Apfel In Schlafrock -3-




―――我々は、諦めません
ドミノの凛とした声が、いつまでも耳に残っている。
彼女は一旦こうと決めたら、容易には引かない性格だろう。
それに、実行しようとしているのは彼女一人ではなく、恐らくは組織ぐるみで。
社命を受けて動いているだけだとしたら、それだけ余計冷徹になれるかもしれない。
あれだけの現金を用意できる程なのだから、一体どんな手を使ってくるのか・・・



サンジは自然と漏れそうになる溜め息を押し殺して、一人で肩を竦めた。
つい、ソースを加熱し過ぎてしまいそうになって慌てて火から下ろす。
どうも今日は注意散漫だ。
「チビなす!」
「そう呼ぶなっつってんだろが」
不機嫌に振り返れば、オーナーはさらに不機嫌な顔付きで腕を組んでいる。
「もういいから表に回れ、お前じゃ役に立たん」
なにを・・・と言い返しかけて、ぐっと堪える。
確かに、今の自分じゃ調理に専念できそうにない。
接客で気を紛らわす方がいいかもと、オーナーにはぶつくさ文句を返しつつ素直にフロアに出た。

ディナータイムもピークを過ぎて、店内は穏やかに談笑する客達の声が静かに響くだけのどことなくゆったりとした雰囲気だ。
その中で何か動きはないか、それとなく気を配っていたら玄関の扉が開いた。
「いらっしゃ・・・」
顔を覗かせたゾロに、思わず絶句する。
ゾロはいいか?と目で問い掛けて来て、返事を得る前にさっさと中に入ってきた。
「一人だが」
「いらっしゃいませ、クソ野郎」
顔を背けぶっきら棒に呟いて、カウンターに案内する。
「残り物でいい、腹が減ってる」
「不精すんな」
言いながら、適当に選んでやってオーダーを書いた。
酒は?と聞けば、当然のように頷く。
それも勝手にサンジが選んで、グラスに注いだ。

「仕事帰りか?遅いんだな」
「ちょっとヤボ用だ」
遅くから悪いなと言いつつ、おしぼりで顔まで拭っている。
おっさん臭さ倍増なのに、ゾロがするとそう野暮にも見えないのが不思議だ。

「お前こそ、どうした」
「は?なにが」
軽く返しながら、カウンターの中に戻った。
ゾロと向かい合う位置に立って、グラスを拭き始める。
「妙な顔、してるぞ」
「こりゃあ生まれつきだ」
ツンと横を向きながら答えると、そうじゃねえよと苦笑が返る。
「珍しく、眉毛の巻が一重多いんだ。なんか悩んでんだろ」
「え?うそっ」
慌てて額を手で隠すと、ゾロはグラスを口にしたまま噴き出した。
「冗談だ」
「ざけんな、オロすぞ」
「自分の眉毛にくらい自信を持て」
「意味わかんねえ」
やや乱暴に磨いていたグラスをそっと置き、厨房に入って皿を運ぶ。

「ずわい蟹のテリーヌでございます」
「いただきます」
畏まって手を合わせ、フォークを運ぶ前に顔を上げてサンジを見た。
「お前は今日は、作らないのか?」
「・・・役立たずでね」
ツンと横を向いて取り澄ましてみても、なにやら拗ねているようにしか振る舞えない。
「無心に働け」
「うっせ」

エースはサンジに対して完璧とも言える心遣いを示してくれるが、時にそれがあまりに行き届き過ぎて気後れすることもままある。
例えばサンジに彼女ができたら、こうしてあげたいな・・・と夢想するようなこともエースはさらりとこなしていて、それを素直に嬉しいと思うより、勘弁してくれと後退りたい衝動に駆られるのだ。
その点ゾロは、いつも横着で無頓着で横柄だから、そのマイペースぶりに腹が立ちこそすれ気後れすることはない。
そしてたまに、随分と些細で細かな部分の機微に敏感で、こちらが思いもしないことをさり気なく察していたりするのだ。
サンジはそれを不快には思わなかった。
寧ろ、エースに言えないことでもゾロになら相談できそうで・・・

「どうした?」
黙ってしまったサンジに、ゾロが気遣わしげな声を掛ける。
気が付けば、ゾロの皿はすでに空だ。
しまったとやや慌てて、サンジは皿を下げた。
「腹減ってるんだよな。どんどん持って来てやる」
「ありがてえ」
手酌でワインを注いでいるゾロに、サンジは肩を竦めた。
こんな風に気分が沈んでしまっている時は、ゾロの憎まれ口で随分と気が紛れる。
ゾロならエースとは共通の知り合いだし、世間的な常識も持ち合わせつつリベラルさも持ち合わせているから、頭ごなしに否定したり極端な嫌悪などは示さないだろう。
腹を割って相談したら、案外いいアドバイスを貰えるかも知れない。
そこまで考えていて、はっとした。
と言うか、唐突に思い出した。

「どうした?」
今日何度目かわからないゾロの問い掛けに、今度はサンジは答えられなかった。
固まってしまった身体をほぐすようにぎくしゃくした動きで皿を置く。
「こちらは大根の・・・クリーム、スープ?」
なぜに疑問系。
「んでこっちは、仔羊背肉のスーヴィッド・・・かもしれない」
「おいおいおいおい」
サンジは内心で冷や汗を掻きながら、無表情でせっせとゾロの前に料理を運び続けた。
置くだけ置いて、さっとカウンターの中に舞い戻る。
ゾロは何事かと不審そうな目で暫く眺めていたが、何も言わずに食事を再開させた。



