Only guardian -3-


ゾロが運び込まれたのは、グランドライン総合病院だった。
血まみれのクワ丸君に必死にしがみついていたサンジだったが、救急車が敷地内に入ったところで急速に引き剥がされた。
夕焼けに染まった空の色すら、いまのサンジには禍々しく映る。
寂しげに浮かび上がる電信柱の影に身を寄せるようにして、サンジは呆然と一人佇んでいた。
それから、記憶は途切れがちだ。



ゾロの家族の様子から窺うに、なんとか命は取り留めたようだ。
事件から二日経ってようやく、ゾロ以外の家族が全員自宅に揃ってほっと一息吐いていた。
完全看護だから必要はないようだが、それでも交代で一人ずつ付き添おうと話し合っている。
自宅まで押しかけていた取材の対応は父親が一手に引き受け、こちらも落ち着いたらしい。
ゾロが庇った女性は軽傷で、取り押さえた男は現行犯逮捕された。
薬物を使用していたらしく、あの場でゾロが取り押さえていなかったら大惨事になっていたと、ワイドショーで盛んに報じられている。
高校生が暴漢に立ち向かい重傷を負ったことで、実名は伏せられているもののしばらくは持て囃されることになるだろう。
そんな風潮に踊らされる家族ではないから、いつも以上に淡々と慎ましく行動している。
サンジは、そんなゾロの家族の様子を見守りながらずっと落ち着かず彷徨っていた。

いますぐにでも、ゾロに会いたい。
早く会いたい。
でも会えない。
あの病院には、どうしたってサンジは近寄ることができないのだ。
いま、ゾロの傍にいてもサンジは何の役にも立てないのだけれど。

いまに限らず、多分ずっと、サンジはゾロの役になど立てていなかった。
あの時も、ゾロが本気で動いたらサンジには止めようもないものだと思い知らされた。
ゾロを救ってくれたのは、あの場で応急処置をしてくれた通行人と、いち早く現場に駆けつけてくれた警官に救急隊員。
適切に対応してくれた病院関係者と、ゾロを支えた家族たちだ。
サンジは、なんにもできなかった。
ただゾロの名を呼んで、泣き叫ぶくらいしかできなかった。
その声さえも、誰にも届かないのに。

ゾロの部屋で一人、膝を抱えてずっとゾロが帰ってくるのを待っている。
サンジには、他に戻る場所などないし行くところもない。
ゾロを守ること以外何の目的もなかったのに、“守護”することすらできないのか。
自分が何のために存在するのかわからなくなって、サンジは掌で自分の顔を覆った。
ふと見ると、掌が透けて床の木目が見えていた。
――――ああ、俺消えちまうのか。
ゾロを守る力も持たないと、気付いてしまったから。
存在意義を失ってしまったから。
サンジはもう、消えるのだ。
この世からひっそりと消え失せて、誰の記憶にも残らない。
サンジがいたことも、消えたことも、誰にも知られぬまま。
ゾロにも、知られぬまま。

サンジは実体を持たないため、鏡に映ることも影を落とすこともない。
だからサンジは、自分の顔を知らなかった。
それでも時折顔にかかる髪の色や、手足の長さぐらいはわかっている。
それが、今はその目に映る範囲の身体でさえ色味が薄れ、空気と同化しようとしている。
――――消えちまう。
ゾロを守るという存在意義を失くした今、実体どころか意識までも薄れそうになった。
サンジは髪を掴みながら頭を振って、ともすれば途切れそうになる思考をなんとか押し留めた。

ゾロの、ゾロのことを考えなければ。
小さな頃からずっと見守り続けていたゾロ。
利かん気で負けず嫌いで、けれど心根が素直で優しいゾロのことを。
サンジが誰より大好きで、ずっとずっと傍に居たいと望んでいたゾロを。
自分自身が、消えてしまわないように――――

そこまで考えて、サンジははっとした。
結局俺は、なにもかもが身勝手だった。
ゾロを守るのも、ゾロの傍にいるのも自分が消えてしまいたくないだけだ。
本当はゾロのことなんて、なんとも思ってやしない。
ただ、“ゾロを守る”という使命を自分に課して、必要性を無理やり作り出していただけだ。
自分が可愛いから、存在し続けたいから。
ゾロを利用していただけで―――

深くなる思考と共に、サンジの意識がどんどん薄れていく。
ゾロへの想いも、守りたいという強い意志さえもまがい物のように感じて、後ろめたさだけが募る。
こんな俺なんか、最初からいない方がよかったんだ。
俺がいるから、ゾロが危ない目に遭った。
俺の存在意義のために、ゾロが危ない目に遭っていた。
きっとそうだ。
俺さえいなくなれば。
俺さえ消えれば――――

