ターン
<またたび史瀧様>



――記憶というものは、自分で思っているほどそう確かなものではないらしい。
例えば、夢を見たときなどがそうである。
夢を見ていたのに、目が覚めるとその内容が思い出せないというのはよくある話だが、これはまだ良い方で、何故なら
『自分は夢を見ていた』という事実は覚えているからだ。
夢を見ていたこと自体を覚えていないときがある。
そんなとき、人はこう思う。
『夢は見なかった』。
記憶に無い現象は、『無かったもの』として認識される。
いや、認識されることすらない。
記憶に無いということは、その者にとっては存在自体がないということになってしまうのだ。





ターン






 「――あら、雨」
パラソルの下で本を読んでいたロビンが、不意に言った。
ゴーイングメリー号は、夏島の海域に入っている。空は真っ青、天気は快晴。『雨』などとは縁遠い空模様であったが、
しかしロビンの言うとおり間違いなく雨は降っていた。
「天気雨だわ」
こればっかりは予測できないのよね、とナミは言う。
しかし、天気雨というのはただ静かに雨が降る程度のことで、強風に煽られることもなければ転覆の危険性があるわけでもない。
屋外に居るものにとっては迷惑なものかも知れないが、それ自体は趣きがあってナミは結構好きだった。
「『狐の嫁入り』ね。私は結構好きだけど」
ロビンはフフ、と笑う。
ナミは私もよ、と頷いた。
「だけど、折角の洗濯物は濡れちまったなあ」
今日は良い天気だったこともあり、皆で早起きをして洗濯をした。
突然の雨に、サンジやウソップは慌てて多量の洗濯物を取り込んだが、さっぱりと乾いていたそれは若干湿ってしまっていた。
「そうねぇ…」

そういう訳なので、今日は皆いつもと出で立ちが違った。
ナミやロビンは女性ということもあり元々色んなファッションをしていたが、
ルフィやウソップ、ゾロ辺りがいつもと違うスタイルなのは新鮮だ。
とりわけサンジにとっては、ゾロがいつもと違うスタイルなのが非常に気になった。
いつものぴったりした親父臭い白シャツではなく、少し余裕のある黒いTシャツだ。
腹巻きもTシャツの下に着けられている状態なので、裾から覗く程度で殆ど見えない。
悔しいが、ロロノア・ゾロは整った顔立ちをしている、と思う。
普段は、今となっては見慣れてしまっているがやはり奇抜の域に入るであろうファッションなのであまり思わないが、
お洒落をすれば相当に女性にもてるに違いない。
それでなくても、イーストブルーで賞金稼ぎをしていた頃は、『海賊狩りのゾロ』というだけで寄って来る女性は後を絶たなかったという。
バラティエに来る若い女性客の中にも、『海賊狩り』を恐れながらも憧れる者が決して少なくはなかった。
そして、共に航海をするようになって気付いたことがある。
彼は、怖そうな面持ちとは裏腹に、実はかなり優しい人間であると。
更に付け加えると、無自覚で女心をくすぐるような行動をすることがあるので要注意だ。

ゾロはせっかく着替えたというのに、この雨の中でもトレーニングを続けている。
サラサラと静かに降る雨に濡れながらダンベルを振るその姿を見て、サンジは何とも言えないデジャヴに包まれた。
この姿を、どこかで見たことがあるような気がする。何故だか、切なさに胸が痛んだ。
一体何だろう。
懐かしいような、愛しいような。
けれど、とても優しい感覚。

サンジは、訊かずにはいられなかった。
 「おい、クソ剣士。――てめェずっと前に、おれとどっかで会ったことねェか」



   ◇



このコックは女好きに見えて、その実自分のことが好きなのではないかと、剣士ロロノア・ゾロは常々思っていた。
ゾロは決して、ナルシストでもなければ自意識過剰な男でもない。
態度は大きいが、自分の能力や努力に対しては大変謙虚な考え方を持っている。
そんな彼がここまで確信をもってそう思えるのだから、余程のことなのだと分かって頂きたい。
コックの余りにもの態度に、最初の頃は、嫌われているのかとも思った。
しかしどうもそうではないらしい。
気が付けば、コックはいつも自分を見ている。
剣士だから、気配で分かる。その癖、事ある毎に自分に何かと突っかかってくる。
ゾロもまた、自分の言葉にコックがいちいち大仰に反応するのが楽しくて、つい余計なことを言ってしまうときもあるのだが。
ついつい『アホ』と口にしてしまうが、コックは見た目の振る舞いほど馬鹿ではないと、ゾロは分かっている。
女性の前ではそう見せているだけだ。本当はいつも冷静で、いつも物事の先を読んでいる。
実際、この船の男性陣の中では一番頭が切れるだろう。
ゾロは、このコックのことが嫌いではなかった。作る食事はどこの店で食べるよりも美味いし、戦闘力もある。
仲間として頼もしく思っている。
だが最近はそれだけではないことに、ゾロは気が付いていた。
自分もまた、コックのことが必要以上に気になるのだ。
立ち振る舞いや仕草、全てが。

