ダイブ ー チビなすの空 ー <星珠様>



サンジがその選手を初めて見たのは8歳。今から4年前の事だ。

真っ青な空と紺色の海。
そびえ立つ崖の中程に作った足場から無造作に飛び上がった男は、ゆっくりと身を翻して空を抱く様に体を捻り、
驚きに目を見開いたサンジの前でしゅぼっと水面に吸い込まれた。
それはジジイが大リーグの試合を録画し損ねたかわりに入っていた番組だった。
液晶に映る遠い海の風景の前に座り込んだサンジは、撥ねた魚の鱗が、太陽の下で光ったのを初めて見た朝を思い出した。
次々に違う男達が海へ飛び込んでゆく。体が撥ねるようにくるくる回り、海へと帰ってゆくのが嬉しくてたまらない魚のようだ。
カメラが飛び込み台から水面を映す。飛び込みを近くで見ようとするカヌーやボートが小さくみえる。
目がくらむような高さなのに、選手達は誰一人恐ろしそうな顔をしない。
かっこいい…。
その中でもサンジの目に焼き付いて離れない姿。
日に焼けた筋肉質の体に黒っぽい水着、緑色の短髪の男はロロノア・ゾロという選手だった。

「ジジイ!」
サンジは大声で叫びながらゼフの所へ行き、やかましい、今下ごしらえの最中だろうがと怒鳴られながら、ゼフの繰り出す連続
蹴りをなんとか避けた。
最後までうまく避け切ると、ゼフは仕事の途中でもサンジの話を聞いてくれる。
「一生のお願いだ。この番組、録画してくれ。」
いつものゲームが欲しいとか、カードが欲しいとかいう甘えたようなしゃべり方じゃなく、声に真摯な響きがある。
「なんとか、ダイビングっていうんだ。25メートルの高さから海に飛び込むんだ。するっとクルクルクルクルってしてすぽって
感じでさ、すっげえカッコいいんだ。俺、絶対ぇこれの選手になるんだ。」
もともと口は達者なほうだが、勢い込んでつばを飛ばしてしゃべるもんだから頬が真っ赤になっている。
ゼフは呆れたように頭をぽんと叩いて、後で番組表をみてやると言った。
やれやれ面倒だなとわざとらしくつぶやくゼフに、サンジがむっとふくれる。
その頬をつまんでゼフの目は笑っていた。

ゼフは麻疹みたいなもんだと思っていたらしいが、サンジはそれからダイビングに夢中になった。
小学校の調べ学習の時間も、授業そっちのけでロロノア・ゾロの検索に余念がない。
どんな競技なのかも調べたし、どうしたら選手になれるかと丸い頭をぐるぐるさせて考えた。
25メートルの飛び込み台なんて、普段泳いでいるプールが縦になるって事だから、普通の場所には無いんだって事も判った。
だから、普段は10メートルの飛び込み台で練習しているらしい。
飛び上がって落ちるだけだけど、空中姿勢と着水の衝撃に耐えるためには全身の筋トレが必要だし、瞬発力や反射神経、
平衡感覚が大切なんだそうだ。

そうして、通っているスイミングの教室も飛び込みプールがある所へ変えてもらった。
飛び込みのクラスに入ったら、飛び込み台から飛び込めるのかと思ったら大間違いだった。
初心者はまずプールの縁、そして1メートルの高さからだ。
3メートルの台にだって登らせてもらえない。10メートルなんてもっての外だ。今の所10メートルの板から飛べるのは中学生だけだ。
すぐには練習できないと知って、サンジはひどく落胆したけれど、辞めるとは言わなかった。
飛び込みのクラスがある水泳教室は少ない。
サンジはあの10メートルの飛び込み台の2倍以上ある崖のうえから飛び込みたいのだ。青い空と海を抱えて宙返りしたいのだ。
無理だと言わせないくらい上手に飛べるようになるんだ。
いつか、ゾロと一緒の大会に出るんだ。家から少し離れたバス停まで走りながらサンジはいつもそう思っている。



