Ataraxia -7-



サンジが目を覚ましたのは、翌日の早朝だった。
いつもの時間にぱっちりと目を開き、まずは寝覚めの一服と上げた片手が宙を掻く。
―――あれ?
起き上がって辺りを見回せば、そこは見知らぬ場所だった。
船の男部屋ではない、どこかきちんとした宿のような部屋。
「・・・いつの間に、上陸したんだ?」
さっぱり思い出せなくて、首を捻りながら傍らを見る。
ツインのベッドに寝転がっているのはゾロだ。
太平楽に寝息を立てているから、非常事態ではないのだろう。
そのことに安堵して、自分はいつから眠っていたのかと改めて思い出そうと試みる。
昨日まで、確か船に乗っていたはず。
ふと脳裡に閃いたのは、波間に漂う白い花だ。
確か、王女の為の弔いの花―――

「起きたのか」
不意に声を掛けられて、飛び上がりそうになるほどビックリした。
ベッドに横になったまま、ゾロが目だけ開けてこちらを見ている。
「なっんだ、寝腐れマリモの癖に妙に早く目ぇ覚めてんじゃねえよ!」
驚きを誤魔化す為きつい口調で毒づいたら、ゾロは軽く目を瞠った。
だがすぐに眉間に皺を寄せ、面倒臭そうに目を閉じる。
「まだ早え、ここは街でみんな同じ宿にいるからもう少し寝ていろ」
「宿って、いつの間に上陸したんだよ。俺、なんか昨夜酔っ払ってでもいたのか?」
記憶に乏しいから自信が持てなくて、自然と言葉が尻すぼみになる。
それに、何故だか眩暈がして起きていられない。
「問題ねえ、寝てろ。その内他の奴らも起きてくるだろ」
「・・・けど」
途惑うサンジを一人残して、ゾロはまた寝息を立て始めた。
サンジはそれ以上ゾロを問い詰めるのは諦めて、壁に掛けられたスーツのポケットを弄ると、煙草を取り出し火をつけた。
途端、ゴホゴホと軽くむせる。
物凄く久しぶりに吸ったかのような、妙な違和感。
「なんなんだ一体」

改めて眠るゾロの顔を横目で眺めた。
額の皺も消え、軽く目を閉じて鼻から息を吐く姿は無防備にさえ映る。
こんな身近で、柔らかい光に包まれて眠るゾロを見詰めるなんて、初めてのことかもしれない。
ぽっと、胸の奥に小さな灯が灯ったように気持ちが温かくなって、サンジは一人で首を振りながら煙草を揉み消した。
なんとなく、湧き出る幸福感を持て余しているような、妙な感じでむず痒い。
「訳・・・わかんねー」
サンジは仕方なくそのままベッドに横になると、部屋の外が騒がしくなるまでぼうっとカーテンの隙間から覗く空を見上げていた。






「サンジーっおかえりーっ!!」
食堂に顔を出せば想定外の大歓迎にあって、サンジは仰天した。
ルフィを筆頭にチョッパーもウソップも、鼻水まで垂らさんばかりのくしゃくしゃの笑顔で抱き付いてきて離れない。
一歩下がって見守っているロビンとナミに助けを求めようにも、身動きすらできない状態だ。
「ええい離れろゴム!なんだってんだ、大袈裟なんだよ」
「サンジ、気分はどうだ?どの辺から覚えてる?」
ズビズバ鼻を啜るチョッパーが肩に掛けた聴診器を振り翳して聞いてくるから、やっぱり自分はどこか悪かったのかと不安になった。
「一体全体、どういうことか説明してくれ」
両手を広げて降参のポーズをするサンジに、ナミは悪戯っぽく瞳を煌めかせた。
「隣にゾロが寝てたはずでしょ?ゾロから何も聴いてない?」
サンジはすかさず首を振る。
「なーんにも、ちょっと目え覚ましたけど、説明もなしにすぐ寝ちまって話しにならねえ」
「やっぱりね」
ロビンと顔を見合わせて、仕方なさそうに肩を竦めて見せる。
「とにかく朝食をとりながら説明するわ、みんな落ち着いて席に着きなさい」
テキパキと指示するナミは、船長代理と言うより保育士のようだ。

