秋も深まってくると、ある種の虫が頻繁に飛び交うようになった。
ゾロはもう慣れっこだが、それがブンブン羽音を立てながら耳の傍でも通り過ぎていくと、これをあれが
見たらどう反応するかなどと、つい想像しては笑ってしまう。
これとはカメムシのことであり、あれとはサンジのことだ。

寒さが強まるにつれ、カメムシは越冬するためにやたらと家の中に入ってくる。
乾いた洗濯物の中は元より電球の傘、雨戸の戸袋、網戸、壁際に天井と、至る所に張り付きじっとして潜む。
別に噛んだり刺したりしないから無害と言えば無害だが、少しでも刺激されると途轍もない悪臭を放つから厄介だ。
ゾロは以前、靴を履こうとして踵の部分にいたカメムシを知らずに指で押し潰し、えらい目に遭ったことがある。
指先は体液でか黄色く染まり、肌に染み付いた匂いは石鹸で洗おうとも湯で揉み流そうとも消えなかった。
あの匂いは長時間嗅いでいると頭が痛くなるほどに臭い。
だからカメムシは見つけ次第ガムテープで引っ付けて閉じてポイとしているのだが、そんな動作をする度に
夏のムカデ騒動を思い出してしまう。
―――これをあれが見たら、またうるせえな
何かにつけ、特に虫系統を見るとすぐにサンジの顔が頭を過ぎるから困る。
誰もいないのに思い出し笑いのように一人で口元をにやけさせたりして、傍から「不気味だ」と指摘される
ことも増えたのだ。



「カメムシが多い年は、暖冬になるって言いましたっけ?」
農業倉庫を片付けながら、コビーがぼやいた。
「そう聞いたことがあるな」
「けどね、今年テントウムシも異常発生してるらしいですよ」
「そうなのか」
近所の小学生からの情報らしいが、今年はカメムシ退治+テントウムシ排除に忙しいのだそうだ。
「カメムシは厄介だが、テントウムシは可愛いもんだろ」
「けどね、一匹なら可愛いテントウムシも集団となるとやっぱ不気味ですよ。窓の桟に色んな星持った
 テントウムシがびっしり張り付いてたって、想像するだけでこう・・・」
トラクターの上でぶるりと震えるコビーの背中を見上げて、そりゃそうかもと頷く。
なんでかその姿が、一瞬サンジに被った。
「んでね、テントウムシが異常発生する年は厳冬なんですって。どっちでしょうね」
「さあなあ」
そう何年も過ごしているわけではないから、ゾロにもそこのところはわからない。

「確かに、テントウムシもションベンは黄色いし臭いし、似たようなもんか」
「1匹だけなら、見た目は全然違いますけどね。けど、テントウムシは噛まないでしょう」
「カメムシも噛まねえだろ」
コビーは大股でトラクターから降りると、いいええと大げさに首を振った。
「それがですね、三太夫のケン坊が、パンツ履いたら中にカメムシが入ってて玉裏を噛まれたらしいですよ」
「・・・げ」
「最初は臭くって、もう一度風呂に入り直したらぴりぴりして痛くって大変だったって。それから2.3日
 すると今度は痛痒くて、触ってみると結構広範囲に瘡蓋ができてたらしいです」
「それは、ヤバイな」
「怖いですよね」
またしても、ゾロの脳裏にモヤモヤとサンジの映像が浮かび出た。
パンツを片足に引っ掛けて、もぎゃーとか叫んでいる。
つい口元がわなないて、危うく噴き出すところだった。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもねえ」
いかんいかん、放っておくと何でもサンジに直結してしまう。
俺は一体いつからこんな妄想男になったのか。


