようと、陰湿で淫猥な想像が巡らされていようと心の中だけなら自由なのです。決して、決してそれを実行に移してはならない」
いつもは飄々とした風情のブルックが、ぐっと拳を握り締めた。
「けれど彼は禁忌を犯した。金に飽かして生きた子どもを買い受け、自分の思う通りに飾り立て、従順に従わせる、生きた人形に仕立ててしまった。白い肌に金髪碧眼。本物の白人の子どもを飼うことは、彼にとって最高のステータスだったのです」
ブルックに初めて、激しい怒りの色が浮き出てみえた。
「そうして彼は、自分の人形を誇らしげに仲間達に自慢していました。本物の生き人形を、しかも金髪碧眼の子どもを飼うなんてそう簡単にできることではないと。何枚もの写真を撮り映像を撮り、見せびらかして悦に入っていた。・・・最低な男です」
吐き捨てるようにそう言い、語気を荒めた。
「奴にとって、彼は高いカネで買った玩具でしかなかった。少しでも長く楽しもうとメンテナンスに気に使い、どんな命令にも従順にしかも悦びをもって応える奴隷を作り上げてしまった。罪の意識など欠片もない、下衆のような男でしたよ」
ブルックは感情を顕わにした自分を羞じるように、少し身を折ってから照れたように笑みを漏らす。
「失礼、私としたことがつい興奮してしまって・・・」
「いいえ」
ゾロは無理もないと、表面的な同情を含んだ表情で首を振った。
内心、腸は煮えくり返りそうだったが。

「再犯の恐れもありましたので、当時の私はできる限りの対応をしました。彼が買ったであろう組織のルートを徹底的に追及し、いわゆる仲間内もバンバン摘発しましてね。相当目立つやり方で立ち回りましたので、当時は上から大目玉を食らいましたヨホホ〜」
なんとなく、その場に自分の父親もいたような気がするが、ゾロは黙って聞いていた。
「お陰で彼は、出所後その世界で裏切り者と誹られ爪弾きに遭い、職も世間体も失った上、持て余した欲望の捌け口を求めてさ迷い歩くようになりました。挙句、マンションのベランダ越しに隣室へ侵入しようと試みましてね。警備員に見咎められ、逃げる途中で8階から落ちて死にました」
「・・・」
ゾロは絶句し、ブルックの丸眼鏡を見詰めるしかできなかった。

サンジを貶めた男は、すでに死んでいた。
自業自得としか言えない、惨めな最期で―――

「だからこそ、やはり私は哀れだと思ったのです」
深い溜め息と共に吐き出された言葉の意味は、先ほどとは違って聞こえた。
ゾロは遣り切れない想いを胸に、再度ブルックに対して頭を下げる。
「部外者の俺に、事の顛末を話して聞かせてくださってありがとうございました」
そんなゾロの旋毛をじっと見下ろしながら、ブルックは少し逡巡してから口を開いた。
「部外者・・・ではないのでは、ないですか?」
ゾロは感情を滲ませない澄んだ眼差しのまま、視線を上げてブルックを見詰め返す。

「貴方は先ほどの写真の少年をご存知だ。そうでしょう」
ここまできっぱりと言い切られると、驚くというより観念する気持ちの方が強くなる。
ゾロは否定せず、少し微笑んで見せた。
「なぜ、わかりました?」
「貴方がこれを見て言った言葉ですよ」
ブルックは再び蓋を開けて、ファイルからあの写真を抜き取った。
ゾロにとって、あまり何度も目にしたくはない忌まわしい写真だ。

「貴方はこれを見て、『随分幼く見えますね』と言ったのです」
ゾロは素直に頷いた。
確かにそう言ったが、何か不自然だっただろうか。
「随分幼い子どもですね、と言ったなら私は引っ掛からなかったでしょう。けれど貴方は幼く見えますねと仰った。本当は見た目ほど幼い年齢でないことを、あらかじめ知っていたかのように」
つい、立場を忘れて舌打ちしそうになる。
「そこでおや?と思った私は、話の中でこの子どもを指して『彼』と言ってみました。そこでも貴方の反応はなかった」
ブルックは写真をゾロの目の高さまで摘まみ上げた。
「刑事たるもの、些少なことでも過ちやいい間違いは聞き咎めなければなりません。そこからどんなヒントが得られるかわからないからです。けれど貴方はそうしなかった。貴方ほどの人が。ですからダメ出しで先ほども、『写真の少年を』と言ってみました。もうお気付きでしょう、写真を見る限りこの子どもは誰が見ても少女でしかない。この子が本当は少年だったと、貴方は知っていたから聞き逃してしまったのです」

ゾロは軽く両手を掲げて見せた。
「参りました、さすがです」





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