とりあえず、言葉を選びながら説明する。
「あいつが、お母さんの事件の影響で人の生き死にに対して過敏になっているというのが、あるんですが」
「ああ」
「それで、ついこの間友人の妊婦が切迫早産になって、その時最初電話口で切迫流産と聞いたら、あいつ倒れたんです」
「倒れた、だと?」
そうでなくとも厳しい顔付きのゼフが、更にぎろりと目を剥く。
「すぐ医者に診せて、血圧が下がっただけで問題はないだろうと言われました」
「だが、それだけじゃあねえんだな」
はい、とゾロは頷く。
「あいつが俺んとこに遊びに来て何ヶ月かくらいん時に、一度うちでも倒れてます」
「そりゃあ、どんなきっかけがあったんだ」
当然聞かれるであろう問いに、この期に及んで答えるのを躊躇った。
下手に隠しても見抜かれると覚悟を決めて、なるべく平坦な声を出す。
「風と雷がきつい荒れた夜で、外が真っ暗だったから窓ガラスに鏡のように姿が映っていて、雷鳴で照らされた時自分の姿を
見たのが、原因じゃないかと・・・」
「見た、なにを」
「あいつが酔っ払ってたんで、介抱するつもりだったんですけど、その、俺の下にいる自分を」
「―――・・・」
さすがのゾロも、冷や汗が背中を伝う。
あの頃は意識し始めた時期だったから、余計居た堪れない。
ゼフは黙って自分の髭を玩んでいたが、ふうと息を吐いて車椅子の背凭れに身体を預けた。
「人の生き死にと、性か?」
「はい」
再び沈黙が下りて、ゾロは身じろぎ一つせずにじっとゼフの言葉を待った。
「その他には?」
「ありません、俺が知る限り」
ただ、中学の頃に遡ればあったのかもしれない。
その辺りは、ウソップに確かめなければわからないが。
「ご存知、なかったんですか?」
「ああ、知らなんだ」
ゼフは額に手を当てて身体を傾けた。
いつもは鷲のように厳しい瞳が、どこか焦点をなくしたように虚ろに見える。
「それは、当然かもしれん」
「・・・?」
黙って耳を傾けるゾロに、力なく笑いかける。
「わしらはあれを守り過ぎた。少なくともここでアレが暮らしている頃は、外のことなど何も知らず、ただ店とこの家での
生活だけが全てだった。大人たちに囲まれて、同年代の友人もおらず外出もせず、テレビも見なけりゃ新聞も読まねえ、
映画観に行ったりもしねえ、まったく隔絶された空間だった」
ゾロは曖昧な表情で頷いた。
それがどれほど特殊なことなのか、ピンと来ない。
「アレが望まない限りはと、それをずっと許してきた。そりゃあ、わしにとっても都合のいいことだったのかもしれん。
アレがいつまでも自分の目の届くところにいる、その安心感がなかったといえば嘘になる。アレが傷付くようなことは極力
避けたかったし、店の野郎共も大概アレに甘くて、みんなして過保護にし過ぎた」
ゼフは遠くを見るように目を細めた。
「店の女性客に軽口叩いてる程度で、目を細めてる馬鹿親っぷりだ。だがみんな、それでも・・・その程度でも満足していた。
ああ大人になりやがったなと、今思えば滑稽だろうが本気でそう思ってた。あいつがこの店に来た時のことを、みんな
覚えてやがるからな」
「ここに来たのは、親父さんが海外赴任になるから・・・とか」
「建て前はそうだが、実際、父親はアレを持て余したんだろうよ」
途端、吐き捨てるような口調になって、自身でそれに気付いたかゼフは表情を改めた。
「別に虐待をしていたとか、不仲になっていたと言う訳ではないらしい。俺は父親からしか話を聞いとらんが」
ゾロは神妙な顔付きで黙って耳を傾けながら、極力感情を表に出さないように努めた。
サンジから聞いた、父親への複雑な心情をゼフは知らない。
ゾロの口から知らせることでも、知っていいことでもない。
「なにがきっかけかはわからないが息子が部屋に引きこもって出てこないと、連絡を受けた時は電話越しに怒鳴りつけた。
大の大人がなにやってやがると、てめえそれでも父親かと」
言ってから、ふっと思い当たったように視線を上げる。
「そういや、そん時言ってやがったか?中学ん時の修学旅行で倒れたとか何とか・・・」
記憶を辿るようにしばし目を瞑ったが、諦めて首を振った。
「何が原因だか、結局はわからねえ。が、ともかく仕事を口実にして父親が逃げたのは事実だ。そうじゃないと言うかもしれねえが、
俺はそう思っている」
ゼフはサンジの父親のことを良く思っていない。
そして父親がサンジを持て余していたと言うのも、また事実なのだろう。
ゼフの元に預けて以降、一度も会いに来なかったのはそれなりの理由があったのかもしれない。
