夜半に降り出した雨は止むことを知らず、傾いた路地の隅で一筋の流れを作っている。
滑りやすい路面に注意しながら俯いた視界の隅に、色の違う流れが映った。
灯りの届かないゴミ箱の影から、でかい足が投げ出されている。

湿気たマッチを擦って煙草に火をつける。
一瞬照らし出された横顔は、まだ幼さが残っていた。

「ガキかよ」
再び闇に包まれた路地裏で、とりあえずサンジは一服した。










「死に損ないが死に損ないを拾ったか」
揶揄めいた口調に怒るでもなく、薄汚れた白衣を脱ぐ初老の男に酒を1本手渡す。
「夜中に呼びつけて悪かったなクソヤブ。また改めて飲みに来てくれ」
受け取ったビンを大事そうに抱えると、ヤブと呼ばれた医者は軽く手を上げて部屋を出て行った。



部屋の照明を落として、煙草に火をつける。
自分のベッドを占領する男の寝顔を眺めながら、イスに腰掛けた。
図体ばかりでけえ描みてえだな。

短く刈られた黒髪。
少し血の気の戻った顔には、まだあどけなさが残っている。
細く整った眉。
意識を失いながらも一文字に引き結ばれた口元に、意思の固さが伺える。


―――似てるな。

ごく自然に思い至って、サンジは自嘲した。
ばかばかしい、行き倒れに面影求めんなよ、俺。


ぴくりと眉が上がり、眉間に皺が入った。
ああ、益々似てやがる。
煙草を指に挟んだまましばし見取れていたら、ゆっくりとその瞳が開いた。

眼球が左右に揺れて、何度か瞬きをする。
横たわったまま視線だけをこちらに向けてサンジの顔に焦点をあてた。
身動きもせず、ただ頭から爪先まで値踏みするように眺めている。

獣くせえ。
慌てる素振りはない。
ただ視覚から状況を判断しているようだ。





「たいした生命力だって、ヤブ医者が呆れてたぜ。」
サンジは灰皿に灰を落として銜えなおした。
「出血がひでえ上に、あの雨で冷え切ってて、ゴミ溜めん中で生きてるたあ、ゴキブリ並だとよ」
サンジの言い草に僅かに顔をしかめて、視線を外した。
首をめぐらせて部屋の中を見渡す。
「ここは俺の部屋だ。俺様のベッドをレディ以外に寝かせるなんざ、てめえが初めてだぜ。感謝しろよ。
 ついでにクソ重てえ身体引きずって歩いてヤブ医者まで呼んでやった。俺がいなけりゃ手前今ごろ
 のたれ死んでるぜ、ああ間違いねえ。言うなれば俺は命の恩人だ。せいぜい感謝しやがれ」
煙草をもみ消しながら一気に喋り、二の句も告げない男に背を向けた。



部屋の中に備え付けた小さなキッチンに立つ。
左手で鍋の蓋を開け、レードルでかき混ぜる。
近くに皿を寄せて、程よく冷めたスープを注いだ。
トレイにスプーンとコップを載せて、静かに運ぶ。

「起きれるか」
尋ねるより早く、男は身を起した。



「あんた、ソッチきかねえのか」

その声に―――
バランスを崩して取り落としそうになったトレイを、男が素早く受け止める。
「なにやってんだ、あんた」
呆れたような口調に、胸が震えた。

「・・・そっちこそ、起きて大丈夫なのかよ」
サンジはそのままトレイを押し付けて、乱暴にイスに腰掛けた。

似ている。
あまりにも。
声までも。

「腹刺されてんだぞ。痛えだろうが」
「別に、そうでもねえ」
やせ我慢でもない平気な顔で、スープを飲み始めた。
「いただきますぐらい、言え」
悪態をつきながらもサンジは男から目が離せない。

――――畜生、こんなに似てるんなら、拾うんじゃなかったぜ。
肘を心持ち広げて食べる。
余所見をせずに真剣に、ただ喰らう姿があいつと重なる。
錯覚しそうだ、畜生――――

