海色の仔猫 <キリナガサヤ様>



海を臨む小高い丘の上に、その建物はあった。
その外観は西のそれではなく、北の意匠を基調としたものだ。
東の海で生まれ育ち、多くの土地を流れてきた男の目にも珍しく映る白の建物は、空と海と大地の間で見事な調和を見せ、西の海の一海域に位置するこの小さな島に、鮮やかな彩りを添えている。
その白く清潔感のある店内の一角で、留守番を兼ね、男は余暇を過ごしていた。
カウンターの片隅に置かれた卓上カレンダーを手に、髭の店主が何かを思案していたのは今日の明け方のことだったか。
一仕事を終え、朝の糧を求めて店にやって来た漁師たちに、店主は今日の営業は休みだと、そう宣言した。
突発的な臨時休業はこの店では日常茶飯事なのか。
店内の一角で夜明けの酒を楽しんでいた男が見守る中、常連客たちは大人しく帰路へと着いていった。
そして、今。
本来なら昼の書き入れ時であるはずのこの時間、店内に客の姿はない。現在、この建物の中にいるのは、男とオーナーシェフの養い子の二人だけだ。
窓から海を一望出来る気に入りの場所に陣取り、男は読み掛けの古書を開いた。
普段、男は殆ど本を読まない。気が向いた時に新聞を一読するくらいのものだ。
市から店主が戻るまでの暇潰しにでもなればいい。
と、そう思い立ち、知人が旅の供にと押し付けてきた古書を読み始めたのだが、これが意外にも面白い。
文章との相性が良かったのか。または、男自身が思っていたよりも読書に向いていたのか。
知人のおせっかいのお陰で、しばらくの間、有意義な時間を過ごすことが出来そうだ。
開放した窓から吹き込む秋の風が肌に心地よい。
馴染みの元海賊が経営するこの店で寝泊まりするようになって、早数日。
男がこの地に辿り着いたのは、海と大陸の境界近くの海域で、旧友の噂を聞きつけてから数ヶ月が経ったある秋の日のことだ。
東の海同様、明確な四季が存在する西の海でも、秋は豊穣の季節と呼ばれ、多くの農作物が収穫の時を迎える。
旬の食材のことなど、一介の剣士である男には皆目見当もつかないが、この店には男の好みを良く知る元海賊の料理人がいる。
この地での食の一切を旧友に預けるつもりでここまできた。
また、食を提供する店には各地の情報が集中しやすい。飲食店は娼婦宿同様、旅人たちが多く行き来する場所の一つだからだ。
海を行く旅には、まず食の確保と情報の収集を行うことが鉄則とされている。生死に直結するばかりではなく、情報そのものがその土地特有の力関係に関連することが多いためだ。
そういった意味では、店を構え、豊富な知識を持つ元海賊の存在は、男にとって掛け替えの無い財産だといえる。勿論、それだけではない。年上の友人として、またかつての好敵手として。元海賊の料理人――ゼフは男が尊敬する人物の一人でもあった。
そして。その元海賊が男手一つで育てている子供がここにいる。
今晩の夕飯の仕込みをするよう言いつけられたのか。
厨房に程近い席に腰を落ち着け、金の髪の子供が子供用のナイフを操り、一心にジャガイモの皮を剥いている。
養父であるゼフから料理の基礎を一から叩き込まれているのだろう。
十歳にも満たない子供とは思えない手際の良さだ。
楽しそうに、そして真摯に作業する様子が実に微笑ましい。
料理への想いを全身で表現するようなそのひたむきさに、男は微かな笑みを浮かべ、再度書物へと視線を落とした。



