R先生の些細な道楽3 -1-







例年より早い春の訪れを感じて、サンジは庭を掃く箒の手を止めて空を見上げた。
頬を撫でる風は柔らかく、陽射しもぽかぽかと暖かい。
―――もうすぐ春がやってくる
自然に心浮き立つ頃だけれど、サンジには辛い季節だ。
もうすぐ、たった一人の肉親を失って1年が経つ。











サンジの家が火事になり、祖父が死亡、サンジ自身も大怪我を負ったのは去年の春のことだった。
原因は放火。
犯人はすぐに捕まったが責任能力はないと判断され、火災保険を受け取っただけだった。
高校卒業を目前に控えて突然天涯孤独、帰る家もなくなったサンジは、3ヶ月の入院を経て退院した
その足でこの家にやって来た。
着の身着のまま押し掛け同然の就職だったが、屋敷の主であるロロノア先生は快く雇ってくれて、今日まで
なんとか暮らして来ている。
―――平穏に、とは言えないけどな
とにかく毎日が目まぐるしくて、日々を送るのが精一杯で、気が着けばここに着てから一歩も屋敷の外に
出ていないことに改めて気が付いた。
普通に考えれば物凄く不自然で不便なことのようだが、実際サンジにしたらあっという間に時間が過ぎて
しまっていたので、そんなものかとも納得できる。
食材は毎週宅配で届くし、生活用品も近所のスーパーが定期的に届けてくれる。
衣類は先生がお仕着せのユニフォームや下着やらをやたらと通販で買い求めるから余るほどあるし、
サンジも別に休暇を取ってまで街に出かけたいと思ったことがなかった。
この人里離れた一軒家で、宅配業者か編集者しか出入りしないような隔絶した世界で、先生と二人巣に
篭もるように慎ましく暮らしていくのは存外に気持ちがいい。
この生温さに甘えて、敢えて外に目を向けなかったのかもしれない。

退院したら月命日ごとに墓参りしようと決めていたのに、そのことすらすっかり忘れていた。
あまりに薄情だと自分でも思う。
無意識にでも、祖父の死から、失くしたモノ達から逃げていたのかもしれない。
けれど、これを区切りにちゃんと向き合う時期が来たのだ、とサンジは唐突に自覚した

もうすぐ、祖父の命日だ。
休暇を取って、墓参りに行こう。
何故か胸に固く決意をして、サンジは箒の柄を握り直した。





サンジが休暇を取るのは珍しいことではない。
週に2日は確実に仕事を休んで寝込んでいるし、毎日仕事をする分には一生懸命で熱中するが、止むに
止まれぬ事情で自堕落に過ごす時もある。
身体の調子が悪いのではなく、先生の悪戯が過ぎて足腰が立たなくなる程度のことだが。
そうでなくとも、住み込みで家政婦仕事など公私の区別がつき難くて勤務時間の判定は難しいが、サンジ自身
この暮らしは嫌ではなかった。
寧ろ快適でさえある。
だからこそ、今の今までこの一見異常とも言える日常に埋没して生活して来られたのだ。
―――でも、今日こそはちゃんと言おう
まだ眠っている先生を起こしに言って、その時にちゃんと。














「来週の月曜日ですか?勿論構いませんよ」
先生は寝乱れた髪を軽く撫で付けると、眼鏡を掛けて微笑んだ。
サンジはぜいぜいと息をつきながらなんとか身体を起こして、乱れたスカートの裾を直す。
予測していたことではあったが、先生を起こしに行ったはずがそのまま布団に引き摺り込まれてあれこれと
不埒なことをいたされてしまった。
赤い顔をぐいと袖で拭いて、サンジは正座して先生に向き直る。
「お休みを、いただいても・・・はあ・・・よろしい、ですか?」
まだ息が荒い。
「ええ、しかも御祖父様の命日とあっては、軽んじてはなりません。本来は法事をするべきなのではないのですか?」
「いえ、そこまでは。俺には親戚とか、ありませんので・・・」
サンジはとんでもないと首を振った。
「ただ、ちゃんと墓参りはしたいと思ったんです。今更だけど俺一度も行ってなかったなって気がついて・・・」
「本当に、私もうっかりしていました。不義理をして申し訳ない」
いえいえと畏まって頭を下げる。
「それでは、月曜日お休みをいただきます」
「はい。それでは私もお供します」
一拍置いてサンジは「はい?」と頭を上げた。
「お、とも?」
「はい、一緒にお参りさせてください」
先生はやけに上機嫌で、懐で腕を組んだままにこにことしている。
「先生も、一緒に来られる・・・んですか?」
「ええ、私もきちんとご挨拶しておきたいと思っていたのですよ」
ご挨拶って・・・もうこの世にはいないんですが。
と言うか、うっかり顔出すと呪われそうなんですが・・・
サンジは蒼褪めて口を開いたり閉じたりした。

