愛のある場所 -1-


彼はさながら春の風のようだと、誰かが揶揄した。



彼が姿を現すとつい意識がそちらに向いてしまい、自然と動作や会話が疎かになる。
不意に訪れた沈黙や緊張感は他人にも伝わるのか、窓口で涙ながらに切々と訴えていた老婆や、不貞腐れ机の上に足を投げ出さんばかりに激昂していたチンピラまでもが、その雰囲気に呑まれて口を噤み顔を上げる。
まるでモーゼの十戒の如く、くっきりと人垣の割れた中通りを彼は涼しい顔をして通り抜け、用事のある課で足を止めた。

「ブルック警部は不在ですか?」
頬を染めたまま身構えていた女子職員が、中途半端に腰を浮かしながらぺこぺこと頭を下げた。
「はい、あの・・・ただ今お呼び致しますので」
慌てた弾みで受話器を取り落としそうになるのを、軽く手を掲げて押し留める。
「署内におられるのなら私が出向きます。ご存知ですか?」
「はいあの、第2倉庫です。書類の整理をされると言っておりましたので」
「ありがとう」
きびすを返して立ち去る男の背中に、女子職員は慌てて声を掛けた。
「ロロノア警部、第2倉庫は反対側です」
ぴたりと足を止め、ゾロは回れ右をした。
「ありがとう」
そのまま迷いなく真っ直ぐ歩み去る姿を見送ってから、女子職員はほうと熱い溜め息を一つついて、椅子に腰を下ろした。
それに倣うように、誰もが動きを再開させる。


いつの間にかざわめきと喧騒が戻ってきた1階フロアで、ハンカチを目元に押し当てたまま泣き声を再開させようとした老婆が、担当者に顔を近付けた。
「ところでさっきのお兄ちゃん、誰だったのさ。いい男だねえ」
「若いけど偉いさんだよ。1階まで降りてくることなんてあんまりないから、キヨさんが知らないのも無理ないね」
「あれもお巡りさん?偉いさんじゃあ、あんたと担当変わってもらえそうにないわねえ」
残念ねえと目を眇めた後、キヨさんは大粒の涙を流しながら担当者に窮状を訴え始めた。





ゾロはドアの前に立ち、「第2倉庫」のプレートを確認した。
ノックをすべきかと一瞬逡巡したが、プライベートルームでもないのだから不要だろうとそのままノブを回す。
ひやりと冷たい、倉庫独特の埃っぽい空気が頬を撫でた。
「失礼、ブルック警部はおいでですか」
閑散とした倉庫の中に思いの外大きく声が響いて、スチール棚の向こうからヨホホ〜と独特の声が返ってきた。
「これはロロノア警部、御用ですか」
顔を覗かせたのは、ガイコツの如く痩せ細った初老の男だ。
もさもさと勢いよく生い茂るアフロ頭が目立ちすぎて全体的にバランスが悪く、ひょうきんな印象を与えている。
「お忙しいところすみません、20年前のことでお尋ねしたいことがありまして」
「呼んでくださればすぐ駆けつけましたものを。どうせ定年前の身辺整理ばかりですから、閑なものですヨホホ〜」
よっこらしょと段ボール箱を横に退けて、ブルックは細長い体躯を覗かせた。
「課に戻りますか」
「いや、ここでいいです。すぐに終わります」
生真面目な表情でメモを取るゾロを、ブルックは長身を屈めるようにして黒眼鏡越しに見下ろした。



現役で国家T種に合格したゾロは、順当に警視庁のキャリアとなった。
現場一筋の父親とは違いほぼデスクワークのみの勤務形態だが、独自にアンテナを立てて、管轄内の情報はほぼ把握できるように努力している。
キャリア組は煙たがられ嫌われるのが常ではあるが、ゾロの実直な勤務態度と冷静な対応、そして若くして発揮された適確な判断力に、現場の無骨な刑事達にも一目置いている。
何より、殉職したゾロの父親を知っている人間がまだ多く存在するため、最初から仲間として受け入れられていた空気もあった。
親の七光りとはこういうことかと、奉職してすぐに、身をもってそのありがたさを感じたゾロだ。
ブルックも、ゾロの父親とは知己の仲だった。

