冬島海域に入り、気温はぐんと下がった。
だが氷結するほどではないので、甲板に降り積もる雪を掻きがてら遊びに興じるのもまた楽しい。

立ち寄った島はクリスマス島と名付けられて、年がら年中ツリーが飾られ、常時プレゼントが用意されている
ような不思議島だった。
季節を問わずにクリスマス気分が楽しめ、贈答用としてのプレゼントを買い求める観光客で終始賑わっている。
そんな島に寄航したからには藁海賊団がはしゃがない訳もなく、皆嬉々として街に散っていった。
けれど今宵のディナーはサニー号でとることになっている。

なんでも今日は、聖バレンタイン・デー
元々は、聖人ウァレンティヌスが結ばれぬ恋人たちを婚姻させた罪で処刑された伝説が起源だが、そこから
愛の告白の日となり、告白には女性から男性へとチョコレートを添えることとなり、なぜかチョコレートの
お祭りみたいな記念日になってしまった。

故に今日はバレンタイン・パーティ。
サンジが腕によりをかけてナミとロビンをチョコレートでもてなすのだ。
・・・本末転倒と言うより、脱線転覆別ルート驀進の感は否めない。


サンジは問屋町でクーヴェルテュールをしこたま買い込んだ。
さすがに贈答品をメインとした観光地、原産地のいいものが手ごろな価格で揃っていてあれこれと
目移りしてしまう。

ほくほくして船に戻り、きっちりと戸を閉めてエプロンを身に着けた。
暖房は入れない。
吐く息が白く流れるが、サンジはこれから取り掛かる作業に心浮き立っていて胸の中は熱いくらいだ。

戸口に蹲ってゾロが居眠りをしている。
一応全員人払いのつもりだったが、もし何かあったときにサンジは手が離せないから、もう一人いた方が
いいだろうとナミが置いていってくれた。
妥当な人選だと思う。






サンジは早速クーヴェルテュールの包装を解いた。
カカオの芳醇な香りが立ち昇り、思わずうっとりと目を細める。
「・・・上質だ」
匂いを嗅いだ途端、バラティエの厨房が脳内に蘇った。

忙しく立ち働く屈強なコックたちと、ゼフの鮮やかな手並み。
あの頃のサンジは、チョコレートに触らせてもらえるどころか近付くことさえ許されなかった。
懐かしくほろ苦く、ちょっぴり甘い想い出だ。
バレンタイン・フェアが終了した船内で、後片付けを済ませたサンジが部屋に戻ったら
テーブルの上に小さな宝石のようなチョコレートケーキが置いてあった。

店でデセールされていたものとは違う、あまりに小さく、そして可憐過ぎるチョコレートムース。
来年用の試食だと殴り書きされたメモに目を通し、サンジはおそるおそる口に運んだ。
舌ですっと溶ける感触、じわりと広がる甘味と芳香。
味わうにはあまりに早く消え去り、惜しむ間もない至福の一瞬。
でもだからこそ、サンジの舌と記憶に焼き付いた甘い思い出。

あの味を、歓びを、いつか自分の手で作り出すことができるだろうか。
来年の試食と称されて、実はサンジのためだけに作られた真夜中のデセール。
チョコレートの匂いを嗅ぐたびに幾度も思い出す、幸福の記憶。





サンジはクーヴェルテュールを細かく刻み、水気を念入りに拭き取ったボウルに入れて湯煎にかけた。
チョコレートを溶かし、一定の量だけ大理石の上に取り出す。
気泡を入れないように塊ができないように気をつけながら薄く広げ伸ばし、三角パレットで端から
かき寄せてすくい、アングルパレットで払い落として集め、また広げる。
それを何度か繰り返して温度を下げ、粘りと艶を出していく。
この行程がサンジは大好きだ。
見えない世界で、チョコレートの結晶が美しく形作られている。
決して目にすることはできないのに、サンジの脳裏には、何故か純白の雪の結晶が浮かんでしまう。

