最近サンジはよく歌う。

正確にはハミングだが、それは包丁を軽やかに動かしている時だったり、洗濯物を干している時だったり、
よく晴れた甲板の日陰でジャガイモの皮を剥いている時だったり――――
煙草を咥えて、目線を落として、小さく静かに響く音は幸福な風景と相まって、クルーの心を和ませた。


「上手になったわね。今の何の歌かわかるわ、当ててみましょうか」
ナミがパラソルの下から声をかけた。
その曲の名を口にするとサンジは「当たり」と指で輪っかを作って掲げる。
それから綺麗に皮の剥けたジャガイモをザルごと持ち上げて、又鼻歌混じりでキッチンへと向かう。
ゾロはそんなサンジの後ろ姿を複雑な胸中で見送った。





サンジは声が出ない。
前に立ち寄った島で色々あって、言葉を失ってしまった。
チョッパーの診断では心因性の発声障害で、焦らずに練習すれば直ぐに声は戻るそうだ。
だから、根気良く練習している。
件のハミングもその一つだ。

気が短くて柄が悪くて直ぐに口も足も出る暴力コックは、実は喋らなければかなり可愛いことにゾロは気づいてしまった。
かわいい―――
十九年間生きてきて、全く無用の単語だったそれが、最近やたらと頭に浮かぶ。
きつい陽射しを避けながら一心不乱に手を動かして、ハミングの音階がずれると、ん?と目線を上げる仕草がえらく可愛い。
つまみ食いを狙うルフィに問答無用で蹴りを繰り出す、膝から下だけがぱきんと綺麗にヒットするその仕草が可愛い。
目が合うと眉間に青筋立てて睨みつけて来るのに、背けた顔の横についてる耳が、妙に赤いのがまた可愛い。
良くみれば、サンジはめちゃくちゃ可愛いのだ。

以前なら目が合うだけで『クソマリモ』だの、『寝腐れ腹巻』だの罵倒が先に出てきたから、ゾロもそれに応酬するのがやっとで、
そのまま喧嘩になだれ込んできた。
しかし言葉を失った今、サンジにはその誤魔化しの手立てがない。
代わりに睨みつけても暴言が伴わないと迫力に欠けるし、ジェスチャーをすればいっそお笑い系に入る。
なので、サンジはゾロに必要以上に突っかかるのを止めてしまった。
だからゾロは何に邪魔されることなくサンジの動向を見ることができる。
そして良く見ていたら、今まで気づかなかったものが見えてきてしまったのだ。

可愛いーじゃねえか、こいつ。
乱暴な口調は実は照れ隠しだとか、過剰なまでの女への賛辞は彼なりの気遣いなのだということが良くわかった。
そして益々好きになる。
そう、ゾロはサンジが好きなのだ。





好きという感情を自覚する前に、ゾロは過ちを犯してしまった。
ゾロの意思ではなかったが、仲間に対する負い目となったその感情につけ込まれて悪霊に身体を乗っ取られた。
操られている間、自分がサンジにどんな仕打ちをしたのか、ゾロは全く覚えていない。
だが何があったのかは薄々気がついている。

身体も心も傷つけた。
最低の方法で。
サンジが声を失ったのはそれが原因だ。
すべての元凶として落とし前をつけたいところだが、チョッパーはそれに触れるのは禁忌だという。

「まず発声障害を直すことが先なんだ。焦らずゆっくりと時間をかけて、必ず声は出るのだから、根気良くリハビリを
 続けなくちゃならない。心の問題は声が出た後じゃないとダメだ」
心的要因なら心が先かと思ったら、そうではないらしい。
サンジに何が起こったのか、サンジしか知りえない。
そしてそのサンジが話せない以上、心理療法を始めることはできないのだ。

「まず声だ。サンジの声を取り戻そう」
ゾロは、チョッパーの言葉に従うしかなかった。
なので、自己嫌悪やら贖罪の気持ちを抱えたまま唯サンジを見ているしかできないゾロは、余計サンジへの想いを募らせることとなる。