そんなコックが、突如言ったのだ。
「おい、クソ剣士。――てめェずっと前に、おれとどっかで会ったことねェか」
「何だそりゃ。新手のナンパか?」
ゾロは揶揄するように唇の端を上げて笑いながら言った。
てっきり、不快極まりない表情と共に『何言ってんだバカじゃねェのか』的な発言が返ってくることを予想したのだが、コックは誰の
眼から見ても明らかに頬を赤らめて、
「な、何言ってんだ!そんなんじゃねェよ!」
「……冗談に決まってんだろ」
何と分かりやすい、とゾロは思った。
好きならば好きだと言えば良いものを。
コックは非常に分かりやすいのだが、非常に意地っ張りでもあった。
「てめェ、濡れんぞ。中入ってたらどうだ」
ゾロはそれだけ言うと、またトレーニングを再開した。しかしコックは立ち去ろうとしない。
「どっかで会った気がしたんだ」
「何を今更。気のせいじゃねェのか」
少なくとも、ゾロの中に、この航海が始まる以前にコックと出会った記憶はない。
東の海では、金髪も青い眼も珍しいのだ。
もし一度でも会っていようものなら、間違いなく覚えている。

「お!サンジ!タコがいる!」
メリーの頭に乗って、ルフィが海を指差した。
全く以って、雨降りなど何のそのだ。
天気雨ということもあり、男性陣はいささか雨を楽しんでいるようであった。
「よし、あのタコ捕まえよう!こないだの『いまだかつてないタコ焼き』が食いてェ!」
正確には、過去に一度作った時点で『いまだかつてな』くはないのだが、細かいことを言及するのはやめておこう。
それほどに、あのタコ焼きが美味しかったということだ。
「捕まえるっつったってなァ…」
コックは難しい顔をして海を見る。ゾロもつられて見た。
確かに、タコが表面に浮いている。
これは珍しい。ここで捕まえておかねば、あのタコ焼きは食べられない。
「ウソップ、釣り上げるのは」
「タコだろ?ちょっと厳しいんじゃねェか?」
「タ〜コ〜焼〜き〜!」
駄々っ子のように、ルフィはメリーにしがみ付く。
ゾロが溜息混じりにダンベルを置いた。
「おい、ちょっと船停めろ。捕ってくる」
「えェ?海に入ってか?大丈夫かよ」
「ンなヤワな鍛え方はしてねェよ。どうせ雨で濡れてるし、暑いしな。涼みついでだ」
ゾロはそう言ったかと思うと、船が停まるのを待ち、船の縁から海へ飛び込んだ。
海面付近をフヨフヨと漂っていたタコは、ゾロが海に入ると潜ってしまった。
追いかけるようにゾロも潜る。
彼の肺活量は半端ではない。膨らんだときの肺の容量が大きいということは、息を止めていられる時間もそれなりに長いということである。
タコが海底まで潜ってしまうより、ゾロがタコを捕まえる方が早かった。
器用に8本足をまとめて掴むと、海面に顔を出す。
しかし。
そこに停泊していた船から、梯子の一つも下りてこない。
さすがに飛び込むときは良いのだが、上がるときには梯子でもないと厳しい。
「おい!梯子を下ろせ!」
ゾロは船に向かって呼びかけてから、様子がおかしいことに気が付いた。
そこに停泊している船は、見知った船ではあるが、メリー号ではない。魚の形をした、変わった船だった。
「何だ?今、海から声が――」
船から、人が顔を出す。
コック帽をかぶっていた。
「うおっ!どうしたんだアンタ、遭難したのか!?ちょっと待ってろ、今引き上げてやるから!」
コックらしき男はバタバタと船の中へ駆け込んでいき、戻ってきたかと思うとスルスルと縄梯子が下りてきた。
メリー号はどこへ消えたのかとか、何故今この場所にこの船があるのかとか考えることは色々あったが、海の中を漂っていても
仕方が無いので、ゾロはとりあえず上がることにした。
「オーナー!オーナーゼフ!遭難者です!」
「――遭難者だと?怪我はしてねェか」
木と靴による足音が交互に鳴る。知っている船で良かった、とゾロは思った。
対クリーク海賊団の戦闘で随分と痛めつけられた船だったが、綺麗に修繕されていることにも安心する。
自分達がこの店を訪れたのは、随分前のような気もするが、5年10年昔の話でもない。
ゼフも自分のことを覚えていてくれるだろう。
「怪我はないようですが――」
コックらしき男に呼ばれて、オーナーゼフが現れた。
だが、どうも様子が変である。
「おめェか、遭難者ってのは。乗ってきた船はどうした?名は何という」
「……?」
まさか、もう自分のことを忘れてしまったというのか?耄碌していない限り、そんな筈は無いのだが。
もしオーナー・ゼフが自分のことを覚えていない、或いは知らないとしたら――。
もしそうだとしたら、ここは一体何処なのだ?異次元にでも迷い込んだか。
その時、全ての答を物語る人物が、ゾロの前に現れた。
「クソジジイ、遭難者だって?」
「お前は厨房にいろ、チビナス」
 それは、まだコック服を着ていて顎髭もない、若かりし日のコック――サンジであった。