ピピピと、ジャージのポケットから電子音が鳴った。
取り出してみれば、どこかの電話からの発信だ。
「はい、もしもし?」
「あーゾロさん?シモツキ駅です」
「あ、どうも」
駅と聞いてはっとした。
もしかして、サンジが来たのか。
「なんかね、お知り合いの人が探してるみたいで」
「サンジですか?」
「いいやあ、サンちゃんなら俺わかるもの。・・・あんた誰?」
受話器の向こうで、誰かに問いかけている。
漏れ聞こえる声がすぐさまゾロの耳に届いた。
「ルフィだ!」
「ルフィ?」
駅のおっさんが中継ぎするより早く、ゾロは声を上げた。
「すんません。そこにルフィってバカが来てんですか?」
「ああ、本人がそう言ってるねえ」
おっちゃんが代わるか?と問いかけているのが聞こえた。
「おう、ゾロか?」
「ルフィ、何事だ」
どうしてここがわかったのかと聞きたいことはたくさんあるが、今は直接会って話した方が早いだろう。
「ともかく、今からそっちに迎えに行くから。そこを動くな、じっと待ってろ。5分で着く」
「おう、頼むぞ」
携帯を切って、何事かと見ているコビーに顔を向ける。
「悪いが、知り合いを迎えに駅まで行って来る」
そう言って、駐車場まで駆け出した。









「悪りぃなゾロ、久しぶり」
雪がちらつきそうな寒空の下、作業着の下は真っ赤なTシャツに半ズボンで、裸足にサンダル姿のルフィが
手を振っていた。
「どうした、その格好は」
「寒いだろうっておっさんが貸してくれた。いい人だな」
「いや、そもそもお前の服装に問題がある」
待合室は中央に置いてある石油ストーブのお陰でかなり温かい。
しゅんしゅんと湯気を立てている薬缶から湯を汲んで、駅のおっさんはインスタントでコーヒーを淹れてくれた。
「すんません、助かりました」
「いいやあ、駅降りたらいきなり『ゾロはどこだー?』って叫ぶから、何事かと思ったよ」
よかったよかったと頷きながら、コーヒーを入れた湯飲みを両手で持っておっさんは事務所の中に帰っていく。
ゾロは再度頭を下げて、カラフルな手編みの座布団が並んでいる待合室に腰を下ろした。
「まず、よくここがわかったな」
「おう、日本帰ってからナミを探したら、全然見つかんねえんだよ。マンションから引っ越してるし、
 事務所に聞いてもなんも教えてくれねえし。挙句の果ては警察呼ばれてな、いや〜参った参った」
全然参ってない口調で、ルフィはカラカラ笑った。
「んで、ナミが駄目ならゾロだって思ってゾロんちに行ったんだ。そしたらここを教えてくれてな、
 まっすぐ来た」
「そうか、お疲れさん」
「んで、早速だがナミはどこだ?」
やはり、目的はゾロではなかったらしい。
ゾロはずずっとコーヒーを啜ってから、しばし言葉を溜めた。
「なあ、どこだよ」
「知らねえっつったら?」
「知ってるだろ」
さも当然とばかりに、ルフィは言い切る。
「大体、俺が会社辞めてもう3年経つぞ。それ以来会ってねえとか」
「そりゃあるかもしれねえが、お前見てるとそうじゃねえだろ。ナミと会ったな」
「なんでわかる?」
「だってお前、俺がナミを探してることに驚いてねえじゃねえか。あれきりずっと会ってないんなら、
 俺とナミが別れたのも知らねえだろ?」
こりゃ一本取られたと、ゾロは笑い声を立てた。
「そうだな、悪い」
ひとしきり笑ってから、真顔になる。
「お前、ナミと別れたのか?」
「ああ。俺は行きたいところがあったし、ナミは行きたくねえっつったんだ。だから別れた」
少し眉を下げて、ゾロはまた一口コーヒーを飲んだ。
「ナミの奴、怒ってたぞ」
「うん」
「んで、今更会ってどうするんだ」
「もっかい、あいつを連れに行くんだ」
やれやれと、わざとらしく大きな溜め息を吐く。
「ナミの都合はお構いなしか?ナミの言い分だけ聞いてると、いかにもお前が好き勝手して勝手に置いて
 行ったって印象を受けたが、お前からもそんな風にしか取れないぞ」
「事実、その通りだからな」
これは性質の悪い開き直りか、それとも天然のボケなのか。
「それでまた、お前の都合でもっかい迎えに来たってのか?」
「そうだ」
「怒るぞ」
「怒ればいい」
さすがに呆れて、ゾロは背筋を伸ばした。
「大体ナミの都合も考えろ。別れて何年経ったか知らんねえし、お前がナミ以外の女に目もくれなかったのか
 どうかはわからねえが、ナミにはもういい奴ができてるかもしれねえんだぜ」
「そうだな」
「そしたらどうすんだ」
「戦う」
どーんと胸を張って答えるルフィの前で、ゾロは再び頭を垂れた。
「・・・あのなあ」
「俺は、どうしてもナミを連れて行くぞ」
「それはお前の決意だろ」
「そうだ」
「ナミが嫌がったらどうする」
「説得する」
「それでも嫌だっつったら?」
「うんと言うまで説得する」
「お前に説得は向いてない気がするが」
「失敬だな、ゾロ」
途中から、笑えてきて仕方なかった。
昔から、こんな奴だったのだ。
相手の都合はお構いなしで、自分の思いつきだけでバンバン行動して、それでいて誰にも憎まれない男。
ナミが愛し、愛想を尽かせた気持ちも分かる。

