Apfel In Schlafrock -26-


結局7時になる前に起き出して、なんとも気恥ずかしい気分のまま二人でホテルを出た。
近くの茶店でモーニングを頼み、手早く朝食を済ませる。
「どうせだから家まで送ってく」
「や、いいってば。つか、勘弁してくれよ」
朝帰りで家まで送るとか、どんだけ恥ずかしいシチュエーションだよと赤面しつつ、木枯らし吹きすさぶ表通りに出た。
胸ポケットで携帯が震え、はっとして懐に手を入れる。
エースだ。

「もしもし、エース?」
エースの名前を聞いて、並び立っていたゾロが一歩引いた。
サンジもそんなゾロに背を向けるようにして、もう片方の手を耳に当てる。
「大丈夫か、今どこ?」
「駅だよ、南口」
「俺も、今からそっちに行く」
手早く言って携帯を切る。
このままエースと顔を合わせなければ胸のモヤモヤを抱えたきりになってしまっていただろうから、サンジにしたら嬉しい展開だ。
「エースか?」
「うん、駅にいるって」
「そうか」
ゾロは不快そうではなく、むしろほっとしたように表情を緩めた。
「じゃあもう、大丈夫だな」
あっさりと手綱を離す素振りに、サンジの方がなぜかむっと来た。
「そうだな、お前に送られると今度お前の方が会社に間に合わなくなる」
嫌味を込めて言ったつもりだが、ゾロはもっともらしく頷いて踵を返した。
「俺はこっからバスで行く」
「気を付けていけよ、迷ったら会社に電話しろよ」
了解とでも答えるように後ろ向きで手を上げて、ゾロはコートの襟を立てるようにして足早に立ち去ってしまった。
―――ちえっ
誰にともなく舌打ちして、サンジはゾロが去ったのと反対方向の駅へと足を向けた。



改札の前に、エースとサボの姿を見付け小走りで駆け寄った。
「サボもいたのか」
「サンちゃん、大丈夫か?」
エースはサンジを見るなり、痛ましげに顔を顰めた。
確かに、昨日男たちに襲われた時に顔を強かに殴られたから、目や口の端が紫色の痣になっている。
腹もどす黒く変色していて、朝シャワーを浴びる時にぎょっとしたものだ。
「可哀想に」
エースがそっと指で触れてくるのに、サンジはへらりと笑って首を振った。
「色は派手だけどたいしたことねえよ、まあ今日の仕事は裏方に専念すっけどな」
「オヤジさんに、なんて言ったらいいか」
「大丈夫だって、高校ん時はしょっちゅう青痣作って帰ってきたんだから。俺、こう見えて結構ヤンチャだったんだぜ」
それより、とサンジは顔を上げた。
「エースは大丈夫だったのか、つか、飛行機に間に合うのか?」
エースは微笑みながら頭を振った。
「行くのは止めにしたよ。このまま何もかも有耶無耶にして逃げるのは止めにした」
そう言って、サボを見やる。
「もう一度家族と向き合って、ちゃんと話し合ってみるよ」
その眼差しに答えるように、サボも穏やかに笑んで頷いた。
サンジはそんな二人の様子を見て、そうかと弾んだ声を上げる。
「よかった、俺もそれがいいと思う。家族なんだから、話し合えばきっとわかって貰えるよ。エースにはサボってえ頼もしい味方がいるんだから」
羨ましいな、と素直に思った。
例え異母兄弟とは言え、兄弟がいるというのはいいものだ。
ゼフ以外血縁者のないサンジにとって、家族というものは純粋な憧れの対象とも言える。

