Apfel In Schlafrock -25-



「どういうことか、説明しちゃあ、くれないか?」
エースは感情を抑えた声でそう言った。
向かい合うサボは、意識してかエースとまったく真逆な方向に足を組み替え、ソファに凭れ掛かった。
まるで鏡に映った自分を眺めるように、対称的なポーズを取る。

「サンジが誰かに襲われたって言ってたけど、それサボの仕業?」
「ああ」
事も無げに肯定し、失敗したんだ?と小さく尋ね返した。
「サンちゃんには、強力なナイトが付いてるようだよ」
「ざまあねえな」
自分に対して言ったものか、それともエースへの当て擦りか。
どちらでもいいと、小さく肩を竦めてサボをねめつける。
「ドミノはそこまでしないと思ったからさ」
「女だから?」
「そこまでする力はないだろうって、こと」
エースの母・ルージュの妹の子であるドミノは、エースとは従姉関係に当たりポートガス家への固執が強い。
ロジャーの元で働いていても、立場上ゴール家とは敵対関係となり、今回のことも恐らくは単独行動だ。
自費で探偵を雇うか、せいぜい特異な趣味を持つ友人を使い、脅しに掛かるぐらいしか手立てはないだろう。
だがサボの力なら、実力行使ぐらい容易い。
「もし助けが入らなかったら、サンジのことを本気で傷付けるつもりでいたのか?」
「もちろん」
エースの沈痛な表情とは裏腹に、サボは飄々と応えた。
「ヴァージンらしいけど手加減しなくていいから、と伝えておいた」
「サボ・・・」
奥歯を噛み締め、なんで・・・と呻く。

「なんで今頃、しかも今さら?サンジがお前に、なにかしたってのか?」
「まさか」
はっと喉の奥で笑い、サイドテーブルに置かれたグラスを手に取り一口含む。
「サンジさんは関係ないよ。エースに紹介されて実際に会って見て、いい人だなってのもよくわかった。つか、なんか放っとけないタイプだよな」
唇を湿らせ、ほっと息を吐いた。
「人が良さそうで可愛げがあってさ、鼻っ柱は強いんだろうが、いかにも情に脆そうだ。エースが好きなタイプってああなんだ」
「サボ」
「だからさ。エースが大事にしてるっぽいから、だからだ」
からりと、グラスの中で溶けた氷が乾いた音を立てる。
「ずっと俺は、エースを憎んできたんだよ。知らなかった?」



―――卑しい、泥棒猫の子ども。
母親が口汚くエースを罵る度に、胸が切り裂かれるように痛んだのはサボの方だった。
普段は優しい母が突然鬼のような形相で金切り声を上げる様が、恐ろしくてたまらなかった。
本当の兄弟のように仲良く睦まじくと言い聞かせながら、時にきつい言葉を浴びせかけすぐに我に返って取り繕うとする、母親の不安定な精神状態はサボをも傷付ける。
それと同時に、自分の両親が愛し合っていないと思い知らされるのも辛かった。
情が深く過干渉な母、無関心で多忙な父。
いくら裕福な家庭でも、名門の出自だと誉めそやされても、サボには心から安らげる家族はいない。
どんなに貧乏で慎ましい生活になろうとも、普通の家に生まれたかったと。
愚痴や弱音ででも零す相手さえ、サボにはいなかった。
そんなサボの懊悩も知らず、当のエースはただヘラヘラと聞き流し、如才なく立ち回っている。
学校の成績はいつも中の上。
サボが寝る間も惜しんで必死に勉強している傍らで宿題だけ済ませて、それでも順位が下がることはなかった。
母親の顔色を上手に窺い、思わぬ逆鱗に触れた時は逃げ足が速かった。
エースがいない場所でグチグチと悪口を聞かされるのは、いつもサボの役目だ。
ルフィは幼くて、母の言うことにも一々耳を貸さずすぐにどこかへ飛んで出てしまう。
―――サボだけが、ママの味方ね。
そんなことないと、叫び返したくてもいつも鉛を呑んだように喉の奥が塞がれて、声が出ない。

