前夜


魚の形をした奇妙な船が、レストランだとは思わなかった。
入ってみれば、テーブルがあり椅子がある。
客の姿はないが、コックコートを着たごろつきみたいな大男達が奥の方で手持ち無沙汰に髭を引っ張り、じろりとこちらをねめつけた。
その手前、テーブルクロスの上に腰を下ろし、黒のスーツに身を固め煙草を吹かす金髪が一人。

「いらっしゃいませ、イカ野郎」
こちらを向いてニカリと笑った顔付きは、不敵だった。



「おお海よ、今日という日の出逢いをありがとう!」
ナミを一目見た途端、あり得ないほど表情を崩し身をくねらせる件の男は、慣れた手付きで注文を取り、そのまま奥に引っ込んだ。
他のコック達はしらっとした目でそれを眺めているがまったく動こうとしない。
あれはやはりコックではなくてちょっと仮装してみただけの海賊なんだろうか。

「なんか、雰囲気のおかしな店だよな」
「おかしいのは外見からしてだろう。ふざけた魚だ」
「えー、俺この店好きだぞ」
相変わらずの能天気さで、ルフィは嬉しそうに料理が出てくるのを待っている。
ナミは心ここに在らずといった感じか、この間から様子がおかしい。

「お待たせいたしました」
先程の男が料理を運んできた。
ついでに水とワインも注ぐ。
頭の上にまで皿を載せて運ぶ姿は一種の曲芸のようだ。
流れるような一連の動作は淀みがなくてプロを感じさせるが、不自然な印象は拭えない。
なぜこいつが何もかも一人でするのか。
あの、奥に立って腕を組んだまま冷たい視線で睨み付けている男達は、この店のコックじゃないのか?

「うんめえ!」
大袈裟すぎるほどのルフィの歓声が響いた。
「ほんと、美味しいわ」
「あんたが作ったのか?」
滅多に美味いものなど口にしないからか、皆の目が輝いている。
「そうです!俺が貴女のために愛を込めて作りましたああっ」
素っ頓狂な声を上げながら、スーツの男はまた頭の上に皿を載せて、くるくる回りながら次の料理を運んで来た。
うっかりそれに見入って食べるのを忘れていたらしい。

先ずはワインを呷り、葉っぱがあれこれ寄せられて色の付いた和え物になってるものを口にした。
ふむ、美味い。
味の良し悪しなんてさっぱりわからない俺でも、口に含んだときの風味や舌に広がる味わいが心地いいかどうかくらいはわかる。
「美味え・・・」
思わず呟いた俺の言葉を聞き逃さず、そいつはまたにかりと笑った。





「誰が客を入れろと言った?」
突然のダミ声に、和やかな雰囲気が破られる。
戸口に、大げさな鎧を身に付けゴリラみたいないかつい顔をした大男が立っている。

「ここはレストランだ。営業中だぜ」
金髪は面倒臭そうにそう答え、男の方を見ないで皿を配る。
「ふん、まあいい」
男は鼻で笑い、大股で近づいて来た。
「見たところ無害なガキ共ばかりのようだし、腹を空かせて迷い込んで来たってとこだろ。食いたい奴には食わせてやるのがお前の流儀だからなあ」
まるで値踏みするように俺達の顔を見る男から、俺は無意識に視線を逸らした。
ここで敵意を見せるのは得策でないと感じたからだ。

「その後てめえを食わせるって商売も成り立つだろうよ。世の中物好きは案外多いもんだ。俺も含めて、な」
下卑た視線を投げ掛ける男を徹底的に無視するかのように、金髪はふいと踵を返して奥に引っ込んだ。
「せいぜいごゆっくり」
その後ろ姿を面白そうに見送って、大男はにやにや笑いを顔に張り付かせたまま、店を突っ切って甲板に出て行く。

「なんだありゃ」
ウソップが聞こえない程度の声で呟いた。
「感じ悪いなー、あいつ」
「いやもう、そんな程度じゃない気色悪さね」
呆れつつ、食事を再開する。
金髪はその後一度料理を持ってきたっきり、奥に引っ込んで出てこなかった。