それから学年も上がってすぐの五月の連休、ジジイがフランスへ里帰りをするというので連れて行かれた。
ゼフの知り合いの店が老朽化で移転し、開店祝いと娘の結婚式を同時にするとか言っていた。
その店はゼフも料理長をしていたのだというが、サンジが生まれる前の事なのでどうでもいい。
連休の間には平日が二日あったが、自主的に休みだ。サンジはスイミングを休むのは嫌だったけれど(学校は別にどうでもいい)、
ガキを一人で置いていけるかと蹴られたので仕方がなかった。
ジジイはサンジにつきっきりと言う訳ではなかったが、パーティの花嫁は綺麗だったし、列席のお姉様がたも華やかだった。
でっかいウエディングケーキのデコレーションは素晴らしく、飴細工も見事だった。
そして薄切りのスポンジに重ねられたピスタチオのムースはおかわりを貰った。
盗み飲みしたワインでふわふわしながら倒れ込んだホテルのベッドはすっぽりと埋まりそうなくらいフカフカだった。
知らない市場に並ぶ見慣れない魚、切り売りされるチーズやハム、山積みにされた果物、ジャガイモだけしか売ってない屋台。
サンジは束ねられた人参の葉っぱがまだ萎れていなかったり、キャベツの外葉の裏に小さな青虫がついているのなんかを見ると、
人ごみの中をスキップして走り回りたい気分になった。
バケツに放り込まれた様々な色のバラや花たちはおじさんのダミ声と一緒に甘い匂いを振りまいている。
その中に漂う焼き上がりのパンやコーヒーの匂いはサンジをひどく幸せにした。

「はしゃぐんじゃねえ、はぐれるぞ。」
時々尻を蹴られたり、襟首を掴まれたりしながら市場を抜け出ると、ゼフは随分と大きな袋を二つも抱えていた。
別の友達の店の手伝いを頼まれたというゼフに車に乗せられ、高速道路をすっ飛ばして着いた先は古い町並みが残る港町だった。
海からの湿った空気と潮の香り、海鳥の鳴き声。
教会だろうか、オレンジの屋根のむこうに尖塔がみえる。
マリーナがあるという方向には、ビルの間からヨットの帆柱(マスト)が覗いている。
海風を浴びて角の取れてしまったレンガの壁。でこぼこした石畳、建物の一部が屋根付きの歩道になっていて続いている。
広場の古い塔はいかめしいタイルの装飾を纏ってすっくりと立っている。
ゼフは一方通行の路地を何回か曲がり、道路の半分を占める駐車スペースの一角にバンを止めると、角のレストランを指して
この店だと言った。
「その先が公園になっていて、港を見張っていた塔がある。観光名所だ、行ってこい。」
ゼフがわざわざそんな事を口にするのは珍しいなとサンジはちらりと思ったが、車の中で縮こまっていたからだをぎゅっと伸ばし、
二つ返事で駆け出した。
風が強い。
「あっ 」
入り江の奥にはヨットやクルーザーがぎっしり並んでいる。その入口の堤の両脇に。
水平線を区切るようにして丸いのと角張ったのと二つの塔が立っていた。
その角張った塔の真ん中より上、見覚えのある黒っぽい色の台がくっついている。
それが何かサンジは知っていた。
「飛び込み台だ…。」
ダイビングの大会で使う、飛び込み台。
実際に見ると凄い高さだ。試合はいつなんだろう?その飛び込み台の上に何人かの人影が見えて、サンジは慌てて走りだした。
途中の壁にポスターを見つけて駆け寄ると、日付は明日と明後日になっている。
サンジは思わず立ち止まって、後ろを振り返った。
「ジジイ…。」
絶対に判っていて連れて来てくれたんだ。
なんだか、吹いている風が冷たくて鼻水が出そうだ。
…へへっ。