「エースさえいなけりゃって、何度も思った」
サボの言葉に、エースは神妙な顔付きで押し黙る。
エースとて気付いていない訳ではなかった。
自分の存在が、ゴール家にとって諍いの種でしかないことを。
けれど、ロジャーはルージュを心底愛していたし、エースのことも溺愛してくれた。
だからこそ、ロジャー家との軋轢は深まって行く。
「なら、俺がいなくなってせいせいするだろうが」
黙って、サンジと二人国外に出て行くのを見送ってくれればいいだけの話じゃないのか。
「なんでエースだけ、好きな人と一緒に自由に外に飛び出せるんだよ」
サボは空になったグラスをダンとテーブルに打ち付けた。
弾みで、溶け切らない氷がグラスから飛び出て床に落ちる。
「何もかも投げ捨てて、家飛び出して愛の逃避行かよ。ふざけんな」
「サボ・・・」
「相手が男だってえのに後ろ暗さも見せないで、むしろ自慢するように紹介してさ。お前はいつだってそうだ、世間の常識とか世間体とか飛び越えて誰だって味方に付けちまう。エースなら仕方ないなって思わせちまうのが、いつもずるい」
サボは激した自分を恥じるように、俯いて口元を歪めた。
「今まで散々ロジャーの息子としてチヤホヤされてきて、はいこれでおさらばで済むと思ってんのかよ。縁談まで進めておいて、あの高慢ちきなシャルリア嬢は、俺にってか?」
冗談じゃねえと、語気を荒げる。
「お前だけ自由に、幸せになられてたまるもんか。エースが大事に扱うものなら俺が壊す、大切にしてるなら奪い取ってやる」
「サボ」
「男の癖に愛してるだなんて抜かすような奴なら、他の野郎にめちゃくちゃされちまえばいいんだ。別の男がついてるってんならそいつにくれちまえ、エースのことを心底愛してくれる奴なんてこの世にはもういないんだよ!」
命を懸けて産み落とした、母親以外に。
「サボ―――」
すべてを吐き出し終え肩で息をしているサボを、エースは冷めた目で見つめた。
「知ってるよサボ、そんなこと」
口元にうっすらと笑みが宿る。
「けどなあ、俺にはそんなことどうだっていいんだ。俺はなサボ、お前が思ってるよりももっとずるくて図太くて性悪なんだよ。サンジが俺のこと愛してないって、そんなこと最初からわかってた」
誰にともなく嘲りの声を上げる。
「わかってて、でもそんなこと俺にとっちゃ問題じゃないんだ。俺は愛されたいんじゃない、愛したいんだ」

誰かのために食事を作ることが楽しくて仕方なくて、頼まれれば断れなくて、雰囲気に流されやすくて、それでいて自分がこうと思うことは臆することなく進言して、なにに対しても一生懸命で、たとえ報われなくても満足できて、見返りを求めないで―――。
無償の愛を最初から兼ね備えたサンジは、多分、誰にだって同じように愛を注ぐ。
それが自分にだけじゃなくていい、そんなサンジを自分が、心から愛したいだけ。
「俺の愛情は自己満足だ。わかってる、わかってるよ。愛されなくたっていい、サンジが好きだ。ただそれだけでいいんだ。彼が笑ってくれてるなら、それだけでいいんだ」
情に流されやすいサンジは恐らく、エースが本気で強引に押し倒したなら、ろくに抵抗は見せないだろう。
怯え、戸惑いながらもきっと受け入れてくれる。
それがわかっているから、敢えて手出しはしなかった。
ただ真摯に直向に、サンジだけを愛したかった。
「お前がサンジを傷付けたとしても俺の気持ちは変わらない。無垢だから愛したんじゃない、ただ優しいから、ただ可愛いから愛したんじゃないんだ。だから―――」
エースは拳を握り締め、乾いた笑い声を立てた。
「サンジが誰を選んだって、同じなんだ。俺の元から離れたとしても―――」
最初から同じなんだと、何度も繰り返す。

