Ataraxia -1-



亡き王女に捧げられた一輪の花が、誰もいないラウンジでひっそりと花開いた。









男衆の中で、サンジに次いで早起きなのはチョッパーだ。
一般的に年寄りは朝が早いと言うが、ブルックは例外のようで。
「元々低血圧なんですよ〜私、血液ないんですけどもーっ」と叫んでいたかも知れない。

ともかく、その日モソモソと起き上がったチョッパーは、顔を洗うべくベッドから降りてふと違和感を覚えた。
何かが違う。
いつもと違う。
鼻をクンクン嗅ぎながら、もう一度薄暗い部屋の中を見渡した。
夜目にも光る金髪を認めて、ああと納得する。
いつもなら、誰よりも早く起きて朝食の支度をしているはずのサンジが、まだ寝ていたからだ。
―――具合でも悪いのかな?
チョッパーはそっと近付いてサンジの様子を窺った。
見たところ呼吸に乱れはなく、顔色にも変化はない。
―――疲れてるのかな…
たまには寝坊させてあげようと、静かに離れかけた時サンジが小さく身動ぎをした。
二、三度瞬きを繰り返し、ゆっくりと瞼が開く。
「ゴメン、起こしちゃったか?」
チョッパーが声を掛けると、促されたように視線が動いた。

驚愕を表すかのように、一瞬蒼い目をみはり、すぐさまいぶかしげに眇られる。
「サンジ?」
明らかなサンジの狼狽ぶりに、チョッパーは改めて向き直った。

サンジは黙って、じっとチョッパーを見つめている。
いつもより大きく見開かれた瞳は光を弾くかのように潤んでいて、視線が合うと何やら落ち着かない気分になった。
「大丈夫か?」
居たたまれなくて、熱を図ろうと蹄をかざした時、サンジはようやく口を開いた。

「おまえはだあれ?」

「―――は?」


見つめあったまま、しばし沈黙が流れる。
サンジは相変わらず、臆することなくチョッパーを見上げているが、なんとなく首を傾けていてその仕草は幼く映った。
「…サンジ?」
尋常ならざる何かを感じて、チョッパーは一歩後退る。
その時、遠慮がちに男部屋のドアがノックされた。

「ごめんー、ちょっといい?」
顔を覗かせたのはナミだ。
チョッパーとサンジの姿を認めて、表情を和らげる。
「起きてたんだ。いえね、ラウンジにサンジ君の姿がないもんだから心配になって・・・」
「ナミ、サンジの様子が変なんだ」
救いの神が来たとばかりに、チョッパーはナミに駆け寄った。
その動きで、寝汚い男たちも少しずつ目覚め始める。
「どうしたの、やっぱり具合が悪いの?」
「ふわあ、どうしたってえ?」
「あーよく寝た〜」
次々と起き上がり、伸びをする男たちのむさ苦しさに顔を顰めながら、ナミは男部屋に足を踏み入れた。

やはり、サンジの様子が明らかにおかしい。
どんな日でもナミの顔を見たら開口一番「今日も麗しいーっ」と叫ぶ反射的な習性がついているはずなのに、ただ呆然とナミを見上げるばかりだ。
「サンジ君、大丈夫?」
背後から、ロビンも顔を覗かせた。
「朝食の支度は私とナミで適当に済ませたから、寝ていてもいいのよ」
するとサンジが身体を捻ってゆっくりと起き上がった。
その仕種にぎょっとして、ナミの足が止まる。
「え、何やだサンジ君・・・キショい」
あんまりな言い草だが、少なくともその場に言い合わせた仲間は全員感じたことだ。
起き上がるサンジの動作が、明らかにサンジのものではない。
両膝を揃え、横座りの体勢で不安げに見上げる瞳は、朝日を受けて潤んでいた。

「あなた方は、どなた?」

「―――は?!」



成り行きを見守っていた全員が凍り付く。
遅れて伸びをしていたルフィも、目を擦りながら首を傾げた。
「あれえ、なんかサンジじゃねえみたいだぞお」
「はあ、何言ってんのよルフィ」
サンジ当人に突っ込めず、ナミはルフィに振り返った。
「サンジ君・・・よねえ」
うろたえて再度向き直ったナミの形相に、サンジは怯えたように身を竦めた。
片手を胸の辺りに当てて身じろぐ、その仕種がまた恐ろしいほどに似合わない。