「なあ、あの金髪、コックなのか?」
ルフィの問いに、代わりに代金を受け取ったコックは、苦虫でも噛み潰したような顔でむっつりと答える。
「確かにありゃあうちのコックだったが、今じゃ裏切り者だ。この店のモンと認めねえ」
「どういうことだ。俺らが見てるかぎり、ここで働いてんのはあいつ一人じゃねえのか」
男はますます仏頂面になった。

「もうこの店も、俺らの店じゃねえ。あいつは―――」
そう言って誰の姿もない厨房を睨み付ける。
「あいつはクリークって海賊を手引きして、この船を、店を乗っ取りやがった。オーナーは部屋に軟禁状態。今じゃ、実質の
 オーナーがさっきの男、ドン・クリークだ。だが俺は認めねえ」
「穏やかな話じゃねえなあ」
ウソップが蒼褪めて首を竦める。
「あいつは、あのクソガキは食いたい奴には食わせてやるって、金も持たねえ海賊一匹に飯を食わせて、そいつに手引き
 させやがった。クリークはオーナーの航海日誌を目当てにここに来たくせに気に入ったとか抜かしやがってすっかり
 ここまで占拠しちまいやがった。とんだ疫病神を連れ込んで、恩を仇で返した裏切り者だ」
はいまいどあり、と打ち切るみたいに声を張り上げ、コックはレジをぴしゃんと閉めた。

なるほど、俺らとは係わり合いのない話だ。
だがルフィは、意味ありげに一度振り向いて、にやりと口元に笑いを浮べた。






「ん〜〜〜」
船に戻ってから、船首の上で珍しくルフィが物を考えている。
悩むこと自体無縁の男が、考えことをするのも珍しい。
恐らく何か言い出すだろうと踏んで、俺はその側でずっと素振りを続けていた。

「ゾロ」
そら来た。
「俺、あのコックが欲しい」
なんだ、そういうことか。
俺は刀を置いて汗を拭った。

「なら連れて来りゃいいじゃないか」
「俺だけで決めらんねー。相手のあることだ」
珍しい、遠慮してんのか。
「けど俺はあいつが欲しい」
ああ、はいはい。
言い出したら聞かないからな。
「ちょっと様子見てこようか。だが、最後の説得はてめえでしろよ」
「おう、頼む!」
船長命令に逆らう気もせず、俺は単身魚の船に向かった。





ボートを船体の真横に着け、夜の闇に乗じて乗り移る。
見咎められたら忘れ物をしたとでも言おうと思っていたが、甲板には誰もいない。
元々店なのだから、見張りなんかもいないのだろうか。
それとも、従業員すべてが仕事を放棄してしまうほど、この店は廃れてしまったのか。


「てめえ、どっから入りやがった」
さすがに気配を殺さず堂々と甲板を歩いていたら、昼間のコックに見咎められた。
こいつなら話が早そうだ。

「昼間の金髪に話がある。どこにいる?」
途端、男の顔色がどす黒く染まる。
憤怒だけではない、どこか哀しみや戸惑いをない交ぜにしたような、複雑な表情。

「あいつなら、店にいる。今酒盛りの真っ最中だ」
そう言えば、店の辺りは煌々と灯りがついていた。
「あの金髪のコックを、うちの船長が欲しがってんだが、くれるか?」
男はまた顔を歪めた。
「それを決めるのはオーナーだ」
「オーナー?あのクリークってのか?」
「あんな奴はオーナーじゃねえ!」
ああ、そう言えば先代のオーナーは軟禁されてるっていったか。

「そいつが許可すりゃ、あいつ連れてってもいいのか?」
男はふんと鼻を鳴らした。
「実際はクリークの野郎が手放さないだろうよ。あんたもどんなモノ好きでサンジなんざ欲しいと言ってんのか。ガキ揃いのくせに」
「飯が気に入ったらしい」
「はっ、あいつが泣いて喜ばあ」
男は肩をそびやかした。

