Ataraxia -6-




「ここが、デルドレ岬か」
険しい断崖絶壁に、荒波が飛沫を上げて押し寄せている。
「この岬はいつも荒れているみたいね。こんなところから落ちたら、ひとたまりもないわよ」
ナミが風に煽られる髪を押さえながら、恐々と下を覗いた。
「わあ、いっぱい花が手向けられてる」
「自殺の名所でもあるらしいから、気をつけてね」
そう言うやいなや、岩壁から何本もの白い手が生えてきた。
「うひゃあ!」
「脅かさないでよ、ロビン〜」
シャレにならない悪ふざけだ。

「よかった、誰も気付かなかったみたい」
丁度団体の観光客が引いたところで、麦藁の一行以外覗く者はいなかった。
「もう、ロビンったら気をつけてよね」
「ごめんなさい、つい」
意外にもお茶目な面を持つ美女は、ぺろりと舌を出して悪戯っぽく笑う。
「んで、なんでこの岬に来たんだ。サンジに入ってるのはディアドラであって、デルドレじゃないんだろ?」
俺は高い場所から海を眺めてはいけない病なんだと言い張ったウソップが、安全柵の向こうから疑問を投げかける。
「そうでもないのよね、サンジ君」
傍らに立つサンジに振り向けば、まるで吸い寄せられるように岩壁ギリギリに立つ痩身が風に揺れていた。
「あまり近付くと、危ないわよ」
ロビンがさり気なくサンジの服を掴む。
白い泡を立てて弾ける荒波から目を逸らし、サンジはゆっくりとナミを振り返った。
まるで幽霊そのもののような、精気のない表情だ。

「・・・どうして」
「貴女は200年前にここから身を投げた。そうでしょ、デルドレ姫」
ナミに言い切られて、サンジは萎れるように俯いた。
「貴女は愛するノイシウの後を追って、ここから身を投げたの。愛していたのね、心の底から彼のことを」
ナミの問いかけには答えず、サンジはまた海へと視線を移す。
そのまま軽々と身を投げてしまいそうで、ロビンは服を握る手に力をこめた。
気配を察して、ゾロがそれとなく二人に近付く。

「貴方達は愛し合っていた、そうでしょう?」
畳み掛けるような問いに、サンジは徐に首を振る。
まるで子どもが駄々をこねるように、いやいやをするように頭を振って両手で顔を覆った。
「違うんです、わかりません」
サンジの呟きは悲痛な音を伴って、荒波の中に吸い込まれた。
「私は愛していました、心の底から。でもノイシウは違う・・・」
「でも、貴女を庇って命を落としたのでしょう」
ロビンの慰めに、初めて感情を爆発させるかのように強い光がサンジの目に宿った。
「いいえ、彼が私を庇ったのは剣士としての誇り。王家に仕える者の忠誠心。ただ、それだけだったのかもしれない」
最後は嗚咽に紛れて、声にならなかった。
「―――どういうことだ?」
フランキーがサンジとナミを交互に見て、口を挟む。