「なにやってんだ?」
ロビンの背後から掛けられた声に、男部屋全体に漂っていた緊張感が一気に解れた。
「ゾローっ」
なぜか助けを求めるように、チョッパーが駆け寄ってくる。
「あんたどこ行ってたのよ」
「倉庫で寝てた」
ボリボリと腹巻の下を掻きながら、ロビンとナミの間を通り過ぎる。
異様な雰囲気にふと足を止め、まだ寝床の中にいるサンジに気付いた。

「ノイッシュ!」
言うや否や、サンジはひらりと寝床から降り一目散にゾロへと駆け寄った。
ためらいもせず、そのまま胸の中へと飛び込む。
「うっ」
「ひっ」
「えええええ?」
仲間それぞれが素っ頓狂な声を上げその場で凍りつく。

抱きつかれたゾロ当人も驚愕を隠せず、仁王立ちの形で硬直していた。
目を見開いて、今飛び込んできた物体を凝視している。
押し退けようと持ち上げた両手が空中で止まり、時間が止まってしまったかのような中途半端な体勢でゾロは視線を泳がせた。
がぼーんと口を開けているルフィと目が合うと、どちらからともなく頷き合う。
「・・・こいつは、誰だ」
「さあ?」
誰もが金縛りにでもあったかのように動けない中で、ゾロの胸に顔を埋めるサンジだけが幸せそうに微笑んでいた。






幸い、昨夜から仕込んであったパンのお陰でいつもと変わらない朝食を準備することができた。
どんな状況でも衰えぬルフィの食欲を筆頭に、豪快に飲み食いをするクルー達の中にあって、ゾロだけは一人思案顔で腕組みをしている。
視線の先には、ラウンジの最奥に腰掛けじっと己を見つめる、見たこともない表情のサンジがいた。

「コーヒーをどうぞ」
ロビンが温かなカップを目の前に置き、小首を傾げた。
「紅茶の方がよかったかしら」
その問いにゆっくりとサンジは首を振り、微笑み返す。
「いいえ、いただきます」
恐る恐るといった感じでカップを手に取り、鼻先に近づけた。
「・・・不思議な香り・・・」
「熱いから、ゆっくり飲んでね」

ナミは頬杖を着いて、そんな二人の様子を眺めている。
今朝、目覚めた時から明らかに様子が違うサンジ。
背凭れのないイスに腰掛ける姿は、いつものサンジのものとは違う。
誰かに似ていると考えて、ようやく思い当たった。
ビビだ。
背筋をしゃんとのばし、顎を引いて視線を落とす姿勢は泰然として、気高さを感じさせる。
話し方といい上品な物腰といい、おっとりとしたあの王女にそっくりではないか。

「ひと通りこちらの自己紹介は済ませたわね。それじゃあ、貴方のお名前を教えてくれるかしら」
好奇心を隠さず、ナミは単刀直入に聞いた。
いくら雰囲気が違うとはいえ、目の前にいるのは所詮サンジだ。

「私は、ディアドラと申します」
サンジはまだ口をつけていなかったカップを置いて、ナミに向き直る。
まっすぐに見つめられると、いくらサンジだとわかっていてもなぜだかドキドキとしてしまった。
吸い込まれるような、ただ揺れているだけのような、不思議な瞳の色。
サンジ君は、こんな目をしていたかしら。

「ディアドラ・・・女性なの?」
「はい」
ああなるほど、とその場にいた全員が妙に納得する。
サンジの纏う雰囲気と仕種、話し方のどれをとっても“女”でしかありえない。

「どこからいらしたの」
「あまり、覚えていないのです。生まれたのはノースのコラーノスですが、どうしてここにいるのかが・・・」
「順を追って教えていただけるかしら」
小さく頷く、サンジのものではない横顔を、その場にいる全員が固唾を飲んで見守っていた。