今も、夜更けのキッチンで一人杯を傾けて明日の仕込をするサンジの背中を眺めている。
面白いように良く動く手は見ていて飽きないし、いい酒の肴になった。
最初鬱陶しそうな顔で蹴りつけていたサンジも追っ払うことに飽きたのか、何も言わない。
軽い無視を決め込んで、それでもゾロ用のつまみは用意してくれたりするから、キッチンにいることを許してくれているようだ。
どちらかが不寝番でない限り、ゾロは毎夜ここに入り浸っていた。

自分が決めた量を飲み終えると、空の皿を持って立ち上がる。
少し振り向いて手を伸ばすサンジに礼を言って渡した。
サンジとは逆に、ゾロはなるべく思ったことを口にするように心がけている。
もともと無口なゾロがサンジにつられて無言で行動すると、まったく考えが読めなくなる。
それに戸惑っているサンジの顔を見て察したゾロが、自主的にできるだけ自分の思ったことをストレートに口に出すようになった。
サンジの前でだけは、なるべく自分をさらけ出そうと努力している。

「・・・触って、いいか」
俯いて皿を洗い始めたサンジの手が止まる。
「何を?」
と胡散臭げな目でこちらを向いた。
「髪」
言いながら、もう手はそこに触れている。
少し伸びて耳に掛けられた金髪をそっと指で梳くと、引っ掛かりがなくてサラサラしてて、どうにも心許ない。
髪だけじゃなく地肌まで撫でてみる。
丸い後頭部を確かめるように擦って高さの変わらない頭に顔を近づけて、匂いを嗅いでみた。
がつんと向う脛に痛みが走る。
サンジは靴先で蹴って、手にした包丁をゾロの横腹に押し当てていた。
やってることと睨みつける顔は凶悪だが、覗く耳は真っ赤で首も染まっている。
嫌がっているわけではない。
「包丁下ろせ。抱きしめてエ」
向う脛はじんじん痛むが、こんなことで痛がっていてはサンジに手が出せない。
ゾロは痛覚も麻痺したようでサンジを口説くことに意識を集中している。
しぶしぶといった感じでサンジが包丁を下ろした。
ゾロはその手を取って凶器をシンクの上に置くと、改めて正面からサンジを抱きしめる。
薄い背中から痩せた肩に軽く廻る腕の中で、サンジの身体が強張るのがわかった。
口で誤魔化しがきかないから、反応がいちいちダイレクトだ。

ゾロは宥めるように髪を梳き、背中を撫でる。
首筋に顔を埋めるとくすぐったそうに首を竦めた。
サンジの手はゾロのシャツの端を中途半端に引っ張っている。
「俺の背中に手えまわせ」
そういうと、苦虫を噛み潰したような顔をして、それでもおずおずと手を廻してきた。
ぎこちねえとこが可愛いよな。

「キス、すんぞ」
サンジの目の玉が右斜め上を向く。
了解らしいからゾロはその唇を吸った。

髪を撫でて、抱きしめてキスをする。
ここまでならなんとかいけるのだ。
ゾロにしてはそれは辛抱強く、ここまでの過程を繰り返した。
自分の熱でサンジの強張りが溶けるように、ひたすら抱きしめて一晩明かしたこともある。
実に涙ぐましい努力をして、ゾロはようやくこうしてキッチンで抱き合ってキスできるまで関係を持ち込めた。

思えば、自己完結的な暗い欲望の対象でしかなかったサンジと、合意の上でここまでできるなんて凄いことだ。
それだけで充分喜ばしいことなのに、欲というものは際限がない。
―――やりてえな
もっとキスして触って、深く感じたい。
熱く昂ぶる自分に応えて欲しい。
どれほど修行しても所詮19歳の健康男子。
下半身は正直に次のステップを切望している、が、ゾロ自身、それ以上踏み込めなかった。

恐らく、自分はサンジにこれ以上の事をしている。
いやもしかしたらこんな手順はまったく踏まずに、最終目的だけを果たしていたかもしれない。
その行為は彼のプライドをいたく傷つけ貶めただろう。
それが痛いほどわかるから、ゾロは先に進めないでいた。

