薄曇の空の下、真昼の月がまるで最初から空に描かれていたかのように、くっきりと白い丸を形作っている。
そろそろワゴンを下げようかと、サンジは表に出た。
小学生くらいの女の子がワゴンの前にしゃがんで、展示された人形を熱心に眺めているのに気付く。


「こんにちは」
上から声を掛けられた女の子はしゃがんだまま振り仰いで、サンジの顔を見て口を開けたまま固まった。
瞬きもせずにじっと見入ってから、小さな声で「こんにちは」と返す。
このくらいの年の、特に女の子はサンジを見ると一様に驚いた顔で動きを止める。
まるでお人形さんみたいと思うのか、人間じゃないみたいと思うのか。
多分そのどちらかだろう。

「それ、気に入ってくれたの?」
サンジの声に、女の子はこくんと頷いた。
視線はまた、ワゴンの上に飾られたままごと用の人形へと移る。
シリーズモノのそれはいろんな種類の動物が可愛いドレスや服を着て、ファミリーを形作ったものだ。
霜月人形堂では、セットから外れたそんな人形も単品で大切に保管していて、時折季節に応じて飾り用として
出している。
梅雨の晴れ間のピクニックを意識して、広げられた小さな敷物の上に4つの人形がテーブルを囲んでいた。
お父さんは犬、お母さんはウサギ。
子ども達は猫だ。

「バラバラだね」
女の子の指摘に、サンジは苦笑した。
「そうだね」
このシリーズは同じ種類の動物同士でひと家族になっているから、違和感があるかもしれない。
「うちはお父さんと弟がトラさんで、お母さんがウサギさんなの」
このシリーズにトラいたっけ?とか思いつつ、サンジもしゃがんで女の子と目線を合わせた。
「新しいお父さんがトラ、でもほんとのパパはウサギみたいだったのよ」
ということは、再婚したのかな?
「パパはね、本が大好きでなんでも知ってて、色々教えてくれた。話し方も静かで、いつもニコニコ笑ってたのに」
「・・・今のお父さんは違うの?」
「今のお父さんもね、優しいよ。優しいけど、声が大きいの」
ああ、だからトラか。
「座るだけでも、床が揺れるほど乱暴なの。新聞読んでても大きな声で独り言いうし、笑うと地震が起こったみたい」
「弟さんは、お父さんが連れてきたの?」
こくんと、困ったような顔で頷く。
「弟は、・・・まさと君って言うんだけどね。いつもバタバタして、すごくおっちょこちょい」
「仔トラだね」
「可愛いんだけどね」
女の子は少し大人びた表情で溜め息をついた。
「私は、パパの病院にお見舞い行くときでも静かにしてなさいって言われたら、ちゃんと静かにできた。ちっちゃくてもね。
 なのにまさと君、全然言うこと聞かない。食事中も立ってウロウロしたりするし、お家にいて救急車のサイレンが
 聞こえると急に大きな声を出したりするの。私、耳を塞ぎたくなっちゃう」
「男の子は、女の子より成長が遅いものだよ」
「そんなものかな」
女の子は腕を組んで首を振った。
本当に困った子、とでも呟きそうな雰囲気だ。

「こんなお人形でも、ウサギさんの家族はみんなウサギで、犬さんの家族はみんな犬でしょ」
そうだね、とサンジは頷く。
「ウサギさんが犬さんに恋をするって、思わないのかな」
おませな呟きに、サンジは思わず噴き出してしまった。
「だったら、こんな家族もあるのにって思っただけ」
気恥ずかしくなったのか、女の子は口元を尖らせて睨み付けた。
ごめんごめんと、サンジは頭を下げる。
「でも君は・・・」
言いかけて、名前を聞いてもいい?と囁いた。
「ゆいな」
「そう、ゆいなちゃんも、ゆいなちゃんのお母さんもウサギさんみたいに可愛いけど、本当はウサギさんじゃなくて
 人間なんだから、トラみたいなお父さんとまさと君とも、ちゃんと家族でいられるよ」
「でも全然違うのよ。早起きしないし、トイレ長いし、服を脱いだら脱ぎっぱなし。目玉焼きにしょうゆ掛けるし、
 パジャマの裾をズボンの中に入れるんだもの」
「ああ、それは難しい相違だねえ」
サンジは頭を掻いた。
至近距離で、じっとゆいなはサンジの顔を見詰める。
「おひげ生えてるのに、頬っぺたツルツルね」
「ゆいなちゃんは、ほんとによく見てるねえ」
残念ながら、ゾロにはサンジの肌に自然な産毛を生やすほどの技術はなかったらしい。