「――てめェ、歳は」
「十二」
ゾロが知っているよりもだいぶ高い声で、サンジは答える。
驚いたことにサンジは、十二歳にして既に煙草を吸っていたようだ。
これはいけない。成長期に煙草なぞ吸っているとは何事だ。
ゾロはそう思ったが、それを咎めるのもお節介かと思い、黙っていた。

ゾロは、何故だか妙に落ち着いていた。
ここはレストラン『バラティエ』で、自分のことを知らない料理長と、そして自分のことを知らない十二歳のサンジが居た。
つまり、ここは『七年前』のバラティエなのだ。
道理で、船も綺麗なはずである。
この前、ロビンとチョッパーが話していた。――『タイムスリップ』というやつだ。
グランドラインには、そういう時空のひずみのようなものが多くあるらしい。
グランドラインに入った海賊の中にも、過去や未来へ船ごと飛んでしまったケースもあるという。
ロビンが言うには、タイムスリップした人間が無事現在に戻ってきた場合、タイムスリップした先で出会った人間は自分のことを
忘れてしまうらしい。
そして、例えばその者が誰かを殺したり何かを壊してしまったとしても、全て元に戻る。
何故かと言うと、一人の人間が過去に行き、また現在に戻ってきたときに、タイムスリップする前と同じ状態でなければならない
からである。つまり端的に言うと、自分が過去へ行ったことで、未来が変わってしまうのを防ぐためだ。

ゾロが元いた時代に戻れば、ここでのサンジやゼフは自分のことを忘れる。
だから、七年後に自分とまたここで再会したとしても、覚えていない。
そして七年後にここに訪れる自分もまた、『まだゼフやサンジには出会っていない』状態なのだから、初対面としか思わないという訳である。
逆に言えば、七年後のサンジが自分のことを覚えていないということは、ゾロは必ず元いた時代に戻れるということなのである。
もしも戻れなければ、サンジは『バラティエで出会った時点』でゾロのことを覚えているはずだからだ。
――それが、ゾロが落ち着いている理由である。

必ず戻れるというのであれば、七年前のサンジがどんな少年であったのかを見るのもまた楽しい。
自分は、十九歳のサンジしか知らない。
どんな環境で、どんな過去を生き、どんなことを考えていたのか。
ゾロは、サンジのことを色々と知りたかったのだ。
「ええと…おめェ、ロロノア・ゾロって言ったよな。どこから来たんだ?」
サンジは訊いた。ゾロは正直に答える。
「どこって――グランドライン」
「グランドライン!?そんなとこから東の海までどうやって…」
「あー…別におれァ遭難したわけじゃねェよ。てめェは信じるかどうか分からねェが、おれは、未来から来た。そのタコ捕まえようと海に
 潜ったんだが、海面に上がってきてみりゃもう此処だった」
ゾロが言うと、サンジは子供のくせに心底可哀想なものを見るような眼でゾロを見た。
「ロロノア・ゾロ…おめェ、頭でも打ったのか?」
「信じねェなら別にいい。だが、グランドラインってのはそれくらい非常識な場所だってことは覚えておいた方がいいぜ。将来、
 グランドラインに入ることも『あるかも』知れねェからな」
「グランドライン…」
「そうだ。おれは、グランドラインで海賊船に乗ってる。海賊だ」
「――グランドラインなら、あり得るだろうな」
傍で聞いていたゼフが言った。
そう言えば、彼は海賊であった頃、グランドラインに入り無事に東の海に戻ってきたという話だったなとゾロは思い出す。
考えてみればサンジは、コックとしてだけでなく海賊としてもすごい男に育てられたのだ。
「なあ、グランドラインってどんなとこなんだ?」
少年らしく目を輝かせて、サンジは言う。
十九歳のサンジは自分にこんな顔を向けたことなど一度も無かったし、ナミやロビンに向けるデレデレした顔とも違っていたので、
ゾロは少し面食らった。
 ――こんな顔もできるのか。
それが、もしかしたらゾロには嬉しかったのかも知れない。
だから、彼はいつもより少しお喋りになっていたのかも。