表面にかすかに膜が張るような状態になった頃、温度計で確認した。
下唇にそっとつけてみて、手ごたえと肌で再度確かめてから手早くボウルに戻す。
ボウルに残っていた分と混ぜ合わせ、ゆっくり混ぜながら温度を調節する。
紙に薄くつけて暫く置き、艶よくしっかり固まるか確かめて、次の作業へと移った。


別のクーヴェルテュールを湯煎で溶かし、沸騰した生クリームを加えガナッシュを作り、
ウィスキーとフランボワーズのガナッシュもそれぞれに別の鍋で手早く作った。
絞り出せる固さまで冷やし、球状に絞り粉砂糖をまぶして掌で丸め、テンパリングした
クーヴェルテュールを薄くまぶして固まるまで置いておき、さらにクーヴェルテュールに
くぐらせ、バットに広げたココアパウダーの上に置き、転がしながらまぶす。

タプラージュの時は緊張して息を詰めるように作業に専念するが、この手順は楽しくて
つい鼻歌なんか漏れ出てしまう。
ウィスキー・ガナッシュは3色のコポーをまぶし、フランボワーズ・ガナッシュはピンク色の
粉砂糖をまぶして―――

見た目にも可愛く可憐に、ナミとロビンの悦ぶ顔を思い浮かべながら進める作業はサンジにとって
至福のひと時だ。
無論、麗しいレディの後ろには騒がしい野郎共も群がっているだろう。
奴らのためには、もっと腹持ちのあるものも作らねばならない。

ナミのためにオレンジ風味のトリュフ。
ラム酒風味とヘーゼルナッツ。
パレ・ドールには金箔を散らし、マンディヤンは色鮮やかなナッツで彩る。

ガナッシュが固まる間に冷凍して置いたジュレを使って、焼いたダクワーズとムースを
重ね冷やす。
タルトを作りエクレアを焼き、テリーヌは冷やしてパルフェを仕込んでフイヤンティーヌを
重ねて果実で飾って―――

サンジは煙草に火を点けるのも忘れて作業に没頭していた。
流れるような手の動き、無駄ない足運びと軽やかなステップ。
調理していると言うより、踊っているような流麗な動作。

いつの間にか目を覚ましたゾロは、その光景に魅入っていた。


常日頃、調理場に立つサンジを見るのは実は密かな愉しみでもあった。
サンジの動きは剣舞にも似て、隙がなく美しい。
その手から生み出される料理の数々は、素人目に見ても計算しつくされた造形美を秘めて
いて、匂いからも視覚からも食欲を刺激される逸品だ。

ゾロは他のクルーのように上手に言葉を繰り出して誉めそやすことはできないが、いつだって
舌を巻いていた。
その味にも供されるテーブルにも、それらを生み出す作業の一つ一つにも。
これがプロであり職人であると言うことと、料理を愛し食材を愛し、食べる人を愛するからこそ
成し得る無償の技であることを、サンジは自覚なしに教えてくれている。

人に与える喜びと、人に与えられる喜びを―――
他者と情を通わすことさえ不要なゾロの生き様の中に、本来なら芽生えるはずのない感情を
教えてくれたのは、サンジなのかもしれない。

柄にもなく殊勝な想いにとらわれて、ゾロは気配を消したままじっとサンジを見つめていた。




色とりどりのトリュフにヌガー、ベリーのデリス、タルト2種とディプロマット、メレンゲと
ルーヴル、エクレアにフィナンシェ、テリーヌにシャーベットにチョコレートの涙―――
熱々のスフレはまだ早いから、今のうちに夕食の仕込みをしようと冷蔵庫に振り向いて、
ぎょっとして足を止めた。

ゾロが目を覚ましている。
しかもじっとこっちを見ている。

「んだてめえ、起きてたのか」
いきなり現実に引き戻されて、サンジはふやけたフィルターをうっかり取り落としかけた。
いつから起きてたんだろう。
ずっと見られてたんだろうか。

