Cut!Cut!Cut! <みあ様>


 土曜日の昼下がり、駅前のプロムナードを歩いていたゾロは、聞き知った声に立ち止まった。

 振り向くと、金髪頭の若い男が、息を切らして追いすがって来るところだった。体にぴったりと合った黒い細身のスーツが、長い手足を際立たせている。特徴的なのは、前髪で顔の左側を隠した髪型と、端がくるくると巻いた眉毛だ。

「あ~。やっと気がついた。センセーって呼んでんのに、無視して行っちまうんだもんなぁ」
 一瞬、呆けたような顔をしたゾロに、ムッと、薄い唇が尖り返った。
「分からねえとか?サンジだよ。まさか卒業した生徒を、たったの二年で薄情にも忘れたわけ?お客サマのお見送りに外へ出たら、遠くにセンセイのマリモ頭が見えたから、急いで追いかけてきたのに」
 恨めしげな青い目が、上目使いにゾロを睨む。
 通行の邪魔になっていることに気づき、サンジの腕を掴んでショーウィンドーの脇の小さな道へと避けた。
 改めて目の前の元生徒を見る。

 覚えている。
 彼は、ゾロが今年の春まで勤めていた前任校の生徒だった。いわゆる問題児。とは言っても、悪気がなくて愛嬌がある性格だったから、教員達も多少のことは大目に見ていた感じもする。
 さすがに他校の生徒と何度かケンカ沙汰になった時などには、目を三角にした生徒指導、学年主任、担任にぐるりと囲まれて相当に絞られていたのだが。
 それでも彼は元気に通学し、やがて美容専門学校へと進学していった。
『世の中のレディがさらに素敵になるお手伝いをしたい』と大まじめに模擬面接で自己PRしたことは、当時の職員室の語り草だった。
 それだけではない。彼はゾロに懐いていた。
 わざと目につくように問題を起こしては、かまってもらいたがった。
 ゾロが小中学生だった頃に、ご近所さんだったことも関係しているのかもしれない。
 だから忘れられるはずなどないのだ。

「覚えている。マユゲだ」
「マユゲ言うな。サンジだっての」
「ところで、お前はどこかに就職できたのか?美容師志望だったな?」
「そりゃもちろん。そうだ。早く店に戻んなきゃ。今日は人が少ないんだ」
 ゾロが何となく詰問口調になったせいか、サンジがいきなり慌てた顔になった。ゾロの姿を見て、後先考えずに追いかけて来てしまったらしい。ついゾロの頬が弛んだ。
「センセイ、今、暇?」
 唐突にサンジが訊ねた。
「いや、今日は……」
「それじゃ、今度で良いから店に来いよ。シャンプーしてやる。俺のおごりで」
 ほらあそこ、と指さした先がどこなのかが、よく分からない。
「ああ。もうしょうがねえなあ。この方向音痴。店の前までだけ一緒に来てくれよ」
 断ろうとしたが、背中を押されて歩きだした。サンジの腕が、ゾロの腕に絡みつくようにして引っ張ってくる。チビナスと呼ばれては怒っていた幼い頃も、彼はよくこうして年上のゾロの腕に絡みついていた。
 ――子どもでもあるまいし。
 言いかけて、少し前を歩くサンジの耳が、赤く染まっているのに気がつく。
 ギクリ、とする。絡んだ腕がいきなり熱く感じられた。
 ――こいつ、まさかまだ……。 

 サンジの勤める美容院の店舗は、プロムナードから僅かに下がった造りになっており、空いたスペースに観葉植物や洒落たウェルカムボードが置かれていた。ガラス張りの店内には、忙しなく立ち働くスタッフ達の姿が見える。
「ここだから。絶対来いよ」
「ああ。頑張ってしっかり働け」
 声をかけると、ふっと目元にあどけなさが浮かんだ。
「分かってるっつーの」
 アカンベをして店内に駆け込む姿は、学校にいた当時と変わらない。
 だが、店内で先輩らしき女性に頭を下げて、すぐに箒を手にした横顔は、きっちりと働く男のものだった。


 ――マユゲって何だよ。
 口を尖らしながら、サンジはバックヤードで、洗濯の上がったタオルを急いでピンチに吊していった。店の裏には干し場があり、すでに沢山の店の洗濯物がはためいている。こんな雑用も、下っ端の重要な仕事だ。
 ゾロの顔を見るのは久しぶりだった。
 「久しぶり」にゾロの顔を見るのは、二回目だった。

 サンジの家が引っ越しをした時には、何がなんだかよく分からないうちに、いつもくっついて回っていた近所の兄ちゃんと会えなくなった。
 そんなことは聞いていなかった。ひっくり返って泣いて暴れたが、後の祭りだった。
 子どもの世界は狭い。大人と違って好きなところに好きなように行くことはできないのだ。
 何をそんなにサンジが悲しんでいるのか、誰も分かってはくれなかったし、幼すぎて上手く説明することもできなかった。そんな風にして、ゾロはサンジの世界から消えた。
 だから高校の入学式の時、心底驚いたのだ。
 一目でそれと分かった。ぜんぜん変わっていない気がした。向こうがすぐに気づいたことは不思議だったが、覚えてくれていたことが、ただひたすらに嬉しかった。