「サンジ君が意識をなくしてから、今日で丸2日経ってるの。王女を弔う花を船の上から見てたのは覚えてる?」
「うん、それが俺にとって昨日の記憶なんだけど」
「その翌日かな、サンジ君が目を覚ましてからどうも様子がおかしくて・・・ええと、その原因を探る為に花を手向けていた島に急遽戻ることになったの」
「あの島へ?」
サンジは愕然とした。
最初にあの島に寄ってみたいと強請ったのは自分の方だ。
まさか意識がない間にその願いが叶っていたとは、なんとも皮肉な話で―――
「そもそも、オレはこの2日間なにしてたんだ?」
当然と言えば当然な疑問だが、明確な答えはなかった。
誰もが視線を宙に漂わせて、言い難そうに口元をもごもごさせている。
「ナミさん、はっきり言ってくれ」
名指しで問い詰めれば、ナミは何故だか半笑いのような曖昧な表情を見せて不承不承に頷いた。
「ええとね、サンジ君には亡霊が取り憑いてたの」
「・・・は?」
ぽかんと口を開けるも、他の仲間達はしたり顔で云々と頷いている。
「その亡霊を取り除く為にこの島に寄ったのね。それで昨日、見事に成仏してサンジ君は元に戻ってハッピーエンドv」
まるっと両手でハート型を作るナミと、満面の笑みでそれを讃える仲間達。
その奇異な光景を目の前にして、サンジははあ?と首を傾けた。
「一体俺に、何が取り憑いていたんですか?」
荒唐無稽な話だと切り捨てたいけど、仲間達の反応があまりにクリア過ぎる。
なんというか、多勢に無勢。
「サンジ君に憑依したのは、この島で命を落とした王女様よ」
さらりと口にしたロビンに、フランキーが失笑を漏らした。
それとは反対に、サンジの頬がさっと蒼褪める。
「大変だったのよ、サンジ君の中に可愛い王女様が入ってて。・・・ほんとにもう」
思い出したのか、皆がぷぷっと笑いを堪えるように肩を揺すりだした。
「でも、その王女様も昨日想い人が見つかってそれで、成仏したの。サンジ君、お役目ご苦労様」
そう労われて、サンジは硬い表情のまま頷いた。
「そういう訳でこの2日間、サンジの身体はろくに食事を取ってないんだ。今日もお腹空いてるだろうけど、あんまりたくさん食べちゃだめだよ、胃がビックリしちゃうから」
サンジの顔色を窺って、チョッパーが心配そうに声を掛ける。
「一応お昼過ぎに出港する予定だけど大丈夫?買い出しとかもしてないんだけど」
「大丈夫だよ、2日間のブランクくらいなんともないし身体の方は問題なさそうだ。それより、俺のために寄り道してもらうことになってゴメン」
話の輪の外にいて、ずっと朝食を食べ続けていたルフィに、サンジは改めて頭を下げた。
ルフィは口いっぱいに頬張ったまま、ぶんと大きく頷き返す。
「みんなもゴメン、知らなかったとは言え、なんか迷惑掛けちゃったんだな」
「なんだよ改まって・・・たまたまサンジが取り憑かれただけなんだからお互い様だろ」
ウソップが笑いながら鼻の下を擦る。
「そうだよ、大体王女様もナミかロビンに憑けばいいものを、なんだってサンジに・・・」
チョッパーの言葉にまた皆が一斉に噴き出した。
サンジは引き攣った顔に笑みを浮べて、同じようにへらへらと笑ってみせる。
「・・・まさか俺、妙なことしでかして・・・ないよね?」
「ないない、なーんにもない」
みんなして声を揃え、急いで返事をすること自体、もの凄く怪しい。
だがそれ以上追求する勇気は、サンジになかった。
もし・・・もしも、昔からサンジに根付いていた王女のゾロへの思慕が、サンジの意識がない間に仲間達に露呈してしまっていたとしたら。
考えるだけで恐ろしくて身震いがする。
「ししし、まあサンジが元に戻って何よりだ。さっさと船に戻ってサンジの飯を食おうぜ!」
ルフィの言葉に、お前今食ってるだろうが!とお馴染みの突っ込みの嵐が巻き起こり、サンジはほっとして一緒に笑い声を立てた。

「賑やかだな」
背後から声を掛けられ、ぎくりとする。
「あらゾロ、おはよう」
「サンジ元に戻ったな、おめでとう」
なんでゾロを祝うんだ?
またしても冷や汗を浮べるサンジに構わず、ゾロは大きな欠伸をしながら通り過ぎて椅子に腰掛けた。
「なにもかも元通りだ。今日、発つんだろ」
「おう、出発だ!」
ルフィの明るい掛け声と共に、話はそれでお開きとなった。