「ゆいなちゃん達がウサギさんじゃないように、お父さんやまさと君達もトラみたいだけどトラじゃないんだ。その
 よく見える目でもっとよーく見てごらん。大丈夫、君にならきっとわかる」
「そうかしら」
「そうだよ」
目を合わせて大きく頷いてみせると、ゆいなは初めて子どもらしい、はにかんだ笑顔を見せた。





「・・・なんてことがあったんだよ」
店を閉めて2階に上がってきたサンジは、夜食を乗せたトレイを飯台の上に置いた。
ゾロは背中を向けたまま、黙々と作業を続けている。
「確かに、しまじろうとみみりんの間にラブロマンスは成り立たないかも」
「・・・なんだそれは」
ゾロは着物の裾を払って、胡坐を掻いたままのそりと身体の向きを変えた。
眼鏡を外し、作業台の前から腰を上げて膝立ちで移動してくる。
「知らないの?子供向けの教材のキャラクターで、トラとウサギの子どもなんだ」
「それでなんでラブロマンスだ?」
「聞いてなかったのかよ」
不満そうに口を尖らせながらサンジはおひつからご飯をよそい、温かい味噌汁を添えた。
ゾロは基本、一汁一菜の粗食を好むが、サンジはあれもこれもと腕によりを掛けて作りすぎる。
それでも文句も言わず平らげて、次はもっと粗末でいいからとその度釘を刺すのに、要望が通った試しがない。
今日もたっぷりの水菜の上にゴマ味噌で炒めた肉がてんこもりで、作業場は一気に美味そうな匂いで満たされた。

黙って味噌汁を啜るゾロの顔を至近距離で覗き込んで、どうだ美味いかと目で問いかける。
目を伏せたままこくりと頷く仕種に満足したか、少し離れて壁に凭れ煙草に火を点けた。
サンジはモノを食べない。
料理を作れたとしても、味見ができない。
煙草に火を点けたとしても、咥えてくゆらすだけだ。

「トラのキャラクターはトラ一家、ウサギのキャラクターはウサギの一家。異種婚は認められねえ?」
「夢のない話だな」
「や、そこをあんま突き詰めるとリアル過ぎるし」
サンジはそう言って、気だるげに煙草を指で挟んで笑った。
「人形はそうかもしれねえけど、ゆいなちゃん達は動物じゃねえ人間だ。人間同士、なにをためらうことなんてあるもんか」
サンジはまだ吸いかけの煙草を、指先でぎゅっと握り潰した。
これをすると、ゾロは指が汚れると嫌がる。
文句を言いながらも、煤で汚れた指先を丁寧に布で拭ってくれるのだ。
火傷ひとつしない、つるりと固い指紋のない指を。

ゾロは相変わらず、正面で湯気の立つ流料理を美味そうに食っていた。
味噌汁を啜り飯を食み、水菜ごと肉を頬張って咀嚼する。
食べることで体温が上がるのか、額にうっすらと汗が滲んでいた。
人間の動きには常に熱が伴い、そのエネルギーは風のない部屋の空気を揺るがせるほどに強い気配へと形を変える。
生きているとはこういうことだ。
他者の命を奪いその血肉を糧にして、際限なく続く摂取と排出を繰り返しながら成長し衰退する。
すべてはその繰り返し。
そのループから外れたサンジでさえゾロの発する熱を感じ、その姿形を目にすることで胸の奥にぬくもりを得た.
今だって、固いはずの関節が軋むことなく滑らかに動き、猫のような仕種でゾロの傍へと音もなく這い寄れる。

「なんだ」
サンジは応えず、ゾロの懐に顔を押し付けるようにして凭れ掛かった。
「お前は、飯を食ってる俺が好きだな」
箸を動かす手を止めず、むしろ急いですべてを平らげてしまってから、膝の上に転がったサンジの髪を掻き撫でた。
「夢中で食ってるお前を邪魔するのが、好きだ」
「それでいて、もっと食えとか言いやがる」
腹を満たされたゾロの身体はまるで放熱しているかのように熱くて、呼吸に合わせて上下する胸板の硬さは
サンジのそれとはまったく違った。
「お前の匂いがする」
寝転んだまま手を伸ばし、俯き屈んだゾロの首を抱き寄せる。
汗ばんでしっとりとした生え際の皮膚が、感覚のないはずの指先を優しく包んだ。
「この手も、その目も―――」
灯り取りの窓から冴え冴えとした月が姿を覗かせ、ゾロの端整な顔立ちの陰影をくっきりと浮かび上がらせる。
「その顔も、声も」
固い指で唇をなぞられ、その動きに促されるように引き結ばれていたゾロの口元が緩む。
覗いた歯に当たった指先が、カツンと乾いた音を立てた。
「全部、好きだよ」
ヒトでなくても、モノであっても―――

