Apfel In Schlafrock -12-



頭の中が真っ白になってしまった。
エースの手元を凝視したまま、一言も発することができない。
なんでどうしてと疑問ばかりが頭の中をグルグルと駆け巡り、要領を得なかった。

なんで、どうして
こんな写真が―――

「・・・くれる?」
語尾だけが耳に残って、はっと顔を上げた。
写真に見入っていたのは数分か、それとも数秒に満たなかったのか。
わからないけれど、いつの間にか背中にじっとりと汗が滲んでいる。
瞬きもできないでじっと見つめた先に、エースの顔があった。
エースもまた、目を見開いたまま無表情だ。
ぶつかり合った視線を逸らそうともしない。

「服脱いで、見せてくれる?」
「・・・」
え?と聞き返そうとして、喉が絡んだ。
無意味に口を開いて閉じた仕種は、随分と間抜けなものだっただろう。
「なんかさ、これって胸にいっぱいキスマーク付けた写真じゃん。ご丁寧に日付まで入れてさ」
促されて視線を落とした。
日付は、今日だ。
「これ今日撮ったものか、加工か合成か、実物見れば一発でわかるっしょ」
だから脱いでと、淡々とした口調で告げる。

バカなこと言ってんじゃねえよとか、笑って言い返せなかった。
濡れた服を、遊園地で脱ぐことすらできなかったのだ。
身体にこんな痕、付けてる訳ないじゃねえかと口先だけで誤魔化すなんて、できっこない。



サンジは服の裾を握り締めたまま、凍り付いたように写真を見つめていた。
しどけなく横たわり無防備に裸の胸を晒している自分は、目を閉じてうっすらと唇を開いている。
頬が赤いのは泥酔しているせいだ。
ただ単に酔っ払いが眠っているだけなのに、見方によっては恍惚に目を閉じているように見える。
自分の顔だと分かっているのに、目にした瞬間ドキリとするような、エロティックな雰囲気があった。

「―――っ・・・」
エースは言葉で急かすような真似はしなかった。
ただじっと、サンジの顔を見つめ続けている。
視線を感じて耐え切れなくて、サンジはおもむろに両腕を交差させるとハイネックの服をTシャツごと一気に引き上げて頭を抜いた。
乱れた前髪が目元を隠し、サンジからはエースの姿が見えない。
けれど、肌に刺さるような強い視線を痛いほどに感じる。

時間が経って少し薄紫色に変化したキスマークは、消えるどころか朝より色濃く痕を刻み付けていた。
鎖骨の下と乳首の横と、乳輪の部分に歯型も見つけてサンジの方が血の気が引いた。
あいつ、いつの間に―――

エースが方向を変えて一歩踏み出した。
その動きにびくりと身体を震わせたが、なんとか逃げずに踏み止まった。
丸まった服を手の先に引っ掛け、サンジは息を詰めて立ち尽くしている。
エースはそんなサンジの周りを、ゆっくりと歩いた。
静か過ぎる、なんともいえない緊張感に包まれる。
小刻みに震える指を服の中で組んで、ぎゅっと力を込めた。

自分には何も言えない。
言い訳することも取り繕うことも、何もできない。
言う、資格はない。

エースの視線が肌の上を移動するのを感じながら、サンジの頭の中は羞恥や恐れに満たされるより、寧ろ空っぽな状態だった。
真っ白で、何も考えられない。
ただ、エースの動きが気に掛かる。
背中に視線を感じて、はっとしてぎこちなく瞳だけを巡らした。

