Apfel In Schlafrock -21-



「ちびなすが修行に出るんだって?」
「えらいまた急だな、なんかツテでもあるのか」
翌日には店のスタッフ全員に広まっていて、サンジの方がビビってしまった。
「うっせえな、可能性の話だけだ」
「どっちにしろパスポート取っといた方がいいんじゃねえの」
古参のスタッフは家族も同然だから、遠慮会釈もなしにズカズカ踏み込んでくる。
別に探られて痛い腹がある訳ではないが、脳裡にエースの顔がちらついてどこか後ろめたい。
「そういうことは早めに周知しとくもんだ。迷惑掛けんのは同僚だからな」
店のオーナーたるゼフにそう言われれば、文句も言えなかった。
だがこれでむしろ、修行に出ること決定で後戻りできない状況に追い込まれたんじゃないかと思うと、気が重い。

「いつ頃から行かれる予定なんですか?」
助っ人で他店から来ていてくれるスタッフ、コビーがさり気なく聞いてきた。
まだ若いのによく気が付くし、彼がいてくれるお陰で仕事がしやすい。
バラティエのスタッフみたいに詮索するような物言いではないから、サンジも素直に応じられる。
「まだはっきり決めた訳でもねえんだ、俺の気持ちん中でも。ただ、行くと決まったら早えだろうなあ」
「やっぱりフランスですかね」
「んー・・・もしかしたらヨーロッパじゃねえかもしんね」
「え?別のジャンルに挑戦ですか?」
「や、あー・・・まあ、そこは色々と」
凄いですねと感心して、でも・・・とコビーらしくなく表情を曇らせた。
「俺は正直、サンジさんにはどこにも行って欲しくないです。もっともっと教えてもらいたいことがいっぱいあるし」
なんて可愛いことを言ってくれるのか。
こういう素直な後輩が欲しかったんだ俺は!
サンジは感激の胸の内を隠して、ニヤけそうな口元を引き締めながら首を振った。
「ありがとよ、でもこの店にゃうるさくてガサつだけど腕のいい料理人がいっぱいいるからな、いい勉強ができると思うぜ。俺は、そろそろ外に出るのも潮時だと思ってる」
「そうですね、サンジさんの更なる鍛錬のためには仕方ないですね」
コビーは残念そうに頷きながら、そっとサンジに顔を寄せた。
「もし、なにか詳しいことが決まったら俺にだけ先にこっそり教えてくださいよ。俺にとってはサンジさんが一番頼りになる先輩なんです、お願いします」
「え、そう?・・・んー仕方ねえなあ」
満更でもない気分で、サンジは意識的にしかめっ面を作りながら鷹揚に頷いた。




「今日のおやつは3人前で」
エースからの短いメールに、はてと首を傾げる。
いつものお菓子教室、放課後のティータイムに誰か連れてくるのだろうか。
もしルフィだったら3人前じゃ足りねえんじゃないのと危惧しつつ、取り敢えず教室で使ったサンプルにプラスαで準備しておいた。
「いいー匂いだねー」
いつもの台詞で、エースが教室に入ってくる。
その背後には、見慣れない青年が一人。
これが本日のお客さんか。

「こんにちは、お邪魔します」
エースと同年代くらいだろうか。
礼儀正しい好青年だ。
サンジは席を立って「こんにちは」と格式ばって礼をした。
「こっちは俺の弟、サボ」
「あ、弟さん」
「こちらがお菓子教室のサンジ先生。我が校の人気bP講師だよ」
「初めまして」
サボはにこっと笑って手を差し出してきた。
握手することに慣れたスマートな仕種だ。
服装もカジュアルでいて上質な仕立てで、育ちのよさを感じさせる。
「初めまして、サンジです」
軽く手を握り、席に着くよう促す。

淹れたてのコーヒーの香りにサボは目を細め、いいなあと呟いた。
「エースは毎回、こうしておやつ食べてたんだな」
「いいだろ」
「これからは、弟さんもご一緒にどうですか?」
サンジがニコニコしながらコーヒーとケーキをテーブルに置くと、サボはどこか悪戯っぽい目でエースに視線を移した。
「残念ですが、それは無理なんだよな」
「そう」
エースもどこか含みを持って応じる。
「実はねサンちゃん。サボには来月からこの学校の理事に着いてもらうんだ」
「は?」
驚いてカップを取り落としそうになった。
「って、来月?」
いくらなんでも急すぎる。
「そう、俺もう来月にはあっち渡るつもり。オヤジには話し付けたし、あ、これ白ヒゲのオヤジね。こっちの親父じゃないからね」
「父さんには、一言言っておいた方がいいと思うけど」
サボは澄ました顔でコーヒーを啜っている。
「下手に顔合わせたら外に出してもらえなくなるだろ」
和気藹々とお茶を飲みながら、穏やかではない。