サボは力なく笑い続けるエースを呆然と見やり、氷が溶けて温くなった水で唇を湿らせた。
「もし俺が、本気でサンジを壊していたら?」
エースはくっくと喉の奥を鳴らしながら、暗い瞳を寄越す。
「壊れたサンジを愛するだけだ」

なあサボ
お前が思っているよりずっと、俺は身勝手で欲深く、薄情な男なんだぜ。
知らなかっただろう、サボ―――





携帯を握り締めたまま、いつの間にか眠っていたらしい。
手枕にしていた右手が痺れて、絨毯敷きの床に落ちる音で目が覚めた。
慌てて身を起こすと、低い位置から落ちた携帯は無言のままだ。
拾って開き、着信がないことに落胆する。

―――エース、どうしたんだろう。
また連絡すると言ったきり、なんの音沙汰もない。
サンジ自身も行く当てがなくて、結局ゾロと一緒にいろとの申しつけを守るみたいにホテルに宿泊してしまった。
ゾロ・・・
人肌を感じて傍らを見れば、ダブルベッドの端でグウグウと眠っている。
夕べは確か風呂場で寝落ちしたはずだが、途中で目が覚めてこちらに移ってきたのだろうか。
ベッドは広いから、大の男が二人寝てもそう不自由でもない。
そもそもゾロと一緒に眠るのは、これが始めてのことじゃない。
「前は、意識なかったけどな」
一人ごちて、携帯を枕元に置いた。


時計を見れば、朝の5時前だ。
するりと布団から抜け出て、小さな窓を被う遮光カーテンをそっと引く。
朝の光はまだ届かない。
いつから降り続けていたのか、まだ暗い外は雨に濡れていた。

エースは今日、予定通り日本を発つんだろうか。
サンジを襲った奴らは、まだ諦めていないんだろうか。
用心しながら大人しく暮らして、ただエースを信じて待っていたらいいんだろうか。
俺はそれで、いいのか。

カーテンを閉めて、再びベッドに戻った。
今日も通常通り仕事がある。
このまま時間までエースからの連絡を待って、何もなければそのまま出勤するしかない。
ゾロだって会社があるだろう。
7時ごろには起こして、どこかの茶店で朝食を食べようか。
それで、間に合うのだろうか。

布団を捲り元居た場所に潜り込んで、ほんの少しゾロの傍に近付いた。
起こしても構わないつもりで、仰向いた横腹に手を置き寝巻き代わりのシャツを撫でる。
ズボンは脱いで無造作に椅子に掛けてあった。
多分下は、下着一枚なんだろう。
分厚い胸板が、呼吸とともにゆっくりと上下する。
眠っているからか殊更高い体温は、布地越しにもじわじわとサンジの肌を焼くようだ。
冬にはカイロ要らずだなと、冷えた頬をくっ付けて目を閉じた。

夕べゾロと演技ででも体を重ねて喘ぎ声を上げていたら、萌してしまった。
もし、ゾロが演技じゃなく手を出してきたとしても、結果は変わらなかったかもしれない。
酷く欲情した。
今だって、身体のどこかに熱が燻っている感じがする。
エースが情欲を滲ませた目つきをするだけで、怯んでしまうのに。
何故だろう。
なにが違うんだろう。

ふと、投げ出されていたゾロの腕が肘から先宙に上げた。
盛り上がった二の腕に持たせ掛けるようにして、こてんと頭を乗せてみる。
瞼を開けないで、ゾロがふっと首を傾ける。
「・・・いま、なんじだ?」
「ん、まだ5時」
何時に起こせばいい?
耳元でそう囁けば、しち、じ・・・と寝ぼけた声が応える。
「もうちょい、ねてろ」
「ん・・・」
ゾロの手がサンジの頭を撫でて、もう片方の手は引き寄せるように脇腹に回った。
お互い寝返りを打って向かい合わせになり、その胸に顔を埋める。
くかーと、再び安らかな寝息が立った。
サンジは視線だけ上げて、ゾロの寝顔を飽くことなく眺めている。
半開きの唇は乾いてカサついて見えた。

――――キス、したいな。
そう思ったけれど結局身動き一つ取れないで、そのまままんじりともできず夜明けを待った。



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