Ataraxia -4-




「サンジ君?」
「・・・私の、せいなんです」
漏れ出るか細い声はどう足掻いても男のそれなのだが、醸し出す雰囲気が可憐な少女のイメージを沸かせた。
「私がノイッシュに想いを寄せたから、ゲッシュをかけてしまったから、ノイッシュは死んでしまった。彼の兄弟達もみんな、私のせいで・・・」
両手で顔を覆い、今にもわっと泣き出しそうなサンジの肩を、フランキーが太い腕を回して抱き寄せる。
「よしよーしわかった。泣き上戸だなあ、おい、先に部屋に連れて行け」
ここで愁嘆場を迎えられては困ると、機転を利かせたフランキーに無言で頷き返して、ロビンとナミは立ち上がった。
「部屋に戻りましょうか。ゾロ、サンジ君連れてきて」
「・・・」
何で俺がと言いかけて、止めた。
不機嫌な表情を隠さず荒々しく立ち上がり、フランキーに凭れ掛かっている襟首を掴んで強引に引っ張り上げる。
「・・・痛いわ」
「うるせえ、歩け」
足元の覚束ないサンジを支えるように、ゾロはやむなくその腰に手を回した。
同じ身長ながら、サンジは縋るようにゾロの肩に手を掛けてうっとりと目を閉じる。
ベルトのバックルを引き上げて横抱きにし、ゾロは大股で食堂を横切った。




ナミ達の部屋に入ると、そのままズカズカとベッドに近寄って抱えた身体をその上に放り投げた。
サンジの片手が名残惜しそうにゾロのシャツを引っ張る。
それさえ邪険に振り払い、これ見よがしに両手を叩いてみせた。
「てめえ、いい加減こいつから抜けねえとたたっ斬るぞ」
腰に提げた刀の柄に手を置き、脅しを掛ける。
サンジは乱れた前髪を撫で付けながら、身体を捻って横座りした。
「貴方に斬られるなら、本望だわ」
額に青筋を立てて鯉口を切るゾロの前に、ナミがまあまあと割って入る。
ロビンは部屋の扉を閉めると、立ち尽くしたままのゾロにイスを勧めた。

「貴方が脅したところで彼女が抜ける訳でもないから、そういきり立たないで。ちょっと話を聞かせてくれるかしら」
「なら、お前らがこいつの話を聞けよ」
出て行こうとするゾロを、身体から生えた手が引き止める。
「ダメよ、貴方にも聞きたいことがあるの」
不満げなゾロを促し、とにかく椅子に座らせた。

「サンジ君、この場合ディアドラと呼んだ方がいいかしら。貴女は後悔しているの?ノイッシュを愛したことを」
ロビンの言葉に、サンジははっと顔を上げ、周囲を憚るようにゆっくりと俯いた。
膝の上で手を握り締め、こくんと頷く。
「後悔、しているわ」
「それで・・・」
「どういうこと?」
話が見えないナミが、ロビンの横に腰掛ける。

「ディアドラとデルドレの恋物語。共通点は男性が先に亡くなっていることね。愛する人を亡くした悲しみのあまり後を追うのだけれど、どちらも取り残された哀しみがずっと消えないでいるのよ」
「取り残された・・・」
「もう一つの共通点は、どちらも女性の方が位が高かったと言うこと。つまり、ノイッシュがディアドラを連れ出さなかったら・・・ディアドラがノイッシュを愛さなかったらこの悲劇は生まれなかったわ」
「それが、後悔」
改めてサンジを見れば、俯いた頬にいく筋もの涙が流れている。
「悲しくて哀しくて涙も枯れ果てるほど泣いたのに、それでも想いが消えないのです。ノイッシュを恋しいと想う気持ちと、死なせてしまった後悔に胸が押し潰されそうで・・・」
愛しくて慕い過ぎて、自分でもどうしようもできないほど熱い想いを抱えたまま、一人生きねばならなかった。
「私は、何度もノイッシュに言った。これは罠だと。王は嘘をついている、国に戻れば貴方は殺される。何度もそう言ったのに、ノイッシュは聞き入れてくれなかった。私との逃亡生活にきっと嫌気が差していたのでしょう。私と言うお荷物を抱え、何年も異国の地で暮らすことに疲れ、私に飽きて。そして王の甘言に乗って国に帰ってしまった。裏切りと死が待つ場所へ、永遠の別れが待つ場所へ」
サンジはベッドに突っ伏し、声を殺してすすり泣いた。
短い襟足から覗く白い首筋が、小刻みに震えている。