あっという間に平らげて、両手で皿を差し出した。
無言の仕草が、またかぶる。
「おかわりかよ」
綺麗に食べられた皿を引っ手繰って立ち上がった。
コンロの前に皿を置き、蓋を開ける。
湯気の上がる中身をかき混ぜて、スープをよそうサンジの動作をじっと見ている。


「ご覧のとおり、俺は片腕がきかねえ。ろくなモンも食わせられねえが、我慢しろ」
サンジの言葉に驚いたような表情を見せて、男は皿を受けとった。
「これ、あんたが作ったのか」
じっとスープに視線を落とし、それからスプーンを使わずに直接皿に口をつけて飲み出した。
「細かく切ってあるが、ちゃんと噛めよ」
言ってはみるが、その喰いっぷりは正直嬉しい。
男は一気に飲み干して、ぐいと口元をぬぐった。
「・・・うまいな」

その声―――
ふるりと頤が揺れる。
サンジは自分を誤魔化すように、新しい煙草を取り出した。

男は傍らに皿を置くと、今度は酒をくれといった。
「酒だとお、ど厚かましい。大体そのケガで酒なんか飲んでみろ。血の巡りが良くなって又出血するぞ!」
喚きながら、サンジは眩暈を感じていた。

大怪我をした後、酒をくらって治す男を俺は知ってる。

「うっせーなあ、酒飲むと痛えの治るんだよ」
「この馬鹿、やっぱり痛えんじゃねえか!」
サンジの声が響いたのか、わずかに男が顔をしかめた。
拗ねた表情がことさら子供っぽい。

「大体てめえ幾つだよ。俺の目は誤魔化されねえぜ。そんなナリはしてっが、まだガキだな」
火のついていない煙草を銜えて、腕を組んだまま見下ろしてやる。
こっちだって伊達に年はくっちゃいねえ。
大人の余裕を見せてやらねえと。
「ガキじゃねえ、もう15だ」
はあ?
ポロリと、煙草が口から落ちた。
15だと?
いくらなんでも、もうちょいいってると思ったが・・・
まんまガキじゃねえか。
「アホか!てめえ15の分際で酒ねだるなんざ100年早えよ。とっとと薬飲んで寝ろクソガキ!」
薬袋を投げてよこし、水差しから水を汲む。

なんだ、ほんとにガキなんだ。
手負いの猫拾ったようなもんかよ。

サンジはくくっと喉の奥で笑ってコップを手渡した。
「てめえ、名前は?」
「――――ルイジ。」
まだ警戒を解かない、アッシュ・グリーンの瞳。
よく見りゃ全然違うじゃねえか。



「じゃあルイジ、今夜だけベッドを貸してやる。さっさと傷治して明日には出て行きやがれ」
びしっと鼻先に指を突きつけて、サンジは煙を吹きかけた。
嫌そうに顔を顰めるルイジを一瞥して踵を返す。

ノブに手をかけたサンジに、男―――ルイジが声を掛けた。

「あんた、名前は?」
「一夜限りのお客サマに名乗るほどのもんはねえだろ」
「俺が名乗ったんだ。てめえも名乗れ」
助けられていて、随分尊大な態度だ。

サンジはさっきから自分の表情が崩れるのを止められない。
こんなやり取りも久しぶりだ。
懐かしいっちゃあ、俺も焼きが回ったか。

「俺の名は、カールだ」
言い置いて、サンジは静かに後ろ手で扉を閉めた。









つまらない相手だった。
徒党を組んで、旅の途中の二人連れから金を巻き上げていた。
助けるつもりは毛頭なかったが、道を塞いでいたのが邪魔だったから適当に殴りつけた。
素手で殴って、腹を蹴り上げて、落ちていた角材で張り倒して、殴って、殴って・・・

十数人居たはずなのに、気がつけば立っている奴がいなくなっていた。
絡まれていた旅人はとうに逃げ出して、表通りから先に逃げた男が仲間を連れて帰ってくる声が聞こえた。

面倒臭え――――

路地を抜けて、闇へ逃げる。
初めての街だから方向も分からない。
ただ声のする方に背を向けて、ひたすら暗い道を走った。

途中から、脇腹の熱さに気付く。
いつの間に刺されていたのか、足元がぬかるんで初めて血が出ているのが分かった。
そう言えば、痛い気もする。
靴の中に血が溜まって、素足が滑る。
走りにくい。
声がうざい。