「本気で連れて行くか、店を覗いてから決めるんだな。俺としちゃあ、あんな目障りな野郎消えてくれりゃあせいせいするが」
嘘をついている、と直感で思った。
何より、男の顔は苦渋で満ちている。
今の現状を憂い、嘆いているのだ。
恐らくはあの金髪のことも。

「そうさせてもらう」
俺は男に礼を述べて店に向かった。





風に乗ってアルコールの匂いと囃し立てる耳障りな笑い声が響いて来た。
明るい店内で、いかにも荒くれ共といった風情の海賊達が、口笛を鳴らし酒を呷って馬鹿騒ぎを繰り広げている。
その中で、金髪だけが全裸だった。
白い身体はそこだけ異質に浮いて見えて、男の上で揺さ振られ、伸ばされたり曲げられたりする長い手足も作り物のようだ。

窓越しにその光景を眺め、眉を顰めた俺の隣にいつの間にか男が立っていた。
闇よりも尚暗い顔で、俺に注意を払うでなく同じ光景に見入っている。
服装からして、こいつも海賊の仲間内だろう。

「あんたは、あの乱痴気騒ぎに参加しないのか」
俺は世間話みたいに話を振った。
男も俺を見咎めるでなく、一点を見詰めたままただ首を振る。

「何もかも俺のせいだ。あの人に罪はねえ」
あの人、とは金髪を指しているのか。
「あんたもしかして、海賊を手引したって・・・」
「ああ俺だ。こんなつもりはなかった」
男が顔を歪める視線の先で、白い足が揺れていた。





腹が減って死にそうで、辿り着いたのがこのレストランだった。
本当に、腹が減っていただけなんだ。
けど金もねえ俺は代わりに鉛の弾をくれてやると脅かして、なんとか飯にありつこうとした。
だがここのコック達は滅法強い。
結局俺はさらに叩きのめされて店を追い出された。
なのに―――

「そんな俺に飯を差し入れてくれたのが、サンジさんだった」
腹が空いた奴は見過ごせねえって、そう言って、金も持たねえ俺に食わせてくれた。
クソうめえだろって、笑顔を向けて。
俺は、誰かにあんな風に優しくしてもらったのは、初めてだったんだ。
腹が満ちて、俺はすぐにドン・クリークを呼びに帰った。
みんな餓えていたから。
腹をすかして死にそうで、堪らなかったから。

けれどドン・クリークは飯を食うだけじゃ飽き足らなかった。
この店が伝説の海賊「赫足のゼフ」の店だと知って、その航海日誌を求めた。
その上店も気に入ったと騙まし討ちの形で占拠して、乗っ取ったんだ。

「本来なら、店の従業員は使えるとしても、オーナーであるゼフには用がない、すぐにも始末する手筈だったのを
 身体を張って止めたのがサンジさんだ」
ゼフを殺さず、反乱分子となる反抗的な従業員も粛清させず、店を続けると言う約束であの人は身を落とした。
ドン・クリークにしてみれば、すべての約束は反故にするために存在すると豪語していたのに、未だに律儀に状態を持続しているのは、
思いの外サンジさんに嵌ってしまったからだろう。
2,3日で飽きると思ったのに、あれから毎夜この光景が繰り広げられている。



「それで、あんたはどうしたいんだ」
俺は正面から男に尋ねた。
「奴らと一緒になってあいつに突っ込むでもなし、ただ指咥えて悪かった、申し訳ねえって呟いてるだけなのか」
男は顔を土色にして、それでも諦めたように目を伏せた。
「俺にできるのは、ボロ切れみてえになったサンジさんを洗い清めて、薬を塗って、せめてひと時でも眠れるように守ることだけだ。
 それ以外、俺にできることはねえ」
絶望して尚、熱に浮かされるように何かを欲して止まない子どもじみた遣る瀬無さに嫌悪を感じて、俺は男から目を逸らした。