見られて具合の悪いことはないが、なんとなく気恥ずかしい。
自然、気分が下降して仏頂面になる。

「黙って起きてんじゃねえよ」
「起きたぞ」
「・・・遅い」

寝ぼけた風でもないのに、ゾロはなんとなくぼうっとしてこちらを見ている。
サンジは冷蔵庫まで歩いて扉を開けて、何を出そうとしたのか忘れてドアを閉め洗い場に
まで戻って、また踵を返した。

「なんだよ」
見られていると思うと、落ち着かないのだ。
「気にするな」
気になるんだっての。
サンジはもう一度大股で冷蔵庫に近付いて、冷やしてあるウィスキー・ガナッシュを一粒取った。

「おら、これでも食ってろ」
投げ渡すつもりで振り返り、動作が止まってしまった。

ゾロは、壁に凭れた状態でぱかんと口を開けていた。
目はしっかりサンジを見ている。
まじめな顔をして口だけ開けて、大の男がするにはあまりにおかしな表情だが、見ようによっては
雛鳥のように見えなくもない。
つか、雛鳥ってなんだ。

サンジは一瞬たたらを踏んで、それから恐る恐ると言った風に辺りを見渡した。
右見て左見て、振り返り扉が開かないのを確認して、また正面に向き直る。

ゾロは相変わらず大口を開けている。
目は口ほどにモノを言うというか、さっさとしろと催促しているのがわかった。
手の中のトリュフが溶けるのも嫌だ。

サンジはもう一度付近を窺ってから、腕を伸ばして恐々ゾロの口の中にトリュフを放り込んだ。
一瞬指先が唇に触れる。
慌てて引っ込めるのに、追いかけるように舌が伸ばされて舐められそうになった。
うひゃあと情けない声を上げて身体ごと飛び退いたら、ゾロはトリュフを口に含みながら
くっくと笑った。

「なにすんだっ」
「ああ、美味え」
ゾロは知らぬ気に視線を逸らし、口元をもごもごと動かしている。
「あれだな、口閉じて鼻から息吐くと、またいいな」
「・・・まあな」
なんなんだと、肩の力を抜いてサンジは自分の指を見た。
指先に、溶けたチョコレートがついている。
それを舌で舐めて、一瞬どきんと心臓が跳ねた。

この指には、ゾロの舌が触れた?
いや、触れてねえ。
舐めてねえあいつ。
俺が一瞬早く、指を引いたから。

けれどゾロの唇には触れている。
え、それって間接キッス?


どうでもいいことなのに、頭の中で事実と予想がグルグルと渦巻いた。
や、あんまり深く考えねえ方がいい。
つか、そんなこと気にしてんの、俺だけじゃね?

サンジが顔を上げれば、ゾロはまた腕を組んで目を閉じている。
また眠るつもりだろうか。
それとも狸寝入りだろうか。
退屈じゃないんだろうか。
自分が夕食の支度をするのを、またこっそり眺めているつもりだろうか。

サンジはややぎくしゃくしながら、ゾロに背を向けてキッチンに立った。
作業に取り掛かりさえすれば、ゾロの存在などすぐに消え去って料理に没頭するだろう。

けれど今だけは、もう少しだけは。
ゾロの存在を、見られていることを、意識して楽しむのもいいだろう。

楽しんでんのか。
自分自身に突っ込んで、サンジは包丁を手に取った。
背中にゾロの視線を感じて、自然と背筋が伸びる。

見たいなら、見ればいい。
気になるなら気にすればいいし、触れたいなら触れてくればいいのだ。




けれど今はまだ。
もう少しまだ―――


見つめる程度に、気になる程度に
少しずつ、見えない何かを
まるで結晶を形作るかのように築きつつあることを、サンジは予感していた。






END


Valentine day