改めてうっとりと飛び込み台を見つめる。
大会は明日から二日間。飛び込み台は既に設置されていて、今は練習をしているらしい。
高い台の上で体を擦りながら体を動かしているのは風が強くて寒いからなんだろう。
黒い髪に褐色の体をした選手が跳ねるように飛んで2回ほど翻ってからするりと着水した。
試合じゃないせいか、少し余裕のあるせいか、ちょっとだけ安心して見ていられる気がする。
次に飛び込もうと台の端に立った男の短い髪が、緑に光ったのを見てサンジは目を見張った。
水色の空を背に飛ぶと同時に翻るように身体を捻ってからくるりと膝を抱えて回転。着水で水しぶきは大きく上がったけれど、
やっぱりイキのいい魚みたいだ。

「ゾロ!すっげぇカッコいい!」
息を詰めていたサンジは、ゾロが水面に浮かび上がったのを見て思わず叫んだ。
その声が聞こえたのだろうか、水面からゾロはびっくりしたように回りを見渡した。

次はすらりとした体の男が薄茶の髪を靡かせてひらりと舞うように飛ぶ。
みんなすげーなあ。
水に飛び込む瞬間に体はまっすぐになるとはいえ、水面を叩くすごい音がする。
水しぶきが風に流されてきらきら光った。
事故や怪我を警戒しているのだろう。練習とはいえ、ボンベを付けたスタッフが水面の近くに何人も待機している。
今度は金髪の選手が飛ぶようだ。台の端から下をのぞき込んでいる。
「頑張れー」
大きな声で手を振ると、声が聞こえたのかどうかわからないが手を振り返してくれた。
飛び込んでもいいという合図が台に送られて、いよいよだとサンジは息を詰める。
「おい。」
いきなり声をかけられて驚いた。日本語だったからだ。
「えっ?何?」
「やっぱり、お前か。日本語しゃべれるのか?」
息が止まりかけた。目の前にロロノア・ゾロがいたからだ。
「しゃべれるさ、日本人だもん。でもなんで、ロロノア・ゾロが日本語?アメリカ人だったでしょ?」
「…俺の事知ってんのか?国籍はアメリカだが、祖母が日系のブラジル人なんだ。お前こそ、どこから見ても日本人には見えねえぞ。」
「うーんと、3/4はフランス人なんだけど、親が死んじまって日本のジジイのとこに住んでるから日本人なんだ。」
聞かれる度に何回もする説明。
これを言うと、同級生のお母さん達なんかはすごくかわいそうなモノを見る目をするから、嫌なんだけどな。
そう思ってゾロをみると、フツーの顔をしていたので少しほっとした。
「助かったぜ。俺が話せるのは英語と日本語で、あ、あとスペイン語は少しな。ここら辺はフランス語じゃねえと通じねえんだが、
 頼んだ通訳と喧嘩しちまってさ。」
「おう、オレはフランス語も日本語もペラペラだぜ。なんか困ってんのか?。」
えらく得意げに胸を張る小柄な少年をゾロは面白そうに見つめた。
「飯を食いたいんだが、どうもここら辺の料理は油っぽくてな…。」
子供にどう説明したらいいのか、ゾロは少し言い淀んだようすで首筋をぽりと掻いた。
それを聞いたサンジは大きく頷いた。
「ふうん。そうか。ゾロは選手だからあすりーとってヤツだもんな。高タンパクで低脂肪のがいいんだな。今、何か食ったか?
 練習のあとはすぐになんか腹に入れろって俺もよく言われるんだ。 試合前は炭水化物を3時間くらい前に食べるといいんだぞ。」
ゾロはぽかんと俺を見た。
「お前、すげえな。」
「おう、オレじゃなくて、オレのジジイがすげえんだけどな。来いよ、明日までオレのジジイが手伝ってる店があるんだ。何か
 食わしてくれると思うぜ。」
先に立って歩き始めたサンジは、ゾロがすぐにはぐれようとするのに気づいた。
そっちじゃねえって。全く、ほら、ちゃんと歩けよ。

