Ataraxia -2-


「そうね、髪と肌の色が同じだわ。瞳は綺麗な蒼ね、私は緑だったの」
サンジは繁々と手鏡に魅入って、自分の髪を梳いた。
「髪の長さは?」
「生まれてから揃える以外に切ったことがなかったわ。緩くウェーブがかかってて・・・」
「顔立ちはどう?」
「少し似てるかも・・・でも、眉毛はこんなんじゃないわ」
サンジの口から出た率直な意見に、その場に居合わせた仲間達は一同に噴き出した。
ロビンが横から口を挟む。
「ディアドラは絶世の美女よ。『波打つ金髪みどりの目 ジギタリスのごと赤き頬 比すべきものなき乙女なり。雪より白き歯並びに 火のごとく赤き唇』・・・よ」
「ふえ〜難しいな」

サンジを船縁に腰掛けさせ、ウソップは先ほどから熱心にスケッチをしていた。
サンジの口から語られるディアドラの言葉を聞けば聞くほど、現実のサンジの容姿とのギャップに混乱してしまうから、イメージ画を作りたいと言い出したのだ。
サンジの中にいるディアドラがどんな女性なのか、統一したイメージがあった方が仲間達も混乱なく接しやすい。


「海って綺麗ね。こんなに広くて輝いているなんて知らなかった」
サンジは手鏡を膝に置いて、遠くを眺めた。
「今日は天気が良くて凪いでるから綺麗だけど、荒れた海は恐ろしいぜ。姫様には無理だろう」
スケッチする手を休めないで、ウソップが返事をする。
「そうね、荒れた海の恐ろしさも、少し覚えている気がするわ」

サンジの物憂げな横顔を写し取り、長い金髪を描いていく。
きっと瞳はもっと大きく、睫毛も長いのだろう。
唇はふっくらとして頬は丸く、あどけなさが残る笑みを浮かべているに違いない。



潮風に吹かれながらスケッチをする二人を眺め、ロビンはデッキチェアから身を起こした。
「どう思う?」
新聞を眺めるナミに、声をかける。
「現実問題として、サンジ君が不在なのは痛いわね」
ナミは溜め息をつきながら新聞を折りたたんだ。
「でも、どうしてああなったのか原因がわからないし・・・」
「私の意見としては、もう一度あの島に戻ったほうがいいと思うわ。今なら間に合うでしょう?」
「戻る?あの岬のある島へ?」
ナミは一旦目を瞠ってから、う〜んと眉を寄せた。
「・・・確かに、こうしていてもサンジ君の中からお姫様が抜ける手立てはないんだけど、本当にあの伝説が原因なのかしら」
「話の整合性を考えると、確率は5割ね」
「そんなに低い?」
ロビンはカップを口元に持って行き、小さく頷いた。

「たまたまタイミングが合ったから同じ話かもと思っただけで、共通点は男性の方が先になくなって女性は生き残った・・・その部分だけよ。あの岬のことは新聞の広告欄でしか情報がないし、そのお姫様の名前が『ディアドラ』だったのかもわからない」
「そう言われれば、そうかも」
「そもそもサンジ君はノース出身だから、ディアドラの伝説は子どもの頃から知っていた可能性が強いわ。ノースではポピュラーな話だし。それが、丁度岬を通りかかって似たような伝説を聞き、無意識に元々知っていた伝説とリンクさせて暗示にかかってしまった・・・」
「暗示、ですって?」
ナミは船先に視線を移し、声を潜めた。
「どういうこと?」
「サンジ君にはディアドラ姫がとり憑いている訳じゃないって可能性もあるということ。単に暗示にかかって自分の中に姫がいると思い込んで、そう振る舞っているのかもしれない。無論、無意識でよ。わざとじゃないわ」
「そんなこと」
ナミは戸惑って、船縁に座り海を眺めるサンジを盗み見た。
「いくら暗示でも、あんなに完璧に振る舞えるものかしら。外見はともかく、サンジ君の仕種も話し方も完璧に女性のものよ。歩き方ひとつ違うし、第一サンジ君なら半日だって、キッチンに立たずに過ごすことなんてできやしないわ」
「それは、そうかもしれないわね」
ロビンも思案気に頷く。