なら、お前はどうしたい?
顎を掴まれ、口いっぱいに肉棒を押し込まれながら、金髪は冷めた目で宙を見ている。
何もかも諦めたように抵抗を失くし、されるがままに身を任せながら、身体だけが欲望に応えている。
そのガラス球のような虚ろな瞳が自分を捉えた。
途端、冷えた空気を纏って双眸が眇められる。
不躾な視線に瞬時に湧きあがった羞恥と憤怒。
それを顕したのは瞳の色だけで、身体は弛緩したまま男の突き上げるリズムに合わせて揺れている。

ああ、こいつはまだ死んじゃいねえ。
流されず諦めず、いつだって牙を剥ける獰猛さを隠し持って従順に身を任せている。
それに気付いているから、クリークは手放せないのだ。
かつては仲間だったコック達も、憎み切れないのだ。




「決めた。あいつは俺らが貰う」
俺は知らずそう呟いていた。
「俺は今から船に帰って仲間を連れてくる。あいつを連れてくためだ。お前ら、手放すのが嫌だったら死ぬ気で応戦しろ」
そう言えば、男は土色の顔のままぽかんとして、それから口元を笑いの形に歪めた。
「あの人を、奪う気か?」
浅黒い肌がほのかに上気し、目が異様な光を帯びる。
「うちの船長は一旦言い出したら聞かねえ。どうしたって連れてくだろうよ」
その言葉を聞いても俺を止めるでなく、その男はポケットに手を突っ込んで踵を返した。

「襲撃されるって知らせなくていいのか?」
俺の問いに振り向かず、一時歩みを止める。
「あんた達がいくらサンジさんを連れて行こうとしたって、サンジさんが「行く」と言わなきゃ無駄なことさ。そして、もしサンジさんが「行く」と言ったなら、
 その時は俺はサンジさんを殺したって引き止める」
「おっかねえ話だ」
俺のからかいに目もくれず、男は闇に消えるようにその場から立ち去った。


夜明けを待たず、俺達は奇襲をかけた。










眼前に果てなく広がる穏やかな海。

ほんの数時間前まで、海だけを目指して旅に出る日が来るとは思っていなかった。
男3人だけの船内は、雑多で賑やかだ。
ルフィの台詞にはいちいち突っ込まずにいられないし、ヨサクがさらに落としてくれて能天気極まりない。

あんだけめまぐるしく事が続いて、この先も目指す島でひと悶着あるだろうに、俺は腑抜けみたいに海を眺めるしかできない。



ふらっと立ち寄ったガキばかりの客たちが、俺をコックに欲しいと殴りこんできて
こともあろうにクリーク団とやりあって、その最中にあの麗しいレディが船もって逃げたって他の仲間が駆け込んできて、
その上物騒な目をした男が通りすがりにクリークの船をぶった切って、それを見たあの緑頭のいかれ剣士がそいつに戦いを挑んで―――

あいつ、大丈夫なんだろうな
命の心配をするようなタマじゃねえが、あの生き様は危なっかしい。
奴だけじゃねえ、どいつもこいつも“信念”だかを振り翳して前だけ見て突っ走ろうなんて馬鹿揃いだから、
後ろばっかり向いて歩いて来た俺には眩しすぎたんだ。

ガキだった自分を悔いて、罪を贖いたくて足掻いて、守るつもりが守られて―――
結局、背中を押されなければ一歩も踏み出せなかった。


「ざまあねえ・・・」
ふーと煙を吐き出せば、風に流されすぐ消える。
今日からここが、俺の生きる場所だ。
この海から続く幻の海へと、偉大なる航路の楽園へと仲間を導くのは俺の手から作り出す命の糧。
そうでありたい。

己の夢を大切にするのと同じくらい、仲間の夢を見届けたいから。
仲間が、いるから。




「とにかくメシにしようぜ。何が食いたい?」
「骨ついた肉のやつ!」
「あっしモヤシいためーーー!」

センチになってる暇はねえ。
あのレディを追いかけて、仲間を揃えて海に出るのだ。
偉大なる航路に―――





その後
無事グランドラインに入り航海を続け、それぞれの夢を叶えて
やがて、緑頭のいかれ剣士と生涯添い遂げることになるなんて
この時のサンジは露程にも考えていなかった。


はじまりの時のおはなし





  END