「――おれの乗ってる船にゃ、てめェも居るよ」
「え」
言ってしまってから、しまったと思った。未来のことなど、知らない方が良い。
少なくとも、ゾロはそういう考えの持ち主だ。先に自分がどうなっているのか、分からないから一生懸命になれるのだと。
「おれ、海賊になるのか?」
「あー…詳しいことは、分からん。何せ七十過ぎの爺さんだからな、てめェ」
ゾロはそう言って誤魔化した。誤魔化してから、ロビンの言っていたことを思い出す。
ゾロが元の時代に戻った時点で、ここに居るサンジは自分と関わったことを全て忘れてしまうのだ。
ならば、誤魔化す必要もなかったかと思ったが、しかし念には念を、というやつである。
「ななじゅう…!……その頃のおれ、どうしてる?七十になって海賊船に乗ってるってことは、オールブルーは――」
好奇心と、多少ばかりの不安とを織り交ぜたような顔で、サンジは訊く。
何だかんだ言ってもまだ子供だ。
十九歳のサンジならば、こんな質問はしない。
「それは、おれからは言わねェ。てめェの未来だ、てめェ自身で確かめろ」
決して誤魔化しではなく、本心からゾロは言った。
サンジはしゅんとする。
どうしよう、とゾロは思った。
不謹慎だが、十二歳のサンジは非常に可愛らしい。見た目もなのだが、態度が、である。
「分かっちまったら、人生つまんねェだろ」
「……そうだな」
「おいチビナス。てめェいつまで油売ってんだ。さっさと仕事に戻れ」
保護者としてではなく、料理長としての厳しい口調が飛ぶ。
チビナスって言うな。聞いたことのあるセリフを、十二歳のサンジはやっぱり同じように言いながら、厨房へ戻っていった。
「――…ロロノア、とか言ったか」
「ああ」
「おれも昔グランドラインに居たことがあるが、時空のひずみのようなものがあると言うのは聞いたことがある。元の時代に戻るには、
 同じ条件が整わねばならんようだ。天候、服装、その他諸々」
「そうなのか!?」
ゾロは少し焦った。天気雨など、そうなかなかお目にかかれるものではない。
自分が元の時代に戻れるのは確実なようだが、それはいつになるのだろう。
半年後か、一年後か。
ゼフにその話をすると、困った顔をしたが、かと言って天候ばかりはどうすることもできない。
「まあ、時期が来るまではここに居るといい。こないだ従業員が一人辞めたところでな、部屋が一つ空いている。好きに使え」
「すまねェな」
礼を言いながら、ゾロはゼフという男を改めてしっかりと見た。
前にここに立ち寄ったときは、クリーク海賊団が攻めてきたり、ミホークと一戦交えたりでマトモに見ている暇もなかったが。
そうか。この男が、あいつの人生を変えたのか。
影響を受けているなどというレベルではない。あのサンジを形作ったのは、この男なのだ。
海賊として、コックとして、男としての信念も、全てこの男から受け継がれてきたものだ。
嫉妬もできないくらいに大きい存在である。


「――全ッ然駄目だな。てめェで全部片付けろ」
タダで置いてもらうのも悪いと、ゾロが荷物運びや皿洗いなどの雑用を手伝っていると、鍋の前からそんな声が聞こえた。
ゼフとサンジが立っている。
鍋の中には、スープ。
状況からして、サンジが作ったものをゼフに駄目出しされたのだろうということは、馬鹿でも想像がつく。
鍋は小ぶりのものであったが、十二の子供一人で平らげるには多すぎる量だった。
しかし、食べ物を捨てるなど決してしないということを、ゾロはよく知っている。
ゾロは自分でさっき洗ったばかりのスープ皿を片手に無言で鍋に歩み寄ると、鍋に突っ込まれたままになっているお玉でスープを
皿に入れた。
酒でも飲んでいるのかと言わんばかりの勢いで、ぐびぐびと飲み干す。
「うめェ」
ゾロは言った。
確かに、十九のサンジが作るスープの方が格段に美味い。
ゾロにだって分かるくらいの差なのだが、しかしそれは、七年の間、このサンジがあのサンジになるまでに、それだけの努力をした
ということだ。
何度も駄目出しをされ、その度にめげずに努力を重ねてきたから、十九のサンジはあの味が作れるのだ。
ゾロは、そういう人間が好きだ。そしてこのスープは、決して不味くはない。
「てめェ、何勝手に飲んでんだよっ!…ジジイが駄目だって言ったんだ、それは客に飲ませられるスープじゃねェってことだよ。
 そんなの飲むなよ…」
「おれァ客じゃねェからなァ。行く当てがねェからここに置いてもらってる、言わば居候だな。だから良いんだよ。それに、『そんなの』
 とか言うな。おれが食ってみたかったんだ、昔のてめェの料理をな。普段おれが食ってるてめェのメシは、もっと美味ェ。あんな
 すげェモンを作れるようになるまでに、どれだけ努力してきたかなんておれは考えたこともなかった。だから知っときてェと思った。
 それだけだ」
そんなことを言いながら、ゾロはまたスープをよそっては飲み干す。
サンジは身動きもできずにその場でゾロがスープを飲むのを見ていた。
全部は飲まない。飲もうと思えば飲めるのだが、サンジの研究用に残しておかなければ。
半分くらいを飲んだところで、ゾロは言った。
「また何か食わせろよ。今も未来も、てめェの作る料理には心がある。だから食ってると幸せな気分になる。てめェ、これからもっと
 すごくなるんだぜ」
ゾロの言葉に、サンジは顔を赤くした。可愛すぎるではないか。
ゾロは笑った。
自分もまた、十九のサンジには決して向けたことのない優しい顔をしていることを、ゾロは自覚していなかった。