「第一、サンジ君が何故暗示にかかるのよ。そりゃあ、あの岬の伝説を聞いたとき随分と同情的だったし、それにちょっと様子がおかしかったのも事実だけど・・・」
「そうよナミ、私もそこが引っ掛かったの」
カップを持った手の人差し指をひょいと上げる。
「元々、サンジ君はちょっとした鬱屈を抱えていたようね。私がこの船に乗った時からすでにあったようだけど、少なくとも平面上はそんなことおくびにも出さないで明るく振る舞っていたように思うわ。私の考えすぎかしら」
「うーん、私はロビンより長く側にいるけど、そこまで気付かなかったなあ。けど、少なくとも岬の伝説を聞いているときのサンジ君の表情は尋常じゃなかった気がする。急にあの島に寄りたいとか言うし」
「あら、あれはナミとの恋愛を成就させたいからじゃなかったの?」
「本気なわけないじゃない、大体ああいう見え透いた誤魔化しをするところが腹が立つっていうか、ちょっと可愛いっていうか」
お互い、顔を見合わせてくすりと笑った。

「私、本当に最初は、サンジ君はナミにぞっこんなんだと思っていたのよ」
「間違いじゃないわよ、サンジ君は私にぞっこんよ。ただし、恋愛とは違う種類みたいね。しかもそういう
 意味じゃロビンにだってぞっこんよ」
「違いないわ」
声も立てずに笑ってから、ロビンは切なげに眉を寄せた。
「でもね、だからおかしいなって思ったのよ。サンジ君があなたに恋焦がれて悩んでいたなら話はわかったの。けれどどうもそうじゃない。とても真剣に、そして一途な想いのはずなのに相手がナミじゃないのなら、彼は一体誰に心を乱していたのかがわからないわ」
「それが、今回のことでわかったってこと?」
ナミの目が、愉快そうな光を湛えて眇められた。
「当ててあげましょうか。サンジ君の想い人はゾロ。自分でも認めがたくて、どうしようもない気持ちを持て余していた時に、あの岬の伝説を知りいきなりシンクロした・・・違う?」
ロビンはこくりと頷いた。
「安直かしら」
「・・・あり得なくはないけど・・・でもねえ」
ナミは改めて、繁々と船縁に座るサンジの横顔を眺めた。

「なんせサンジ君とゾロよ。寄る触ると喧嘩ばっかりで、おおよそ気が合うとはいえない間柄だけど・・・まあ、不思議と意見が合う時もあったけどね、でもねえ・・・」
「あの二人に、お互い恋愛感情が生まれていたかどうかは問題じゃないわ。要はサンジ君が意識していたかどうか、よ。サンジ君自身、理由のつかないモヤモヤを抱えていただけだとしても、通りすがりの悲恋の話を聞いて同情し、ついでに無意識にでも慕っていたゾロをノイッシュと見立てて暗示にかかるということは、あり得るわ」
ナミはとんとんと顎を叩きながら、口を尖らせた。
「ってことはロビンは、サンジ君にディアドラ姫が憑依したとは思わない派なのね」
「どういう派閥かはわからないけど、意見としてはそちら側」
両手を合わせて横に置くジェスチャーをして、ロビンは悪戯っぽく瞳を煌めかせた。
「じゃあちょっと違う見方をしましょう。例えばナミ、あなたがある日目覚めたら見知らぬ男性の身体の中に入っていました。つまり、目が覚めたら男になっていたの。どうする?」
「・・・うげ」
途端、ナミは嫌そうに顔を顰めた。
「この身体が、いきなり知らない男の身体になってるってこと?うわー、想像しただけで嫌だ。つか、その前にちゃんと確かめるかも。どこがどうなってるのかとか・・・」
「そうね、私もそうよ」
ロビンは真顔で頷き、そっとナミに額を寄せる。
「普通はそうだと思うのよ。いくら古代の姫様でも、目覚めてすぐに男の身体の中にいると知ったらパニックを起こすのが普通。でも彼女にはそれがなかった。まるで、最初からサンジ君の中にいたかのように自然で馴染んで・・・そういう意味で、リアリティがないの」
「ああ〜、わかるわそれ」
ナミは降参したように両手を上げた。
「そう言われればそうかも。うーん、ほんとのところどうなんだろう」
肘を着いて顎に手を当てる。
「サンジ君の恋心が発動した暗示なのか、それとも本当に岬の伝説の影響なのか。どちらにしろ、あの島に戻った方が情報を得られるだけ前向きだわね」
「もしも暗示だけだとしても、それがいつ解けるのかは予想できない。よほどの時化か食糧不足にでもなってギリギリに追い詰められてから暗示が解けても被害は甚大よ」
「なんせ、海のコックが不在なんですものね」
はーあと諦めたように息を吐いて、ナミは立ち上がった。
「そうと決まれば早い方がいいわ。船長に航路の変更を提案してみる」
「お願いね」