けれどそれらはゾロが推察すべきことではないと、わかっている。
「父親に連れられて、この店にアレが来た時のことは忘れられねえ。高校に上がる年だと聞いていたのに、ヒョロ長くて骨と
皮ばかりに痩せていた。目なんてこう、窪んでてな。目玉だけがぎょろりとして、この辺りは皺だらけだった。今のお前さんが
見たら、きっと目を背けるだろうよ」
ゾロは黙って首を振る。
「腕なんか枯れ木みてえで、掴んだだけで折れそうだった。実際、乱暴に扱ったら骨の一本や二本、折れただろう。そんだけ弱って、
酷え有様だった。あの年の子どもがここまで窶れるものかと、俺でも目を疑ったぜ」
ただ食べないというだけでなく、気持ち的な問題が大きかったのだろうとゼフは続ける。
「なにをそんだけ鬱屈しているのかと、本人が口を開かねえからこっちで推し量るしかねえが、やっぱり母親の死に様だろう。
そう結論付けるしかねえんだ。だから、テレビから殺人事件のニュースが流れる前にテレビを消した。悲惨な事件が一面に載った
新聞は、畳んで隠した。アレも殊更、社会に目を向けようとはしなかった」
そうして、ゼフやパティ達に守られて、サンジは安全な巣の中で健康を取り戻した。
それがよくなかったとは、ゾロは思わない。
そうでなければ、今の一見健やかで明るいサンジは育たなかったはずだ。
「だが、あいつにそんな症状が現れてんだとすると、やっぱよくねえんだろう」
「それは、医者にも言われました」
いくら原因がわかっているとは言え、突然意識を失うことは相当なリスクを伴う。
本人のためにも周囲の者のためにも、そんなことは起こらないに越したことがない。
「そこんとこ、アレはどう思ってんだ」
顎で示されて、ゾロは再び言葉に詰まった。
「なんだ?」
「サンジは、知りません」
「はあ?」
マジマジと見入るゼフの目を、正面から見返した。
「先日倒れた時は血圧が下がったからと説明しましたが、俺んとこに来始めた時に倒れたことは、本人は知りません。酔っ払って
そのまま寝たと思っています」
「自覚がねえのか」
「ええ」
冷めてしまった茶を一口飲んで、ゾロは覚悟を決めて言った。
「ウソップは、こう言ってました。サンジは忘れるのだと。都合の悪いこと・・・つうか、サンジにとって辛いことや認めたくないこと、
起こってしまったことなどを忘れるんだと。それは決して逃げとか記憶のすり替えとか、そんなんじゃねえんだとは思いますが・・・
記憶が曖昧だったり辻褄が合わない部分から目を背けてるなってのは、俺も感じます」
今度はゼフが黙り込んで腕を組んだ。
ふーと息を吐いて、首の後ろを掻く。
「学校で一緒だったから、気付いてたってか?」
「ええ、確か母親同士も仲がよかったとかで、幼馴染らしいです。よく他人のことを見ている男ですし、小学校から中学校に掛けて
ずっと同じ学校だったらしいですしね。それで、ちょくちょくおかしいなと思うことがあったそうで」
特に、取り立てて「おかしい」と指摘するような大きなことではなかったらしい。
ただ、サンジとの会話の中で「あれ?」と思うことが何度かあったと、今になってウソップはポツリポツリと聞かせてくれた。
本当はサンジが言っていることが正しくてウソップが憶え間違っているだけなのかもしれない。
けれど時折よぎる違和感は、ゾロにだって思い当たる節がある。
「あいつが、いつまでも癒えない傷を抱えているのは間違いないことだと思います。できるならそれを、治してやりたい。一緒に治して
行きたい。そうは思いますが、そのためには多分一度傷口を開かなきゃならないんじゃないかと、そう思うんです」
ゼフが渋面を作った。
「正直、俺はそれをしたくありません。だから、本当はこのままでいいとも思う。ごくたまに現れる齟齬や違和感は、気付かないふりを
していればやり過ごせる程度のものなんです。生活にも人間関係にもまったく影響を及ぼさない」
けれど、ゾロが知らない場所でまた意識を失ったらと思うと、それも怖い。
「あいつが、恐らくは防衛本能として無意識に物事を避けているとしたら、それは悪いことじゃないと俺は思ってます。何にでも立ち
向かえ、戦えと言うのがいいとは思わない。癒えない傷があるなら、それに蓋をして柔らかく包み込んで触れないようにしていけば、
一生それでもいいと俺は思います。俺は―――」
想いが募って、声が掠れた。
一旦唾を飲み込んで、じっと自分を見つめ続けるゼフに縋るように目を向ける。
「俺は、間違っていますか?」