顔を覆う両手は、もうサンジの目に映らなくなっていた。
多分身体も、その気配ごとサンジの存在は消えかけているのだろう。
そこまで来てなお、サンジの脳裏に浮かぶのはゾロの顔で。
決してサンジを正面から見ない、眺めていたのは彼の横顔ばかりだ。
それと、頂点から少し右にずれた旋毛。
姿勢のいい背中、剣だこだらけで節くれだった手の甲。
何かを見つめる、迷いのない真っ直ぐな眼差し。

――――どうせ消えるのなら、最後にゾロに…
ゾロに、会いたい――――

想いに突き動かされるように、サンジはゾロの部屋から出て、抜けるような青空の下を風と一緒に流れて行った。
カーテンを閉め切って薄暗かった部屋とは違い、晴れた夏空に白い雲が眩しい。
少し気持ちが軽くなって、自分が望むままに身を任せる。
角の床屋が表示する時計は午後2時を回ったところだ。
見慣れた風景を見下ろしながら、サンジの意識はグランドライン総合病院へと向かう。
ゾロがいる病室には入れないとわかっていて、それでもいつ帰るかわからない部屋にいるよりはましだと外灯の上で膝を抱えた。

ふと、門柱の影から鮮やかなオレンジ色の髪が覗いた。
―――― ナミさんだ!
サンジはその場で立ち上がり、身を乗り出す。
ナミは、ゾロと小学校から一緒の幼馴染だ。
抜群に頭がよく人目を引く美少女ながら、さっぱりとした男前な性格でゾロとは馬が合うらしく、男女の垣根を越えた友情が成り立っている。
ナミみたいな美少女が傍に居たら絶対恋愛感情が生まれると思うのに、サンジが見る限りゾロにその気配はない。
なんて鈍感な奴だこの贅沢者と、何度ゾロを罵ったことだろう。
憤懣やる方ないサンジの八つ当たりなど、ゾロには全く通じないのだけれど。

部活動の帰りなのだろう、ナミは学校のジャージを着て片手に花を抱えていた。
ナミらしいオレンジと黄色を主体として緑の葉で彩られた、元気が溢れるようなビタミンカラーの花束だ。
友人代表で、見舞いに来たのかもしれない。

小ぶりで黄色いひまわりの花を、サンジはじっと見つめた。
とても力強く、綺麗な黄色だ。
もしかしたらあの花に、憑依できないだろうか。
血まみれのクワ丸君はどうなったかわからないが、あの艶やかな黄色ならなんとか自分を受け入れてもらえるかもしれない。
ダメ元で花に意識を集中させたら、サンジが狙っていたひまわりではなく添え物程度に散らされた黄色い小花に吸い込まれた。
宿れさえすれば、なんでもいい。
サンジはそっと息を潜め、ナミの腕の中に身を置いた。



ゾロの病室はナースセンターの隣だった。
目を離せない重病人が入る部屋だと、なぜそんなことを自分が知っているのか訝しく思いながらも、花束と共に付いていく。
ナミは扉の前で自分の手を念入りに消毒してから、半分開いた引き戸をノックした。
「ゾロ、入るわよ?」
返事はないが、それで臆するようなナミではない。
静かに引き戸を開けて中に入ると、ささやかな花の香りよりも強く消毒の匂いが漂った。

「あーやっぱり」
ナミの呆れた声に促され、ベッドに目を向ける。
身体のあちこちに管を通された状態で、ゾロは眠っていた。
顔色はさほど悪くはない。
むしろ、白一色の部屋で管さえなかったら太平楽に昼寝しているような表情だ。
「ゾーロ、あんまり寝ると夜眠れなくなるよ」
ナミの声に、ゾロはぱちりと瞼を開いた。
そのまま両腕を上げて伸びをしようとしたのを、ナミが慌てて止める。
「ちょっと、いい加減怪我人だってことを自覚してよ。あんた最初に目が覚めた時、寝ぼけて点滴の管ぶっ千切ったって聞いてるわよ」
「あー、そうか…」
なんとも暢気な声で、ゾロはふわあと欠伸をした。
よかった、全然大丈夫そうだ。

「くいなさん達に聞いたとおりね、満身創痍なのに元気そうで何より」
「おう、わざわざ悪いな」
乱暴に目を擦ろうとするのを手で制し、ナミは勝手知ったるという風に流し台の下から花瓶を取り出した。
持ってきた花束を活け、ベッドサイドに置く。
「これはクラスのみんなから、寄せ書きも貰って来たわよ」
「…止めてくれ」
「なんせ俄かヒーローだもんね。でもこのまま入院してたら人の噂も七十五日で、退院することには忘れられてるんじゃない?」
「そう願いてえな」
ゾロはうんざりした様子で、手枕をして身体を起こした。
少し顔を顰めたのを見逃さず、ナミはパイプ椅子に腰を下ろす。
「痛むんじゃない」
「たいしたことねえ」
「・・・そう、ならよかったわ」

