ゾロと一緒 中なす編 -4-



ゾロは物心ついた時から母親と二人暮らしで、父親はいなかった。
母は朝から晩まで働いて、女手一つでゾロを育ててくれていた。
家計は厳しかったが近所の道場で剣道を習わせて貰っていて、ゾロは母の遅い帰りをほとんど道場で過ごして待っていた。
だから、特に寂しいとも貧しいとも感じてはいなかった。
きちんと確かめたことはなかったが、おそらく母はシングルマザーだったのだろう。
母から祖父母や親戚の存在を知らされたことはなく、母以外身寄りのない状態だった。
そんな母が病に倒れ、わずか数か月でこの世を去った。
当時中学生だったゾロは、いきなり天涯孤独の身となってしまった。
近所の人の助けを借りて葬儀を営み、その席で見知らぬ男に声を掛けられた。
自分が父親だと名乗り、別の家庭を持っているが息子として迎え入れたいと話す。
父親が語るには、すでに妻子がいた父と深い仲になった母はゾロを妊娠したことで黙って身を引き、実家からも縁を切られてひっそりと暮らしていたとのこと。
今まで何も知らず、親らしいことも何一つしてやれなくてすまなかったと詫びられても、ゾロは戸惑うばかりだ。
ゾロ自身はピンと来なかったが、世話をしてくれていた民生委員がよかったよかったと泣いて喜ぶので、とりあえず母の法要が終わったあと、父親の家に身を寄せた。
そこには父の妻、ゾロの継母に当たる人と異母姉兄がいた。
いきなり父親の隠し子が現れてさぞかし不快だったろうに、そんな顔などおくびにも出さず3人ともゾロにお悔やみを言って温かく招き入れてくれた。

ゾロは兄と同じ中学に転入したが、兄が4月生まれだったため兄弟でありながら学年が同じで、クラスこそ違えど一時は注目された。
周囲のクラスメイト達は、不倫相手の子どもだと口さがない大人から聞きかじっていただろうが、表立って問題が起こることはなかった。
ゾロは淡々と学校に通い、特に誰かと親しくなることもなく、むしろ誰とも一定の距離を置いて過ごした。
興味本位で近付くクラスメイトもいるにはいたが、ゾロの反応が乏しいのですぐに飽き、別の刺激を求めて離れて行った。
幼いころから一人で過ごすことに慣れていたゾロは、学校でも家庭でもどこか浮いた状態でいることを苦にすることもなく、マイペースなままだ。

ゾロは元々頭がよく、成績もよかった。
幼い頃から武道を嗜んでいたため礼儀も身に付け、運動神経に恵まれていたから運動部から注目された。
ストイックな雰囲気に精悍な外見も手伝って、少し影があるところが素敵と女生徒達からの人気が高まる。
成績上位者の常連になった頃から、ゾロの身辺でおかしなことが起こり始めた。
確かに持ち帰ったはずのものが無くなり、衣類や靴に心当たりのない傷や汚れが付いている。
それらはすべて、学校ではなく自宅に帰ってから気付くことが多かった。
失くし物が無いよう気を付けていても、いつの間にか机の上から消えてしまう。
部屋に鍵をつけたいと思ったが、居候の身で言い出すのは憚られた。
借り物の辞書が紛失した時はさすがに焦り、家人が留守居の間に家中隈なく探したら、台所の生ごみ入れの中にズタズタに切り裂かれた辞書の破片を見つけた。

学期末のテストで、ゾロの成績は急降下した。
すると、失せ物がぴたりと止んだ。
寝過ごして遅刻したり、授業をサボって昼寝したりすると教師の評価は下がったが、衣服を汚されたり切り刻まれたりすることはなくなった。
ゾロが汚れた洗濯物や体操服のかぎ裂きを差し出す度に、継母は困ったように笑って受け取ってくれる。これからは気を付けてねと優しい言葉を掛けて、なるべく目立たないように綺麗に直して返してくれた。
継母はいつも穏やかに笑んで、おっとりとして大きな声を出すこともない。
なさぬ仲のゾロにも、他の姉兄達と差を付けることなく平等に接してくれている。
欠かさず通い続けていた道場主催の対外試合で、ゾロは大人を打ち破って優勝を果たした。
その夜、机の引き出しの中が墨汁で満たされていた。