サラサラと、静かに雨が降っている。
ゾロが『七年前の』海上レストラン・バラティエに来てから、一週間が過ぎた。
この船は、極上の料理が食べられるというので客層も様々であったが、トラブルもそれなりに多かった。
この一週間で、海賊船に襲われること二回、海賊の客が無銭飲食を働こうと店内で暴れること三回。
全て、バラティエ側の撃退により未遂に終わったが。客もまた、それを楽しんでいるような節がある。
成り行き上、戦闘にはゾロも少々手を貸した。
料理と同じで、サンジは戦闘の方もまだ発展途上だった。
「おーいロロノア。悪ィがこの箱をそっちまで運んでくれねェか!重くてかなわねェ」
コック達とも、随分と馴染んだ。
駄目出しされたサンジの料理を、ゾロはいつも半分食べていた。そしてサンジが半分を食べる。
何をアドバイスできるほど立派な舌も持ち合わせていなかったが、『食べさせる対象が居る』ということは、サンジにとって成長の
カギであったかも知れない。
食べるたびに、腕は上がっていっているように思えた。
バラティエに来てからも、ゾロは日々のトレーニングを欠かしたことはなかった。
レストランの仕事というのは思っていたよりもずっとハードで、良い体力作りになっている。
空いた時間に、剣術の稽古などをしていた。
「――ゾロ。雨降ってんのに、まだやってんのか?」
雨に濡れながらトレーニングをしていると、傘を差したサンジが甲板に現れる。
そう言えば、あの日もこんな風に雨が降っていた。
しかし、今日はどんよりとした空だ。天気雨とは程遠い。
「ああ、てめェか。どうした」
「おやつ……作ってみたんだ」
見ると、サンジは空いた方の手に、おやつの載った器を持っている。
それは、十九のサンジが比較的よく作ってくれたものだった。
記憶は消えていても、どこかで覚えているのかも知れない。サンジが、初めて他人のために作ったおやつのメニュー。
「おう」
雨がかからないように、中に入る。
「ゾロ、濡れたままだと風邪引くぞ」
「そんなヤワな鍛え方はしてねェ」
ゾロはパクパクとおやつを頬張りながら言う。サンジはニコニコしてその様子を見ていたが、不意に言った。
「ゾロはカッコいいなあ」
思わず、食べていたおやつを吹き出しそうになった。
何だこいつは。今何を言った?
「七十のおれはどんなになってるか分からねェけど、おれ大人になったらゾロみたいになりてェな」
「何だそりゃ。オーナーゼフはどうした」
「ジジイは、超えたい相手だから、こうなりたいっていうのとは違うんだ」
十二のくせに、やけにしっかりしたことを言う。
「ゾロはさ、強ェしカッコいいし、優しいな。そんな大人になりたいんだ」
「……心配すんな」
クシャ、とゾロはサンジの頭を撫でた。
「おれの知ってるてめェは、じゅうぶん強ェしカッコいいし優しい」
「……なぐさめはいいよ。だってその頃七十のジイサンなんだろおれ」
サンジは言った。
う、とゾロは言葉に詰まる。

不思議だ。
このサンジには、こんなにも素直に優しくできる。あのサンジにも、同じくらい素直になれたら――。
そこまで考えて、ゾロはふと止まった。
何だろうこれは。まるで、自分がサンジのことを好きみたいではないか。
サンジが明らかに自分のことを好いているのが見え見えだから、気になっていただけではなかったのか。
いや、認めざるを得まい。
自分は、ずっと前からサンジが好きだ。このサンジがではなく、十九のサンジが好きだ。
十二のサンジを通してしか、その気持ちに気が付かなかっただけなのだ。