まず、声が出るようになってから。
チョッパーの言葉を呪文のように頭の中で唱え続ける。
焦っちゃいけない。無理強いしちゃいけない。
心理ストレスの問題は、声が出るようになってからでないと進めない。
ゾロはサンジの唇を堪能して、その抱きしめた腕を解いた。尖った肩に両手を添えてゆっくりと身体を離す。
ぎぎぎと関節が鳴りそうなほどぎこちない動き。
サンジは赤い顔のままゾロを見つめて、それから視線を落とした。
実に堂々と、胸を張って立つゾロの前は大テント状態だ。
「じゃあ寝るぜ。お休み」
それでも爽やかに、笑みまで残して去っていく後ろ姿はさすが未来の大剣豪と感心せずに入られない。
サンジはその男前な背中を見送って、気が抜けたようにシンクに凭れかかると盛大にため息をついた。
煙草に火をつけて深く吸い込む。

実のところ、サンジはゾロが嫌いではない。
ぶっちゃけ言ってしまえば好きだ。
多分、惚れている。
だがそれを自覚したのはここ最近で、正確に言うならばゾロに強姦された後だ。

悪霊に取り憑かれたゾロは、問答無用で彼を犯した。
抵抗するサンジを殴って斬りつけて、慣らしもしないで突っ込んだ。
サンジはあのときのことを思うと今でも吐きそうになる。
首を斬られる恐怖と開かれた羞恥心で気が狂いそうだった。
マジで死ぬかと思った。
死のうかとも思った。
突っ込まれた時のことはもうよく覚えていない。
ただ気がついてから一人で無人の船に帰って、なんとか薬を飲んだ後のずくずくと身体の芯まで疼く痛みがまだリアルに残っている。
痛くて惨めで哀しくて、あれはゾロじゃないと思ってもそれは紛れもなくゾロの肉体で――――
そのことが余計サンジを打ちのめした。
それでもゾロの意思でしたことではないとわかっていたから、ずっと隠しとおしていたのに。

―――この男が望んだことだ
せせら笑う、悪霊の声。
この男は胸の奥底でお前を犯したいと望んでいた。
ゾロの顔でゾロの声で、そう告げた悪霊が最後に縋りついていた何かを壊してしまった。
陵辱されて尚、ゾロを慕う自分の想い。
ゾロが好きだということ。

ゾロに犯された記憶は苦痛以外の何も残さなかった。
けれどそれ以上に、サンジを戸惑わせる記憶がある。

悪霊に追い詰められて、通りすがりのチンピラに売りとばされた。
そのときも、意識が朦朧としていてよく覚えていないが、どこかに連れ込まれて輪姦された。
そしてそれが、とんでもなくよかったんである。
多分、薬でも使われたんだろう。
正気の沙汰ではなかった筈だがゾロの(正確には悪霊の)暴力とも呼べるSEXに比べれば、まさに天国と地獄。
顔も覚えていない野郎に突っ込まれて散々喘がされ与えられた快楽は、今も甘い疼きを伴って体が覚えている。
女性と交わすそれとは違う、直接的で度を越した快感。
素質があると嘲る声にすら悦んで嬌声を上げていた自分。
人生における最低のSEXの相手がゾロなら、最高のSEXはくだらないチンピラだったなんて――――




物思いに耽ってろくに吸わないうちに、煙草はフィルターを焦がし始めた。
苛々をぶつけるように灰皿で押し潰す。
正直今でもゾロが恐ろしい。
だがゾロをあの状態で放置するのは気が引けた。
同じ男として心から同情する。
自分で何とかできるものなら何とかしてやりたいし、何とかしたいなともちょこっと思ったりしているのだ。
だがゾロらしくもなく、一向に手を出してこない。
意外と慎重な性格なのか過日のことを猛省しているのか、ゾロの真意はわからないが、けなげに耐えているのだけは
サンジにもわかった。

やっぱ俺から何とかしないとダメか。
サンジは決心して、キッチンを出たゾロの後を追った。






Bird song