「私がノイッシュを愛さなければ、あの人は名誉ある騎士団の剣士として戦えたのに。王の愛人を攫って逃げた汚名を着ずに済んだのに。裏切られ、殺されることはなかったのに。私のせい、私のせいで愛する人を死なせてしまった―――」
あまりに悲痛な声を上げるので、ナミは側に駆け寄ってその肩を撫でてやった。
例え遠い昔の、神話の時代の恋物語であっても、人の思慕や悲哀の感情は変わることがないのかもしれない。
「それが貴方の後悔。そして、貴方への罰?」
ロビンは冷静に言葉を紡ぎ、サンジはシーツを握り締めたまま涙に濡れた顔を上げた。

「そう、私の後悔。愛する人を死なせた罪。愛しい人を亡くしたまま、憎い男と暮らす日々は地獄だった。どれだけ泣いてもどれだけ呼んでも、もうノイッシュはいない。あまりに私が嘆き悲しむから、厭ましくなった王は私をノイッシュの仇の下へと送らせようとしたの。ノイッシュを直接殺した、憎いイーオン。あの男の下へ。王とイーオンの間に挟まれて、私は絶望したわ」
「だから、身を投げたのね」
サンジは両手で頭を抱え、ぶるぶると痙攣するように身体を震わせた。
自らが発した断末魔の叫びを、思い出したのかもしれない。

「そう、すべてを終わらせた。自分でやっと終わらせた。災いと哀しみを呼ぶもの。私はディアドラ。哀しみのディアドラ」
引き攣れたように反り返る指で、サンジは自分の腕を抱いた。
「呪われた娘。私は人を愛してはいけなかったのに。生まれる前にわかっていたのに。最初から、死んでいればよかったのに―――」
「サンジ君」
ナミはその肩を抱いて、自分の胸に抱き寄せた。
とても演技とは思えない、嘆き悲しむ痛ましい姿は見ていられない。

ロビンはサンジの頭にそっと手を添えて、その金糸を優しく梳いた。
「生まれる前にドルイド僧に予言されていたわね。この娘は類まれなる美しさを持っていて、その美しさゆえに争いが起き、幾人もの血が流れると」
「実際に、そうなったってこと?」
問いかけるナミの前で、ゾロは相変わらず憮然としたままだ。
「結果的にはね。でもそれは、そもそも“予言”があったから成り立ったことだと思わない?もしもドルイド僧が、まだ母親のお腹の中にいる胎児のことを予言しなかったら、少なくともディアドラと名付けられることはなかった」
泣き濡れていたサンジが、はっと顔を上げた。
「災いと悲しみを呼ぶもの――“ディアドラ”と名付けられたから、人々は恐れ遠ざけたのよ。確かに、予言どおりに美しい女性だったけれど、その予言さえなければただの美女として、幸せに暮らしたのかもしれない。王の庇護の下で隠すように育てられるような運命は避けられたかもしれない」
「そうね」
ナミはサンジを元気付けるように頷いた。
「そうよ、お節介なその坊さんが生まれる前から予言なんかしなかったら、貴女は普通の娘として・・・ちょっと綺麗過ぎる娘として平凡な人生が歩めたかもしれないわね。そしてノイッシュと出会い恋をして、祝福されて結婚していたかもしれないのに」
「―――私が・・・」
サンジは信じられないと言った風に、両手で頬を押さえて首を振った。
「ねえ、運命を捻じ曲げられたのは貴女の方よ。貴女もまた、おかしな予言の犠牲者と言えるわ。確かに貴女を奪い返すために王が取った策で、結果的に戦いが起こり多くの血が流され、王家を支えるべき家臣が去り、国は滅びた。貴女は予言どおり、“災いと悲しみを呼ぶもの”だった。けれどそれは、最初に予言ありきよ。予言の名の下に作られた運命とも言えるわ」
ロビンはサンジの手を取って、そっと胸に引き寄せた。
「だから貴女の罪ではないの。生まれたことも育ったことも、ノイッシュと出会ったことも恋に落ちたことも、決して貴女の罪ではない。そして物語の主人公は貴女だけじゃない。王もノイッシュも、みなそれぞれに選んで愛して生きた。運命を歩んだのは彼ら自身。貴女を愛したノイッシュの気持ちもまた、彼のものなの」
サンジはロビンの胸元に両手を添えたまま、嗚咽を漏らした。
痩せた肩が震え、丸めた背中が何度かしゃくり上げる。