山道に入って、崖下を転がるように降りた。
振り返れば街の灯りは遠く、追いかける声も聞こえない。
それでもひたすらに走る。
何処に行く当てもない、怖いわけでもない。
闇雲に走りたかった。

脇腹が熱い。
足がもつれる。



また街の灯りが見えた。
違う街。
違う道。

ぽつぽつと頬に雨が当たる。
雨の街。
暗い夜空に雷鳴が轟いて、バケツをひっくり返したような雨が落ちてきた。

真夜中の街灯だけの街。
誰もいねえ。
ほっとするような、寂しいような妙な心地だ。

ゴミ箱の隅が一番暗い。
ここがいい。
ここで朝まで寝ていよう。
そうすりゃ、また傷は治る。

猫もいねえ。
誰もいねえ。
俺もいねえ。
いつか、いなくなる。
誰も、いらない。




















「――――ってけよ」

最初に届いたのは声。
「俺は店にいるから。悪いな」

それから、光。
白い、天井。
風に揺れるカーテン。



「おや、目が覚めたようだな」
見知らぬおっさん。


「驚いた。カールの言ったとおり、殆ど回復しとるじゃないか」
胡麻塩頭の男が、汚い白衣を着てルイジに手を伸ばした。
反射的にその手を弾く。

「痛っ・・・。脈を診るだけだ」
やれやれといった風に肩をすくめる。
ルイジは寝転がったまま、目だけで威嚇した。
「それだけ元気があれば、もう大丈夫だろう。起きれるなら起きて、何か食べなさい」
昨日、カールと名乗った男がしていたように、コンロに向かって小さな鍋から何かをよそっている。
不慣れな手つきでトレイを運び、自分の分も用意してベッドの横に座った。

――――なんでこいつと、喰わなきゃなんねえんだ。

「あいつは」
目が覚めても睨みつけるだけだった男が口を開いたことに、医者は相好を崩した。
「カールはもう仕事に行ったよ。奴は朝が早い。夜は遅い。働き者だ」
手元のリゾットをスプーンでゆっくりと掻き混ぜる。
「そして作る飯が美味い。私が保証する」

どこか飄々とした風情で医者はもぐもぐ食べ始めた。
「・・・なんであんたがここで食べてんだ」
「カールが朝食を食べて行けと誘ってくれたんだ。厄介な拾い物の手助けをしてもらった礼のつもりだろう」
厄介な拾い物は軽く舌打ちをして、自分のトレイを引き寄せた。
恐らく自分のために作った、消化の良い温かなリゾット。
不自由な片手でここまで細かく刻むのは、大変なことじゃないだろうか。

「口は悪いが、優しい男だ」
ルイジの考えを見透かすように、医者は独り言を言う。
「情に厚くて分け隔てをしない。女に対しては呆れるほど軽い態度をとるが、決して過ちは犯さない。この島に
 流れ着いてそろそろ5年になるが、辺鄙で閉鎖的なこの街にいつの間にか溶け込んでいる」

流れ着いて?
ルイジが手を止めて医者の顔を見た。
「奴も死に損ないだ。意識のないままこの島に流れ着いた。奴をカールと名づけたのはこの私だ」
まるでいたずらっ子のように、にやりと笑った。
「半月も奴の寝顔をみていたら、カールと呼びたくなるだろう」
そういってこめかみのあたりを指でくるくると廻してみせる。
そう言えば、随分特徴的な眉をしていた。

「それじゃ、カールってのはあいつの本当の名じゃ、ないのかよ」
リゾットで温められた腹の底が、ぐっと冷えた気がした。
騙された、気がする。
ルイジの瞳に、不穏な光が潜んだのに気付いて、医者は無意識に身を引いた。
「・・・奴の名前など誰も知ん。あいつが言いたくないのなら聞かないことだ。他人の詮索はするもんじゃない」
諭すように穏かに言って、後は黙々と食事に専念する。
ルイジは不満そうに片眉を上げて、それから黙ったきりだった