食事を終えた後は、みな慌ただしく出港準備に追われていた。
サンジも駆け回る勢いで買い出しを済ませ、船へと運ばせる。
「コラ腐れ腹巻、てめえは力仕事くらいしか能がねえんだから、チンタラしてねえでとっとと降りてきやがれ」
「あんだとグル眉、人にモノを頼む態度かそれが!」
活気付いた港で怒鳴り合う二人の姿を見て、ウソップはそっと涙を拭った。
「ああもう、なんか涙で前が見えねえや。日常がこんなにも愛しいものだったなんて・・・」
「なんか、懐かしいとさえ思える光景よね」
「平凡っていいなあ」
“普通”の悦びをひしひしと噛み締める仲間達の心中など、サンジが知る由もない。

「ねえ、なんか人の流れができてない?」
ナミが甲板から身を乗り出して島の中央を指差した。
右端にはデルドレ岬。
中央の高台へと向かう観光客の群れが、昨日より多く犇いて、黒々と列なって見えた。
「あれ、観光客だけじゃねえんじゃねえの」
「島民が店から出て、みんな同じ方向に向かってるぞ。なんか大騒ぎしてる」
ウソップが双眼鏡を覗きながら実況中継する。
「ちょっと待ってね」
ロビンは耳に手を当てて目を閉じた。
暫くしてから、微笑みながら顔を上げる。
「事情がわかったわ、取り敢えず出港してから皆にも報告するわね」
その表情から悪い出来事ではないと察し、仲間達は作業に戻った。

「それじゃ、しゅっぱーつ!」
麦藁帽子に手を当てて、ルフィが声高らかに宣言する。
来た時とは打って変わって晴れやかな表情で、仲間達は青い海に向かって帆を上げた。




「2日間意識がなかったって、本当だったんだな」
サンジは一人ごちて、キッチンの掃除を続けていた。
散らかっているわけではないが、自分が置いた覚えのない場所に調味料が収納されていたりして、明らかに他の人間が使っていたのがわかる。
仲間に台所を任せて、自分は一体何をしていたんだろう。

テーブルを拭く手を止めて、ガラスの花瓶を持ち上げた。
あの日、海から掬われた白い花は、盛大に花弁を散らして枯れていた。
サンジにとっては特別な花だからそのままゴミ箱に捨てる気にはなれず、両手でそっと抱いて甲板に出る。
少し強めの海風に煽られて、花びらは掌から飛び去っていった。
「・・・手向けの花ね」
すぐ側で様子を見ていたのか、ナミが髪を押さえながら芝生の上を横切ってきた。
「ナミさんに、手向けの花なんてって注意されたのにね」
根拠はないが、なんとなくこの花のせいで自分がおかしくなったのかなと思う。
「結果オーライよ。彼女は幸せになったわ」
サンジは顔をあげナミを見詰めた。
自分でもちょっと情けない顔付きをしているかなと、自覚はある。
「ナミさんも、その子に会ったの?」
「ええ」
「どんな、だった?」
ドキドキと、不安と緊張で心拍数が上がっていく。
意識がなかったとは言え、自分はどんな醜態を晒したのだろう。
そしてどこまで、本音を見せてしまったのだろう。

「気高くて品があって、しとやかで美しい王女様だったわ」
ただし、顔も身体もサンジ君だったけどと茶目っ気たっぷりに付け加える。
「それなのに自分に自信が持てなくて、ずっと自分を責めて後悔ばかりして、悲しみに手一杯で愛する人を信じきれない、弱い心の持ち主でもあったの」
え、とサンジは目を見開いて、ナミを見詰め返した。
「そう・・・だったの?」
ナミは微笑みながら頷いた。
「でも、サンジ君のお陰で彼女は本当に愛する人に逢えたわ。逢えたんだと、私たちは信じている」
サンジの手から飛び去った花びらは、もう波間に隠れてその色さえ見つけられない。
「200年越しの想いに決着をつけてあげられたんだもの、よかったわね」
「・・・よかった」
「そう、よかった」

そうか・・・もうすべて、終わったんだ。
ほっとしたような寂しいような、なんとも形容しがたい空虚な想いが胸に留まる。
ナミが立ち去った後、サンジは暫く海を見つめ苦い煙草を吹かしていた。






