R先生の些細な道楽
-1-





本当に人が住んでいるのかと、疑いたくなるような廃れた門だった。
元は立派だっただろう御影石の門柱には蔦が絡み、雑草も伸び放題だ。
門の奥には辛うじて人が出入りした後が残っていて、林の奥へと誘うかのようにケモノ道が続いている。
「ほんとにここで、いいのかよ」
サンジは一人そう呟いて、恐る恐る繁みの中に脚を踏み入れた。

門から玄関までが、また長い。
置き石も見えないほど生い茂った草原を踏み締めながら格子戸が少し傾いた戸口へと辿り着く。
チャイムのボタンは擦り切れて押された形のまま凹み、これで用を成すのかと続いたコードを目で追えば、
途中でぷつりと切られ無造作に垂れ下がっている。
傾いだ引き戸は手垢がついて擦り切れて、閑散としているのに引っ切り無しに人が訪れる、そんな
アンバランスな印象を与えていた。

「こんにちは」
格子戸越しに声を掛けたが、勿論返事はない。
もう一度大きな声で呼び掛け、応えがないのに構わず引き戸を開けた。
開きにくい。
何度か力を込めて横に引っ張るのに、どこか引っ掛かってうまく滑らない。
試しに軋んだ足元の角をカンと蹴って勢いをつければ、がたつきながらもなんとか人が通れる
隙間くらいはできた。

「こんにちはー。ポートガスさんの紹介できましたー」
やはり、なんの声もない。
「お邪魔しますー」
サンジは埃の積もった玄関で靴を脱いだ。

気が進まなかったが、ここで引き下がる訳にはいかない。
もう自分には、帰る場所はないのだから。








歩く度に軋む廊下は、隅で埃が舞っている。
自分がここに勤めたならば、まず大掃除だと心に決めた。
いくら立派なお屋敷でも、隅々まで掃除の行き届いていない汚い家では、どんな料理を作ったって
美味く感じないだろう。
まず料理ありきでそう決意して、やや乱暴に足音を立てて長い廊下を突っ切る。

薄汚れたガラス戸越しに居間や座敷らしい部屋が見えるが、どこにも人の気配はない。
サンジは胸に湧き上がる不安を打ち消そうと必死になりながらエースから聞いた家人のプロフィールを
反芻した。


郊外の古い日本家屋に一人住まい。
年齢は20代後半。
独身。
職業、作家。

参考までに読ませてもらったが、文章は美しいが話に起伏がなく、退屈のあまり途中で読むのを
止めてしまった。
だが文壇での評価は高いらしく、なんとか賞とか言うのも受賞している。書くものはどれも上品でそつがなく、
使いやすいため出版社では引っ張りだこだとか、エッセイの連載も多く抱えてるだとかでいっぱしの
人気作家らしい、とエースが言っていた。

サンジは本と名がつくものはレシピ以外週刊誌も読まないし、そっち方面は疎いから知らないだけ
かもしれない。
ともかく30前で独身なんて、偏屈で堅物なオタッキー系だろう。
独身男に蛆が沸くとはよく言ったものだ。
こんなただっ広い家を埃だらけにして、いい天気に窓も開けず篭もってるだなんて不健康極まりない。
お手伝いさんが居つかないのも無理ないことだ。
いや、もしかしたらおタクな上に欲求不満で、女性と見れば手を出す不埒モノかもしれない。
だから、男の自分が「お手伝い」で雇われたのかも・・・
考えれば考えるほど嫌な方面に納得できて、サンジはどんどん重くなる気を奮い立たせて廊下を
だかだか突っ切った。

呼び鈴は壊れてるし、玄関で大声で声を掛け、中に入っても誰も出て来ないのだ。
不法侵入を問われたって構わない。






途中いくつかガラス戸越しに見える部屋は、どれも薄暗くしんとして生活感がなかった。
結局勝手口らしきところまで行き当たってしまって、本当に無人なのかと改めて振り返る。
薄汚れた廊下だが、真っ直ぐに筋がつくように真ん中だけ埃がなく筋がついて、やはり道筋になっている。
何度もこの廊下を通る人がいると言うこと。
突き当たりの勝手口のドアノブも、やけにテカっている。
何人もの人間がこのドアを開けたのだろう。
サンジも恐る恐る腕を伸ばしてドアノブを掴めば、そこだけ滑りがよくするりと回った。