ゾロは道場に通うのを止め、学校でも授業中はほぼ寝て過ごした。
教師から注意を受けてもなんの言い訳もせず、なにを考えているのかわからないとクラスメイト達もゾロの存在を不気味がる。
父は仕事が忙しく留守がちで、姉も兄も表面上は優しく接してくれたが、必要以上にゾロに話しかけようとはしなかった。
疎まれたりはしていない、ただ、存在を持て余されている様子はどこに行っても感じられた。
継母だけが態度を変えずに何くれと声を掛け、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
やがて中学を卒業し、進学校へと進んだ兄とは別の公立高校に入学した。
そこでも特定の友人は作らず部活にも入らず、成績は中の下のままだった。

俄かに雨が降り出した午後。
ゾロは水溜りを避けながら家路を急いだ。
スニーカーの側面に、それとわからぬ程度に切り込みが入れられていたらしく、靴の中はぐしゃぐしゃで膝下まで泥で汚れてしまった。
なんとか玄関まで辿りつき、廊下を汚さぬように靴下を脱ぎハンカチで足を拭いながら風呂場に直行する。
洗面所の扉を開けたら、中に誰か入っているのに気付いた。
姉がシャワーを浴びているのだと察し、音がしないように静かに戸を閉める。
振り返ったらそこに継母がいて、見たこともない形相でゾロを睨みつけていた。
「なにをしているの?」
いつものおっとりとした話し方ではない、低く掠れた声音にぎょっとして足を止めると、継母は台所にとって返し手に包丁を握って戻ってきた。
いきなりの展開についていけず呆然と立つゾロに、継母は無表情のまま切り付けた。

咄嗟に後方に避けたが、躊躇いのない軌道は肩から脇腹に掛けてざっくりと切り込んだ。
痛みよりも驚きの方が強く、声も上げられずに壁に背中を打ち付ける。
咄嗟に上着の前を掻き合わせて胸を覆ったが、足元にぼたぼたと鮮血がしたたり落ちた。
「…いやだ、よごれたわ」
継母の乾いた声が、床に落ちる。
冷静な動きで包丁をシンクに置くと、継母は雑巾を手にして床に這いつくばり血を拭い取っていく。
その間も、ゾロが移動するにつれてぽたりぽたりと丸い血の跡が付いた。
それを、四つん這いのまま追いかけては拭き取る継母の姿は、ただ熱心に掃除しているだけのように見える。
「こんなによごして、ちゃんときをつけてね」
抑揚のない声に、視線を床に定めたまま顔を上げようともしない継母。
ゾロのうなじの毛がぞくりと粟立ち、胸を抱えたままその場から逃げるように飛び出した。
廊下にも玄関にも、点々と血の跡が残る。
けれど多分、継母は四つん這いのままゾロの足跡を追って、どこまでも綺麗に血を拭き取っていくのだろう。
降りしきる雨の中を、ゾロはとにかくできるだけ遠くへと闇雲に走り続けた。





「…どういう、ことなの?」
語り終えたゾロの前で、サンジは呆然としている。
今聞いた話の内容が、まったく見えないのだ。
「つまり、俺の胸の傷はお前が原因じゃないってことだ」
端的に言えばそうなる。
サンジには全く関係のない理由と顛末だった。
けれど――――
「なんで、なんでお継母さんはゾロを傷付けたの」
「さあな、お継母さんにもわからないかもしれないな」
本当に優しい人だったのだ。
なにくれとなく面倒を見てくれ、優しい言葉を掛けて、近所や親戚にもゾロのことをよく褒めて話していた。
誰が見てもよくできた、人間的にすばらしい母親だった。
だからこそ、ゾロは何も言えなかった。
ずっと続いていた陰湿な嫌がらせも、直接目の当たりにした狂気も。
自分で解決できるほど大人ではなく、誰かれ構わず助けを求められるほど子どもでもなかった。