サンジも目の当たりにしたが、現場はまさしく大惨事だったのだ。
薬中の凶悪犯に切り付けられ、生き延びただけでも奇跡と言いたいほどに。
「全治までには時間が掛かるでしょうけど、ゆっくり治しなさい」
「ぼやぼやしてる暇はねえよ、秋には大会が―――」
「ゾーロ」
ナミの、咎めるような目付きにゾロは言葉を止めた。
「いい?あんたは一歩間違えたら死にかけるほどの大けがをしたの。あんたのその分厚い胸板でも内臓に傷が付くほど、大けがしたのよ。当分、剣道のことを考えるのは禁止」
「なんでお前がそれを言うんだ」
「くいなさんもたしぎさんも、言ったけど聞かなかったんでしょ。だったら私が言うわよ。私が言ってももし言うこと聞かないのなら、ルフィやウソップに言って貰うわ」
「…あんだよそれ」
「あんたはテストでいい点は取れるけどほんとはバカだから、自分のこととか全然わかってないから周りが教えるの。言ってわからなきゃわかるまで、何回だって言うわよ」
「だからって、ルフィにまで言わせることねえだろ」
「ルフィの方があんたより遥かに頭いいわよ。バカね」
――――さすがナミさん、歯に衣着せずボロカスだ。
サンジが妙な部分で納得している間に、ゾロは言い負かされてしまった。

「…わあったから、もうギャンギャン吠えるな」
「失礼ね」
仰向いて嘆息するゾロの顔色に疲れを見て取ったか、ナミはパイプ椅子から腰を上げた。
「また来るわね。その内起き上がれるようになるでしょ、そしたら今度は夏休みの宿題をたんと持って来てあげる」
「なにも考えずに、怪我治すことだけに集中しろっつっただろうが」
「それとこれとは話は別よ。新学期までには退院しなさいよ、あんたの宿題は私が責任を持って面倒見てあげるから」
高くつくわよと脅しを残して、ナミは颯爽と病室を後にした。

重傷を負い、打ち込んでいた剣道の大会出場も断たれたゾロにきっぱりと現実を突きつけながらも、暗さを呼び起こさない。
爽やかな風のようなナミの雰囲気に感心しながら、サンジは改めてゾロの様子を窺った。
ゾロも同じように受け止めているのだろう。
ナミが消えた扉をしばらく見つめてから、眉間に皺を寄せたまま目を閉じた。
しばらくじっと横たわっていたが、不意にその顔が横に背けられる。
「―――――くそっ」
決して大きくも力強くもない、小さくかすかな悪態はそれだけ静かにサンジの胸に響いた。

これから、剣道の合宿に向かうはずだった。
高校に入って初めての大会で、ゾロ自身意気込みが強かったことはずっと傍で見ていたサンジが、誰よりもわかっている。
家族にも友人にも態度では表さないが、内心の焦燥がゾロの表情から痛いほどに伝わってきた。
自由にならない身体への苛立ち、直截的な痛み、苦しみ、この先への不安。
本当なら泣き言の一つも漏らしたって構わないのに、ゾロは何も言わない。
誰も恨まず憎まず、弱音を吐かずにただ黙って自分の中で消化しようと努力する。
ゾロの沈黙は、叫びの裏返しだ。
訴えたいことがあればあるほど、ゾロは言葉を失くしてしまう。
どうしてそれを、サンジは知っているのだろう。

気付けば、ゾロは薄目を開けて床を睨んでいた。
息も吐かず呻きもせず、ただ黙って一点を睨み続けている。
力なくシーツに投げ出された拳は、彼が悲しむことすらも放棄してしまっているようだ。

――――ゾロ・・・
ごめん、本当にごめんな、ゾロ。

サンジには何もできない。
こんなにも近くにいて、いつでも傍にいたのに何もできない。
ゾロが命を落としかけた今、“守護者”としての立場も失ってしまった。
サンジにできるのはもう、黙って消え去ることだけだ。

ゾロ、せめて俺の分までどうかどうか、幸せに。
この先大きな事故や病気にならないように。
優しい人に囲まれて、強い意志を抱き続けてまっすぐに生きてほしい。
俺の分まで。
俺はもう消えるから、お前の幸せだけを望んで消えるから。

「――――ゾロ」
自分の頬を、熱い雫が流れ落ちて行った。
幽霊でも、涙って出るのかな。
自分のことなのになにも知らず、そのことが滑稽で自嘲しながらサンジは目元を掌で拭った。
これでお別れだと思うと次から次へと涙が溢れ、止まらない。

ほたりと、涙の粒がシーツに投げ出されたゾロの掌に落ちる。
それは雫でさえなかったのに、ゾロの手はピクリと動いた。
床に縫い付けられたようになっていた視線がゆっくりと動き、ゾロの傍らに立つサンジを見上げた。

「・・・サンジ?」
サンジは驚いて息を飲んだ。
喉の奥がひゅっと鳴って、妙な声が漏れる。

ゾロはサンジが立っている辺りに視線を彷徨わせてから、寝返りを打って仰向けになった。
「気のせいか」
そう一人ごちてから、目を閉じる。
今度は穏やかな表情で深く息を吐き、そのままものの数秒で眠りに就いた。





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