自分では見えない位置にまで何らかの痕が残されているのだろうか。
もしかしたら、下も脱げなんて言われることに・・・

「いいよ」
はっとして、手の先に服を縺れさせたままジーンズに手を掛けていた。
問い掛けるように振り返ったサンジの目に映ったのは、相変わらず無表情なエースの顔だ。
「もういいよ、服着ても」
・・・いいの?
声に出せずにごくりと唾を飲み込んで、慌てて頭から服を被る。
エースは疲れたように、大仰な仕種でソファに腰を下ろした。
裾まできっちり直して髪も手櫛で整えてから、サンジは紅潮した頬をそのままにエースの前に踏み出す。
「あ、の」
「ん?」
エースの大きな手がこめかみに当てられていて、表情がよく見えない。
いつもはひょうきんに動く口は引き結ばれて、手の影で暗く翳っていた。

「あの、な、これは・・・」
「・・・」
「これは、な」
エースは何も言わない。
言わないでじっと耳を傾けている。
これがサンジには辛かった。
いっそ詰ってくれれば、激昂してくれればこちらだって売り言葉に買い言葉で、言い訳したり言い返したりできるだろうに。
エースは何も言わない。
サンジを責めもしないで、怒りもしないで、追い出しもしないで。
ただ黙って、座っている。

沈黙が痛かった。
その場に立っているのも辛いのに、逃げ出すどころか動くことすらできなくて。
随分と長い間黙ったまま突っ立って、それからサンジはおののくように深く息を吸い込み吐き出した。



「あのな、夕べゾロと飲んだ」
動かないエースの頭に向かって、言葉を投げ掛ける。
「パリから帰ってきて土産貰ったから、土産話も聞かせて貰おうって、二人でバーで飲んでた。バーテンの女の子がそりゃあ可愛くてカクテルが美味しくて、俺も調子に乗って結構飲んじまって」
エースは動かない。
「正直、途中から記憶がねえんだ。んで、目が覚めたらゾロの部屋で寝てた、裸で」
顔も上げない。
「夜中に俺が吐いたからって、服は風呂場に放り込んであった。実際臭かったし、今朝は俺それ洗って乾かしてから来たんだ。けど身体にこんな痕付いてんのは鏡見て気付いてたから、首元隠せる服を買った。それも今朝の話」
ただ、耳を傾けているのは分かる。
「こんな痕を付けられてるって気付いたのも、ゾロが出勤した後だったからよくわかんねえんだ。何があったのかも。けど、自分で身体改めても痕が付いてる以外は何も異常がないし、性質の悪い悪戯だなってそん時は、思って・・・」
まさか―――
「まさか、こんな写真を、撮ってるなんて・・・」
思わなかったんだ。
最後は声にならない溜め息となって、部屋に落ちた。



息をするもの辛いほどの沈黙が降りた後、エースはようやく動いてくれた。
ゆるゆると顔を上げ、突っ立ったままのサンジを見やる。
まるで能面のような冷たい無表情にぞっとした。
ドミノが、足が震えたと言った意味がわかった気がした。

「悪いけど、今日は帰ってくれるかな」
喉に絡んだような声だった。
エースも辛いのだ。
苦しいのだ。
溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んでいるのだと声一つでわかって、サンジの方が悲しくなった。
我慢しなくてもいいのに。
もっとちゃんと、気持ちをぶつけてくれたっていいのに。

「お茶漬けは、食えそうもないし」
口の端がほんの少し上がった。
笑おうとしているのだとわかって、サンジは慌てて目を逸らす。
「ごめん・・・」
ゆっくりと後退りして、上がりかまちから一段下に足を踏み外しかけた。
壁に手を着いてなんとか身体をささえ、靴の踵を踏み潰しながら扉を開けて外へ出る。
ドアを閉める間際、ソファに座ったままのエースの姿が見えた。