ロビンがサンジの背中を撫でている間に、ナミはゾロに目配せをして静かに部屋を出た。
ゾロも気配を殺し、その後に続く。
扉を閉めてしまってから、ナミはほうと息を吐いてゾロに向き直った。
「・・・やっぱり、サンジ君の中にはディアドラがいるのね」
ゾロは何も応えず、閉ざされた扉の向こうを見透かすように睨み付けている。
「と言うわけで、後はゾロにお願いしたいんだけど」
「あ?」
いきなり振られて、ゾロは胡乱げに振り向いた。
「今の様子を見てわかったと思うけど、これはもうゾロしか解決できないのよ」
「・・・なにをだ」
嫌な予感がするのか、ゾロの顔が引き攣っている。
「だって彼は今、恋する乙女なんだから!」
心なしかナミの目が爛々と光って見えて、ゾロは思わず一歩後ずさった。
「だからお願い。ディアドラの望みを叶えてあげて」
「あ?」
片目を眇め、凶悪な顔付きで聞き直すゾロにも怯まず、ナミは潤んだ瞳で正面から詰め寄った。
「だって可哀想じゃない。自分が愛した男に対して、しょく罪の気持ちしか抱いていないのよ彼女は。だから成仏できないのよ。愛する男の“愛”が信じられないの。とは言え、相手はもう死んじゃってるし、このままじゃ彼女は罪の意識に苛まれて嘆くばかりでサンジ君から抜けてくれないでしょう。だからお願い。ゾロ、あんた彼女をなんとかしてやって」
「なんとかってなんだ」
いつの間にか、階下から仲間たちが上がって来ていて、ナミとゾロの様子を窺っていた。
「幸いあんたは彼女の想い人にそっくりなんでしょ?だったら生まれ変わりだとかなんとか言って、とにかく彼女が納得するまで愛してあげなさいって言ってんのよ」
「―――あ?」
「ひっ」
「げ」
「ひょおっ」
ゾロのみならず、傍で聞いていた仲間たちも一様に目を剥いて、がくんと顎を下げた。

「おいおいおい、いきなり何言い出すんだよナミ」
「つか、普通に聞いてても、ものすごーく怖い話を聞いた気がするんだが・・・」
「愛・・・愛・・・愛してって・・・」
うひゃーとかどひゃーとか男共が騒ぎ立てるのに、当のナミは真剣そのものだ。
「あんただって、さっきの様子を見たでしょう。可哀想でしょ哀れでしょ。なんとかしてやんないと成仏できないってわかるでしょう。だからなんとか・・・つまり、アレコレしてやんなさいって言ってんの」
「―――」
ゾロは一旦口を開きかけたがすぐに閉じて、ぎゅっと眉根を寄せしかめっ面しい顔つきになった。
「そりゃあ、あんただって不本意でしょうけど。わかるわよ、私だって鬼じゃないんだからあんたの気持ちくらいわかるわ。いくら“彼女”と言えども、身体はサンジ君。よりによって生まれついての天敵みたいなサンジ君の顔をしてたら萎えるってのもよーくわかるわ。わかるけど、お願いだから外見には目を瞑って・・・ついでに身体的特徴も気にしないでやってほしいの」
「や・・・やるって・・・」
まるでゾロの代わりのように、ウソップ達が背後で七転八倒している。
「彼女がどの程度で満足するのかは、まあ彼女次第だから私もとやかく言わないけど、キスくらいはしてあげてもいいじゃない。その先は・・・まあ、そん時の雰囲気で」
「おいおいおい」
ルフィまでもが揃って突っ込んでいる。
「心頭滅却すれば、火もまた涼しって言うんでしょ?」
「や、違うからそれ」
ゾロが何も言わない代わりに、ギャラリーが順番に突っ込んでいくがナミは意に介さない。