「ロロノア警部・・・いや、来月にはロロノア警視ですね、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
嫌味でも冷やかしでもない祝福の言葉に、素直に礼を返す。
「警部は、嘱託の依頼はお受けにならなかったのですか?」
「はい、待ちに待ったセカンドライフですから。これからは好きな音楽を楽しみながら余生を送りますヨホホ〜」
「残念です」
人当たりがよくとぼけた雰囲気を持つブルックは、仕事仲間だけでなく被害者又は加害者からも絶大の信頼を得る、非常に優秀な警察官だ。
特に“泣きのブルック”と異名をとる人情的な取調べには定評があり、署の名物刑事でもあった。

「老兵は死なず、ただ消え去るのみです。ロロノア警部のような方がトップにいてくだされば、署の未来も安泰でしょう」
お世辞ではなく心底そう思っての言葉だから、ゾロも別にこそばゆい心地はしない。
見え透いた愛想や度を越した皮肉などには正直辟易することもあるが、ブルックの前では素の自分で
いられてゾロ自身気楽だった。
個人的にブルックのことを好ましく思っているからこそ、勇退を残念に思う。

「最後にロロノア警部補の息子さんとご一緒できて幸せでした。あ、これお父上ことですヨホホ〜」
「俺のことは、ゾロでいいです」
ブルックはいきなり右と左を向いて、そっとゾロに顔を近付けた。
「誰も見てませんから、今だけそうしましょうか。私はブルックで結構です」
そのお茶目な仕種に、思わずゾロの口元が緩む。
だが、黒眼鏡の奥の真剣な眼差しに気付いて、表情を引き締めた。
「貴方はつくづく不思議な方です。まだお若いのに出世が早いのは頭が良くて試験に受かったからですが、一体その性格はどこで築かれたものなのでしょうか」
「性格・・・ですか」
どこまでも生真面目に受け答えするゾロに、ブルックは肩を揺すってヨホホ〜と笑った。
「実は、貴方をして春の風のようだと形容したのはこの私なのです!」
薄い胸を逸らしやや誇らしげに言い放つブルックだが、ゾロの反応は薄い。
そもそも、自分がそう形容されていたことなどゾロにとっては与り知らぬことだ。

「貴方が姿を現すだけで、その場の空気が変わるのです。誰もが意識しないでおこうとしても、つい貴方の一挙手一投足を注視してしまう。恐らく、目的の場所を目指し歩き去るだけの貴方の姿を、何人もの同僚は固唾を飲んで見守っていることでしょう。貴方の姿が消えるまで。それは憧憬や嫉妬、恋慕というものだけではない、意識せずにはいられない貴方の存在そのものに起因するものです」
ゾロはブルックの言わんとするところがわからず、ただ黙って光る丸眼鏡を見つめた。
「若くして出世街道を驀進するキャリアだから注目されるのは当然だと、貴方なら理解しているでしょう。けれど真実はそうではありません。あなた以外にも優秀なキャリアは幾らでもいます。もっと直向に、昇進だけを目指して先へ先へと急ぐ輩もたくさんいます。けれど貴方は違う。若くして殉職したロロノア警部補の息子であるというだけでなく、あなた自身の性格と申しますかその存在そのものが、人目を惹かずにはいられない魅力的なものであると、私は解釈しています」
「・・・それで、春の風と?」
ややロマンティック過ぎる形容で、ゾロはこればかりはちょっと背中がむず痒くなった。
「ええ、普段は心地よく柔らかな風ですが、時に冷たく時に激しく、嵐のような激しさを秘めたとらえどころのない春の風」
ブルックは唄うようにそう言うと、長い人差し指を掲げて見せた。

「お父上は、西署の野獣と呼ばれておりました。ご存知でしたか?」
「は?」
ゾロは今度こそ、目を見開いてぽかんと口を開いた。
「それは、知りませんでした。俺は父のことは母から何も聞いておりませんので」
「おやそうですか。残念です。野獣の名に相応しい逸話がたくさんあるのに」
また機会がありましたらお聞かせいたししょうと、恭しく一人頷き意味ありげに首を傾げる。
「さしずめ貴方は、野獣というより魔獣でしょう」
「・・・は?」
またしても、ゾロはぱちくりと目を瞬かせる。
「冷静沈着な貴方の中に、私ははっきりと獣の姿を見ることができます。父上の姿を被らせている訳ではありませんが、貴方の中にも確かにそれは息づいている。しかし知性と理性、そして確立された秩序と常識的観念がそれらを覆い隠しバランスよく保たれています。私から見て、貴方はまさに理想の刑事ですよ」
「・・・ありがとうございます」
多分褒められたのだろうと解釈して、ゾロは素直に礼を言った。