薄暗い板の間に光が差し込み、草の匂いと柔らかな風が頬を撫でる。
案外広い裏庭があり、飛び石の続く先には、小さな離れがあった。
―――一人暮らしでなぜ離れ?
裏庭の木々は、表のそれとは段違いに綺麗に刈り込まれ、手入れされている。
丸く剪定された躑躅がランダムに並び、先へ先へと誘うような典型的な日本庭園の中を、サンジは
足音を忍ばせて通り抜ける。
まだ日は高く、光溢れる裏庭に一枚の絵のような風景を見て、思わず足を止めた。
降りそそぐ木漏れ日の中に、一人の男が立っていた。






濃紺の着流しの片袖を脱いで、竹刀を構えている。
凛とした佇まいに、動きはまったくない。
ただそこに立ち、構えているだけで、なぜか恐ろしいほどの緊張を感じた。
男の姿自体が、まるで鋭い刃物のようだ。
片方だけ露になった肩から腕にかけて滑らかな筋肉が見て取れて、日焼けした肌の色のせいで余計
引き締まって見える。
彫刻のような美しさに目を奪われ、サンジは声を掛けることも忘れて見入っていた。

つ、と静かに竹刀が下ろされた。
その動きを目で追って、それから初めて、男が自分を見返していることに気付く。
短く刈られた髪は光のせいか、緑を映す色に見えた。
体駆に見合った精悍な顔付きと、琥珀色に眇められた切れ長の瞳。
額から流れ落ちた一筋の汗と、冷たいとさえ感じる無表情さとがアンバランスだ。

ふと我に返って、サンジは慌てて背筋を伸ばした。
「あの、すみません。こちらは、ロロノアさんのお宅ですか?」
「・・・はい」
外見どおりの、心地よいバリトン。

我ながら間抜けな質問だと思った。
地図を調べ、表札を見てここまでズカズカと上がり込んだと言うのに。

「あの、俺ポートガスさんから紹介を頂いた、サンジといいます」
「ああ」
訝しげな瞳が笑いの形に眇められる。
「お聞きしてますよ。家政婦協会の方ですね」
家政婦協会?んなもんあるのか。
サンジは心の中で呟いて、愛想笑いを浮べる。

「はい、そうなんです。勝手にここまでお邪魔してしまって、申し訳ありません」
「表は殺風景ですから、留守だと思われたでしょう」
男は枝に掛けたタオルを手に取ると、さっと身体をひと拭きして着物を羽織った。
木陰の石の上に置かれた眼鏡をかける。
そうして竹刀を仕舞えば、先ほどまでの精悍な印象は成りを潜め、ぐっと知的な感じになった。

「立ち話もなんですね。荷物もおありでしょう。こちらへどうぞ」
丁寧な話し方をする人だ。
雇われの身だというのに敬語を使われて、サンジは恐縮しながらその後に続いた。




小さな離れの戸を開けると、四畳半ばかりの部屋があった。
その奥に六畳間ほどの部屋がある。それだけの造りのようだ。
「ここは主に執筆に使っているんです。締め切りが迫れば、ここから一歩も出ない日が続きますがね」
いわゆる書斎と言う所だろうか。
さすが人気作家は違うなあと感心してしまう。

本人に会って印象が変わり、サンジはすっかりこのロロノアという男に好意を持ってしまった。
穏やかな物腰といい、話し口調といい、知的な大人を感じさせる。

離れの部屋は先ほどの母屋よりは少しは小奇麗にしているが、それでも隅の埃が溜まって見える。
サンジはすぐにでも大掃除をしたくて溜まらなくなった。
「あの、俺雇って貰えますか」
性急だと思いつつ、確かめずにいられなくて声を掛ける。
「ええ、こちらからもお願いします」
即答されて、ほっと気が抜けてしまった。
もしも断られたら、明日から本当に路頭に迷ってしまう。
「住み込みでよろしいんですよね」
「ええ、部屋だけはたくさんありますからね。ただ、少し掃除をしていただかなくてはならないかもしれない」
「掃除は得意です!」
勢い声が大きくなる。
あの家を綺麗にしてついでに自分の住処も作るのだ。
ああ、なんだか心が浮き立ってきた。