「お前が俺を慕うのは、俺がお前を造ったからだ」
ゾロの呟きに、サンジは素直に頷く。
「お前は俺の父であり、母であり恋人であり、創造主たる神であり、世界のすべてだ―――」
その言葉に、ゾロは哀しげな表情で首を振った。
だが何も言わず、しな垂れかかった冷たい身体を包み込むように抱き寄せる。

ゾロがなぜ、いつも哀しい顔をするのかサンジにはわからない。
己の存在がゾロを悲しませているのなら、いっそこのまま消えてしまいたいと願うのに。
サンジを求めるゾロの熱がそれを引きとめているようで、どうすればいいのかわからなかった。

ただ、自分はゾロの手の中でのみ熱く柔らかく蕩けていける。
知っているのは、ただそれだけ―――








鮮やかな夕焼けの反対側に、月の影がひっそりと浮かぶ夕暮れ。
ゆいながひょっこりと顔を覗かせた。
店の奥に浮かぶサンジの白い顔を見つけて、物怖じせず中に入ってくる。
「こんにちは」
「こんにちは、可愛いウサギさん」
煙草を揉み消したサンジの仕種を、珍しいものでも見るようにじっと眺めてから天井へと立ち昇り消えていく
紫煙を目で追った。
「今日は可愛い子トラちゃんも一緒かな」
ゆいなの後ろから、くるりとした丸い目が可愛らしい男の子が覗いている。
「そうよまさと君」
「こんにちは」
サンジが挨拶をすると、まさとはにかっと笑ってまた後ろにすっこんだ。
ゆいなの背後から、こんにちは!と声だけ返す。
「まさと、バタバタしちゃダメだよ」
店の中が珍しいのか、あれこれ手を出そうとしては引っ込めて、あちこちを忙しなく見て回る。
動きが一々大きいから、本人が意図せずとも小さな手足は周囲のモノに当たりそうだ。
「もう、まさと君は先に行ってて」
「いいお姉ちゃんだね」
サンジの言葉ににっこりして、内緒話でもするように顔を寄せた。

「あのね、前に救急車の音がすると、大きな声を出すって言ってたでしょ」
なんだっけ・・・ああ、まさと君か。
「それでね、この間もサイレンが鳴ったから、まさと君と一緒に私もわーわー言ってみたの。大きな声で、
 サイレンもまさと君の声も聴こえないくらい。そうしたらママにもお父さんにも怒られたけど、まさと君
 嬉しそうだった」
そこまで言って、そっと背後を振り返る。
小さな子トラ君は、表に出て行ったようだ。
「まさと君、お母さんが救急車で運ばれて行ってもう会えなくなったから、サイレンの音が嫌いだったのよ」
私にだけ、教えてくれたの。
そう言って、ゆいなは得意げに胸を張った。

「そうか。すごいね、よくわかったね」
いいお姉ちゃんだ。
そう言って頭を撫でてやると、ゆいなは子ども扱いされたのが不満なのかちょっと口元を尖らせた。
「今日はこれから、ママとお父さんと一緒に食事に行くの」
「いってらっしゃい、楽しんでおいで」
じゃあね、と小さな手を振ってゆいなは外灯が点り始めた表へと出て行った。

夕闇が濃くなった通りに、家族4人の影が見える。
売り物のランプの明かりしかない店内は、明るい外より薄暗くて中の様子は見えないだろう。
けれどサンジが振る白い手の動きはわかるのか、ゆいなとまさとは元気よく手を振りながら駆けていった。
続く大人の影も、ゆっくりと会釈していく。





人間だから―――
分かり合えたり仲違いしたり
愛したり憎んだり、寄り添ったり
やり直したり、生み出したり、できるんだろうか。
ただの無機質なモノであっても、ここに居ることで生まれた想いを幻想と打ち消して欲しくはない。

―――ヒトになりたいか?
昨夜ゾロにそう問われて、サンジは首を振った。
ヒトでなくても、モノでいいから、ゾロの傍にいたい。
望みはただ、それだけなのに。

そんな願いを口に出しても、ゾロは耳を傾けてくれはしないのだ。



サンジは新しい煙草を取り出して、火をつけた。
ゆっくりと立ち昇る紫煙を、窓から覗く十六夜の月だけが見詰めている。







END







霜月人形動 弐