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帆いっぱいに風を孕んで、羊船は今日も長閑に大海原を行く。
賑やかな喧騒と小さな悲鳴と、空まで届くような笑い声が響く中で。

「ご馳走様でした!」
大声合唱と共にぱんと鳴らされる一拍。
最近とみに行儀の良くなった食事の終了だ。
それぞれに皿を流しに運び、サンジは腕まくりをして手際よく片付けて行く。
隣でチョッパーがウソップ特製の踏み台を使って丁寧に皿の水気を拭き、ロビンが戸棚へと収納してくれる。
こうして手伝ってくれるおかげで、サンジの仕事は随分と楽になった。

「いつもすまねえなあ。病気じゃねえんだから、そんなに気を遣わなくてもいいのによ」
「手伝いは楽しいからしてるんだ。それに今からみんなに慣れて貰っておかないとね。サンジがいない生活を」
「そうよ、暫くはお料理も順番を決めて、今からシミュレーションをして置いた方がいいのではないかしら」
「そうね、サンジ君悪いけど向こう1ヶ月分くらい簡単な献立立てといてくれるかしら。私達にもできそうなの」
「そりゃあ構わないけど・・・」

サンジは所在無さげに手を拭いて、エプロンを外した。
「そんな大袈裟にしなくても、俺大丈夫だと思う・・・」
「馬鹿ね、出産を甘く見ないのよ。そうでなくともサンジ君は『初産』なんだから!」
ナミにやけに力強くきっぱりと言い切られて、サンジは何も言えなくなってしまった。
初産どころか、男が初めて子を産むのだ。
本当のところ、ちゃんと「産む」のかどうかも定かではない。
ただ、今風船のごとく見事に膨らんだ腹の中に、確かに息づく命があること。
それが日々成長していることだけは真実で―――

「まあこれから二人目三人目になると、そうそう心配もしてもらえないぜ。今の内だ」
ウソップの軽口が恨めしい。
何よりショックなのは二人目三人目に誰も突っ込んでくれなかったところだ。
・・・いや、根本的におかしいだろうよ。
一応、男なんだぞ?

「まあ、あたしたちの将来の参考にもなるの。頑張ってねサンジ君v」
そう言われて肩に手を掛けられて、サンジは情けなく眉を下げたままどっこいしょと椅子に腰掛けた。
いかんいかん、何か一つ動作をするにも、勝手に口から合いの手が漏れている。

10kg近く体重は増えたが、元々上背があるからそう負担には思わない。
それでも、無意識なのだが日頃の動作は極端に緩慢になった。
「てめえの動作は荒い」と、ことあるごとにゼフに蹴られていたのが嘘のように、所作がゆっくりとしている。
多分慌てて躓いて転んだり、落っこちたりしないように身体が自衛しているのだろう。
それにつれて、どうも口がいらぬ方向に動く。

「んじゃ、俺ちょっと男部屋に入りますね」
言いながら、立ち上がりざまによっこらしょと言ってしまった。
あああ、まただ・・・
恥じ入りつつも反省し、俯いたまま男部屋へと戻っていく。
ともかく、いても立ってもいられないくらい、ずーっと眠い。








男の身でありながら妊娠反応を見せてしまったのは、秋島海域だった。
あれからそろそろ半年以上。
サンジの腹は、随分と大きくなっている。

男が妊娠するだなんて、さすがグランドラインとしか言えない珍事だが、心当たりがあるのだからしょうがない。
お腹の子供の父親はロロノア・ゾロ。
恥ずかしながらも愛の結晶だ。
来るべき世紀の出産に備えて、今GM号はその準備に追われている。


ただでさえ狭い小さなキャラベルにこれ以上部屋を増やすスペースを作れず、格納庫をより細かく
間仕切りして簡易の産屋を製作した。
無事出産した暁には、そこが産婦(夫?)室になる。
日の当たらない地下に設けるのは気が引けたが、仕方が無いしある意味安全だ。
なんせここは海賊船なのだから。




「ところで、出産予定日はいつ頃になるのかしら」
ロビンが淹れた芳しいコーヒーを味わいながら、ナミは改めてチョッパーに問うた。
「次の島に着くには、早くても一週間はかかりそうなの。そこまでに小さな島があれば、早めに
 寄った方がいいわよね」
「そうだね。できたら陸の上で出産に臨みたいんだけど・・・」