顔を紅潮させて意気込むサンジを、男は柔らかに見詰め返した。
「いい方を紹介して貰えて、ポートガス君には感謝しなければね。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
畳の縁に額を擦り付けるようにして、サンジは頭を下げた。こちらこそ、エースに感謝だ。
まさか、こんなまともな人を紹介してもらえるなんて思わなかった。

「それでは、早速ですがここに荷物を置いて、着替えていただけますか」
「はい!って、着替え?」
「ええ。これから私の身の回りの世話をしてもらえるんですよね」
確かに、今日は面接だと思ってスーツで来てしまっていた。これでは仕事にならないだろう。
「あ、じゃあ着替えます。もっと動きやすい服装に―――」
「着替えはこちらで用意しましたから」
男はそう言って、座卓の下からビニールに包まれた黒い服を取り出した。
サンジは訝りながらもそれを両手で受け取り、その場で広げてみた。

―――――・・・夏服仕様なのだろう、黒だが少し透けて見える涼しげな生地だ。
衿は高めで白いレースで縁取られている。
くるみボタンも白く、胸元は控え目なフリルで飾られている。
ウェストにはタックが入りシェイプされたデザインだ。
対して腰から下はいくつもドレープが取られ、ペチコートを重ねて履けばふんわりと綺麗に広がるに違いない。

サンジは呆然としたまま手に取った衣装を持ち上げた。
はらりと落ちたのは濃いベージュのストッキング。
いや、この長さはガーターか?靴下止めの部分も繊細なレースで飾られている。
そしてその下に綺麗に畳まれた、絹の下着―――

「あ・・・の、ロロノア・・・さん?」
「先生と呼んでください」
「は、ロロノア・・・先生・・・あの・・・」
これは?と問いたいのに、あまりの驚きで口中が乾いて、うまく発音できない。

「ポートガス君から聞いてはいたのですが、予想以上に綺麗な方ですね。白い肌に輝く金髪。この黒も、
 さぞかし映えるでしょう」
「・・・あの、でも・・・」
「はい?」
ロロノア・・・先生は落ち着き払ってサンジの目の前で正座している。
ここで動揺してはいけないのだろうか。
「こんな格好では、その・・・仕事にならないのではないか、と」
「ああ、そのことでしたらご心配なく」
ロロノア先生はにこりと笑った。
「毎日の着替えも準備してありますよ。なにせユニフォームですからね、仕事しやすくなければ。ほら、このように」
すっと音もなく開けられた押入れの中に、簡易のハンガーラックがあって、ずらりと似たような服が並んでいる。
よく見れば濃い紺色だったり臙脂だったり・・・けれど基本は衿が白でフリル・レースつきだ。

「は――――」
余りの壮観さに、サンジはとうとう一言も発せなくなってしまった。
無言のままぎこちなく首を向ける。
「それでは、どうぞよろしくお願いいたします」
ロロノア先生は穏やかに微笑んだまま、サンジに向かって深々と頭を下げた。











サンジはただっ広い座敷の端で、正座したまま溜め息をついた。
傍らには黒いスーツがきちんと畳まれている。
――――着ちゃったよ

着丈も肩幅もウエストも、とても女性用とは思えないほどピッタリと合った。
タグは見慣れないものだったし、特注品かもしれない。
サンジは恐る恐る腰を上げた。
なんだかぴらんとして、足元がすーすーする。
素足にストッキングを履けば心許なさは少しは解消されたが、それでも太股までだから腰周りは
スカスカしたままだ。
落ち着かねえ・・・

開き直って衣装を身に着けだしたら、うっかりトランクスまで脱いで下着を身につけてしまった。
しかもストッキングを履いてる間、無駄毛の処理をしなきゃなんて、いらぬことまで考えてしまう。
昔から中途半端は嫌いで何事も真剣勝負、と熱くなるタイプだったが、何もここで燃えなくても・・・
自責の念に駆られ、がっくりと肩を落とす。
ともあれ、雇い主からの要望どおり着替えれば、立派なメイドの出来上がりだ。