「私は、母のお腹の中にいるときに悲しい叫びを上げたといわれています。それ故に、悲しみをもたらす不吉な娘として、ディアドラ“災いと哀しみをもたらすもの”と名づけられました。幾度か殺されかけましたが、コラーノスの王が私を庇護しそこで王女として迎え入れられたのです」
「・・・ディアドラ」
ロビンは額に手を当てて暫く考え事をしていたが、ふと顔を上げた。
「思い出したわ、悲しみのディアドラね。古い神話の中のお姫様」
「元々は姫ではありません」
その表情は暗く物憂げだ。
サンジがサンジでないと一番に言い切れるのは、この貌だからだろう。
この世のすべての悲劇を背負ったような、悲しげな瞳。
青褪めた唇は嘆きしか紡がず、輝く瞳から溢れ出るのは涙より他にない。

「そう、姫ではなくコラーノスに囲われていたのね」
こくりと、サンジは小さく頷いた。
「幼い頃より、王のモノとして私は育ちました。城の外の世界など知ることもなく、窓を通してしか空の青さも夜の深さもわかりませんでした」
そんな頃、城の晩餐会で出会ったのが剣士の誉れ高かったノイッシュだった。
コラーノスに仕える騎士として厚遇されていたノイッシュとディアドラは、たちまち恋に落ちた。
その情熱のまま二人は駆け落ちし、幸せな一年を過ごす。
「けれど王の追っ手は容赦がなく、とうとうこの近くの岬に追い詰められてノイッシュは殺され、私は再び王に捕らわれたのです」
「・・・ん、ちょっと待って」
おとなしく聞いていたナミが片手を伸ばす。
「どこかで聞いた話じゃないの。岬から戦士が落ちて、捕らわれた王女様」
「さっき通り過ぎた島の伝説だわ」
「しかし、微妙に内容が違いますヨホホ〜。ノースから攫われた姫様を取り返すために戦士が追ってきたのではなかったでしょうか」
「伝説は大概、民衆の同情を引くようにアレンジされてくもんじゃねえか」
したり顔で頷くフランキーに、ナミもなるほどと顎に手を当てた。
「あるいは、王の愛人が駆け落ちしたと言うより攫われた王女を救い出す途中と言った方が、島人の同情も得られるものね」
ぽかんと口を開けて聞き入っていたウソップが、やっと口を挟んだ。
「事情はわかったとし、それでなんでサンジの中にそのお姫さんがいるんだよ」
「そうねえ」
「そうね」
改めて全員の視線がサンジに集まる。

「サンジ君はノースの出身だから・・・じゃない?」
「確かにこの船でノースの出は眉毛の兄ちゃんだけだが、世間で言うならごまんといるだろ」
「ディアドラとニーシャ・・・ノイシュ・・・」
ロビンは難しい顔をして考え込んでいる。
「とにかく、一番問題なのはサンジの飯が食えないということだ!」
いきなりルフィが発言した。
誰しもがはっと顔を上げ真剣な顔つきになる。

「正論だ」
「まさしく正論だ、しかも由々しき自体だ」
「お姫様が船にいらっしゃるのは嬉しいのですが〜本体がサンジさんでは非常に残念ですヨホホ〜」
「一体なんでこうなったの、しかもどうやったら元に戻るの?」
「戻らねえと、この先航海を続けるのは難しいんじゃねえのか」
「チョッパー、なんとかしてよ」
「とにかく医者を呼ばなきゃっ」
「「「「医者はお前だ!」」」」

騒然となったラウンジで、サンジは真っ直ぐに、ただ一人の人間を見つめていた。
「・・・私がなぜこの船に呼び寄せられたのか、わかる気がします」
凛とした声音に、口々に騒いでいた仲間たちの動きがぴたりと止まる。
「え、なにがわかるの?」
勢い込んで尋ねるナミにも振り返らず、サンジは前だけを見つめ続けた。
正面に座りずっと腕を組んでいる、ゾロの顔を。

「彼がいるからです。私の最愛の恋人、命を懸けて愛したノイッシュ。愛しい貴方」


「「「「「「はあっ?!」」」」」」

再び凍りついたラウンジの中で、ゾロは一人苦虫を噛み潰したような顔をして座っていた。



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