前の島を出港してから一月経っている。
サンジの出産を機に、しばらく島でゆっくり過ごすつもりだ。
「胎児の大きさから見て、もういつ産まれてもおかしくない時期かもしれない。なんせ最終月経が
 わからないから、成長具合からの憶測でしかないんだ」
「そりゃ仕方ないわよ。サンジ君には生理がなかったんですもの」
生理がないのに妊娠した矛盾は、この際置いておこう。

「上陸したら、まず病院の確保ね。事情を話して、きちんと対応してくれるところが見付かれば
 いいんだけれど」
「最悪、家を借り切ってDr.チョッパーに任せましょう。私達も手伝うわ」
ナミは妙に張り切っていた。
サンジが出産することが嬉しくてたまらないようだ。
「そうね、私も頑張るわ」
ロビンもらしくなく浮き浮きとしている。
女性陣としては純粋に赤ん坊の誕生を楽しみにしているのだろう。

「なんか二人がいると頼もしいな。俺も、頑張るよ」
相対的にチョッパーの心の中は不安だらけだ。
知識としては知っていても、実際にお産に立ち会った経験が無い。
しかも相手は経産婦でもなく、ましてや女性でもないのだからまったく勝手がわからない。
そもそも―――

「ところで、どこから産まれるのかしら」
ナミの素朴な疑問に、チョッパーは首を傾げるしかできない。
「・・・多分、帝王切開が無難だと思う。一応毎回診察の時に調べてるんだけど、サンジに膣は見当たらないんだ」
「そうでしょうねえ」
ずずずとコーヒーを啜りながら、楽しみね〜なんてナミとロビンはのんびり笑い合っている。
女の人っていざとなると肝が座るんだろうなあと、チョッパーは内心で感心していた。







さて、まったく肝の座らない男は、今日も簡易ベッドの上で深いため息を付いていた。
「あ〜眠れねえ・・・」
最近眠りが浅いのだ。
こうして昼寝のつもりで身体を傾けると少しはことんと寝入るのだが、すぐに目が覚めてしまう。
横になっていても、時折どきどきと動悸が高まったり喉が渇いたり、少し寝入ったと思ったらトイレに
行きたくなって起きたりと、ともかくなんとも落ち着かない。

――――この期に及んでなんだってんだ・・・ビビってんのか、俺は
孕んだと知った時は仰天したが、正直嬉しかった。
常識で考えたらトンデモな話なのに、純粋に嬉しくて腹の子が愛おしくて・・・
ついでに、マリモにも愛着が湧いちゃったんだよな。

確かに憎からず思って肌を合わせていたが、妊娠が判明してから急速に結びつきが強くなったような気がする。
無頓着無神経な腹巻マンが、らしくもなくあからさまな気遣いを見せたり、愛しげに目を細めて腹なんか
撫でられた日には、鳥肌が立つどころかうっとりと微笑み返して肩に頭を乗せちゃったりなんかして・・・
ラブラブ新婚さんかよおい。

誰も突っ込んでくれないから仕方ないが、できちゃった婚ってのは案外こんなものなのかも知れねえなあ・・・
なんて脳内の呟きには、ほんとに誰も突っ込んでくれないものだ。




幼い頃からサバイバルを繰り返し、ちょっとやそっとのアクシデントや痛みには人より強いと自負していた。
だが今回のこれは少々趣が異なる。
何というか、内部からの脅威と言うか、しかもそれが闘う部類でないことが、また戸惑う要因にもなっていた。
―――愛しい侵略者って感じなんだよなあ

自分どころか誰にもわからない未知なる部分を占拠して、じわじわと成長する生命体。
それがもうすぐ、この世に出て来る。
どうやって出て来るのか、わからないのだけれども。



なにやら霞の掛かったようなとろんとした頭でサンジは考えていた。
大丈夫、大丈夫。
いざとなったらチョッパーが腹切ってくれる。
そしたらなんか出てくるだろう。
今腹ん中でぐにぐに動いてるこれは確かに生きてて、無事生まれたなら自分の意思であちこち動いたり
泣いたり怒ったり笑ったりするようになるんだ。
それを想像すると、なにやら暖かいもので胸の中が満たされる。
けれど、今朝明け方に見た夢を思い出したら目が熱くなった。

血に塗れてごろりと転がったのは、グロテスクなただの肉の塊。
腫瘍だったよと平坦なチョッパーの声が落ちて、俺は床に横たわったまま干からびて冷たくなった。


サンジは額に手を当ててぎゅっと目を瞑った。
拍子にほろりと、目尻から涙が零れる。
只の夢に泣いちまうなんて、どこまで弱くなり下がったんだろう。
この状態が尋常じゃないと自分でも自覚している。
とにかく、なんてことないことに酷く不安になったり涙腺が緩んだりする。
皆一緒にラウンジにいる時はまったくなんともないのに、一人になると途端にこれだ。