どれくらいそうしていたのか。
「なぁ」
細く幼い声が耳に届く。
いつもは利かん気なその響きが、何処か頼りない。
「……?」
目を通していた古書から面を上げ、男は視界の利く右の眼で幼子の姿を捉えた。
作業を終えてから少し時間が経っているのか。テーブルの上に拡げられていた野菜やら何やらが、綺麗に片付けられている。
(……こいつ)
男の邪魔にならないよう、今までその気配を消していたのか。
読書に集中していたとはいえ、現役の剣士である男に、その動きを感じとらせないとは。
(見聞色の覇気か……?)
この店を切り盛りする元海賊は、抜群の料理の腕を持つ海の料理人としての評価と共に、一海賊としてかつて二つ名を轟かせた男だ。
料理の腕だけではなく、その武をも継がせるつもりなのか。
少し離れたところに立つ子供へ、男は視線を向けた。
金の髪に陽の光が反射し、その色合いを僅かに濃くしている。
西の海には珍しいその色彩は、北――それも極北に近い土地に住まう者特有のものだ。確か、ゼフも北の出身だったはずだと、男はそう記憶している。
ある海難事故に遭遇した際、その時の事故が元でゼフが隻足となったことは噂には聞いていた。海を離れ、陸に居を構えると人づてに聞いたのは、今から一年前のことだったか。
現体制となって数百年。
北の動乱は収まる気配を見せず、東の海も最弱と呼ばれるが故に、徐々に治安の悪さが目立ち始めている。
南の海の動向は不明だが、西の海は比較的安定し、ここ数年の間に他の海から移住する者も増えて来ているという。幼子を連れた元海賊が故郷ではなく、この海を終の住処に選んだのもその辺りに起因しているのだろう。
この地で再会したゼフは、海賊時代の名残を残しつつも、職人気質を絵に描いたような立派な頑固ジジィに変貌していた。
年齢を感じさせない体躯と、その男振りは以前と変わりなく。
ピンと張った髭に小さなリボン、というトレードマークも健在で、誕生日には近所の主婦とその子供達からリボンセットを贈られたのだと、常連客からそう教えられたのはつい先日のことだ。
大海原に名を馳せた元海賊が何故。この子供と生活を共にするようになったのか。その経緯までは、男には解らない。
男は元々、他人への関心が薄く、そのためか人間関係も希薄になりがちだ。ゼフとは長い付き合いが続いているものの、独りでいることが気楽なこともあり、一部の者を除いて、他者との係わりを極力断つような人生を歩んできた。
だが、この金髪の子供に関してはその限りではない。その行動の一つ一つが気にかかり、時には慈しみの念すら感じることもある程だ。
口が堅く、自身の過去についてあまり語りたがらないゼフのことだ。この子供に関して何をどう訊ねたところで、男が求める応えが返るはずもない。精々飄々と煙に巻かれ、誤魔化されるのが関の山だろう。
「なぁ。おっさん」
焦れたような声音に、拡散していた意識が一つに集約していく。
「どうした?」
この子供は粘膜が弱い。掃除の度に軽く咳き込んでは養父に別の用事を言いつけられているのを、ここ数日の滞在の間にも何度か目にしたことがある。
男は目を通していた書物を閉じ、テーブルの端へと退けた。この位置ならば、古書から多少埃が舞ったとしても、子供の元までは届かないはずだ。
その白い顔を覗き込み、視線を合わせる。
右の目尻側でくるりと巻いた眉が、何とも情けない角度を形成していく。一般的ではないその眉を露にすることに抵抗を感じているのか。もう片方の瞳は長い前髪に覆われ、その蒼は見て取れない。
「それ」
見上げる先にあるのは、男の左瞳を塞いでいる一つの刀傷だろうか。
「痛くねぇの……?」
刀傷を見たことが無いのか。その細い声音には、何処か恐れが滲んでいる。
「古い傷だからな。もう痛くねぇよ」
そう。この傷は、十代から二十代へと移行するその日に負ったものだ。傷を負い、隻眼となってから丁度十年になる。
過去の名残に怯える子供を安心させるため、男はその白い頬へと手を伸ばした。
触れる体温が心地よいのか。仔猫のように喉を震わせ、男の掌にその頬を摺り寄せてくる。
柔らかな曲線を描く頬の線を辿り、金の髪へ指を差し込む。僅かな軋みも無い絹のようなその滑らかさは、栄養状態がいい証拠だ。この子供に対するゼフの愛情の深さを感じ、男は僅かに口角を上げた。
「なら、いいけど」
感受性の豊かな子だ。他人の痛みを我が事のように感じ取る心根の優しさをもっている。
「……ジジィ、遅いな」
頭部を男の掌に預けたまま、窓の外を見やり、その子供がぽつりと呟く。
養父の指示とはいえ、出逢って間もない男と二人きりで留守番をさせられているのだ。そのことに不安を感じていても、何ら不思議ではない。
元海賊は食材の買い出しのため、朝から市場へと向かっている。
今日が一体、何の日なのか。ゼフがそれに気付いたとすれば、買い出しが終わるまで、もう少し時間が掛かるだろう。
「おいで」
傷だらけの白く小さな手を取り、男はその細い身体を自身の元へとそっと引き寄せた。コックコートに包まれた細っこい腰に腕を回し、華奢な身体を組んだ膝に乗せ、肩を抱き込みその体勢を安定させる。
もうすぐ十歳を迎えようかという年頃にしては、随分と線が細い。
「何、すんだよっ」
「ん? だっこ」
頼りなげな外見にも関わらず、物怖じすることなく丸く蒼い瞳で真っ直ぐに男の琥珀の眼を見据えてくる。その辺りは、流石はゼフの養い子といったところか。
男は今日、三十を迎える。
剣士ではなく、普通の男としての生活を選んでいれば、これくらいの子供がいてもおかしくはない。
「ちびなす」
元海賊なりの親愛の証なのか。確か、ゼフはこの子そう呼んでいた。
「ちびなす、いうな。おっさん」
「サンジ」
これまでに養父以外の大人の男と接する機会があまりなかったのか。躊躇うような仕草を見せた後、その華奢な指先が短く整えた碧髪にそっと触れた。
まるっとした後頭部に手をやり、そのさらりとした感触を楽しむ。
「だから。おっさんじゃねぇよ」
薄桃色に染まるその耳朶に声を落とし、男はある言葉を告げた。
「え……?」
この子供は頭の回転が速い。聡明なこの子ならば、ゼフが何故、朝早くから店を開け買い出しに出たのか。男の言葉から、養父が店を離れているその訳を推察できるはずだ。
「……ゾロ」
「ん?」
「来年は、おれがケーキ作るからな」
冬の海を閉じ込めたような蒼灰の瞳が凛然と瞬く。
当代の大剣豪である男――ロロノア・ゾロは、柔らかく響く祝いの言葉に、ゆっくりとその片瞳を細めた。




end



  *  *  *



ゆったりと流れる時間。
今までさほど交流のなかった二人がふとした折に言葉を交わす、まさにファーストコンタクトの瞬間が優しく切り取られていて癒されました。
ゾロがゼフと旧知の仲で、年の離れた友人同士と言うのもものすごく好き。
この、静かで穏やかな時の中にいつまでも浸っていたくなる。
素敵なゾロなすをありがとうございますv




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