数分後、見慣れない男がサンジと手をつないで店に入って来たので、ゼフは目を丸くした。

「小難しいスポーツ栄養学より、本人の食べてえモンを食べた方がいい。って意見もあるが、そりゃ基本にバランスのとれた飯を
 食ってる人間の話だ。寝過ごして朝飯食わねえなんて、問題外だ。」
さっき出会ったばかりの大柄な強面の年寄りに、嚇し付けられているような説教をされてゾロは非常に居心地が悪い。
それでも黙って聞いているのは、もっともな内容でそれをゾロがきちんと理解できるからだ。
普段は何を食ってるんだと聞かれて、正直に答える度にじいさんの眉間の皺は深くなってゆき、口元は硬く弾き結ばれるせいか、
編んだひげがひくひくと揺れる。どう見てもフランス人にみえるじいさんは、ゾロのばあさんよりも流暢な日本語を使う。
「朝メシ抜いたら、体がちゃんと動かねえのは当たり前だろうが。」
じいさんより2オクターブ高い声がした。
サンジがトレーを運んできて、ゾロの前にスプーンと金色のスープを置いた。
いい匂いがして、腹の虫がグルルと鳴る。
ゼフが小さく頷いたので、いただきますと両手を合わせた。

旨い。
澄んだ液体のなかには複雑なエキスが溶け込んでいるらしく、塩味なのに鼻の奥で甘い。
あたたかな一口が食道を撫でるように通り過ぎ、胃でふわりと広がる。
サンジはその横でパンが盛られたバスケットをテーブルに置いて、プレートと横にバターとジャムを並べた。
「うめえだろ。」
「おう。」
サンジがスプーンを持ったままのゾロに声をかけると、動くのを思い出したようにスープの皿を両手で持ち上げ、ずずずと
一気に飲み干した。
ちびなす、スープのおかわりだ。水にはライムを絞ってやれ。
声をかけられるど同時にサンジがタタッと身を翻す。
「サラダも作ってやる。ゆっくり食え。」
二つ目のパンに手を伸ばすゾロに声をかけてゼフは奥へと消えていった。

「ごちそうさん。」
絞りたてだというオレンジジュースを飲み干してゾロは言った。
小麦の香りのするパンも、餅みたいなチーズの乗ったサラダも美味かったが、あの金色のスープがなんとも言えなかった。
あれで体中の細胞が活性化した気がする。
ゼフの説教より何より、あのスープに「ほら、メシは大事だろう。」と言われ、腹の底から納得させられてしまった。

「明日の朝も来いよ。一緒に朝飯食おーぜ。」
「おい、ちびなす。」ゼフが声をかけたが、サンジは聞いちゃいない。
「味噌汁と納豆があるぜ。パリで買ったやつだけど。米は日本から持って来たコシヒカリだから、旨いぞー。」
「米…!。」
ゾロの喉がごくりと鳴った。
「やっぱりなー。米好きだろー。そう思ったんだ、ぜってー来いよ。梅干し入れたおにぎり、弁当にしてやっからさー。」
なっ、と言ってにっかり笑うサンジに、ゾロは思わずこっくりと頷いてしまった。
迷わずにホテル帰れよー。
店の前まで出て大きく手を振りながらゾロを見送るサンジの頭がキラキラ揺れている。
ゼフはそれを横目で見ながら、「また、妙なモン餌付けしやがって。」とひとりごちた。