「ディアドラ成仏のため、サンジ君奪回のため、ひいては麦藁海賊団存続のためにひと肌脱ぎなさいよ。男でしょ!?」
無茶苦茶な論理を振り翳すナミを前にして、ゾロは内心途方に暮れていた。
ナミの発想もわからないでもないが、いかんせん自分たちは既に肉体関係にまで発展している間柄だ。
サンジに憑り付いている女は既に勘付いているし、キスだのナニだのまさに今更な話で、それで易々と成仏するとはとても思えない。
だがそのことを理由として、仲間たちに洗いざらい話すわけにもいかないだろう。
ゾロは別に構わないが、サンジにも立場と言うものがある。

「・・・俺は、嘘はつけん」
ゾロが言えるのはそれだけだった。
「嘘をつけとまでは言わないわよ。けど、ちょっと優しくしてあげてもいいじゃない」
「コックでもあるまいし、俺は誰にでも愛想よく振る舞えねえし、中途半端な真似もできねえ。そもそも好きでもない相手を口説けるか」
「ほんっとに融通の利かない男ね。ふりでいいって言ってんのよ」
「ふりだけであの女が満足すると思ってんのか、あれは筋金入りだぞ。下手すりゃコックん中に居座って戻らなくなるかもしれねえ。そっちの危険性のが高いと思うがな」
ゾロに言い返されて、ナミはぐっと言葉に詰まった。
確かに、その可能性もありうる。
「そりゃあ困る。サンジは返してもらわないと」
「サンジー、飯〜」
「サンジ〜」

カチャリと音がして部屋の扉が開き、ロビンがそっと顔を出した。
「ごめん、うるさかった?」
ナミの問いに首を振り、そっと後ろ手に扉を閉める。
「大丈夫よ。泣き疲れて眠ったわ」
誰ともなくほうと詰めていた息を吐き、それからくくくと肩を震わせた。

泣き疲れて眠った・・・サンジが・・・
「・・・ダメだ、まだ面白い。面白いけど、これに慣れてちゃいけないんだ、サンジを取り戻さねえと」
「むしろ、キャラとしてはこれもありかなと」
「ダメだって、サンジの飯が食べられなくなるんだぞ」
くすくすと笑いを含みながら、男共は困った顔を取り繕って囁きあっている。
状況としてはやはり滑稽なのだが、事態は深刻と言えなくもない。
「あんた達、本気でサンジ君を元に戻そうとか思ってるんでしょうね」
ナミが腰に手を当てて改めて問えば、皆一様に大きく頷いた。
「勿論だ。お姫様サンジも面白いけど、やっぱりサンジはサンジがいい」
「俺はサンジの飯が食いたい」
「サンジさんがあってこその、麦藁海賊団だと思います」
「飯だけじゃねえよ、眉毛の兄ちゃんは」
「サンジがいねえと、これからの航海は難しいぞ」
ナミはロビンを振り返って、肩を竦めて見せた。
「お払いとか、そっち方面かしら」
「ゾロの協力は?」
ゾロのみならず、全員が黙って首を振る。

「こうしていたってラチが明かないわね。とりあえず今夜は休みましょうか」
「そうだな、長丁場も覚悟しないと」
「何か解決の糸口があればいいんだけどなあ・・・」
口々にぼやきながら、仲間たちはそれぞれの部屋へと散っていく。
ロビンはサンジが眠る部屋にゾロを手招いたが、ゾロは首を振ってウソップ達の部屋を指し示した。
行きかけて、ふと振り返る。
「俺に一つだけわかっていることがある」
ついでとばかりに口を開いたゾロに、ナミが足を止めた。
「なによ」
「あの女、ディアドラじゃねえぞ」
「―――は?」
いきなりの指摘に、ナミとロビンは揃って口を開けた。
「何言い出すのよいきなり、ディアドラじゃなきゃ誰なのよ」
「デルドレだ」
ゾロはこともなげにそう言うと、部屋に入り扉を閉めてしまった。





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