刃物傷を誰に付けられたか断固として言わないゾロに、警察は悪い友人との揉め事かなにかで庇っているのだろうと判断した。
表立って不良行為は行っていないが、学校での生活態度は決して褒められたものではなく成績も悪い。
学校からの評価も、ゾロの印象を下げるばかりだ。
病院に駆け付けた両親は動転していて、一体どうしたのかと宥め賺して問いただした。
ゾロが驚いたのは、そこでも継母が真剣な面持ちでゾロを心配したことだった。
むしろ涙ながらもどうしてこんなことにと同情し、ゾロを傷付けた誰かに憤って見せた。
それが、演技に見えないことがゾロは怖かった。
継母が本気で、ゾロの怪我に驚き悲しんでいることが伝わってきて恐ろしかった。



「このまま、この家に居てはいけないと思った。そんな時、じいさんがうちに来るかと聞いてくれたんだ」
縁もゆかりもない、むしろ通りすがりに助けられた恩人からの思いがけない救いの手に、ゾロは呆然としたと言う。
なぜそんなことをと問えば、孫の我儘だとしか答えない。
「親父から、自堕落で何を考えているかわからない息子だと聞いていただろうに、じいさんはそれ以上立ち入ることなく俺を引き取ってくれることを決めた。俺を持て余していた親父達にも、渡りに船だった」
「…でも、だから、なんで?」
寂しい身の上だったとはいえ、家族に愛され店のスタッフに可愛がられて育ってきたサンジには、ゾロを襲った理不尽な狂気が理解できないのだ。
戸惑いを隠さず、ぎゅっとゾロの手を握るサンジの指は驚くほど冷たくなっていた。
片手でゆっくりと甲を擦り、温かな掌で握り返してやる。
「あの時、多分俺は一度死んだ。そんな俺を助けて、もう一度生きようと思わせてくれたのはお前だ」
冷たい雨に打たれて、ずきずきと痛む胸を抱えたまま途方に暮れていた。
おそらく、命を失うほどの傷ではない。
けれど、このまま誤魔化し遂せるほどの事態でもない。
一体どうしてこうなったと、ゾロの口からはとても説明できない危機的状況の中で、ふと立ち止まった黄色い長靴。
―――― ケガ、してるの?
雨だれの向こうから覗き込むつぶらな瞳は、晴れた日の空のようだった。

「お前は俺を、助けてくれたんだよ」
サンジは目を閉じて、こつんとゾロの額に自分の額を押し付けた。
すぐ目の前に、辛そうに細かく震える金色の睫毛がある。
サンジに哀しい想いをさせてしまったが、いつか誰かに話したいことでもあった。
それは両親でも警察でも教師でも、恩人であるゼフでもなく。
サンジに、聞いて貰いたかった。

サンジと同じようにゾロも目を閉じて、合わせた額の滑らかさを感じ取る。
多分、自分は甘えているのだ。
10歳近くも年下の、まだ幼ささえ残る中学生に頼った。
小さな手でゾロを抱え、支えようとしてくれる気持ちが嬉しくて寄りかかった。

しばらくそうして、お互いに黙って額を合わせて目を閉じていたらノックの音が響いた。
慌てて、二人同時に弾かれたように身を仰け反らす。
「―――はい?」
「ゾロ、起きてる〜?」
入ってきたのは、同僚のエースだった。
サンジの姿を見て、愛嬌のある雀斑面がより嬉しそうに破顔する。
「おやサンちゃんいらっしゃい、学校帰り?」
「はい」
「お邪魔するね〜。あ、なんかいい匂いがする」
特になにも匂いがするようなものがないのにそんなことを言い出すから、ゾロは苦笑してサイドボードに置かれた紙袋を差し出した。
「じいさんから貰った、差し入れのおやつがある」
「あ、じゃ俺お茶煎れるね」
「悪いね〜おやつ時に」
「絶対、狙って来たでしょう」
軽口を叩くゾロにいやいやと生真面目な顔を作って首を振ってから、エースは「ん?」と首を傾けた。
「俺、ほんとにお邪魔しちゃったのかな」
「なんですか?」
紅茶のカップを持って振り向いたサンジと、ゾロの顔を交互に見比べてエースはにんまりとした。
「どうして二人とも、おでこが赤いの?」

「―――――」
「・・・・・」
二人とも二の句が継げず、ただ黙って顔全体を赤くした。




End


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