雨の降る音がする。





医者は、食事を終えるとさっさと帰ってしまった。
何しに来たんだあいつは。
飯喰いにきただけかよ。

一応薬を飲んだことは確認していった。
そのせいか、やたら眠い。
前から良く眠る方ではあったが、体がだるくて起き上がるのも億劫だ。



うとうとしていたら、雨の音に混じって足音が聞こえた。

耳を済ませる。
軽やかな水音。

遠のいて、ここからは離れているだろう、玄関に廻ったようだ。
程なくして、昨夜の男が顔を見せた。




「起きてんのか」

左手にラップをかけた皿を持って、ぶつかるように入ってきた。
肩で扉を押してるんだな。
「遅くなって悪かったな。飯時が混んでてよ」

時計を見れば2時を廻っている。
医者が帰ってから6時間は過ぎてるらしい。

「店のサンドイッチ持って来た。もう、喰えるだろ」
片手ながらも手際よくコーヒーを煎れて、いそいそと運ぶ。
応えないルイジに頓着せず、膝にトレイを乗せた。

「喰え、クソ美味いぞ」

相当強い雨なのだろう。
傘をしていたのに飛沫を受けて、金色の髪の端から水滴が落ちている。

一体いくつなのか。
えらぶって年上のように振舞っているが、さあ食えとどこか嬉しそうに見つめる瞳は子供みたいで、年が掴めない。

青い目に促されて、仕方なく手を伸ばした。
一口喰えば、止まらなくなる。
こいつの持ってくる飯は、どれも美味くて食べ始めると夢中になった。
気がつけば、2人前はあった皿をぺろりと平らげてコーヒーをすする。
男は笑って見守るだけだ。
すべて食べてしまってから、ルイジははたと気がついた。

「もしかして・・・てめえの分も、喰っちまったか?」
どこか不安そうに尋ねる顔つきがおかしくて、男は噴き出した。
「構わねえよ。俺は店で食ってっから、全部お前のだ。まったくいい喰いっぷりだな」
綺麗になったトレイをどけて、薬を飲ませる。
適当に片付けてから、男はルイジの布団をはいだ。

「お前、クソヤブに包帯も変えさせなかったんだって」
上半身裸の胸に手を当てた。
「ああ。やっぱりまだ熱が残ってんだ。てめえに手はたかれただけで、わかったってよ」
冷たい手が、ルイジの裸の胸に触れる。
「血は、滲んでねえな」
添えられた右の、手首を掴んだ。

枯れ木のように細い。
明らかに左とは太さも違う。

「俺の服を出せ。靴もだ」
握った手首は、多分簡単に折れる。
「痛えよ。感覚は残ってんだ」
男は正面から睨みつけても、薄く笑っている。

人がルイジに対するとき、外見のせいか滲み出る雰囲気からか、睨むだけで大抵の相手は怖気づく。
血の気の多い奴は目が合っただけで喧嘩を吹っかけてくるし、気の弱い奴は目を逸らして関わり合いに
なろうとはしない。
ルイジはどうでも良かった。
他人との関係は面倒だ。
男は自分より強いか弱いかのどちらか。
女はヤルだけ。
それでいい筈だ。

「今晩はこのベッドをあんたに返す約束だろ。だから出て行く」
約束、の響きに男が痛そうな顔をした。
何が辛いのか。

「確かに夕べはそう言ったが、せめて熱が引くまでここにいろ。俺が拾ってやったんだ」
左手に力をこめてルイジを押し倒そうとした。
その手も強引に掴む。
「俺に構うな、鬱陶しい。出さねえんならてめえの服はいでくぞ。」
下着一枚で身を起こすルイジに簡単に押さえつけられて、男はそれでも呆れた目で見るだけだ。