夜中には、雨はどんどん強くなり、風も出てきていた。
――嵐になりそうだ。
ゾロは航海士でも何でもないが、海へ出てそれなりに長いので何となくは分かるようになっていた。
部屋の中で腕立て伏せをしながら、風の音を聞く。ガタガタと窓が鳴り、雨が窓ガラスに叩きつけられている。
時折、ぐらぐらと船が揺れた。
コンコン、とドアがノックされる。
こんな時間に誰だろう、と思いながらドアを開けると、サンジが枕を持って立っていた。
「何だ、どうした」
「……ここで寝たい」
「は?」
「一人で寝るの嫌なんだよっ、悪いかよっ!」
「あーあー、分かったから静かにしろ」
ゾロはサンジを部屋の中に招き入れた。そして考える。
『ここで寝たい』。別に、十二の子供相手に邪なことを考えたわけでは決して無い。
たとえこれが下着姿の女性であっても、恐らくゾロは邪な考えなど抱かない。
しかし、つい昼間に『好きだ』と自覚した相手の過去の姿なのである。
このサンジに何かしようとは思わないが、戻ったとき『あの』サンジに対して我慢がきかなくなりそうだ。

「どうしたんだ急に。ずっと一人で寝てたじゃねェか」
「…今日は別」
もそもそとベッドの中に潜り込みながら、サンジは言った。
ゾロの枕を寄せて、きっちり半分はスペースを空けてある。
それでも、一人用のベッドでは狭いと言えば狭いのだが、いざとなったら床で寝れば良いことなので、ゾロは何も言わずにおいた。
「ゾロ、寝ないのか?」
「まだトレーニング中だ」
「そっか……」
また、ゴウゴウと風が吹いて、窓も大きく鳴る。
船が揺れる。サンジがビクリと体を震わせたのが見て取れた。
ああ、だから一人で寝るのが嫌なのか。
――ゾロは、サンジの過去を知らない。
何故、嵐の夜を嫌うのかも。いや、嵐の夜が嫌いなことも知らなかった。
十九のサンジは、嵐が来ても特に怖がる様子もなく、普通に舵を取ったり甲板で雨水や海水の処理をしたり帆をたたんだり、
色んなことをしている。
ゾロはベッドの縁に腰掛けて、頭まで布団を被っているサンジを見た。
布団越しに、ぽんぽんと優しく叩く。
「大丈夫だ」
サンジの震えが、少し止まった。
――しかし。大丈夫じゃなかった。全然、大丈夫じゃなかった。
サンジが寝付いて少しした頃、今までとは比べ物にならないくらいに船が揺れた。
壁にあった掛け時計が床に落ちてしまったくらいにだ。
腕立て伏せを再開していたゾロは転がってしまったし、サンジは飛び起きた。
カンカンカン、と警鐘のようなものが鳴らされているのが聞こえる。
「みんな起きろ!大時化だ!」
ゾロは慌てて立ち上がる。布団から出ようとしたサンジを、ゾロは制した。
「てめェはそこに居ろ」
「嫌だ!」
「危ねェから!」
布団から飛び出してきてゾロのシャツにしがみついたサンジに、ゾロは言う。
しかしサンジはゾロのシャツに顔を埋めて、首を何度も横に振った。
「一人になるのは嫌だ…!」
「ったく…離れんなよ!」
ゾロはサンジの手を掴んで、甲板へと走る。
甲板に出ると、普段あんなにも美しく静かな海は、凶暴な魔物へと姿を変えていた。
サンジの、ゾロの手を掴んでいるその手の力が増す。
だから中に居ろと言ったのに、とゾロは思う。
手を離さねば、何かを手伝うにも不便であるが、完全に離してしまえるような雰囲気でもない。
「――チビナス!てめェは中に入ってろ!」
案の定、サンジの姿を見付けたゼフはそう怒鳴った。
「いやだ!」
「てめェ何もできねェだろうが!」
「……っ」
サンジはグッと息を呑んで、ゾロの手を離した。
「おい」
トボトボと、船の中に入っていこうとする後姿を、ゾロは為す術もなく見つめる。ひどく、儚く見えた。
こんな時でなければ、今すぐ抱き締めてやりたいほどに。
――その時だ。
大波が、サンジの上に覆い被さるように降ってきた。小さな体は簡単に攫われてしまう。
「うわあああ!」
「――!」
サンジの手を一番に掴んだのはゾロだった。
片手でサンジの手を掴み、もう片方の手で船の出っ張ったところを掴む。
百八十度に開かれた腕は、関節が極限まで勢い良く引き伸ばされてミシリと音を立てたが、それくらいで力が緩むような
鍛え方はしていない。
歯を食いしばって、ゾロはサンジを自分の方まで引っ張る。反動で、サンジはゾロの胸に勢い良くぶつかった。
ゲホ、とむせながらも、ゾロはサンジの無傷を確認する。
「ロロノア!すまねェが、そのバカの方を頼む!こっちはおれ達に任せてもらえばいい!」
ゼフが言った。
ゾロは頷くとサンジを抱え上げ、船の中へ駆け込む。
「おい、しっかりしろ。大丈夫か」
ハアハアと荒い息を吐きながら、死人のように真っ青な顔でサンジは頷いた。
そして、ギュウ、とゾロに抱きついて胸の中に顔を埋める。
普通ならラブシーンのようだが、サンジはガタガタと震えていて、ゾロにはそんなことを考える余裕もなかった。
ただ、目の前の存在が愛おしくて。