「うっし、できたぞ!」
ウソップの快活な声が響いた。
釣り糸を垂れていたチョッパーとフランキーがどれどれと駆け寄ってくる。
「どうだ、俺様が全身全霊を傾けて描いた、絶世の美女だ!」
「おおーっ」
仲間達が、素直に感嘆の声を上げる。

スケッチに描かれた少女は、サンジの面影を残しつつも豊かな金髪と柔らかな頬を持った麗しい乙女として描かれていた。
数種類の色鉛筆を駆使して色付けされ、それなりに深みのある肖像画に出来上がっている。
「まあ」
サンジは頬を染め、嬉しそうにその絵に魅入った。
「こんな感じなのか?」
チョッパーのあどけない問いに、こくりと小さく頷いて微笑む。
「なるほどなあ、こんな姉ちゃんなら許す」
「なにを許すんだ」
「すみません、パンツ見せていただいてよろしいですか?」
「サンジのパンツだぞっ」
「サンジ〜飯〜〜〜〜」
やいやいと盛り上がる仲間達の中からひらりと紙を取り上げて、サンジは船縁から降りた。
「これ、暫くお借りしていいかしら」
「あ?まあいいけど」
サンジは微笑んだまま、大切そうにウソップが描いたスケッチを胸に抱えて後方に駆け出した。

「あれ・・・もしかして・・・」
「いいや俺は何も見なかった気付かなかった何も聞いてないぞ俺は」
「怖いよなー」
「恐ろしい〜」
「腹減った〜〜〜〜〜」




長い足で踊るように階段を昇り、みかんの木の繁みに分け入った。
降りそそぐ陽射しを避けるように木陰に寝転んだ姿を見て、うっとりと目を細める。
「ノイッシュ」
小さく呟き、その傍らにひざまづいた。
「ノイッシュ起きて、愛しい貴方」
「その呼び方はよせといっただろうが」
ゾロは目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、寝返りを打った。
「これが私よ、ちゃんと見てちょうだい」
サンジの手が肩に触れ、強い力で起こそうとする。
その力強さと大きさに、側にいるのがサンジ自身だと思い知らされてゾロは益々不機嫌になった。
「うるせえ。いい加減、気色悪いことしてんじゃねえ」
肘で軽く払い、渋々身体を起こす。

「見て、これが私」
サンジが手にしているのは、ウソップのスケッチだ。
ほんの少しサンジの面差しを残した、憂いを帯びた美少女が紙面に描かれている。
「とても上手に描けているわ、私にそっくり。思い出さない?」
「知るか」
ゾロはちらりと視線を流したが、さして頓着せず目を逸らした。
「てめえの頭が前からイカれてたのは知ってるが、船の仲間まで巻き込んで茶番を演じてんじゃねえよ」
吐き捨てるゾロの顔を、サンジは臆することなくじっと見詰めている。
「ノイッシュ、どうして?」
「その名で呼ぶなと言っただろうが」
ゾロは一旦拳を握り締めたが、その腕は動かなかった。
サンジはふっと微笑んで、ゾロから視線を外す。
「それでも貴方は、この私・・・今私がいる身体を嫌ってはいないのでしょう?」
「ああ、何言ってやがる」
ゾロの声が一段と低くなり、瞳が剣呑な光を帯びて眇められた。
「昨夜、この身体は愛されていますね。貴方以外の誰かかとも思ったけれど、違うみたい」
「・・・てめえ」
握った拳に力が入った。
「暴力や強制ではなく、とても愛されていました。女ですからわかります」
「てめえは、女じゃねえだろっ」
汚いものでも見るかのような嫌悪に満ちたゾロの顔を、サンジは笑みを浮かべたまま見詰め返した。
「女ですわ。その証拠に、貴方はその拳を私に振り上げない」
ゾロは射殺さんばかりの目付きになったが、先に目を逸らし背を向けた。
「お前が誰だろうがなんだろうが、俺は俺だ。二度とその名で呼ぶな」
「貴方が、ゾロでも―――」
立ち去るゾロの背中に、聞こえるように力を込めて言葉を紡ぐ。

「貴方が何者でも、愛しています。私もこの身体も、すべてを記憶に留めて愛し続けます。それが、私にかけられたGeis」
「なに?」

振り返った時、サンジはもうみかん畑から姿を消していた。





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