「じゃあ、俺はこっから電車で帰る」
「送って行くよ」
エースの申し出に、サンジは首をかすかに傾けた。
「送って貰わなきゃなんねえような、危ない状態なのか?今も」
素朴な疑問だったが、エースは差し出しかけた手を止めて苦笑した。
「そうか、そうだな。もう大丈夫だよ」
「やっぱり」
子どものように目を輝かせ、サボを見やる。
「サボが助けてくれたんだな、ありがとうな」
サボは一瞬虚を突かれたような顔をして、不意に口元を歪めた。
そのまま薄ら笑いを浮かべ、掠れた声でまあねと呟く。
「それじゃ、エースがんばれよ」
「ああ、色々とごめん」
「サボも、エースをよろしくな」
「もちろんだ」
ラッシュアワーで込み合う改札を通り、サンジは振り返ることなく構内に消えていった。

エースとサボは、どちらもポケットに手を突っ込んででくの坊みたいに突っ立っていた。
サンジの姿が消えてしまっても、行き交う人を眺める視線が外せない。
「エース・・・」
「ん?」
「あれは結構、手強いんじゃねえの」
「んー」
どこか誇らしげに、エースは前を向いてままへへんと笑った。
「愛は、障害がある方が燃えるっしょ」
「一人で燃え尽きる可能性の方が高いぞ」
サボの突っ込みに、声を立てて笑った。
「それこそが、本望だ」



「なんでえその面、久しぶりにヤンチャしたのか」
「おうよ、駅裏通りでひと悶着起こしちまった」
「ったく、いつまでもガキみてえなことしてんじゃねえよ」
スタッフ達には散々からかわれ、ゼフにはみっともねえと一喝されて裏方に引きこもった。
コビーは気遣わしそうに、何度もチラチラとサンジの様子を窺い見ている。
その様子に気付いていて、サンジは知らぬ振りを続けていた。

「コビーは、今週末で支店の方に戻るってよ」
パティに教えられ、サンジはそうかと頷いた。
「短い間だけど、世話になったな」
サンジの言葉にコビーは慌てて両手を振る。
「とんでもない、それはこっちの台詞です。本当によくしていただいて・・・」
そこまで言って、声を詰まらせる。
「色々教えていただいて、迷惑掛けて」
「いやあ、コビーがいてくれたから本当に助かった」
「もっといてくれていいのによ」
「いっそこっちに移って来たらどうだ」
仲間達の言葉に、何故か泣きそうな表情で首を振る。
サンジはそんなコビーの肩を叩いて、心を込めて礼を言った。
「ありがとうコビー、お前はいい料理人になるよ」
「すみません、サンジさん」
すみませんでしたと何度も詫びるコビーの言葉の意味など、考えようとはしなかった。



サボが理事長になって初めてのお菓子教室の日、またエースと2人で現れるかと準備していたおやつ時に、顔を出したのは老いさらばえた骸骨のような男だった。
「初めまして〜この度理事長を仰せつかりました、ブルックと申します」
「はあああ?!」
サンジは用意していた柿のタルトを取り落としそうになりながら、口をあんぐりと開けた。
「・・・あんた、バイオリン教室の・・・」
「はい、ブルックと申します」
それはわかってる。
「サボは?」
「ああ、前理事長は一身上の都合で退職されまして、僭越ながら急遽、講師の中から最も年長の私が選ばれましたのですヨホホ〜」
「退職?!」
サンジはもう、驚くばかりだ。
「なんで、まだ理事長の座に着いたとこじゃないか」
と言うか、サンジはまだ一度もサボの元で働いたことがない。
「世の中、何が起こるかわかりませんねえ。それにしても紅茶のいい香りがします」
ほとんど穴が空いているだけに見えるのっぺりとした鼻をひくつかせ、ブルックはいそいそと席に着いた。
「ご安心ください、不肖ブルック、前理事長からも前々理事長からもきちんと引継ぎを受けております」
そう言って、ポケットから取り出した白いハンカチを襟元に差し込んだ。
「お菓子教室終了後には、美味しいおやつを頂戴するとの申し送りでした」
「・・・」
色々つっこみたいところは満載だったが、サンジは黙ってお茶をサーブした。