小一時間ほどで時化はおさまり、船は事無きを得た。
サンジは、ゾロの部屋で眠っている。精神的にとても疲れたのだろう。
「…寝たか」
「ああ」
レストランに降りると、ゼフが座っていた。一人で酒を飲んでいたようだ。
ゾロに気付いたゼフは、空のグラスを取り出してゾロに差し出した。
「おめェもどうだ」
「ありがてェ」
疲れたせいか、とても酒が飲みたい気分だった。
「今日は、本当に助かった。あれを助けてくれて、何と礼を言えば良いのか」
「別に――おれがちょうど、助けられる場所に居ただけだ」
深々と頭を下げられ、ゾロは居た堪れない気分になってそう言った。
「単に命を救ってもらったからと言う意味じゃない。……まだ二年しか経っちゃいねェからな」
何がその目には映っているのか、遠い目をしてゼフは語りだした。
二年前、同じような大時化があったこと。同じようにサンジは海へ投げ出され、ゼフと共に、何も無い岩山に打ち上げられたこと。
ゼフの片足が無い理由。バラティエができるまでのこと。
「海の怖さは、海で生きていく上で知っておかねばならんことだ。そのことにガキも大人も関係ねェ。だがなあ…まだ十のガキに、
 コレは見せたくなかったなあ」
ゼフは、コンコンと拳で自分の義足を叩いた。そしてゾロに笑いかける。
「なあ、おめェ本当はどこから来たんだ?」
「あ?」
「グランドラインから、時空のひずみに巻き込まれて来たっつうのは本当だろう。だが、六十年も先じゃねェんだろう?あのバカがあれこれ
 訊こうとするだろうから、誤魔化したってとこか」
見事に読まれている。この男なら、サンジにばらすこともあるまい。
「本当は――七年後だ」
「七年後か…その頃にゃ、あいつは海賊船に乗ってるってわけだ」
「…ああ」
ゼフにしてみれば、寂しいものなのだろう。子供同然に育てている者の、巣立ちの時が分かってしまうというのは。
まあ、ゾロが戻れば忘れてしまうのだが。
「元気にしているか?」
「え?」
「七年後のあいつは」
「嫌になるくれェに元気だ」
「そうか」
ゼフは、少し寂しげに、けれど幸せそうに笑って、酒を飲み干した。