「ガキが。一人で生きてるような面してんじゃねえよ」
なんだこの余裕は。
自分が本気を出したら、こんな優男一発でのしてしまえるのに。

「いいコだから大人しく寝てろ。てめえが出て行くときは、俺が叩きだす時だ」
「てめ・・・ふざけんじゃねえぞ!」
本気で手に力をこめた――――瞬間。



ルイジには、何が起きたかわからなかった。
ただ彼の身体はベッドに沈み
―――――意識を失った。










マジでガキだな、青臭え。

コリエを喰らって気を失った身体をベッドに寝かし直す。
いいガタイをしているせいで、片手では苦労した。
右手には感覚も神経も残ってはいるが、力が入らない。
フライパンひとつ、持てやしない。

あん時の俺みたいかよ。
サンジはルイジの寝顔を見ながら煙草に火をつけた。




酷い嵐で停泊した港で、海賊の襲撃を受けた。
火事場泥棒並に嵐に乗じた侵略だったが、いつものように返り討ちにする筈だった。

その日、ルフィたちは先に上陸していて、船に残っていたのはサンジとチョッパーだけで。
それでもちゃちな海賊相手に退屈しのぎ程度の戦いをしていた筈なのに―――

油断があったのか。
運が悪かったのか。

大方片付けた海賊達が退却しようとして、横波に煽られた。
打ち寄せる波と共にGM号に激しくぶつかる。
相手の船は大破し、見張り台に上っていたチョッパーが海中に落ちた。
いけない――――
とっさに荒れる海に飛び込んだ後は、よく覚えていない。
ただ、チョッパーを抱え上げて、ボートに戻したことは確かだ。
薄れゆく意識の中でチョッパーの泣き顔だけが目に焼き付いている。
涙を一杯溜めて鼻水を垂らして、チョッパーが俺の名を呼んでいた。

何度も

何度も





再び目を覚ましたとき、あの嵐の日から半月が経っていた。
木切れに掴まったまま、運良く島に流れ着いたらしい。
このあたりは小さな島が幾つもあって、ナミ達にもサンジの行方は掴めなかったのだろう。
意識を取り戻したサンジから連絡をとる方法は無いこともなかったが、あえてサンジはそれをしなかった。
右手を使えない自分は、もうコックには戻れない。
コックでない自分は、あの船には不要の存在だから。

辺鄙な島で、閉鎖的なところもあったのに、島の人々は献身的に助けてくれた。
半月も意識の戻らない怪我人を抱えてヤブ医者はあらゆる手を尽くしてくれ、喫茶店のマスターは身元も
分からない男を雇ってくれた。


生かされていると思う。
思えば自分は生れ落ちてから、ずっと誰かに生かされてきた。
客船の船長だったり、くそジジイだったり、仲間達だったり、この島の人々だったり――――

宙を漂う紫煙を目で追いながら、サンジは静かに目を閉じた。
最後に見たのは、小さなトナカイ。
自分のせいで俺が死んだと責めてはいないだろうか。
それだけが、気がかりだった。












尿意を催して、目が覚めた。
目を覚ましたはずなのに、あたりは薄暗い。
またしても、かなり寝ていたらしい。

ベッドを降りて適当に扉を開けた。
腹の痛みはさほどでもなく、あれほど重かっただるさも消えている。
よく寝たせいかかなり回復しているのが自分でもわかった。

トイレを済ませると、部屋の灯りをつけて自分の服を探し始めた。
小さな箪笥の中に見慣れたジーンズが畳まれている。
シャツは、多分血で汚れて穴があいていたのだろう、捨てられたようだ。
部屋の隅に置いてあった靴も、洗ってくれたのか血は付いてなかったが生乾きだ。
身支度だけ整えて、箪笥の小引出しを開けてみた。