大会初日。天候は曇り。やっぱり風は強くて寒そうだ。競技は午後から開始だが、午前中は練習があるらしい。
その朝。
鍋で炊いたというツヤツヤのご飯をカフェオレボウルに大盛り二杯。お○め納豆と卵焼きと塩昆布。
じゃがいもと玉ねぎの味噌汁はひどく懐かしい味がした。
ネギはフリーズドライだけどな。そう言ってサンジがにっかり笑う。この顔もすっかり覚えてしまった。
「味噌も醤油も納豆もスーパーで売ってるんだぜ、フランスって便利だろ。まあ、粉末のだしの素とかフリーズドライのネギとか
 ワカメとかはなー、パリには売ってたけど、ここらはどうかな?米もさーほら、サ○ウのご飯とかならレンジでチンするだけだし、
 ゾロでも食えるんじゃねえ?」
「そうなのか。」
朝から、テンションを上げてサンジが言うけれど、ゾロが自分でやるのはプロテインを溶かしたミルクでビタミンのサプリメントを
飲むくらいだ。
「くっそー、せっかくいい身体してんだからさ、もっと気い使えよな。」
悔しそうに言うサンジに、ふっと浮かんだ疑問を口に出した。
「なんで、そんなに心配してくれるんだ。」
途端に、ほっぺたがぷっと膨らんで鼻といっしょに赤くなった。
「ったり前じゃねえか。オレはロロノア・ゾロのダイビングがすっげぇカッコいいと思ったから、オレも選手になって大会に出るんだ。
 んで、一緒に優勝を狙うんだ。その時まで、ゾロが元気で選手やってなきゃしょうがねえだろう。」
何、当然の事いってやがるんだ、全く。
ブツブツと言いながら、本気でむくれているらしい。

おいおい、初耳だぞ。お前、いつそんな事言った?
だいたい、俺の名前を知ってただけだろうが。それに…俺はそんなに長く選手やる気なんて無いんだが。

確かに、ゾロはダイビングの世界大会の最初から出場しているが、半分は流されてここにいるのに近い。
無茶はできるうちにやっておけと言う親の言葉と、生来の負けず嫌いの性格も貢献している。
昔ヨーロッパで細々とやっていた大会が世界大会になる頃は、主催者も出場者も、随分危ない事をやる物好きがいる、ってくらいの
認識だったのだ。今だって、死人が出なけりゃいいくらいの危機管理だ。あの高さから落ちる衝撃は半端ではない。
ゾロも気を失った事があるし、衝撃での打撲は当たり前。
骨折や捻挫も良くある事だし、首や肋骨など打ち所が悪ければ簡単に死ねる。
ところが、世界大会が始まって数年で競技レベルがあっという間に上がった。
飛び込み競技の元オリンピック選手とか体操選手とかトランポリンの経験者とかが参加するとあっという間に技の難易度が上がる。
飛び込み台の高ささえ平気で上げて来る。1メートル違うだけというが、その衝撃が海面でどれだけ違うと思ってるんだろうか。
技が難しければ、怪我の危険もぐんと上がる。だから、ゾロはそろそろ潮時だと思っていたのだ。
確かに、あの飛ぶ前の緊張感は誘惑的だし、塩素臭いプールではなく、海に飛び込むのは随分と気持ちいいのだが。

「お前、俺のファンだったのか。」
言われてサンジはへっとゾロを見た。
「おう。」
顔全体がぽっと赤くなった。耳まで真っ赤だ。
「すっげーカッコいいと思ったんだ。オレも、あんな風に空と海とを抱えてダイブするんだ。」
キラキラした青い目でうっとりと言うと、何とも言えない幸せそうな顔で笑った。
「そっ…そうか。」
「だから、約束な。ぜってえ俺と一緒に大会に出てくれよな。明日も朝飯用意するからさ。なっ。」
ぐっと言葉に詰まったゾロに、あ、これ弁当。と小さな紙袋を取り出した。
「試合中は食えねえだろうから、3個だけな。梅干し入れといたから。」
おう、と受け取りながら、ゾロの頭の中はフル回転していた。

このガキが確か10歳くらいだったか。
俺が今24でコレを始めたのが21、ってことは後少なくとも10年か15年は現役でいろって事だよな。
39までやれってか?無理だろう?いや、でも去年の大会準優勝は34歳のベテランのおっさんだ。
それで俺より一段レベルが高いし、安定してる。怪我がなきゃ、あと5年くらいは現役を張りそうだ…。
てことは、俺もイケる可能性はある、か。