沈黙が下りた。
瞬きの音すら聞こえそうなほどの静寂の後、ゼフが先にふうと息を吐く。
「んなこと、俺に聞いたってわかるか」
言って、皮肉気に頬を緩めた。
「傷口を掘り返さねえよう全力で守ることも、一度全部穿り返して洗いざらいぶちまけさせて受け入れるのも、どっちが正しい選択か
だなんて俺どころか、当人にも誰にもわかりゃあしねえだろうよ。あんたが一人で決断を背負い込むこともねえし、誰にでも助力を
得られるもんでもねえ。だが、ただ一つだけ言えることは・・・」
一旦言葉を切り、空になった湯飲みを握る。
「あんたが傍にいてくれるなら、何の心配もねえってことだけだ」
はっと虚を突かれて、ゾロが顔を上げた。
「あんたがいてくれる限り、俺はあいつのこれからの人生にひとっかけらの不安も持たねえ。あんたがどんな結論を出そうとも、それが
どんな結果を生んだとしても、それが一番正しい答えだったんだと、今からでも言える」
目を見張るゾロに、ゼフは笑いかけた。
「だからって、気負うなよ。さっきも言ったが、全部あんた一人で背負い込むことじゃねえんだ。アレを巻き込め、悩むなら俺にじゃなく
本人に相談しろ。アレを傷付けることを、あんたが恐れるな」
「それは―――」
「前にも言ったはずだが、どうにもアレに弱くていかんな」
「・・・お互い様でしょう」
「言いやがったな」
ゼフはわざと目を怒らせて、ゾロの手の中にある湯飲みを引っ手繰った。
「さあ、もう話は仕舞いだ。年寄りは早く寝るっつっただろうが」
「すんません」
「明日は一仕事あるしな」
言われて思い出した。
そう言えば明日は、祖父の米寿の祝いだった。
ゾロは立ち上がり、改めて腰を折った。
「お世話になります」
「うちを選んでくれたんだから、腕の揮い甲斐もあるってえもんだ。朝は早えぞ」
「はい」
湯飲みをシンクに置いて、車椅子をくるりと回転させる。
「これは放っておけ。ガチャガチャしねえで、もう寝ろ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ゼフが自室に戻ったのを確認してから、戸締りを確認して台所の明かりを消した。
音を立てずに2階に上がれば、サンジはベッドですっかり熟睡していた。
念のために持ってきた水を枕元に置いて、ラグの上に胡坐を掻く。
廊下から漏れる僅かな明かりの下で、クウクウと眠るサンジの寝顔を見つめた。
まだ酔いが覚めていないのだろう、頬の赤味は薄れていないし目元も腫れぼったい。
いつもより浅い呼吸で、時折小さく鼻が鳴っている。
「この、酔っ払いめ」
頬に掛かった髪をそっと指で梳けば、その動きに誘われるように閉じた瞼が瞬いた。
「―――・・・」
薄く瞳が開いて、焦点が合わないまま首を傾げる。
「ぞろ・・・」
「寝るぞ」
「ん―――」
そっと布団を捲って滑り込めば、サンジは寝返りを打ってそのままゾロを掻き抱くように両手を伸ばした。
腰を曲げて肩を引き、無意識にゾロが入り込むスペースを空ける。
「水、飲むか」
「いい・・・」
ゾロの肩口に顔を埋め、目元を擦り付けながら頭を凭せ掛ける。
再びくーっと寝息を立て始めたサンジの背に手を回し、しっかりと抱き締めた。
急に猛烈な愛しさが込み上げて、胸が苦しくなった。
大切過ぎて、どうしていいかわからない。
こんな想いは初めてだ。
無防備に眠る白い首に、掌を当てて指を回す。
このまま片手に力を籠めれば、容易に潰してしまえるだろう。
サンジの呼吸は止まるだろうか。
断末魔の喘ぎは上がるだろうか。
加減が分からず、骨を折ってしまうだろうか。
そんな考えが脳裏に浮かぶこと自体が異常だと、頭ではわかっている。
けれど、思ってしまった。
今なら、サンジの恐れが理解できる。
愛しくて大切で、失いたくないからこそ、その存在を確かめるようにこの手に掛けてしまいそうな、この衝動を。
これもやはり、愛という名の感情なのだ。
ゾロは深く息を吸い込むと、サンジの身体に腕を回して抱え直した。
抱きしめられることに慣れた身体は、すんなりとゾロの隙間に沿うように収まっていく。
呼吸の度に薄い背中が上下して、合わせた胸からはとととと少しせわしない鼓動が響いた。
生きている。
安らいで目を閉じて、深い眠りに就いている。
ただ無防備に傍にいて、ゾロにすべてを委ねている。
このことが、泣きたいほどに嬉しくて愛おしい。
サンジに出会って、初めて知った。
幸せと呼ぶにはあまりに切なく狂おしい感情を、ゾロはじっと感受していた。