何か金目のものないかひっくり返すが、それらしいものは何もない。
部屋自体に物が少ない上、殺風景で必要最低限のもの以外は何もなかった。

――――ったく、使えねえな。

持ち出して売れそうな物もない。
諦めてベッドに腰掛ける。

早く立ち去らないと、また奴が帰ってくる。
部屋を荒らされたところを見ると、流石のあいつも怒るだろう。
それでも、立ち上がる気にはなれなかった。

腹が、減ったな。

急ぐ旅ではない。
行く宛てなどありはしない。
ただ、もう一度あの男の料理が食べたいと思った。

俯いて、少し口元を歪める。
・・・俺が、人を待つなんてな。
まだ熱が残っているのだろうか。
このまま立ち去る気になれないのは、なんでだろう。

もう雨は止んだようだ。
乾いた足音が近づいてくる。








「残念だな。金目のもんがなくってよ」
男は怒るでもなく、部屋を見回してにやりと笑った。

「俺は全財産はいつも持ち歩いてんだ。今度狙うときは俺を倒すこったな」
物騒なことを軽く言って、手にした紙袋を台所に置く。
「持ち歩くなんざ無用心じゃねえか」
流石にルイジも非難めいた口調になる。
襲われたら終わりじゃないのか。

「そんなセリフは俺を倒してから言うんだな。それより自分が散らかしたもんは自分で片付けろよ」
そこまで言われて、ルイジは初めて気がついた。
「そう言えば、てめえ俺に何しやがった?なんでまた俺は寝てたんだ」
「さあなあ」
包丁を取り出して、刃でちょいちょいと片付けを示唆した。
早く片付けないと刺すぞ、とジェスチャーまでしている。

ふざけた仕草に怒る気もなくして、ルイジはしぶしぶ引出しを戻し始める。
中にたいしてモノが入っていないから、適当に突っ込めばすぐに見た目は綺麗になった。

「よしよし。よくできました」
男は部屋の隅にある小さなテーブルに二人分の食器を並べて、手早く食事を並べた。
片手なのに手際がいい。
腕のいい料理人だとか何とか、言っていたな。

腕を使う職業の者が腕をなくしたら、どんな心地がするのだろう。
ルイジはぼんやりと考えた。
絶望
喪失
悲観
碌なイメージが湧いて来ないのに、目の前の男は鼻歌混じりにパンを並べている。

「さあ喰えよ。美味いぞ」
人の目の前に食事を並べた男の顔は、馬鹿みたいに楽しそうだ。
心底料理が好きなのだと、それだけで知れる。

明るいサンジの表情とは裏腹に、ルイジの腹の中はどす黒い感情で満たされてきた。
恐らく不幸な目に遭って、絶望的な状況にあったはずの男。
とりわけ不運な生い立ちでもないのに、未来も希望も見出せない怠惰な自分。
己を省みるとき、ルイジは後ろめたい感情に囚われる。
きちんと動く手足を持ち、よく見える目を持ち、強い力が備わった丈夫な身体。
恐らくは恵まれているであろう自分自身を持て余すのは、この先に何も見出す物がないから。
何のために生まれてきたのかすら、答えが見えないから。
だから余計に、目の前でへらへら笑う男に腹が立つ。、
どん底から這い上がったような、吹っ切れた顔で綺麗に笑う、この男が。

「ったく、いつまでもおっかない目で睨むなよ」
微塵も恐れなど感じさせないで、男は軽い口調でからかった。
「・・・自分の名前も名乗れねえような奴は、信用できねえ」
低く唸るように言うと、男は肩をすくめてみせた。
「言っただろ。俺はカールだ」
ウソだ。
それはあのヤブ医者がつけた名前だ。

「名前なんて、たいした意味は持たねえんだ。カールと呼ばれりゃ俺は振り向く。そんなもんだろ」
なあルイジ、と男――カールは肩に手をかけた。
「お前は一人なのか。オヤとかいねえの」
手元のワインを傾けて、ルイジの前のグラスに注いだ。
特別だぞ、と片目をつぶってみせる。
「母親はいる。父親は知らねえ」
「そっか、おふくろさんいるんだ。ここにいること知ってっか?」
何故そんなことを聞く。
どこまでも鬱陶しい男だ。
「俺は10の時家を出てからそれきりだ。おふくろの居場所はわかってるが向こうは何も知らねえ」
くいとワインを飲み干して、カールから瓶を引っ手繰った。
「俺にも注げ、こら」
差し出されたグラスを無視して、瓶に口をつける。
「あ、てめえほんとに行儀悪いな」
カールが咎めながら笑う。
なんだか調子が狂う相手だ。