―――なんでメイドなんだろう。

エースから「男」だと聞いてなかったのだろうか。
いや、事前に報告があったようなことは言っていた。
それにこのサイズは明らかに女性用の物ではない。
男にメイドの格好をさせて何が楽しいのかさっぱりわからないので、サンジはこう結論付けた。
これは、試験かもしれない。

雇い主のとっぴな要望にもどこまで対応できるか。
家政婦としての技量を問われているのか忠誠心を試されているのか・・・
いや、別に忠義を尽くさなきゃならない訳じゃない筈だけど。
雇い主と使用人との間柄であっても、あくまでもビジネスだ。
ただ、居場所のない自分には、住み込みで働けるということだけでありがたかった。
雇用も1年契約だし、保険も入ってくれると契約書に書いてあったし、実質労働時間は8時間で
プライベートも確保保証とあった。
家政婦なんて時代錯誤だと思ったが、なるほどこれなら候補はいくらかいただろう。

―――確かに、あの先生じゃ女性のお手伝いさんはヤバイだろうな。
よほど年季の入ったレディでなければ、大概お手伝いさんのほうが逆上せ上がってしまうに違いない。
それが煩わしくて男を希望したのかもしれない。
それはそれで納得できるのだが、そこでなぜメイド服なのか、そこが腑に落ちなかった。

「よろしいですか」
不意に、障子越しに声を掛けられて飛び上がらんばかりに驚いた。
あれこれ思案に暮れて、相当時間が経ってしまっている。

「う、はい!すみませんっ」
慌てて開ければ、先生が板の間に膝をついて座っていた。
軽く見上げるように首を傾け、眩しげに眼を細める。
「ああ、やはりよく似合う。まるで誂えたようだ」
―――誂えたんだろうが
うっかり飛び出そうになった突っ込みを喉の奥に飲み下し、サンジは愛想笑いを浮べた。
「あの・・・これでよろしいでしょうか。なんか、動きにくそうなんですが・・・」
「いいえよく似合ってます心持ち丈を短くしていますから、足捌きは楽だと思いますよ」
やっぱり誂えてんじゃねえか。
ぴきっとこめかみに血管を浮き上がらせながら、サンジはへらへらと笑みを返した。

「早速ですが、水周りから説明しますのでこちらに」
「はい!」
返事だけは元気よく返して身を翻す。
なるほど、違和感はあるが、動きの邪魔にならない服なのは確かだ。



台所などは最近使われた形跡がないが、基本的に食器も揃い抽斗の中も綺麗に整頓されていた。
冷蔵庫の中にはやたらと食材が詰め込まれ、米びつのなかも満杯だ。
「長いこと世話をしてくれていた女性がいたのですが相当の高齢でしたし、半月ほど前にとうとう腰を傷めて
 田舎に帰ってしまったんですよ。それから暫くは自炊していたのですが、どうにも・・・」
少し照れたように頭を掻く仕種は、先ほどの近寄りがたい精悍さも穏やかな知的さとも
また違う面を見せて、またしてもサンジの好感度が上がってしまった。
「食費を含めた生活費として、こちらを預けておきます。基本的に光熱水費は口座落としですが、
 締め切り前になるとここも出入りが多くなって、何かと物入りになりますので」
そう言って手渡されたがま口のレトロな財布は、たっぷりと厚みがあった。
素直に頷いて両手で受け取りはしたものの、その重みが気になってその場で
色褪せた金具を外す。

「うわっ」
思わず仰け反りそうになった。
ぎっしりと札が詰まっている。
しかも全部福沢諭吉!!
「これ、これ・・・こんな、に?」
「ああ、足らなくなったらその都度言ってください。足しますので」
「足らなくって・・・」
まずいんじゃないのか、まだどこの馬の骨ともわからない使用人に、こんな大金ぽんと渡して。
俺がもしこのまま持ち逃げしたらどうする気なんだろう。

「管理を任せる形になります。食料品などは定期的に宅配で届きますから、そのときある食材で
 調理してもらいたい」
それじゃあ、実際に現金を扱う機会はそんなにないってことか?
そこではたと気が付いた。
殆ど口座落としで食糧の買い出しも必要ないのなら、この家から外に出る必要はほとんどない。
それでも大金の管理は任される。
だから、この格好なんだ。