「宴だーーーーーーっ!」
なんで?と突っ込みたくなるが、サンジの快気祝いと古い恋人達の門出を祝って、その夜は宴会になった。
「いいや〜本当に素晴らしい、愛の奇跡をこの目でしかと見届けました!と言っても私目玉ないんですけども!」
ブルックが感極まった声でグラスを掲げている。
「一時はどうなることかと思ったが」
「終わってみれば楽しかったわ。ちょっぴりロマンティックな気分に浸れたし」
「サンジの飯だーっ!」
久しぶりのサンジの料理とあって、仲間達の食欲旺盛ぶりは半端ではなかった。
街でたらふく美味い料理を食べてきたのだろうに、こんな風に大袈裟に自分の手料理を喜んでくれるとなると、サンジだって張り切らずにはいられない。
「よっし、次はこれだゴム!どんどん食え!」
一応、買ったばかりの食糧を大量消費しないよう心がけつつも、サンジは存分に腕を奮った。
何よりも、こうしてキッチンに立って仲間達のために料理を作ることが一番楽しい。
何故かみんな涙目でサンジの一挙手一投足を見守ってくれるのがなんとも気味悪いのだが、きっと彼らなりに気苦労があったのだろう。
「サンジ君が台所にいて、美味しいお料理を食べさせてくれるって、幸せーっ!」
「俺もナミさんに食べてもらえてシアワセー!」
「サンジがいてくれて幸せだーっ!」
誰も止める者がいない、ハイテンションな宴の中にあり、ゾロ一人だけが黙々と箸を動かしている。
「ね、ねロビン、昼間見たあの騒ぎはなんだったの?」
思い出してナミが声を上げた。
皆もそうだそうだと、ロビンの元に集まってくる。
「あれはね、今朝いきなりイチイの木に花が咲いたそうよ」
「花が?」
「ええ、いまだ一度も花どころか蕾さえつかなかった木に、いきなり花が咲いたから大騒ぎになっていたのよ」
「おお、まさに愛の奇跡!」
皆一様に、うっとりとした表情で目を閉じた。
「あの大木に花が咲いたら、さぞかし見事でしょうね」
「なにより島の人達が一番に驚いたみたいで、もうお祭り騒ぎになっていたわよ」
「花が咲けば、実がなります」
ブルックは恭しく一礼すると、バイオリンを取り出した。
「肉体は既に無く、愛と想いもやがては消え去るものかもしれません。けれど、奇跡を形として残すことで二人の絆は永遠に語り継がれることでしょう。あの巨木の見事さは、私の脳裏にありありと浮かび上がります・・・ワタシ脳みそないんですけども!」
頓狂は口調とは裏腹に、バイオリンの弦は美しいメロディを奏で始めた。
「王女と剣士に、その崇高なる愛の奇跡に捧げます」
賑やかなラウンジの中が、ひと時静寂に包まれた。
誰もが口元に微笑みを浮かべて、バイオリンの音色に耳を傾ける。
イチイの木の意味がさっぱりわからないサンジも余計な口を挟まないで、しっとりとした音楽の中に身を任せてみる。
ナミは、王女が愛しい想い人を見つけたと言っていた。
ならば己の中にあった王女の未練も、すべて昇華したのだろうか。
そして自分の想いは―――

甘く切ないメロディに促されるように、サンジは向かいに座るゾロへと視線を移した。
驚いたことに、ゾロもサンジを見つめていてしっかりと視線がかち合う。
すぐには逸らせなくて、でも睨み付ける気概もなくて、その瞳に吸い寄せられてしまったようにただぼんやりと見つめ続けた。
何を考えているのか、ゾロも瞳を逸らすことなどせず、かと言って険のある目つきにもならず、たたサンジの瞳を見つめてきている。
ゾロの真っ直ぐな視線を受け止めることは、息苦しくて少し怖い。
でも、できることならずっとこうして見つめていたい。

王女の想いが消え去っても、不思議な出来事がただの思い出として古びていったとしても、サンジの中で
息づくゾロへの想いに、何の変化もなかった。

―――なんでだろ、俺やっぱりゾロのことが好きだ
不意に鼻の奥がつんときて、視界がぼやけた。
ゾロの瞳に焦点が合わなくなって初めて、サンジはそっと俯き視線を逸らした。




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