「なあ、オヤが生きてるんなら、せめて連絡を取れよ。親ってのはきっとずっと心配なんだ」
そう言うサンジは、ゼフに連絡をしていない。
託された夢を失って、どうしておめおめと無事を知らせることができるだろうか。
今でもオールブルーを求めて海原を旅していると、信じていて欲しい。
カールの目が切なげに眇められた。
ルイジを通して別のところを見ているような、遠い瞳。

もう1本ワインを取り出してカールも勝手に飲み始めた。
ルイジは今手にしている瓶をさっさと空にして、その分も横取ろうと考えている。

「隣の喫茶店のマスターがいい人でよ。俺もそっから給料貰ってっし。カモメ便の取り扱いもしてるんだ。
 そっから手紙出せよ。な。絶対連絡しろよ。約束しろよ」
それほど飲んでいないのに、酔っ払いのようだ。
「知らせる必要ねえ。俺の親は子供の心配するようなタマじゃねえよ」
ビンを開けてしまうと、カールの持っているもう1本も無理矢理奪う。
「昔から娼婦やってて、船乗りに惚れてガキ連れでグランドライン渡ってきた。今は自分の娼館持ってる、ふてえアマだ。
 趣味が男に黙って子供産むって奴で、俺の他にも父親の違う兄弟が4人いるぜ」
カールの目が驚いたように丸くなる。
「出来たら堕ろさねえんだとよ。あてつけだかなんだか知らねえが、勝手に産んで・・・しかもその父親ってのを
 ちゃんと覚えていて、いつかどこかで逢ったらあんたの子供がいるって言ってやるのが楽しみなんだと」
最低サイアクに性質の悪い娼婦だ。
ルイジはカールから奪ったもう1本も一気に空けてしまった。

「凄いな、あんたのおふくろさん」
カールから出た言葉に、揶揄や蔑みの響きはない。
「お前がどう思ってるか知らないが、子供を産むってのは伊達や酔狂でできるもんじゃねえんだぜ。少なくとも
 10月は腹ん中に持ってて、命がけで産み落とすんだ。あてつけや趣味だけじゃねえよ。物凄く情の深い、
 素晴らしい女性じゃないか」
ルイジは驚いてカールの顔を見た。
カールは頬を紅潮させて、演技でもなんでもなく感動している。
「妊娠している間、仕事すらままならねえのに・・・それをなげうって命を生み出したんだ。そして育てたんだろ。
 5人、一人も欠けてねえんだろ。凄いじゃねえか。肝っ玉母さんだな」
ルイジは半ば呆れてカールの顔を見た。
今まで母親のことをとんでもない娼婦だと言われたことはあっても、肝っ玉母さんなどと呼ばれたことはない。
目の前にいる男の思考回路がどうなっているのかさっぱり分からないが、悪い気はしなかった。

「なあ、絶対連絡取れよ。できたら俺逢いたいくらいだあんたの母さんに。きっと素晴らしいレディだろう」
こいつ、頭イっちゃってるのかもしれねえ―――
心の中で馬鹿にしながら、酒のせいではなく腹の中が暖かくなるのを感じた。
いつ出会うかも分からない、遺伝子上の父親へのあてつけのためだけに産まれたと思っていたが、カールの
言葉を借りると、どこか救われる心地がした。
「明日、手紙を書け。それから・・・行く宛てがないんなら暫く手伝ってくれねえか」
突然の申し出に固まってしまった。
「コソ泥の真似事が出来るんなら、もう動けんだろ。最近店が忙しくなってきてもう一人雇いたいってマスターが
 言ってたんだ。お前力仕事できそうだし・・・しばらく泊めてやるからよ」

僅かなワインで出来上がったのか、カールは赤い顔で上機嫌にばしばしとルイジの肩を叩いた。
ルイジは珍しく考えてしまった。
どこか一つ処に留まって暮らすなど経験したことがない、が、このままこの男を置いて出るのは気が引ける。
どう見ても、恐ろしく人が良くて危なっかしい。
こいつ、このまま一人にしておいたら絶対なんかのカモにされるタイプだ。
人の心配をするなど恐らく初めての経験だが、ルイジは本気でカールのために暫く側にいることを決めた。






DOUBLE