あの厳格だった祖父がもし今のサンジの状態を知ったなら、激怒くらいでは済まないだろう。
生きていたなら勘当・縁切り、いやその前に先生の命が危うい。
死んでしまった今となっては却って怨霊となって出てくるか、ポルターガイスト現象でも起こりそうで、それは
それで物凄く怖い。
「だ、大丈夫でしょうか」
サンジは湧き上がった懸念をそのまま先生に伝えたが、一笑に伏された。
「大丈夫です、その時は受けて立ちますよ」
豪快に笑い飛ばし、そう言い切ってくれた先生はやっぱり男前で、サンジは黙ってまた頭を下げた。













来週の月曜日は久しぶりに街に出る。
と言うよりこの家から外に出る。
それが本当に久しぶりなことに、サンジは改めて驚き呆れた。
よくもまあ、今までこんなところで大人しく暮らしていたものだ。
世俗から離れた浮世暮らし・・・とはとても言えない、出入りが激しく刺激ばかりがやたらと強い、目まぐるしい
毎日だったからこそ、あっという間に時が過ぎてしまったのだろう。
けれど来週は、この家から出る。
しかも、先生と一緒に。
先生と出かけるなんて初めてだ。

そもそも家から出るのも初めてなのだが、出版社との付き合いとかパーティだとか接待だとかで、先生が家を
留守にすることはよくあった。
その間ちゃんと留守番していたし、別に一緒について行きたいと思ったこともない。
先生の帰りを待っているだけでも、それはそれでそれなりに楽しかった。
先生がいない間にしかできない片付けものもあったし、連絡もなしに遅くなってサンジを心配させることもなかったし・・・
―――それが、一緒に出掛けるのかあ
デートみてえ、と腐ったことを考えて一人ほくそ笑み、はたと気付いた。
・・・着る物が、ない。



思えばこの家に来てすぐ自分の着替えはすべて処分されてしまった。
以来ずっと、先生お仕着せのユニフォームで過ごしている。
正統派メイド服から大正浪漫風、着物にチャイナ、ホワイトサンタ、バニーに猫耳とバリエーションは増えたが、
着て出歩ける類いのものではない。
さすがに途方に暮れて、今度チョッパーが往診に来る時Tシャツとジーンズくらい頼もうか、けどそれじゃあ
間に合わないかと電話に手を伸ばしては引っ込めてを繰り返していたら、玄関のチャイムが鳴った。

「こんにちは、宅配便です」
今日も元気な鈴木さんが、笑顔で大きな箱を抱えている。
「今日はメール便1通とこちらの荷物です」
「ありがとうございます」
いつものように受け取りのハンコを押して頭を下げた。
鈴木さんは玄関から出ても最敬礼し、爽やかな笑顔のまま去って行く。
相変わらず気持ちの良い人だなあとサンジは手を振って見送った後、箱を持ち上げた。
大きさの割りに軽い。
先生宛だが、どこかのメーカーからのようだ。
また新しいユニフォームだろうかとやや気が進まないまま、離れに持っていった。

「おや、届きましたか」
先生は眼鏡越しに視線を上げて、それからサンジを手招きして離れに上がらせた。
「自分で開けて、選んでみてください。紳士服を扱ってる知り合いから適当に見繕って送ってもらいました。気に入るのがあればいいんですが・・・」
「え、俺用ですか?」
それでもまだサンジは半信半疑で封を開ける。
先生の口から「紳士服」と飛び出たこともまた信じがたい。
この家に居ると自分の性別すら危うく認識してしまいそうなほど異常な状態で暮らしているというのに、先生は
ちゃんと自分を「男」だと知っていたんだ。
見当違いのところで妙に感心して、中からビニール袋を取り出した。
黒や白、茶、グレーなど無難な色合いで下着やシャツ、パンツ、セーターにジーンズと一通り揃えてある。
年齢もサイズも粗方伝えてあったのだろう、どれも自分に似合う気がするし、ちょっとした福袋を開けるような
ワクワク感があった。
その場で広げる内に、充分に着て出歩ける服が一気に増えて、サンジは感激するより呆気に取られた形で
呆然とその中心に座り込んだ。

「どうです?気に入ったのはありますか?」
「・・・はい、あの・・・どれだけ選んだら・・・いいですか?」
「よろしければ全部買っていいんですよ。気に入らないのがあれば返品してもいい。そのつもりですから」
気に入らないようなモノはない。
と言うことは、これらはこれから全部サンジのものだ。
本来なら、先生からの思いがけないプレゼントで嬉しいはずなのに、サンジの心は何故か沈んでしまった。





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