確かにこんな服装じゃ恥ずかしくて人目につきたくはないし、これで買い物なんて罰ゲーム以外の
何物でもない。
大金を持ってトンズラ防止の対策なんだな。
そういうことかと一人合点して、サンジはおずおずと財布をポケットにしまった。

「あなたの部屋はこちらの6畳間を使ってください。一応布団は新しく準備しましたので、
 着替えや貴重品もすべてこちらに」
「はい」
「後、わからないことがあれば、その都度聞いていただければ・・・」
「はい」
ともかく、雇い主の怪しげな思惑も、納得できれば気が済んだ。
一日も早くきちんとした信頼を勝ち取れるよう、頑張るのみだ。

「私はこれから離れで昼寝をします。夕食ができたら起こしてください」
「はい、わかりました」
快活に返事して、勢いよく頭を下げる。
いよいよ掃除だ。
腕が鳴る。






サンジがごく普通の高校生だったのは、ほんの一年前のことだ。
卒業したら調理師専門学校に入って、祖父が切り盛りするレストランを継ぐため
勉強するはずだった。
真似事程度の料理はできたし、下拵えや後片付け、皿洗いや調理場の清掃などは幼い頃から
専らサンジの役目だった。
誰に言われたことでもない、自分で勝手に始めたことだ。

サンジには両親がいない。
物心ついたときから祖父と二人暮らしで、そのことを特に不自然とも寂しいとも思わずに育った。
常に店が繁盛しネコの手も借りたいほど毎日が忙しかったせいもある。
サンジがつたない手で
手伝おうとちょこまかするのを、祖父は厭わなかった。
子どもであっても徹底的に教育し、容赦なくやり直しさせる。
傍目から見れば幼児虐待とも取られかねない厳しい指導の元で、それが特異なこととも気付かず、
サンジは奇跡的にも真っ直ぐ育った。

高校を卒業したらすぐにでも店に出て働きたかったが厳格な祖父はそれを許さず、
仕方なく専門学校を決めついでに一人暮らしを始めようかと準備をしていた矢先、
思いがけない不幸がサンジを襲った。
深夜に出火した不審火は瞬く間に自宅兼店舗だった一軒家を焼き、祖父をも焼いてしまった。
気が付けば、立ち込める黒煙の中、聞いた怒鳴り声が最期の声だったのかもしれない。
訳もわからぬままふらつく足で立ち上がり、必死で祖父を呼んだ。
「早く逃げろ」と怒鳴り声が返った。
ジジイどこだと何度も怒鳴り、黒煙の中を這い蹲って進もうとしたら、もの凄い勢いで
蹴り飛ばされた。
火事場の馬鹿力と言うがそのときの蹴りの威力は凄まじく、結局サンジは2階から窓を破って
蹴り落とされ、脊髄損傷であわや寝たきりになりかねないほどの重傷を負った。
家は全焼し、隣家にまで類焼して迷惑をかけた。
サンジが意識を取り戻したのは何もかもが終わった後で、警察から通り魔的な
放火だったと告げられた。
犯人は逮捕され、補償能力はないと判断されていた。
祖父の葬儀は店員達の手で既に執り行われ、サンジの哀しみは追い付かなかった。
その時涙するタイミングさえ逸してしまったせいか、未だ心の中にぽっかりと穴が空いている。

けれど、サンジには悲嘆に暮れる暇はなかった。
祖父の貯金が残っていたとはいえ、家財道具を一式失くし、銀行や保険の手続き、
何より退院してから住む場所を探すことから始まった。
古株の店員がサンジを引き取ることを申し出てくれたが、彼がもうすぐ結婚を控えていることも
知っていたので頑なに辞退した。
とは言え、祖父以外に身寄りはない。
しばらく身を寄せられる友人は複数いたが、皆進学や就職を控え他人の世話どころでないのは
明白で、甘えることはできなかった。

見舞い客には明るく振舞い、夜中に一人で溜め息をついては今後の人生設計を立てていた所、
友人の兄エースが話を持ちかけてくれたのだ。
「住み込みの家政婦募集を聞いてんだけど、どう?」
今時住み込みなんて条件が成り立つんだろうか。
しかも自分は高校卒業も定かではない未成年だ。
普通に考えれば、家政婦なんて務まる訳がないのだが、そこはサンジの思い切りのいいところで、
なんでもするから雇って欲しいとその話にすぐ飛びついた。
当面の問題として、雨露を凌げる場所が確保できるならそれでいい。