チョッパーに言えばまた余計な心配をかけちまうし、自分で自分がおかしいことを自覚してんだから
まだまっとうな方だろう。
サンジはソファに寝そべったままタオルで顔を拭いた。

メソメソしてたら余計落ち込む。
こんな時は能天気腹巻みたいに何も考えずにガーガー眠れたらどんなにかいいだろう。
ふと、天井がぎしりと鳴った。

光が差し込んで絶妙のタイミングで緑頭が覗く。
泣いていたのを見透かされるのが嫌で、サンジはタオルを顔に被せたまま毛布を引っ張り上げた。
















「眠れねーのか?」
「・・・ぐう・・・」

梯子を降りてきて、頭の上で大きな溜め息を一つ。
ベッドが沈んで、隣にゾロが腰を下ろしたのがわかった。

毛布の隙間から覗く金髪をでかい手が撫でてくる。
これをされるとなんとも気恥ずかしくて、狸寝入りしていられない。

「止めろってんだ、このセクハラマリモ!」
「やっぱ寝てねーじゃねえか」
毛布を跳ね除け、真っ赤な顔して睨み上げるサンジの目元が赤いのにすぐに気付いて、ゾロは口を少し曲げた。
「お前、夜もあんま寝てねーな」
「寝てるぜ。俺てめえがいつ寝てんのか知らねえもん」
それは本当だ。
ゾロは不寝番以外はいつもサンジの傍らで眠る。
ゾロに見られながら寝るのは最初こそ抵抗があったが、いつしかそれにも慣れて先に寝付くことが多くなった。
マリモの腕の中で。
以前なら想像もできないような、寒い光景だ。

そうして確かに眠りには就くのだが、真夜中にふと目が覚めてしまう。
そうするとつい余計なことを色々と考えてしまって結局寝付けなくなってしまうのだ。



元々深く眠るタイプではなかったが、こんなにも眠りが浅くなるなんて。
やはり神経が昂ぶっているのだろうか。
それでも―――
隣で太平楽に眠るこの男の寝顔を眺めていれば、眠れなくとも心は安らぐ。
いつもは凶悪なくらいの仏頂面が眠っているときだけどこかあどけなさを漂わせて、ふと、赤ん坊も
こんな顔立ちをしているのだろうかなんて思いついたりして。
それはそれで相当寒いのだけれど、そこで急速に胸が冷える。

本当に、子どもなんかいるのだろうか。
いくらグランドラインとは言え、男が妊娠するなんてありえない。
腹の中で脈打っているのも実は自分の血管で、どんどん膨れるのはなにか悪いデキモノで・・・
チョッパーの診断を疑うわけではないけれど、もうすぐ赤ん坊の誕生だなんて暢気に待ち望んでいて
いいのだろうか。


自分の首の下に腕を回し、抱えるように眠る男の精悍な横顔を眺めながらサンジは胸が詰まるような気がした。
どうしよう
どうしよう
もしも、赤ん坊なんていなかったらどうしよう。
こいつが、こんなにも喜んでくれたのに。

床に手までついて土下座までして俺に頼んだんだ。
無事に産んでくれって。
果たして産めるかどうかは定かではないけど、ともかく今までは順調に育って来た。
けれど、ほんとにこれが赤ん坊かなんて誰にもわからない。
もしも違ったらどうしよう。
俺は悪い病気で、結局死んで・・・
こいつだけが残されたら―――

想像が止まらなくて、じわっと涙が溢れてきた。
ゾロが、霞んだ視界の向こうでぎょっとして目を見開いている。

「なんだ、またなんで泣くんだ」
らしくもなくオロオロと両手を彷徨わせて、サンジの身体を抱き上げた。
甘やかしすぎじゃないかと思うくらい、最近のゾロは優しい。
以前は蹴り合い殴り合いの喧嘩だってざらだったのに、サンジの妊娠が判明してからはぴたっと手を出さなくなった。
それでも暫くは口喧嘩をしていたが、サンジの情緒が不安定になってきた頃からそれも意識して控えたようだ。

それでもって、どこのたらしかと思うくらい恐ろしく甘くマメな男に成り下がった。
それもサンジの不満の種ではあったが、自分のための変化ではなく腹の中の子どものためだと思えば、
我慢もできる。
だがしかし、本当にその基本ともなるべき赤ん坊が存在するのか。
その確証が得られなくて、不安で心配でたまらない。