―――危なかった・・・
既に拭き終えた筈のグラスを再び手にして布巾を動かしながら、サンジはバクバクと鳴り止まない鼓動を飲み込むように奥歯を噛み締めた。
俺としたことが、さっきのレディのことで頭が一杯ですっかり忘れていただなんて。
確かゾロは、俺に惚れてるとかなんとか・・・そういうことになってたんじゃなかったっけか。
単なる思い過ごしかもしれないけれど。
でも万が一にもそうだったなら、そんなゾロに「実はエースとのことで・・・」と相談できる訳ないじゃないか。
幾らドミノの話がショックだったとしても、失念し過ぎだろ俺!!

ああ、馬鹿だ〜アホだ〜と一人唸っていたら、勢いよく食べ尽くしたゾロがワインのお代わりを注文した。
ついでにデザートも運び、会計を終えて帰る客を見送ってテーブルを片付ける。
そうしている間に、すっかり食事を終えたゾロは3本目のワインを注文した。
「相変わらずよく飲む奴だな」
「美味いんだよ」
そう言われて悪い気などする筈がない。
こいつは素でタラシだよなと毒吐きながらグラスに注いだ。

「明日からしばらく、パリに行って来る」
「え?またかよ」
ゾロは趣味の範疇だと言い張るが、副業としても充分成り立っているフラワーアレンジメントの関係で、年に数回は渡欧している。
ゾロにしてみればちょっとそこまでの感覚だろうが、サンジには随分と遠い異国だ。
「よく行くよな。あっちにいい子いるんだろ」
軽口を叩いてすぐに、またしても一人で気が付いて愕然となってしまった。
―――また、やっちまった
あれほど、ゾロが自分に惚れていると言われていた筈なのに、ほぼ条件反射みたいに先に口が立ってしまう。
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
無自覚にも程がある!!
誰も見てなかったら、両手でポカポカ己の頭を殴っていただろうサンジは、仕方なく代わりにワインの瓶を握り締めてヘラリと笑って見せた。
どうしよう。
なんかもう、ゾロに顔向けができない。

「そんなもん、いねえよ」
サンジの内心の恐慌も知らず、ゾロはワインを口にしながらさらりと話をかわした。
「お前こそ、フランスにはよく行くんじゃねえか?」
「ガキん時はよくジジイに連れてって貰ったけど、俺パスポート切れてそれっきりなんだよ」
もう長いこと、旅行にすら行っていない。
「なら、明日は無理としても次行く時は一緒に行くか?とは言え俺自身、観光はしたことねえから、たいして案内できねえが」
「え?いいの?」
「元々休暇を溜めては趣味で行ってるとこだから、お前も遊びで来たらいいじゃねえか」

パリか、行ってみたい―――
サンジはぱあっと表情を明るくさせて、手にした布巾で無意識に瓶を拭き始めた。
「いいなあ、パリのお嬢さん達はみんな魅力的なんだろうなあ」
「女はどうか知らんが、美味い店は結構連れてって貰ったぜ」
「ゾロ、フランス語できるのか?」
「適当だ。お前こそ、話せるんじゃねえのか」
「料理用語に限る」
「俺も似たようなもんだな」
分野は違うからと顔を見合わせて笑い、なんとかなるかもしれないと頷き合う。
「次に行く時は前もって予定を言うようにする」
「ありがとう、そんじゃその時までにパスポートとっとくよ。楽しみにしてる」
そこまで言ってしまってから、サンジはまたしても「あ・・・」と動きを止めた。
「どうした?」
会計のために伝票を求めたゾロに、サンジは強張った笑みのまま視線を合わせた。
「・・・いや、あの・・・」
「楽しみだな。同じパリでもお前と行くと、また違った街に見えるかもしれねえ」
サンジの躊躇いを無視するかのようにゾロはサンジの目を真っ直ぐに見返してそう言い切り、紙幣をテーブルの上に置く。
「美味かった、ご馳走さん」
じゃあ行ってくると、小声で言い残してさっさと店を出て行ってしまった。

ありあとーございやしたーっと厨房から響く銅鑼声に背中を押され、サンジもなんとか小さく礼を言ったが頭の中はもうそれどころではなかった。
どうしよう、俺ってどこまで馬鹿なんだ―――



ゾロと一緒にパリに行けるだなんて、そりゃあ嬉しい。
とても楽しみだ。
普通ならそうだろう。
男同士で旅行ってのは痛いが、別になんら問題が発生するものではない。
普通ならば。

がしかし、今は普通の状態ではない。
少なくともサンジとエースは付き合っていて、ゾロはそんなサンジに横恋慕しているのが現状だ。
それなのに安易にゾロと二人で旅行に出かけるような約束をして。
そんなこと、エースが許す筈がないのに。
そもそも、サンジだってゾロと出かけるのは男同士だからと気楽に受けただけなのに、もしゾロにその気がなかったら(いや逆にその気があったとしたら)もしかして、ややこしいことになってしまうのではないか。

「・・・なんかちょっと・・・やべえ?」
自分で事態をさらに悪化させてしまったようで、サンジは一人突っ立ったまま呆然としていた。
オーナーに「ぼやっとしてんじゃねえよ」と怒鳴られても、すぐには気付かないほどに。




next