雇い主は独身男らしく、味気ないことこの上ないがこの際贅沢は言っていられない。
1年住み込みで働いて小銭を稼ぎ、成人を迎える年になったらもう一度人生を模索しよう。
まだまだ若いのだ。
やり直しはいくらだってできる。
いつの日かちゃんと調理を習い、かつてあった祖父のレストランを再生させる夢を抱いて、
サンジは奇跡的な回復力で持って退院した。

そして今日、緊張の面持ちでこの屋敷を訪れたのだ。










日が高い内にある程度掃除を済ませてしまおうと、フル回転で働いた。
少々丸く掃いてしまった感は否めないが、明日からしっかり磨くように掃除していけばいい。
冷蔵庫の中の、傷みそうな食材をまず優先してあり合わせの夕食を作る。
1年契約が成立したのだから、最初から豪勢な食卓にする必要もないだろう。
ともかく野菜庫にも入れて貰えず隅っこで萎びてしまった青菜の救済が先だった。

「うし、こんなもんか」
大方作り終え、後は火を通して供するだけとなった。
埃っぽかった台所は念入りに掃除したし、食器棚の中の食器もすべて洗った。
換えのシートが買い置きしてあって、本当に助かった。
この格好のまま買い出しに行かなければならないとこだった。


「んじゃ、そろそろ先生を呼んでみるかな」
好みなどまったくわからないが、今まで居たお手伝いさんは年配の女性だったようだし、雰囲気からみても
和食が好きなんじゃないかとなんとなく思った。
白いエプロンを外し(これも勿論フリル付き)、離れに向かう。
すっかり傾いた陽射しが、庭の置き石の上に縞模様みたいな長い影を落としている。







「先生、夕食の支度ができました」
襖越しに遠慮がちに声を掛けてみる。
返事はなく、木々の揺れるかすかな風音が遠くに響くだけだ。

静かなところだなあ。
ほんの少し住宅街からも離れているだけなのに、あの草臥れた門から距離があるだけで、外界から
隔絶されたかのような静けさがある。
母屋からさらに奥まった所に設けられた離れだから、余計に世俗の音から遮断されるのだろうか。
ここだけまるで別世界のようで、時間の流れ方すら違って見える。



「失礼します」
いつまでも襖の側で感慨に耽っているわけにもいかず、サンジはそっと襖を開けた。
ちょっと軋んでガタつく。
後で蝋を塗っておかないと。

輝く夕陽の欠片が佇んでいるような、どこかオレンジに染まった部屋の中で先生は大の字になって寝転がっていた。
それはもう堂々と。
両腕を左右に、足も心持ち広げて気持ち良さそうに寝息を立てている。
起こすのも憚られるような安らかな寝顔にサンジはしばし躊躇った。
なんつーか、ガキみてえ・・・
先程までのいくつかの印象とはまた違う、邪気のない子供のような太平楽な寝顔。
すべてにおいてほぼ直線を描く眉の流れも鼻梁も頬の線も、起きている時と違い険がない。
どこかあどけなささえ感じさせる無防備な寝姿に、サンジはしばし見入ってしまった。

―――と、いけねえ
すぐに我に却って、静かに顔の横に膝を着く。
何故か起こさないように、無意識に気を遣っている自分に気付いて苦笑した。
畳に手を着いて身を屈める。



「先生、夕食ができました」
囁き声などまったく届かず、なだらかに上下する胸の動きも淀みがない。
「先生、ご飯ですよ」
今度は強めに言ってみる。
変化なし。
「先生!起きてください!」
耳元で強く叫んだ。
だが形の良い鼻からはスピーと心地良さげな音が漏れるばかり。
仕事でなければ蹴りの一つも入れるのだが、そこはぐっと我慢して、揺り動かそうと手を伸ばした。
途端―――
いきなり後頭部を捕まれ引き寄せられる。
あ、と思う間もなくバランスを崩し、そのまま先生の上に覆い被さるように倒れた。
ぶつかる、と突っぱねるつもりの両手もそのままに抱かかえられ、口元に柔らかなモノを押し付けられた。