「デルドレ姫とノイシウは、本当の意味で愛し合っていなかったのよ」
代わりに応えたロビンの言葉にも、仲間たちはピンと来ない。
「図書館で、エイオン将軍の手記を見つけたわ。デルドレ姫を1年間囲っていた人ね。ノイシウを失って錯乱した姫を陵辱し、乙女であったことに狂喜したと記されていた」
「・・・乙女・・・」
チョッパーがはっとして顔を上げた。
「まさか」
「そう、デルドレ姫はノイシウと結ばれていなかった」
わっとサンジがその場で泣き伏せた。
黒スーツの男が泣き崩れる様は傍から見たら滑稽なはずなのに、誰もが凍りついたように動けない。
「私の・・・せいなんです。私があの人を死に追いやった。王家に忠義を尽くし誇り高き剣士であったが故に、あの人は私を守ったのです、最期まで」
「いいえ、それは違うわ」
ロビンがきっぱりと言い放った。
「彼は貴女を愛していたのよ、命を賭けて。守りきれなかったことを悔やんでいるわ」
「そんなこと・・・」
サンジは強く頭を振った。
「そんなこと、今となってはもうわからない。確かに彼は私を好きと言ってくれた。愛していると抱き締めてくれた。なのに、共に逃げている間彼は私に触れはしなかった。くちづけさえ・・・」
両手で口元を抑え、ただはらはらと涙を流す。
「無事に国元へ帰れたらきっと一緒になろうと、そう誓ってくれたのに。あの人は私を置いて逝ってしまった。愛の証さえ残さず、ただ心だけを奪い去って―――」
後はもう声にならず、サンジは岸壁にくず折れて泣き続ける。
それでも、地面から生えたロビンの手は、サンジのスーツの裾をしっかりと握っていた。
「どうして、ディアドラだって言ったんだ?」
ウソップが途方に暮れた表情のまま、ぽつりと呟いた。
「そうだよ、なんで昔の神話の話なんか・・・」
チョッパーを遮るように、ナミが静かに首を振る。
「複雑な女心ね、デルドレはディアドラが羨ましかったのよ」
「羨ましい?」
「同じ名前、同じ境遇でありながら、ディアドラとデルドレは決定的に違う部分があった。愛する人に愛された実感ってものかしら。ディアドラはノイッシュと数年間を共に生き、幸せの記憶があるわ。そして身体で繋がった自信もね。けれどデルドレはノイシウと共に過ごした僅かな間、愛を囁いても身体を重ねることがなかったの。忠義に篤い彼は、無事祖国に姫を送り届けるまで決して触れないと誓いを立てていたのでしょう。それが彼自身のゲッシュだったとしても」
ゾロは、はっとしてサンジを見下ろした。
そう言われれば確かに、サンジは最初からゾロと身体を重ねたがってた。
あれこそが、デルドレの意識を残した証拠だったのではないか。
愛だの恋だの、普段女に囁く類のことをすべてすっ飛ばして、サンジがひたすらにゾロに求めていたのは肉の繋がり。
欲望から湧き出る情。
男でありながら、身体でゾロの心までも繋ぎとめようとした。
だから、必死だったのだ。

ゾロは、苦いものでも飲み下すように顔を歪めた。
すべてのカラクリを見てしまったようで、気持ちが白ける。

「貴女は愛されていたの、間違いないわ」
なおも続くロビンの慰めの言葉に、サンジは頭を振り続けた。
「なら何故、ノイシウは私のことを思い出さない。なぜ愛してくれないのですか。同じように生まれ変わりながら、記憶を留めたのは私一人。想い続けたのは私一人。彼は、すべてを過去に置いてきてしまった」
仲間達の目線が、遠慮がちにゾロへと注がれる。
なんの感情も表さないゾロの冷たい横顔が、それを無言で肯定しているかのようだ。
「・・・そんなことないって・・・ねえ?」
ナミのフォローも虚しく響く。

「貴女が今でも本当にノイシウを愛しているのなら、彼の元に行ってみましょう」
ロビンはひざまづいたサンジに歩み寄り、その手を肩にかけた。
いぶかしげに顔を上げるサンジに、にこりと微笑みかける。
「彼の、元へ?」
「そう。貴女と共に眠る彼の元へ」
ロビンに助け起こされるように、サンジは足を震わせながら立ち上がった。
「もう彼は亡くなったの。200年も前に亡くなったのよ。いくら彼の面影を求めたとしても、彼はもういないの」
「・・・そんな」
蒼い瞳からまた新たな涙が湧き出して、蒼褪めた頬を濡らした。
そのあまりにもストレートな嘆き方に、これはサンジだと頭ではわかっているのに思わず貰い泣きをしてしまいそうだ。
掌で鼻先を押さえ、ナミが目を逸らした。

「さあ、行きましょう。貴女もいつまでも立ち止まっていてはいけないの」
デルドレ岬へと、次の団体客が群れを成して登ってくるのが見える。
それと擦れ違うように、ナミ達はぞろぞろと列なって坂を下った。
途中、膝が抜けてつまづきそうになったサンジの腰にゾロが手を回し、殆ど抱えるように身体を密着させて歩く。
サンジはうっとりと幸福そうに顔を綻ばせたが、ゾロは終始無言で前だけを見る横顔はまるで能面のように
表情がなかった。



島の共同墓地へ続く坂道は、両脇に出店が立ち並び観光客で溢れかえる賑やかな通りとなっていた。
観光帰りのカップルなどは、手を繋ぎ身を寄せ合ってぴったりと寄り添いながら、幸せそうな様子ですれ違っていく。
「なんかラブラブって感じだなあ」
「尚のこと、サンジの悲愴感が際立つよね」
無常な仲間達の呟きも耳に入らないのか、サンジの足取りは重く姿勢も俯き加減だ。
殆ど横抱きに抱えて歩くゾロがいなければ、もう一歩も先に進めないほどに憔悴している。