怒りや悲しみというよりも、ただ呆然と座っているだけの光景は、まるで取り残された子どものように見えて。
なんだかたまらなくなって、ぐわっと胸の奥から何かがせり上がってきて。
気付けば靴を跳ねる挙げるように脱いで、部屋の中に駆け戻っていた。
「エース!」
サンジの勢いに驚いたのか、エースは顔を上げて目を瞠っている。
「こんなこと言える資格はねえってわかってっけど、これだけはわかって欲しい。俺、ゾロとはなんでもなかった。なにもしてなかった、少なくとも俺の意識がある限りは何にもなかった」
エースの前に膝を付いてソファに手を掛けながら、サンジは必死に言い募った。
「女の子じゃねえから身の潔白の証明なんてできねえけど、迂闊に酔っ払って連れ込まれたのも言い訳のしようもねえけど、けど、誓ってなにもしてねえ。ゾロとは何もなかった、絶対に!」
拳を握り締め、縋るようにして訴える。
そんな自分の姿勢にはっと気付き、身を引いた。
「・・・ゴメン」
ちぐはぐな動きを見せるサンジに、エースは口元を緩ませた。
目付きの鋭さは消え、顔には諦めの色が浮かぶ。
その表情の変化に、サンジの胸がキリキリと痛んだ。
「ごめんエース、ごめ・・・」
見る見る内に、エースの顔がぼやけて滲んだ。
なんで俺が泣くよと、自分で突っ込みたくなるほど次から次へと何だが溢れ出て来る。
泣きたいのは、エースの方だ。
よくわかっているつもりなのに、一方的に涙を流してしゃくりあげているのは自分だ。

「ごめ、エース・・・ごめんっ」
サンジはボロボロと涙を流しながら、身を翻して部屋を飛び出した。
躓いて転びそうになりながらドアを閉める。
来た時と同じように静かな廊下を早足で通り過ぎ、エレベーターに乗ると同時にその場蹲りそうになった。



まだ頭が混乱している。
ただ、これ以上エースの顔を見ていられないと思った。
あんなにも傷付いて、あんなにも頼りなさげで、あんなにも哀しみに包まれた小さな子供のようだったエース。
エースにあんな顔をさせたのは俺だ。
全部全部、なにもかも俺が悪いんだ。


浮遊感と共にすぐに開かれた扉に誘われるように、サンジはフラフラとエレベーターを降りマンションを出た。
丁度帰宅ラッシュと重なったのか、表は人通りが多い。
誰もが何かに急かされるように早足で行き交っているのを、植え込みの縁石に凭れかかってサンジはぼんやりと眺めていた。
無意識にポケットを探った手が煙草を取り出し、緩慢な動作で火を点ける。
深く吸い込んで鼻から煙を吐き出せば、麻痺したままだった頭が少しずつ動き出した。

ここまで来る道中で、まさかこんな展開になるだなんて想像さえしてなかった。
今日は楽しかったから。
子どもみたいにはしゃいで、たくさん笑って、ほんとに楽しい一日だったから。
お腹も空いてなくて、軽くお茶漬け食べようって材料を買い込んで。
二人で何がいいって食材を選んで、一緒にカゴ持ってスーパーを歩いてたのに。
エースの部屋に寄るのを、ためらったりまでしていたのに。
だってやっぱビビるよって。
身体中にキスマーク付けておきながら、一体、何言ってたんだよ俺は。

「ばっかじゃねえの?」
口に出したら、笑えて来た。
やっぱビビるよって、付き合ってながらいざ手え出されると腰が引けるって。
何言ってんだよ。
何カマトトぶってんだ。
そんなこと、言える資格なんてなかったじゃねえか。

男と一緒に旅行するのも許可がいるって、そんなのおかしいって。
おかしくなんかねえよ。
おれ自身がこんなにも隙だらけで。
友人だと思ってた男に、眠っている間に悪戯されて。
あんな写真まで―――
あんな写真・・・
なんで、なんでゾロが―――


「ゾロ・・・」

ポタポタと流れ落ちる涙が膝を濡らしている。
片手で顔を覆ったら、湿った息が自分の頬に掛かった。

情けないなと、バカだったなと。
悔やんでも呪っても口惜しがっても、何一つ取り戻せない気がした。


自分がどうしてこんなにも泣いてしまうのか、その意味さえわからなかった。




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