 嬉しくて。嬉しくて。
 また昔のように、二人だけの秘密を共有したり、淋しい時に黙ってそばにいてもらえるような気がして、舞い上がっていた。

 それなのに、ゾロは顔見知りのガキが大きくなって偶然自分の生徒になった、くらいの顔を崩さなかった。ゾロの変化を信じたくなくて、心の中では親しい気持ちでいてくれていると思いたくて、ちょっかいをかけ続けた。
 ――だけど無駄だったんだよな。
 希望していたグループ会社の、狙っていた店に配属されることが決まり、専門学校を卒業して勢い込んで高校に出かけた時にやっと思い知った。サンジはゾロにとって、単なる生徒の一人に過ぎなかった。
 ゾロは勤務先を異動していた。サンジに一言も知らせずに。
 職員室の机も教科準備室の机も、新しく来た教員の持ち物が置いてあった。ゾロの痕跡なんか、丸っきり残っちゃいなかった。他校の卒業生が、異動先の職員室に行くことなんかできない。ゾロはサンジに会いたいとは思っていなかった。
 良かったな、と喜んでくれる先生達に笑って返しながら、サンジは涙を堪えていた。怒りよりも落胆が大きかった。それから後悔。
 ――好きだった。
 大好きだった。生徒と教師としてなんかじゃなくて。昔なじみとしてでもなくて。自分が男でゾロが男だなんていうことも関係なくて。
 卒業式でそれを言ってやっていたら、ゾロはどんな顔をしていただろうか。
 ちゃんと社会人になってからと思って、二年間、我慢していた。そうすれば対等の立場で話ができると思った。ぶつかって振られても、あきらめがつくと思っていた。
 ――せめて言ってしまえば良かった。
 今さらだった。
臍を噛んでももう遅い。昔と同じ失敗を、自分はしてしまったのだ。
いつでも会えると勘違いしていたのは、昔も今もサンジの方だけだった。

 ――来ないよな。
 シャンプーしてやるから来いよ、と言ったのは、サンジの精一杯だったのだ。だけどきっと社交辞令としか思われていない。ピシッとスーツを着た姿は、高校の教室でいつも見ていたジャージ姿より男ぶりは良かったが、見知らぬ人のようにも感じさせられた。
 幼い頃に触れた、見かけに反して柔らかい緑の髪の感触を思い出す。
 ――あれに触りたかったな。
 切ない気持ちで、サンジは唇を噛んだ。

「サンジくん」
 はっとして、振り返った。オーナーからチーフとして、実質、この店を任されているシャッキーが、裏口からサンジを呼んでいた。
「お客様。ご指名よ」
「え?俺ですか?」
「シャンプーとカット。大丈夫ね?」
 ごくん、とツバを飲む。まだサンジは、店の規定で客の髪は切ることができないはずだった。どういうことなのか分からない。
 店のトップスタイリストは、腕を組んだまま、ニコッと貫禄のある笑みを見せた。
「特別よ。高校の時の先生ですって。『できの悪い生徒ですがよろしくお願いします』って挨拶されちゃったわ。サンジくんは、可愛がられていたのね」

「ゾロ」
 つい名前で呼んでしまった。
 鏡の前には、先ほど、用事があると言っていたはずの男が、ヘアカタログの雑誌を手持ち無沙汰に持って座っていた。
「テメエ、客を呼び捨てとは良い度胸だな」
 呆れ顔で、ゾロが言った。
「や。……ホントに来てくれるとは思わなかったから」
 しかもさっき会ったばかりなのに。
 用事はどうなったのだろう。まさかサンジのために、都合をつけてくれたのだろうか?
 心臓が苦しいほどに激しく打っている。
「あんだ。社交辞令だったのかよ」
「違う。違……」
 ボロボロっと目から何かがこぼれ落ちた。
 手をやると濡れている。
「あ……あれ?」
 止まらない。
 仕事中なのに。
 こんなところを見せたら呆れられる。
「バカ。泣くな。んなこと本気に取ってんじゃねえ」
 至近距離に焦ったゾロの顔が近づいて来た。
「ごめん……なんか、と…とまらねえ。何でだろ」
 慌てて涙を拭った。
「嬉しくて」
「嬉しすぎて……なんか泣けて来ちまった」
 へへっと笑って言うと、ゾロは何ともいいようのない顔で、椅子に座ったまま頭を抱え込んだ。

「サンジくん。ご案内して」
「あの。シャンプー台にご案内させていただきます」
 赤くなった鼻先を少し気にしながら、どさくさ紛れにゾロの腕に軽く触れた。
「お前なあ……」
 ハーっと大きなため息を吐かれる。