え―――っ
顔がぶつかるアクシデントとは到底言えない柔らかなキス。
そう、これはキス以外の何物でもない。
心持ち首を傾け、静かに重ねられた唇は明らかな意図を持って半開きのサンジの唇を吸っている。
動転して声も出せず、サンジは目を見開いたまま至近距離で先生の顔を凝視した。
ほとんど無理矢理なディープキスなのに、先生の表情はまったく変わらない。
眉間に皺を寄せるでなし、どこにも力の入っていないような、のほほんとした寝顔のまま、サンジの動きを
封じ込めるがごとき怪力でその自由を奪っている。
なんで?
もはやパニックだ。

どう見てもこの体勢は男に抱きかかえられて唇を貪られている図だ。
涼やかな目元に反して、先生の舌の動きは巧だった。
何か叫ぼうと慄くサンジの唇を舐め歯列を割り、口内へと滑り込む。
暴れる舌を捉えきつく吸って、下唇を甘噛みしてきた。

―――うわあああああっ
何か叫びたいのに、声も息も先生の唇に吸い取られてしまう。
熱く蠢く舌が宥めるように口内を辿り、舌を食む。
息すらうまくできなくて、サンジは殆ど涙目で押し付けられた厚い胸板を両手で叩いた。
ぐるんと、視界が反転する。
背中に畳の感触。
上にはまだ目を閉じたままの先生。
押し倒されたのだと気付いて、仰天する。

寝たふりなのか本当に寝惚けているのか、先生は相変わらず寝顔のままサンジの両肩を畳みに押し付けて
馬乗りになった。
合わせた唇は離れない。
角度を変えてより深く押し込むように舌が口内を蹂躙する。
「う・・・」
何がなんだかわからないが無性に口惜しくて必死で両腕を突っぱねるのに、圧し掛かる体重を防ぐのが精一杯だ。

くそおおおおっ
殆ど無意識に片足を上げた。
先生の片手が掬い取るようにその膝裏に手を掛ける。
だがサンジは膝の屈伸だけで先生の後頭部目掛けて踵落としを決めた。

がこん、と鈍い音がして先生の首が前のめりに崩れる。
弾みで唇が離れ、サンジはやっと新鮮な空気を吸い込んだ。

「けほ、この・・・」
軽く咳き込んで睨みつければ、先生は鼻がくっ付きそうなほど間近で目を見開いている。
その瞳に驚きの色が見えて、思わず黙って見詰め返してしまった。
先生の視線がサンジの顔からその下へと降りる。
途端にかっと目が見開かれた。

「なんですか、はしたない」
「はっ・・・」
いきなり叱咤されて固まってしまった。
「そのように足を広げて、丸見えではないですか。何を考えているんです」
はあ?
慌てて視線を落として仰天した。
大きく振り上げた片足はスカートが捲れて太股まで剥き出しで、しかも白い下着まで露になっている。
先生の胸の下でほぼ大開脚状態だ。
「こ、これはっ」
慌てて跳び退りスカートを抑えた。
先生は畳の上で居住まいを正してこほんと軽く咳払いをする。
「そもそも、このユニフォームにしたのも、立ち居振る舞いを自然にしとやかにさせるためです。最近の若い方は
 恥じらいと言うものを失くしてしまっている。故に普段の何気ない動作も荒くなったり無造作になったりするのです。
 常に、膝頭をきちんと合わせるように心掛けなさい」
「はい!」
真顔で窘められて、条件反射で返事を返してしまった。
素直なサンジの態度に先生は得心したように頷いてさっと立ち上がった。

「さて、お手数をおかけしてしまいましたね。夕食ですか、参りましょう」
「は、はい・・・」
逆に促されて立ち上がる。
先生はさっさと襖を開けて出て行ってしまった。
サンジもそれを追って慌てて部屋を出る。


いつの間にか日はとっぷりと暮れて、夕闇が竹薮の向こうから染み込むように広がっていた。
「いい匂いがしますね、楽しみだ」
「はあ・・・」
先生は背をしゃんと正して、大股でだかだか庭石を踏んでいく。
サンジは抗議するタイミングを見事に外してしまい、どこか釈然としないものを感じながらも、とぼとぼとその後に続いた。







next