―――サボは、どうしたんだろう。
エースへの妨害工作が、とうとうサボの身にまで及んだのか。
心配になって、教室からの帰り道、携帯を片手に弄りながら歩いた。
連絡しようかしないでおこうか。
でも気になる。
けど、あんまり立ち入ったことは聞くのが憚られる。
どうしよう―――
考え事をしていたら、すぐ目の前にブーツの靴先が見えてはっとして足を止めた。
危うく、通行人にぶつかるところだった。
「すみません!」
慌てて身体を捻って、相手の顔を見ずに頭を下げる。
すぐに通り過ぎると思っていたブーツは、まだ目の前にあった。

顔を上げると、見覚えのない女性がサンジを見つめていた。
長い金髪の巻き毛に、ぱっちりとした茶色の瞳。
ニットワンピースにファー付のジャケットを羽織り、襟元に巻いたワイン色のストールがとても映える、優しげな美女だ。
「あ、どこかでお会いしたような・・・」
女性は一度会ったら決して忘れない特技を持つはずのサンジが、一見してわからなかった。
でも知らない女性ではない。
確かに会っている。
しかも何度も。
「ご無沙汰しております、お元気そうでよかった」
女性はそう言って、懐からサングラスを取り出すと顔の横に掲げてにっこりと笑った。

「ドミノさん?!」
心底驚いて、サンジは往来にも拘らず声を上げていた。
確かに、気付いてみればドミノに間違いない。
けれどあまりに印象が違って見えた。
メイクが違うのか、もともとサングラスで目元を隠していたからはっきりとした顔立ちを知っていたわけではないけれど、それにしても雰囲気が違いすぎる。
あの、取り付く島もないような冷徹な美女のイメージはかけらもなかった。
「色々とご迷惑をお掛けしてしまいましたので、お詫びに来ました」
「お詫びって」
「この度、退職して新しい場所に移ることにいたしました」
「ええ?」
あれほど、エースの父親に強い忠誠心を抱いていたはずのドミノに、一体何があったというのだろう。
「あの、もしかして俺のせいで?」
エースと自分とを別れさせる作戦がうまく行かなくて、責任を取らされたのだろうか。
「そうですね、ある意味貴方のせいかも」
「あああ、ごめん!」
平謝りするサンジに、ドミノは声を立てて笑った。
「そうじゃないんです。きっかけはエース様と貴方との関わりでしたけど、最後に決めたのは私自身」
恨み言を言いに来たような雰囲気でもないから、サンジはひたすら「???」となった。
「ゴール・D・ロジャーと言う偉大な方の下で働けるのは楽しかったです。いい経験をさせていただきました。でも過去の呪縛から逃れられなかったのも、また事実」
一旦言葉を切り、恥らうように俯いた。
「許されない恋だと、諦めていたつもりだったんですけど」
思わぬ女性らしい振る舞いに、サンジはぽかんと口を開け、すぐにああと合点がいった。
「まさか、ドミノさん貴女身を引くつもりじゃあ・・・」
サンジの心配げな声に、いいえと無碍なく否定した。
「寧ろ、我を押し通すつもりですが」
「じゃあ略奪愛ですか!」
おお、と感動しつつも慌てて手を振る。
「いけませんドミノさん、貴女のような若くて美しい人が絶倫ジジイになぞ現を抜かしては。相手はエースやサボなんてえ、でっかいガキがいるようなおっさんですよ。お願いだから目を覚ましてください」
ドミノは大きな目を見張り、きょとんとしてから噴き出した。
「なにを仰るの、サンジさんったら」
「え、あ、違うの?」
腹を抱えるようにして一頻り笑ってから、ドミノは目尻を拭いながら顔を上げた。
「ああおかしい、サンジさんって本当にいい方」
「女性に“いい方”って称されるのは、褒め言葉じゃないですよねえ」
ボヤくような口調にまた噴き出して、ドミノはいいええと手を振った。
「私の相手はもっと若い方でしてよ。ただ、家の都合でどうしても認められないだろうと、思っていた方なんです」
けれど―――
「なぜか、普段は穏やかな彼がとても強引にお話を進めてくれましたから、私も踏ん切りが付きました」
彼について行きますと、自ら決意するように呟くドミノの表情は満ち足りたように輝いている。
「そう、ドミノさん幸せなんだね」
「ええ、貴方のお陰ですありがとうございます」
「いえ俺はなんにも・・・つか、なんで俺の?」
立ち話もなんだから、と茶店にでも誘おうとしたらきっぱりと断られた。
「いま連れが参りますの、サンジさんにもご挨拶したいと」
言っている傍から、地下鉄の入り口階段を昇ってくる男の姿が見えた。
「サボ」
「や」
マフラーを口元までぐるぐる巻きにしたサボが、まるでエースがするみたいにこめかみに指を当てて気障な挨拶をしてみせる。
「サボ、まさかサボがドミノさんと」
「まあね」
ドミノの傍らに立つと、まさにお似合いのカップルに見えた。
「ドミノは親父の会社っつってもエースの母親の親族の系列だっし、俺は母親の系列会社だったから、一緒のグループでも結構対立してたんだよ」
「私はエース様の従姉妹にも当たるんです」
じゃあサボとも・・・と思いかけて、違うと気付いた。
エースの母親との親戚なら、サボとはなんの血縁関係もない。
「まさしく、ロミオとジュリエットだったんだな」
まさか、そんなドミノとの縁談の関係もあってサボは理事長の職を降りたんだろうか。