「貴方のように猛々しさを秘めた刑事というのは、結構おります。ただ彼らに共通して言えることは、過去なんらかのやんちゃ経験があるということですかな」
ブルックは段ボール箱の中を改めながら、一つ一つに「廃棄」の文字を書き加え、積み上げる作業を始めた。
必要なことを聞き出したゾロはこれで辞去しようとしたが、ブルックの話はまだ終わってないらしくまあまあと引き止められる。
「大体、昔暴走族のリーダーだったとか、繁華街で暴れ捲くったとか、少年課の世話になったこともあるやんちゃ坊主が刑事になって帰ってきたってのは、結構あることなんですよ。だから彼らは、今保護すべき少年たちと時に対等に、同じ目線で語り合うことができる。それは素晴らしいことだと思います」
積み上げすぎてぐらりと傾いたダンボールを、ゾロが綺麗に積みなおす。
「あ、ありがとうございます。えーとなんでしたっけ・・・そうそう、だから貴方にはそれがないのです」
唐突に話を振られて、ゾロはダンボールを抑えたまま首だけ巡らした。
「若い頃不良だった、家庭環境に問題があった、荒れた時期があった・・・などなど。けれど貴方にはそれがない。お父上は早くに亡くなりましたが、あの美しいお母上は再婚されて、今では弟さんたちもいらっしゃると聞きます」
「ええ、弟も妹もいます」
ルフィの下に生まれたオルビアも、もう小学生だ。
「普通の家庭ですくすくと成長し、高校・大学と問題なく進学、国家T種を現役で合格して警察学校へ・・・実に理想的、エリートの鏡のような一点の曇りもない経歴。幸せな家庭環境、生まれついて恵まれた頭脳。非行歴も補導歴もない品行方正な学生生活。そんな貴方なのに、ただのお坊ちゃんではない。なぜか貴方の中には、常に闇がある」
ゾロは眉一つ動かさず、能面のような表情でブルックを見返していた。
「若くして世の不条理を知ってしまったかのような諦念が、貴方の中にすでにある、そんな気がします。夢や希望に胸を膨らませ、天真爛漫・・・とまでは言いませんが、ある程度の楽観的なものの見方でさえ、貴方は多分しようと思ってもできないのではないですか?」
「そうかも、しれませんね」
ブルックの言いたいことはなんとなくわかった。
だがそれは、自分で変えようとしてもどうにもできない事柄でもある。
急に能天気になってみろと言われても、性格上無理なように。

「勿論、それが悪いと言っているわけではありません。貴方のそのやや特殊な性格は、時として生き辛かったのではないかと思ったのです。最も身近な人が貴方を理解してくれていたら、きっとそうではなかったでしょうが」
その通りだと、ゾロは思った。
そして、同じ職場になったことなどないのにすべてを見通しているかのようなブルックの鋭い観察眼に、改めて感嘆する。
「老いぼれの戯言と聞き流していただければ幸いですが、貴方はきっと、年を経るごとに生き易くなるでしょう。類稀なる強い精神力と達観したものの見方で培われた精神年齢に、やっと肉体が追いつく。そんな感じでしょうか」
ブルックは言葉に力を込めて、真っ直ぐにゾロを見つめた。
「誰しもが、貴方のようにはなれない。しかし、貴方にしか成しえないことはたくさんあります。これからも、この先も。貴方が貴方でいることに誇りを持ってください。貴方の存在自体が素晴らしいと私は思います」
面映くさえ感じる手放しの賞賛を、ゾロは重く受け止めた。
ブルックの誠実さがひしひしと伝わってくる。
先輩からの忠告というより、暖かく見守り育んでくれた親のような眼差しがここにもまたあったことを、ありがたいと素直に思えた。

「僭越ながら、去りゆく私からの餞とさせてください。貴方とは、もっと長く一緒に働きたかったと、定年を惜しむ気持ちが生まれたことも付け加えておきましょう」
偉そうですねえといきなり口調を砕けさせて、ブルックは照れ隠しのようにヨホホ〜と甲高い声で笑った。
ゾロは黙って一礼し、きびすを返しかける。




ふとその動きが止まり、ゾロは身体を傾けたまま一点を凝視した。
ブルックが整理しようと開けた箱の一番上に、大胆な墨字で書かれた「川下屋敷」の文字を見つけたからだ。



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