そこまで考えて、はあ、とため息をついた。
トレーニングと飯の管理は努力できそうだが、酒量を減らす事が必要だと思い当たったからだ。
「よし、行ってこいゾロ。オレとの約束を果たすまで、怪我したり、死んだりするんじゃねえぞ。」
おい、誰が約束したんだ。そうつっこみを入れたいが、ひどく上機嫌なサンジの顔を見ると何も言えなくなってしまった。
と、港へ歩きかけたゾロが、思い出したように早足で引き返して来た。
「ダイビングが好きなら先に言え。」そう言って紙ナプキンにミミズのような字を書き付けた。
「 塔に近い所で首から黄色いカードをぶら下げてるスタッフに見せろ、家族やコーチと同じ関係者エリアに入れるようにしとく。
 よく見えるぞ、近すぎて首が痛いかもしれねえけどな。」
そうして、にやりと笑うと今度こそ片手を上げて歩き始めた。

貰った紙ナプキンを両手で持って、遠ざけて見たり、近づけて見たりしていたサンジは、いきなりうけえっと奇声を上げ、
続けてへへへへ…と笑った。くるくるくるくるとナプキンを両手に持って回りながら店の中に入ったら、頭がぐらぐらしてぶっ倒れた。
床と天井がぐるんぐるん回っていて笑わずにはいられない。
ズダダッと椅子が倒れた音でゼフが顔を出した。
「何やってるんだ。チビなす。」
呆れた声。見上げたゼフの顔もまだ揺れている。
「んー、ジジィ。ありがとな。」
床に転がったままでサンジが言う。
けっ、と言いながらゼフが消えた。天井から声がする。
「そこ、ちゃんと片付けとけ。…あと、礼は立ってから言うもんだ。」





今年サンジは中学生になった。
半年くらい前から10メートルの飛び込みも練習させてもらってるから、もう少し上手になれば、大会にエントリーできるかもしれない。
自分で通うからと頼み込んで週に一回、体操教室でトランポリンも始めた。
ゾロからは時々絵はがきが来る。
サンジは直接ゾロを応援に行く機会はないから、TVの感想を手紙に書いて送る。
ゾロは去年のオフシーズンに日本に来ると言っていたけれど、飛行機にちゃんと乗れなくて、何故かフィンランドから電話があった。
凄く時間の無駄だし、トレーニングが台無しになってしまうから、俺が一人で飛行機に乗れるようになったら会いに行く約束をしている。

あの大会でゾロは3位に入賞した。
すぐ近くで見たダイビングは飛ぶというより落ちるに近かったけれど、青空を背に翻ったゾロの褐色の身体は眩しくて、海に
吸い込まれる瞬間を息を止めて見つめていた。浮かび上がったゾロが大きくガッツポーズをする。
あの瞬間は一生忘れないと思う。
そうして表彰台に乗る前、「お前が朝飯食わせてくれたおかげだな」と言って笑った。
何故だろう、あの顔はいつも夢に出て来る。


春の日差しの中、袖の長いブレザーを揺らして校門からバス停に向かう。
リュックの中の教科書が重たいけれど、学校から直接プールに行く方が近い。去年、ゾロは新しいジャンプを二つも成功させてレベルを上げていたから、今年は優勝だってできるかもしれない。
走りながら、ゾロのダイブを思い出す。
きれいなパイク型から腕を開くときのしなやかさと肩甲骨の躍動感。
それだけで、アスファルトを蹴るサンジの足は軽く感じる。
行き交う車と歩道を歩く人たち。見慣れた街の風景。
ふと見上げた空が青い。
この空はきっとゾロのところまで続いている。




END

*このお話はフィクションです。良く似た大会、競技とは全く関係ありません。…という事にしてください。m(_ _)m


   *  *  *


ふわ〜〜〜すっごい躍動感です!
太陽の日差しを受けて水飛沫がキラキラ輝いて、それを見て目を丸くするサンジの髪も瞳も、もっともっと眩しく
きらめいてんだろうなと、光景が目に浮かびました。
飛び込むゾロの身体の、なんと美しいことよ。
近い将来、サンジはゾロとはまた違ったしなやかな美しさで、するりと海中に溶け込むように飛び込むんでしょうね。
二人で競い合うその日が、すぐそこまで来ている気がします。
新しい扉を開いてしまいました(開眼)
美しくも力溢れるゾロなすをありがとうございます!



back