「何でため息だよ?」
「いや、何でもねえ」
 ――どうしようもねえヤツとか思われてるんだろうな。
 でもそのことは、もうどうでも良かった。
 教師としての愛情ってやつでも良い。来てくれた。サンジに髪を切らせてくれようとしている。
 それだけで良い。
 これで忘れられる。
 サンジは、精一杯の笑顔をゾロに向けた。
「すっげえ男前にしてやるから。覚悟してろよ」
「何が覚悟してろだ。しょうもねえガキだな。学校で何を教えてもらってきたんだよ。お前を指導した教師の面を見てやりてえな」
「そこにいるじゃん」
 鏡を指さす。
 鏡越しに、二人の目が合った。
 サンジは、息を飲んだ。
 そこに映るゾロは、びっくりするほどに優しい目でサンジを見ていた。


 ゾロは、駅のホームで足を止めた。
 マナーモードに設定していた携帯電話が、ポケットの中でしつこく着信を知らせている。表示を見ると、案の定、伯母からだった。出るのも面倒だったが、出ないと後がさらに面倒なことに出るのが分かっていたので、しぶしぶ通話に切り替える。
「ちょっと。ゾロ。お見合いをすっぽかすなんて、どういうつもり?」
「だからメールした通り、腹巻きをしていないせいで腹具合が悪くなったんです。アル中のオヤジ腹巻きの朴念仁だから、お嬢さんにはとても釣り合いません、とでも言っておいてください」
 一息に言って、さっさと電源を落とす。いつも伯母がゾロに言っている言葉を、そのまま使っただけだ。もっとも「だから早くお見合いで相手を捉まえないと」とその話は続くことに決まっていた。

 今時、でき婚でもなければ、二十代で結婚している奴なんていねえよ、とは思いつつも、あまりにしつこいお見合い攻勢に白旗を揚げそうになっていたところだった。
 ぶっちゃけて言えば、特に嫌悪を感じる相手でなければ、誰でも良いから結婚しちまうか、と思ったところだったのだ。

 ――まさか今日の今日、あいつに会うとは思わなかった。
 ゾロは、短くなった自分の髪に触れてみた。切ったばかりの髪は、チクチクと手にあたる。

 あんな風に泣かれるとは思いもしなかった。
 白い手が、慎重に髪を摘み上げた時、微かに指先が震えていた。
 その震えを感じて……勃った。
 腕を掴んで引き寄せて、抱きしめたい衝動に駆られた。
 真剣に手先を見つめる目を鏡の中に見ながら、ゾロは腹を括った。
 ――こいつが好きだ。
 どうしようもなく欲しいと思っていることを、認めるしかない。

 生徒として、だぼついた制服を着たサンジがゾロの勤める高校に入ってきた時、ヤバイと思った。
 見覚えのあるハニーブロンド。ニッカリと笑う白い顔。
 昔、知っていたガキだということは、すぐに分かった。
 別にそれだけなら良い。ヤバイと思ったのは、サンジの顔を見てゾロの中に湧き起こった感情だ。そしてゾロが『懐いている』という言葉でごまかそうとしてきた、サンジが向けてくる表情だった。
 勘違いや自惚れだとは思わない。本人に自覚があったかどうかは知らないが、あれは気に入った『センセイ』を見る目でもなければ、ただの昔なじみのお兄ちゃんを見る目でもなかった。
 そしてゾロは、それが本当は嬉しかったのだ。
 入学式当日、サンジはゾロを見て目を丸くして、心の底から嬉しそうに笑った。
 あの時から、ずっとゾロはサンジが欲しかった。

 ――自覚がないなら、自覚させてやるまでだ。
 そっけない短髪のマリモ頭には不似合いな、小洒落た美容院のスタンプカードを取り出す。
 『このスタンプがいっぱいになりましたら……』
 印刷されている決まり文句を心の中で読み上げる。毎月、通い続けてスタンプがすべて埋まる頃には……。
「お前こそ覚悟してろよ」
 彼が呟いて浮かべた凶悪な笑みに、ホームに並んでいた周囲の人間達がドン引いた。

 卵のカラがまだ半分お尻についているヒヨコ美容師は、ゾロが一年先までの予約を入れていることを、まだ知らない。 



   おしまい。



  *  *  *


ヒヨコ美容師にやられましたー!!
ああ、これはもういかんわ。
ゾロだって堕ちるわ。
なんって可愛いんだ、一途なんだ、一所懸命なんだーーっ!
途中、切なさでもらい泣きそうになりましたがよかった。
タイミングよかったよ、そしてよく思い切ってくれたよゾロ!
もう、相手はヒヨッコとは言え社会人なんだから、助さん角さんもういいでしょう(誰)
新年から幸せなゾロなすを、ありがとうございますv



back