「サンちゃんは臨時講師だから正式に通達してなかったんだけど、学校スタッフや他の講師さんにはもう紹介済みなんだ。まあ、彼らにとっては理事が俺であろうがサボに代わろうが、経営方針に変更ないからたいして影響がない」
「それにしたって、急な話だ」
「善は急げって言うだろう」
顔を見合わせて笑い合うエースとサボを、サンジは少し引いて眺めた。
随分と仲が良さげな兄弟だ。
サンジ自身一人っ子だから、今日だって羨ましいなと思う。

「ルフィと、3人兄弟だっけ。サボさんはエースといくつ違うの?」
「同い年だよ」
「はへ?」
「俺が1月生まれでサボが2月だよな。惜しかったよなあ」
兄弟なのに同級生で、学校では肩身狭かったよなと笑う。
異母兄弟だからかと、サンジは改めて納得した。
「じゃあ、兄弟っつっても実質そんなに関係ないんじゃないか?」
「まあな、ただこっちが正妻の子どもだから微妙っちゃ微妙」
エースがサボを指差し、サンジはわあ・・・と更に引いた。
「正妻の息子のがせめて1日でも早く生まれてたら、ここまで面倒にはならなかったろうにねえ」
「いまどき長男が後を継ぐとか時代錯誤なんだよ」
「それを言うなら、正室の子が正式な跡取りとか、そういうのの方が時代遅れだ」
サンジには、縁のない世界の話だ。
「やっぱり、当人同士には関係なくそういうのって陰謀渦巻いたり、するのか?」
おずおずと聞けば、エースとサボは同時に振り向いてお互い視線を逸らしつつまあと肯定した。
「俺らは別に、お互いどうとも思ってねえんだけどな」
「俺の母は俺を産んだと同時に亡くなったから、臨月のお義母さんが俺を引き取ることを了承してくれたってのは、正直感謝してるよ」
エースの言葉に、サンジはぐっと喉を詰まらせた。
明るいエースからは想像できない、重い生い立ちだ。

「その代わり、お袋のあの性分だから子どもん時からネチネチ言い聞かせられたじゃないか。妾腹の子だから弁えろとか、誰のお陰でこの家に住まわせてもらってるんだとか」
シャルロットポワールを頬張りながら、仲の良さげな兄弟がほがらかに暗い過去を語り合う。
「それは事実だし、当然のことだからな」
「エースはいつでもへらへら笑って聞き流してたから、俺の方がむかついてたよ。正直イライラした、お袋にもエースにも」
人当たりのいい笑みを浮かべながら、サボは辛らつな言葉を吐く。
「エースは俺なんかより頭よかったし器用だったから、いつだって家出てってもやってけると思ったよ」
「成績はお前の方がよかったろ」
「あれは、お前が手え抜いて俺に勝ちを譲ってたからだ」

サンジはハラハラして二人の会話を見守っていた。
口は挟めないが、険悪な雰囲気にでもなったらどうしよう。
そんな心配を他所に、兄弟は同じように口端にクリームを付け猛烈な勢いでおやつを平らげていく。
「ルフィが大馬鹿だったから、俺らがことさら優秀に見えただけだろ。まあどちらにしても跡継ぎにするに問題ないけど」
「頭領が二人いたら揉め事の元だ。お邪魔虫はさっさと去るさ」
遅かったくらいだと、エースは自嘲するように顔を歪めた。
「俺がいつまでもグズグズと家にいたから、お前にも迷惑掛けた」
「そういう言い方は止めろって、言っただろ」
サボがガチャンと乱暴にフォークを置く。
皿の中は綺麗に平らげられているけど、お代わりがいるだろうか。

