恋文を書いた。
その次に遺書を書いた。
さあ、死に場所はどこにしようか。
髪をタオルで拭い、サンジは椅子に腰かけて煙草を咥えた。
雨でぐっしょりと濡れた煙草は、箱ごと捨てた。
冷え切った身体を熱いシャワーで温め、乾いたシャツに着替えて煙草に火を点ける。
軽く吸い付けてから、長く息を吐いた。
テーブルの上には封筒が二つ。
一つは恋文で、一つは遺書だ。
遺書の文言なんて『先立つ不孝をお許しください』ぐらいしか、思い付かない。
だが、許しを請う相手はいなかった。
サンジが死んだって、誰も不幸にならない。
強いて言うなら、仲間達は悲しむだろう。
ナミさんは泣いてくれるかもしれない。
ルフィは悔しがるだろうな。
ロビンちゃんは、残念に思ってくれるだろうか。
ブルックが奏でるレクイエムは、きっと美しい。
ゾロは――――
ゾロは多分、怒るだろう。
そう簡単に一味を抜けられると思うなよと、もう居もしないサンジに向かって悪態を吐くかもしれない。
一味であることでしか、自分を縛れないくせに。
サンジはふっと、微笑んだ。
あて先のない、真っ白な封筒。
遺書には結局、一言だけ書いた。
『クソお世話になりました。』
これだけじゃ、遺書にもなりはしない。
でも、この言葉以外見つからなかった。
これが人生のすべてで、終わりを迎える今でも、これ以上の何かを得ることはできそうにない。
ただ、今まで出会ったすべての人に対しては、感謝しか思い浮かばなかった。
クソみたいな家族でさえも、その手で抹殺したいとは望まない。
ただ、彼らの希望を叶えられるなら、自分が消えたい。
生まれてきてごめんなさいと、涙ながらに詫びたその日からサンジの時はずっと止まったままだ。
優しい人に出会い、仲間を得てようやく“ふつう”の人生を歩み始めたはずなのに、気が付けばいつでも忌まわしい過去へと容易に後戻りしてしまう。
成長したようでいて、生まれ変わったつもりでいて、自分はなにひとつ変わってはいなかった。
ここで足踏みしているのは、自分自身の影から逃れられない己のせいだ。
わかっているから、誰も責める気にはなれない。
さて、死に場所をどこに定めようか。
この国では、扉も食器も意志を持つ。
誰もいないようでいて、ただ「黙って」いるだけだ。
何をしても、見張られている。
常に監視されている。
これでは、人目に付かずひっそりと死ぬことができない。
ずっと、いつか死ぬならどんな死に方がいいだろうかと考えていた。
綺麗な妻と可愛い子や孫に囲まれて大往生は理想だが、曲がりなりにも海賊として生きるならばいつだって死と隣り合わせだ。
それならばせめて、レディのために死にたかった。
危機に瀕したレディを助け、あるいは名も知らぬレディのために命を懸けて戦って死ぬのなら本望だ。
だから明日命を失うのも、ある意味理想通りといえる。
ただ、この身体から流れ出る血で相手を汚したくはない。
たとえどんな理由があろうと、レディを傷つけることはサンジの騎士道に反する。
どこかで一人で、死のうと思う。
そうしたいのに、どこへ行けばいいかわからない。
どうしたら、死ねるだろう。
自分だけがなぜか「ただの人間」なのに、それでも“ふつう”の人間よりは、身体が頑丈だし怪我も治るのが早い。
ちょっとやそっとじゃ、死にそうにない。
手首の爆弾を無理に外そうとして、いっそ爆発させてしまおうか。
うまくいけば、そのまま出血多量で逝けるかもしれない。
だが、屋敷の中では「人目」がある。
すぐに見つかって手当てされてしまっては、具合が悪い。
舌を噛んで、死ねるものだろうか。
包丁を心臓に突き立てたら、あっさりとこと切れるだろうか。