晴れた空の下、綺麗に整備された木立を抜けると視界が開けた。
海を見下ろす小高い丘に、白い墓石が点々と並んでいる。
祖の中に一際目立つ、緑成す樹木が生えていた。
観光客はその前にひざまづき、祈ったり写真を撮ったりと忙しい。
「あれがデルドレの墓か?」
「そうよ、デルドレとノイシウが眠る場所」
近付くにつれ、木の形状が見えてくる。
巨大なイチイの木は根元が二つに分かれ、それぞれが長く伸びて別の場所にある墓を繋いでいるかのようだ。
「根が分かれた?」
「いいえ逆よ、別々に生えた木が引き合って一つになっているの」
「え?」
皆目を丸くしてそれぞれの根元へと視線を移す。
「デルドレとノイシウは離れた場所に葬られたのよ。けれど二つの墓から生えたイチイの木は地面を這うように伸び続け、この場所で手を取り合うように枝を絡めて、とうとう一つの木になったの」
「・・・なんと!」
ブルック感嘆の声を上げた。
「このような奇跡、ありえるのでしょうか」
「村人が枝を誘導して繋げたんじゃねえのか」
フランキーが現実的な物言いをするが、ロビンは静かに首を振った。
「そもそもイチイはこれほど枝を伸ばす樹木ではないし、一朝一夕でこんな造形はできないわ」
「まさに愛の奇跡!」
一同、さすがに感動して口を開けながらその巨木を見上げた。
ふらりとサンジが身体を揺らし、すぐ側に立つゾロに凭れ掛かる。
退くでも押しのけるでもなく、ゾロはそのままサンジを支えた。

「・・・そんな」
サンジは両手で口元を抑え、涙に潤む瞳でイチイの木を見つめている。
そこには墓があるだけだ。
だが、離れた二つの墓から確かに木が伸び、睦みあうように絡まって一つの木のように繁っている。
「ああ、そんな・・・」
くず折れるサンジの背中を、ウソップは遠慮がちに指差した。
「当人が知らないってのは、なんかおかしな話じゃね?」
「でもまあ、もう死んでる訳だし」
ロビンはサンジの肩に手を当て、慰めるように撫でた。
「想いの強さが勝ったのでしょう。あなたの意識はなくとも、死して尚お互いを求めていた。よくご覧なさい」
促されて、サンジはちいさく頤を震えさせながら涙に濡れた目を上げる。
「貴女のお墓からも、そしてノイシウの墓からも力強く枝が伸びているわ。お互いに求め合ったの、ノイシウも貴女を愛していたの」
「ああ―――」
再び両手で顔を覆い、サンジは喘ぐように息を吐いた。
そのまま地面に伏してしまうかと思われたが、気丈にも膝を立ててゆっくりと立ち上がる。
途中、ゾロの手を借りて身体を支えると、まっすぐにイチイの木を見上げた。
「ああ・・・」
もう言葉にならず、ただひたすらに青い空の下でそよぐ樹木を眺めている。
その横顔は、今まで見たこともないほどに晴れやかで美しかった。

「確かに私はここで生き、彼を愛し、彼に愛された」
誰にともなくそう呟くと、傍らのゾロをゆっくりと振り仰ぐ。
「貴方が覚えていなくても、私はそのことを誇りに思います」
思います、ともう一度声に出して囁き、真っ直ぐにゾロを見上げる。
その瞳には、彼女が目覚めて以来ずっと宿っていた悲しみや物憂げな色はなく、今日の空のように蒼く透き通ってみえた。
ゾロは、今度は目を逸らさずに、サンジと向き合うようにして見つめ合った。
掛ける言葉などないが、これが別れなのだと本能で理解できる。
「ありがとう、貴方のぬくもりは忘れません」
そう言ってはにかむように俯き、おずおずと顔を寄せてくる。
ゾロは一時動きを止めたが、息を詰めて見守る仲間達の無言の圧力に背中を押された。

サンジの腰に腕を回し、ほとんど背丈の変わらない身体をそっと抱き締める。
サンジはゾロの肩に顔を埋め、広い背中に手を回して頬を擦り付けた。
そのままうっとりと視線を流しながら、背後で繁るイチイへと顔を向けた。



「ああ―――」

ひそかに、けれど華やいだ声を上げ、サンジはゾロを両手で抱いたまま背を撓らせるようにして振り返った。
「ノイシウ、そこにいたの」

「え?」
その言葉に、仲間たちが一斉にイチイの木に注目した。
木はただそこにあり、海風に枝を揺らされるばかりだ。
もう一度サンジに視線を戻した時、サンジはゾロの腕の中で意識を失っていた。



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