「ナミは今、幸せかもしれねえぞ」
ゾロの言葉に、ルフィはほんの少しだけ表情を硬くした。
「お前と別れてお前以外の人間を好きになって、幸せに暮らしてるかもしれねえ。そんなナミの幸福を、
 お前が奪い去る権利はあるのか?」
ゾロの真剣な瞳を、硬い面持ちのまま見返した。
「くっついた別れたってのは世の道理だろうが、一旦消えた人間がまた現れて今の生活を引っ掻き回すって
 のは、それ相応の覚悟がなきゃやっちゃいけねえことだと、俺は思う。お前はこの先のナミの人生を
 変えてしまっても責任が取れるのか」
「責任は取る」
やはり考える間もなしに、どーんとルフィは宣言した。
「俺はナミなしじゃ幸せになれねえ。ナミも一緒だ」
「だから、なんでそう言い切れる」
「俺がそうだからだ」
もはや会話が堂々巡りになってきた。
「お前の一方的な幸せのために、ナミの今の生活を奪おうってのか」
「ナミが何かを失くすんじゃない、俺と一緒に増やしていくんだ」
「お前がナミの傍にいると?」
「俺の傍にナミがいるんだ。ナミを連れて行く」
こりゃ駄目だとゾロは頭を抱えた。

「俺はもう知らんぞ」
「ゾロが知ったことじゃない、決めるのはナミだ。だからナミの居場所を教えてくれ」
まったくもってその通りだ。
結局、決めるのはナミだろう。
ゾロは口元に手を当てて、しばし考えた。
ナミの住まいまでゾロが知っているわけではないが、12月24日にどこにいて何をしているかは知っている。
サンジが、嬉しそうに「イブはGLホテルでナミさんとクリスマスディナーだ〜v」と知らせてきたからだ。

「ゾロ?」
考え込んだゾロの顔を、ルフィは首を傾げて覗き込んだ。
今言ったとおり、途中から人の人生に介入するには、それなりの覚悟と責任が伴う。
サンジとナミの間にルフィを乱入させたならナミの運命は当然狂うだろうが、同じくサンジも影響を
受けるだろう。
そのことを、その責任を負う覚悟が、自分にはあるのか。