どちらにしろ、死に損ねたら最悪だ。
やはりどこか、誰にも見つからない、誰も知らない場所で逝きたい。
死んだことすら気付かれないよう、仲間の記憶にすら残らないよう、綺麗さっぱり消えてしまいたい。
誰も探さないでほしい。
最初から存在しなかったことにしてほしい。
俺のために、もう誰も傷付いてもらいたくない。
俺が誰かの運命を変えてしまうことが、なにより恐ろしいのだ。
サンジは立ち上がり、窓辺に近寄った。
蝶番を動かして窓を開ける。
雨はもう、止んだようだ。
静かに流れ込む夜気に、かすかにバラの香りが混じった。
この濃密な闇に紛れて、命の終わりを告げられないだろうか。
死に場所は、海が良い。
青く冷たく、どこまでも深い。
音のない世界で、息を止めたい。
そこはきっと母の腕の中に似て、目を瞑れば死の匂いがするだろう。
サンジは煙草を揉み消して、窓を閉じた。
窓はかすかに、吐息を漏らす。
見張られている。
いまも、ずっと。
踵を返して、テーブルへと戻る。
二つの封筒。
一つは恋文。
一つは遺書。
遺書はともかく、恋文は誰が読んでもそうとは思わないだろう。
あて先はない。
誰にあててとも書いていない。
そもそもこれが恋文だとは、気付かないかもしれない。
思いのたけを書いたのに、きっとこれは伝わらない。
それでいいと思っていたのに。
そう思いながら書いたのに。
サンジは急に、惜しくなった。
たった一言、伝えたい相手に伝わらないかもしれないと。
むしろ伝わらないだろうと、そう気付いたら悔しくなった。
ついさっきまで、すべてのことが「どうでもよかった」のに。
なぜか、そんな些細なことがとても気にかかる。
これは直接渡さないと、伝わらない。
自分が死んでも、ジェルマが滅んでも、この恋文は愛しい人に届かない。
届かなければ、伝わらなければ、これは“恋文”ではなくなってしまう。
サンジは封筒を一つ、手に取ってポケットに入れた。
遺書はこのままでいい。
死んだら、これを読んだ人は「遺書」だと思う。
けれど「恋文」は。
これは、直接渡さないと伝わらない。
そもそも、渡したってきっと伝わらない。
あいつはそういうことに疎いから。
読んだって、「いまさらなんだってんだ」と首を傾げて終わりだ。
緑頭を思い浮かべると、だんだん腹が立ってきた。
あの射るような瞳も、クソ忌々しい口ぶりも、度を越した鈍感さも。
それでいて、都合の良い不遜さも。
何もかも腹立たしい。
久しぶりに腹が立つ。
やはり直接、自分の口で伝えなければ。
そうしなければいけないような、そんな気がする。
命はいつだって、終わらせることができる。
なら、どうしようもないところまで行ってみようか。
どうせ「なかったこと」にならないのなら、成り行きに任せてみるのもいいかもしれない。
自分が死のうが生き延びようが、きっとルフィは止められない。
他人を傷つけない生き方なんて、生きている限り絶対に無理だ。
サンジは考えを巡らせ始めた。
どうすれば、いいのか。
ここから仲間も自分も無事に、生きて脱出するにはどうすればいいのか。
極力人を傷つけず、離れた人も守れる策はないか。
どう動き、何を判断すればいい?
「必ず帰る」と言い置いた約束を守るために、自分に何ができるのか。
サンジはポケットに手を突っ込んだ、拳を握った。
せっかく書いた恋文が、くしゃりと音を立てて潰れる。
どうせ渡したって読みやしない恋文だ。
直接会って、尋ねればいい。
必ず戻って、聞いてやればいいのだ。
『なにを食いたい?』
それは彼一人に宛てたものではなく、仲間みんなに伝えたい唯一の想い。
End