「親父ははっきり言わないけど、跡継ぎはエースがいいって思ってんだ。俺にはわかる。俺だってエースなら納得できる。あんな口うるさい親戚方にガタガタ言われなきゃ、俺の方がすんなり家出てったよ」
「うちの親戚筋のがやばいぞ、どんな手段だって厭わない強引さだ」
言って、エースはちらりとサンジの顔を見た。
「現に、サンちゃんが巻き込まれた」
気の毒そうに自分を見やるサボに、サンジは「え、俺?」と目をパチクリさせた。
「本当に申し訳ない、うちのお家騒動で迷惑かけて」
サボにまできっちり頭を下げられ、慌てて両手を振る。
「んなことねえよ、別に俺はなにも―――」
「でも安心した。エースから話は聞いていたけど、確かにすごくいい人だ」
にっこりと笑顔で断言するサボに、サンジは更に慌てた。
「いや、あの・・・俺、男なんだけど」
そこら辺、弟さんの立場としてはどうよ。
「兄に男性の恋人ができるってのは心情的には確かに微妙だけど、実際に話して見るとサンジさんの人柄のよさとか可愛らしさとか、よくわかった。あんたみたいな人がエースの傍にいてくれるなら安心だ」
安心して南米に送り出せると、そう繰り返されてサンジは内心焦った。
もう決定ですか?二人で南米行き、本決まりですか?

当事者でありながら置いてかれてる感アリアリのサンジは蚊帳の外で、エースとサボは勝手に話を進めて行く。
「俺が渡米した後の、ドミノ達の動きだけが気掛かりだ」
「大丈夫、サンジさんのことは俺が責任を持って守るから。もし心配ならやっぱり一緒に発った方がいいんじゃないかな」
「あの、もしもーし」
「そうしたいの山々だけど、バラティエのこともあるし、ここの講師の契約期間は年度末までだからね。サンちゃんはそういうとこ固いんだ」
確かにそうだよ、融通利かないよ。
その辺お見通しなのは流石と言うべきか、照れくさい部分もあるんだけどなに勝手に人の心情まで推し量って話し進めてくれちゃってるんだよ。

サンジはこのままではまずいと今さら気付いて、兄弟の会話に強引に割り込んだ。
「エースが俺のこと理解してくれてるのはすっごく嬉しいけどさ、まだ一緒に行くと決めたわけじゃないから」
「え?」
「そうなの?」
なんで二人して目を丸くするかなそこで。
「そこまでわかってるってんなら、エースだって俺が流されやすい性質なのお見通しだろ。今まで色々ありすぎてつい俺も考えなしにここまで来ちまったけど、修業に出るってことになると俺の人生左右するようなオオゴトなんだから、そう軽々しく決めたりできねえよ」
「そっか、そうだよね」
エースはもっともだとばかりに大きく頷いた。
この大らかさが、今はちょっとムカついた。
サンジの言うことをなんでもきちんと受け止めて理解を示してくれるのはありがたいが、格の違いを見せ付けられてもいるようで、サンジにすれば面白くない。
痒いところに手が届くように気を遣われて、あやされて、甘やかされてばかりだ。
それでいてかなり強引で、サンジが断りきれない性分なのを見越して話を進める計算高さも持っている。
結局は、エースはとても大人だということだ。
ほんの一つ、年上だというだけで、こんなに差がつくものなのか。
生来の器のでかさが違うのか。

悶々としているサンジの前に、プリントアウトされた紙が数枚置かれた。
「なに、これ」
「南米の有力店。フレンチを主にしてるけど、それ以外にもサンちゃんが興味持ちそうなところピックアップしてみた」
なんで・・・と声を荒げそうになって、目の前に写真を翳された。
「これなんかフレンチ界では有名なシェフでしょ。この人の支店が、来年オープンするんだって」
「あ、すげ」
「だろ、現地スタッフもこれから募集するらしいよ」
わーすげー、あ、この店も知ってる・・・とサンジは思わず紙を繰って見入ってしまった。
さすがエースというべきか、サンジが興味を持ちそうな分野ばかりだ。
「こんなの、調べんの大変だったんじゃねえの」
「いや、こういうの好きだし」
「本来の仕事放っぽりだして、なにやってんだか」
サボの突っ込みも口調が優しい。
サンジはつい興奮してあれこれと目を通しながら、はっと我に返った。
「って、だから!なんでエースがこんなことすんだよ」
「サンちゃんのためだから、楽しい作業だったよ」
サンジの剣幕にも、エースは笑顔で応えた。
「そうじゃなくて、ここまでお膳立てされたら俺は・・・」
俺は、なんだ。
自分で何を言おうとしている。
「断れなくなる、でしょ。わかってるって、だからしてんじゃない」
エースはくっくと喉を鳴らした。
悪戯っぽく瞳が眇め、当惑するサンジの顔を覗き込む。
「いつまでたっても煮え切らない態度だから、こっちもいい加減押し捲らないとね。サンちゃんの返事待ってたら爺さんになっちまうよ」
「あのなあ」
反論したいが、言い返す言葉もない。
サボは二人の様子を興味深そうに眺め、思い出したように手を合わせてご馳走様と唱えた。