翌日は、昨夜の嵐が嘘のように、いい天気だった。
睡眠不足もあって、ゾロは甲板で転寝をしていたのだが。
「――ゾロ」
名前を呼ばれて目が覚めた。サンジがゾロの傍らにしゃがみ込んで、顔を覗きこんでいた。
「んん?何だ」
「昨日は――ありがとう」
「気にすんな」
ゾロは笑う。
こいつは、この七年で一体どれだけのものを乗り越えてきたのだろう、とゾロは思う。
料理の腕も。戦闘力も。そして――嵐の夜も。
ゾロは自分を鍛えることに必死だったが、人生経験だけはサンジに敵うことはないのだろう、と思った。
少なくとも、飲み込んできた涙の数は、サンジには遠く及ばないに違いない。
「……強ェわけだ」
「え?何か言ったか?」
キョトンとしてサンジはゾロを見る。何でもねェよ、とゾロはまた昼寝を再開しようとした――のだが、ポツリと何かが頬に当たった。
「――あ」
「雨だ」
空を見上げて、サンジは言う。太陽は照っているのに、雨が。
「ロロノア」
いつの間にかゼフが甲板に出てきていた。手には、タコの入った水槽。
「条件は揃った」
「――ああ」
「条件って?」
「――チビナス。ロロノアは、この時代の人間じゃねェ。元の時代に帰らなきゃならねェんだ。帰るためには、この天気雨が必要だった。
 ロロノアは、それを待っていた」
ゾロにタコを渡しながら、ゼフは言った。
「ゾロ……帰るのか?」
「そうだな。向こうでもおれを待っててくれる奴らがいるからなァ」
ゼフは、気を利かせてかまた船の中へ入っていった。
『ロロノア、また会おう』と言って。
「おれ…ゾロが居なくなるなんて嫌だ」
「また会えるじゃねェか」
「でも!次に会えるのは六十年後なんだろっ!そんなの――」
サンジの青い目が、潤んでくる。
「七十のジイサンじゃ、好きになんかなってもらえねェよ……」
「関係ねェだろ、それは」
「おれはもっとゾロと一緒に居たいんだよ!七十になって会えたんじゃ、短すぎる」
子供とは恐ろしい、とゾロは思う。こんな言葉を、スラスラ言えてしまうとは。
まだ、恋愛のいろはも分かっていないだろうに。いや、分かっていないからこそ言えるのか?
どうせ忘れるんだよな、とゾロは思う。そう思って、サンジの額にキスをした。
「悪ィ。てめェが七十のジイサンなんつうの、あれは嘘だ。未来が分かっちまったらつまらねェと思って、嘘を教えた。本当は、てめェは
 おれと同じ年だ。この東の海のどっかに、十二のおれが居る。そいつは、もうあと数年もすれば海に出て、広く名が知れ渡ることになる。
 てめェもおれの名前を聞くことになるだろう。そんで近い将来、必ず会いに来る。その時までに、てめェはウチの船長の眼鏡にかなう
 ようになってろ。ウチの船長が、絶対自分の船に欲しいと思うようなコックにな。おれの言葉も、きっと忘れちまうんだろうが――忘れても
 いい、絶対にまた会える」

忘れてもいい、絶対にまた会おう。
そしてその時には、また自分のことを好きになって欲しい。
自分も、きっとこのコックのことを好きになる。



   ◇



タコを片手に海へ潜り、次に水面に顔を出したときには見慣れた梯子が下りていた。
「よっしゃー!ゾロ、タコゲット――!」
船長が嬉しそうに叫ぶ。
「サンジ!タコ焼き!タコ焼き!」
「よし!ナミさん、ロビンちゃん!腕を振るうぜおれvv」
「楽しみね」
水もしたたるいい男。
――ポタポタと雫を落としながら甲板に立つゾロの目の前に、フカフカのタオルが差し出される。サンジだ。
「拭いてから入れよ」
「……おう」
他の者は、調理者よりも早くラウンジに入ってしまっている。勿論、タコと共に。
「いや、やっぱり藻類は違うよな、海に慣れてるっつうか」
「あ?」
「いやいや、ご苦労だった、マリモ君」
「あのなァ…!」
どうやったらアレがこうなるんだ、とゾロは十二歳のサンジを思い浮かべた。
いや案外、そのままなのかも知れない。
薄い殻が張られているだけで。
ゾロは、少しサンジをからかってみたくなった。
「まあいい。てめェの気持ちは分かってる。内心は、おれのことが好きで好きでしょうがねェくせによ」
一緒に居たいと泣くくらいに。
――ゾロはサンジの涙ぐんだ顔を思い出しながら言った。

「えっ……」
サンジはまさに茹でダコのように真っ赤になって絶句した。これは予想外の反応である。
何言ってんだバカかともっと取り乱すのを想像していたのに、これではからかったゾロの方がどうして良いか分からない。
ああ、でも。
ゾロが海に入る前、サンジは『どこかで会ったことはなかったか』と訊いた。
七年前、ゾロは雨の中をこの服装でトレーニングしていた。それを、十二歳のサンジは見ていた。
きっと、頭のどこかで覚えているのだ。記憶として認識されていないだけで。
きっと、心のどこかで覚えているはずだ。ゾロが別れ際に言った言葉も。
グイと引き寄せて、ゾロはサンジにキスした。
額にではなく、唇に。

「おれは、てめェのことが好きで好きでしょうがねェ」
そう言ってやったら、サンジはそのまま白目をむいてバッタリと倒れてしまった。
「サンジー、何やってんだ、遅ェぞ!って、サンジ――!?」
「ゾロ、サンジに何したんだ!医者――!」
「ってお前だよ」
騒がしい日常。
しかし、この上なく幸せな日常。この先どこへ行っても、何度でも、ここへ戻ってきたいと思わせるような。
それこそ、七十のジイサンになっても。

 ――天気雨は止んで、空には虹が出ていた。




End



  *  *  *



19のゾロと12のサンジ!!
可愛いです、めっちゃ可愛い。
こんな年の差だったら、こんな出会いだったら。
きっと二人はもっと素直に、甘く優しく付き合えたのかもしれないね。
でも同い年だから、19同志だからこその二人でもあるわけで。
ひと粒で何度も美味しい年の差を、ありがとうございます!



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