「エースの見合い話が進んでる時に、もしエースがダメなら次は俺って話しになってたから」
サボはそう言うと、照れくさそうに頭の後ろを掻いた。
「色々あって俺も迷ってた、けど、あんたのお陰で踏ん切りが付いたんだ」
「なんで、俺?」
きょとんとするサンジに、サボは意味ありげに笑った。
「あれこれ迷うよりまず行動ってのが、一番ストレートで自分に正直だって思ってさ」
「はあ・・・」
よくわからない。
「それじゃ、カルチャースクールの理事長辞めたのも、このためか?」
「ああ、家も出た」
「うええ?」
エースに続いて、サボまで家出?
「サンジさんは家族だから話し合えば分かり合えるって言ってたけど、家族だからこそ、どうしても生まれる軋轢ってもんもあるから。うちはお互い距離を取った方がいいんだ」
憑き物でも落ちたような、さっぱりとした表情で一人頷く。
「ドミノと一緒に、北海道に行くつもりだ。新天地で心機一転、地道に頑張るよ」
「本当に、ご迷惑をお掛けしました」
しおらしく頭を下げる二人に、サンジは我がことのように晴れ晴れとした気分になった。
「そっか、二人が決めたことなら一番いいよ。エースのお見合い相手の人のこととか、お家のこととか色々あるだろうけど、やっぱり二人の人生なんだから」
そこまで言って、あっと思い出す。
「あの、ドミノさんに以前いただいたライターなんですけど・・・」
サボの前で言っていいか躊躇ったが、ドミノは平然と頷いた。
「はい、それがなにか」
「やっぱりお返ししようと思うんです。あんな立派なものいただく訳には行かないと思って」
「それは残念です、あのライターはサンジさんをイメージして作っていただいたものですから、ご本人に使っていただきたいの」
美女にこんなことを言われては、受け取らない訳にはいかない。
「そう、ですか?」
「ええ。お嫌でなければ受け取ってください。でも・・・」
一旦区切って、悪戯っぽく笑う。
「機械関係に強いお友達がいらしたら、一度見てもらってください。もう傍受する装置は手元にありませんが、盗聴器が仕掛けてありますので」
「―――は?」
さらっと怖いことを言って、ドミノは笑顔で会釈する。
「それでは、私達はこれで」
「元気でな」
サボも大きく手を振り、ドミノと共に踵を返す。
落ち葉が舞い散る秋の道を、恋人達は肩を寄せ合い仲睦まじく立ち去っていった。





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