「じゃあ、俺は会社に戻るよ」
「あ、俺もそろそろ事務所戻らねないとヤバイ」
兄弟は同時に立ち上がり、サボが空いた皿を指差した。
「片付けもしなくてすみません、ご馳走様でした」
「いや、こっちで片付けるから大丈夫。今日はどうもありがとうございました」
「とても美味しかったです、これからも兄をよろしくお願いします」
そうにこやかに挨拶され、サンジはなんと堪えていいかわからず曖昧に頷いた。
「じゃあ俺もごめんサンちゃん、また連絡する」
いつもおやつを食べるだけ食べてとっとと戻るエースだったから、サンジは適当に手を振って送り出した。
皿をシンクに運びテーブルと椅子を戻そうとして、サボが座っていた席に携帯が置きっ放しなのに気付く。

「大変だ」
慌てて手に取り、サボが出て行った玄関へと向かった。
車だったらどうしようかと早足で歩けば、ちょうど表の門を潜り抜けるサボの背中を見つけた。
走って追いかけ、遠慮がちに「サボさん」と声を掛ける。
「・・・あ」
振り向いたサボはサンジの姿を認めて目を丸くした。
続いて掲げた手を見やり、ああと間抜けな声を出して立ち止まる。
「ごめんごめん、忘れてた」
「よかった、間に合った」
どうぞと差し出せば、サボは助かりましたと笑顔で受け取る。
ちょっとした仕種がエースに似ていた。
「それじゃこれで」
すぐに踵を返そうとするサンジに、あの・・・と声をかける。
「はい?」
「不躾なことを聞いて申し訳ないんだけど」
躊躇いつつ、サボは真面目な顔でサンジの前に立った。
「サンジさんは、エースとは特に恋人同士って訳じゃ、ないのかな?」
「は・・・え」
いきなり直球の質問が来て慌ててしまった。
しかも相手はエースの近親者だ。
なんと答えていいのかわからない。

戸惑うサンジに、サボは助け舟を出るように続けた。
「つまり、恋人だと即答できるような関係性はまだないってことなのかな」
「あ・・・うん」
そう言われれば、そうなのだ。
サンジの相槌に、う〜んと腕を組んでしばし思案した。
少し顎を上げて考える仕種が、やはりエースを思わせる。
「いや、エースにしちゃ珍しいって思ってね。我が兄ながら節操ない・・・あ、これ過去のことだから」
一応断りを入れる辺りが律儀で、苦笑しながら頷いた。
エースの過去の遍歴を聞かされたところで、女性のようにヤキモチを焼いたりしないよと言い掛けて止める。
その言い方では、女性に失礼な気がしたからだ。
「付き合うかどうかは寝てから決めるなんて嘯いてた奴だから、俺からしたらまだ手も出してないってことのが信じられない」
「―――へー・・・」
そうなんだ。
「よっぽど貴方のことが、大事なんでしょうね」
サボが自分を見る目が少年のように煌いていて、正視できず視線を逸らした。
なぜだろう、なんだかとてもバツが悪い。
「エースはチャラっぽく見えて、実はすごく真面目でちょっと神経質で、そしてとても孤独な奴です。そんな兄ですが、できれば貴方にずっと傍にいてもらいたい。どうかよろしくお願いします」
きちっと頭を下げられ、サンジは慌ててこちらこそと頭を垂れた。
「これ以上言うと貴方を縛り付けることになると思うから、それじゃ・・・」
改めてぺこりと会釈し、雑踏の中へと歩いていく。
その後ろ姿を見送ってから、サンジはこきりと首の骨を鳴らした。

仰向いて、抜けるように青い空を見上げる。
来年の今頃は異国でこうして同じ空を見上げることになるのかと、そう想像しても実感は沸かなかった。





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