黙って涙を流すサンジの背中を、ゾロは一生懸命撫でている。
こんな心配を今頃している自分が馬鹿らしくて、誰にも打ち明けられない。
チョッパーに言えば腕を疑うことになるし、女性陣にはきっと笑い飛ばされるだろう。
そしてゾロは、呆れるに違いない。

「てめえが普通の状態じゃねえのは、一応チョッパーたちに言われてわかってる。けどよ、その・・・
 黙って泣くのはよくねえんじゃねえか?」
まったくゾロらしくない遠慮がちな言い方だ。
サンジは苛々して、泣きながら睨み付けた。
「うっせ、これは勝手に垂れてくんだ。生理的なもんだよ」
「違うだろてめえ、また余計なこと考えてやがるな」
マリモの分際で聡いことを言う。
益々むかついて、サンジはゾロのシャツで鼻をかみながら悪態をついた。

「余計なことって、てめえこそ余計なお世話だ。柄にもねえ庇い立てなんかしやがるな気色悪い」
「・・・まだ気にいらねえみてえだな・・・」
ゾロはサンジの髪を弄びながら目を眇めた。
「眠れねえってんなら、落としてやろうか」
「お前が言うとしゃれになんねえ」
さすがに引いて、サンジはゾロの腕の中で身を竦めた。
「チョッパーが言ってたぞ。予定日を過ぎても陣痛の徴候がなかなか無い時は積極的に運動した方がいいって」
「あ、あ、あ、あほか!!」
真っ赤になって怒鳴りながらも、サンジの眉がへにょんと下がる。

「てめえは、疑いもしねえのかよ」
「んあ?」
背中越しにゾロの顎が肩に乗せられてくすぐったい。

「だってよ、てめえ俺がマジで孕んだと思ってんの?」
最後の方は消え入りそうに小さな声になった。
ゾロはじっと、サンジの俯いた横顔を見ている。

「ほんとに腹ん中にガキがいるって、わかんねえじゃねえか」
「動いてるぞ」
「下痢腹がくるくる動くこともあんだろ。・・・でっかいクソかもしんねえ・・・」
ぶっと首元で吹き出される。
何か卑猥なことを言われそうな気がして、先に頭を叩いて牽制した。

「いってえな。今更何言い出すんだてめえ」
予想通りの台詞に、サンジはもの凄く哀しくなった。
俺がこんなに心配してんのに、なんでこいつはこんなにも能天気なんだ。
そう思うとまた泣けてきそうで、唇を尖らせたまま毛布の皺なんかを目で追ってみる。

「あのな、てめえのこん中に、確かにガキがいるぞ」
膨らんだ腹の上を、ゾロのでかい手が撫でる。
「なんでわかんだよ」
「・・・言ってなかったか?俺あ、呼吸が読めるんだ」
「―――は?」

初耳だ。
そういえば、鉄が斬れるのがどうとか、言ってたっけか。

「無機物でも呼吸がわかんだよ。こんな元気の塊みてえなの、わからねえ訳ねえだろう」
てめえ、腹に持っててなんでわからねえんだと、素で問われる。
サンジは、武道を極めるとここまで人間離れするのかとまじまじとゾロを見つめた。

「だから安心しろ。間違いなくガキだ。男だか女だかわからねえが、どうもてめえに似て足癖が悪い」
それは、そうかもしれない。
こっちが寝ていようが調理中だろうが、だかだか足踏みされた日には、相当痛い。
ガキの癖に脚力があるのかと痛いながらも嬉しかった。
・・・ってことは―――

「ほんとに、ほんとにいるんだな」
「おう」
「間違いなく、人間の子か?」
「俺の子だろうが」
「・・・俺男なんだぞ」
「知ってる」
「なんでできんだよ」
「さあな」

ゾロは面倒臭がらずに律儀に返事を返してくれる。
どこか面白がっている風に、口元には笑みを浮かべて。
「そんなに疑うんなら、さっさと産むか。ちと刺激してみっか?」
ぎょっとして、身を引いた。
こんなところで積極的にことに及ばれては溜まらない。

腹を抱えて逃げ腰になったところを背中から抱きとめられた。
「冗談だ。今は大人しくしててやる。だがな、今度陸に着いて・・・」
耳朶に口付けながらふうと息を吐きかける。

「まだ産まれてなかったら、そんときゃ覚悟しとけよ」
「・・・てめえ、最低〜〜〜」


このまま自然の成り行きで船上出産となるか、島についてからさあどうぞとばかりに突かれるのか、
どちらにしても人生最大のサバイバルだとサンジは覚悟を決めた。





 END







-1-

Miracle blue