ちらりと視線を上げれば、ルフィは存外真面目な顔つきでじっとゾロの顔を見ていた。
その真摯な瞳としばしかち合う。
一瞬でも考えてしまった自分がバカらしくなって、ゾロはふと口元を緩めた。
「俺もナミの住所まではわからんが、24日の夜8時からGLホテルで食事をするのは知っている」
「24日の夜8時、GLホテルだな」
「最上階のアマゾン・リリーってレストランだ」
「ありがとう、そんだけで充分だ」
ルフィは冷めたコーヒーをぐっと飲み干すと、ごっそさんとゾロの湯飲みの上に重ねた。
「んじゃ俺行くわ」
「どうやって」
「電車、次帰るの何時だ?」
1時間に1本のペースで上下線が擦れ違うことの多いシモツキ駅では、1時間ごとに同じ時刻に次の電車が
来ることが多い。
シンプルな時刻表を見上げれば、次の電車まで後30分ある。
「次は30分後だ。どうせならうちに泊まってゆっくりしてけばいい」
「そうは行かねえ。ナミを連れてくのにこっちも色々段取りしとかなきゃなんねえし、俺は忙しいんだ」
だからどうするんだと思っていたら、ルフィは窓口に向かってガラス越しにおっさんに声を掛けた。
「これ、ありがとう。俺もう行くから返す」
「ああ?どうやって行くんだね」
次の電車は30分後だと知っているおっさんが、訝しげに問うて来た。
「取り敢えず、次の駅まで歩いて行くぞ」
「その格好でか?もう日が暮れてどんどん暗くなるぞ」
「いいよ、俺が送ってく」
ここでじっと30分待つのも、ルフィには土台無理な話だろう。
そう思って言ったのに、ルフィはきっぱりと首を振った。
「いらねえ。ゾロは仕事があんだろ、ここまで来てくれただけで充分だ。適当に歩いてどっかで車に
 乗せてもらうから、次の駅はどっちか方向だけ教えてくれ」
なるほどそれもありかと、ゾロは表まで出て指差した。
「次の駅はあっちだ」
「違うよ、元来た電車を帰るなら反対だ」
おっさんは慌てて事務所から出て、親切に説明してくれる。
「駅前通をまっすぐ歩いて、途中で踏切が見えるからそれに沿って歩けばいい。車はたまに通るから、
 それを捕まえてみな」
「ありがとう。じゃあな、ゾロもサンキュー」
あっさりと手を振って歩き出したルフィを、ゾロはおっさんと並んで見送った。

「大丈夫かねえ、あんな軽装で。お金がないんだろうか」
「金はないが根性はある。あの調子で国境越えてる奴だから問題ねえ」
「そりゃあたいしたもんだ」
おっさんは寒風にぶるりと身体を震わせて、ルフィに貸していた作業着を身体に巻きつけるようにして
駅舎の中に戻った。
冬の夕暮れは早い。
次の電車が出発すれば、退社の時間だ。
ゾロは小さくなっていく赤いシャツを見送りながら、しばし駅舎の前で佇み腕を組んだ。

ルフィがナミを連れに来た。
ナミは果たして、どちらを選ぶのか。
そしてサンジは、どうするだろう。
考えてみれば結論は一つしかないように思え、尚更サンジが気の毒になってしまった。
そうなることをわかっていて、ルフィに教えたのは自分だ。
例えゾロがナミとサンジの仲を認めていたとしても、こうしてルフィが目の前に現れたなら、結局同じ
ことをしただろう。

ルフィが親友だからか。
ナミが大切な仲間だからか。
それとも―――
己の邪な想いが、姑息な手段を厭わぬからか。

ふと空を見上げれば、まだ闇夜も訪れていないのに山の端に丸い月が浮かんでいた。
世界は自分を中心に回っている。
俺もお前も。
そうだろ、ルフィ。
ゾロはまだ白い月を眺めながら、うっすらと笑った。



END











【月天心】 
つきてんしん
天高く輝く冬の月は、あたかも天の中心にいるよう




月天心