夢見る頃を過ぎても 3

ぽと、と手の甲になにか落ちた。
水だ。
随分しょっぱい水だ。
古いアパートだから、雨漏りするんだろう。

俺は目を見開いて天井を見上げた。
そうすれば、雨漏りなんかしないと思って。
けど今度は目尻から耳に向かって水が流れる。
なんだよもう、勘弁してくれよ。

どれくらいそうしていただろうか。
なんか聞き慣れた足音まで近付いてきたみたいで、とうとう幻聴まで現れたかと目を閉じた。
拍子にすうと、また水が流れる。
と、バタンと乱暴にドアが開いた。
いつもの開け方だ。
いつか蝶番が壊れるに違いない。
つうか、ご近所にも迷惑だろうが。

俺は幻覚に向かって振り向いた。
幻覚は相変わらず横柄そうな態度でどかどかと部屋の中に入り、なんで電気つけてねえんだって聞いてくる。
勝手に明かりをつけて俺を見下ろして、ぎょっとした顔をした。
なんだよ。

「お前、なに泣いてんだ。」
泣いてねえよ。
戯けたこといってんじゃねーぞクソ野郎。
「連絡しなくて、悪かった。」
えらく優しい口調でそういうと、幻覚はぎゅっと俺を抱きしめた来た。
リアルな感触だ。
幻触?
幻覚はそのままキスまでしてくる。
久しぶりだからか噛り付く勢いで唇を合わせて、押し倒して手を這わせてきた。
ちょっと待て。
やりすぎだ幻覚!

「なんの真似だコラ」
何とかキスから逃れて俺は叫んだ。
幻覚じゃねえんなら追い出してやる。
「なにが連絡しなくてだ、一言言えばいいじゃねえか。」
「ああ、思ったより長引いてな。すぐに退院できるはずだったんだが・・・」
「退院?」
あれ?話が違う。
「親父が倒れてな。付き添ってたんだ。だから携帯も電源切ってた。悪い。」
え?え?
そうなの?
でも、じゃあ女の子は?
「・・・それだけじゃ、ねえんだろ。」
俺は意識して軽い口調でそう聞いてみた。
恨み言は言いたくない。
ゾロはそんな俺を推し量るように黙ってみてる。

「お前、公園通りを女の子と手を繋いで歩いてたって、見た人いるし。彼女、できたんだろ。」
なるべくストレートに俺は聞いた。
回りくどいのは好きじゃないし、ケリつけるならはっきりしたいし。
案の定、ゾロはそこで黙ってしまった。
ビンゴなんだ。
「だからもう、俺んとこにも来なくていいんだろ。それなら早くそう言えよ。そしたら俺も食料費浮くじゃん。」
「なんで来なくていいんだ。」
ゾロはそこに反応した。
なんだよそれ。
「来なくていい、ってえか来るな。彼女がいるのにいつまでもホモの真似してんじゃねえ。」
「ホモじゃねえ。」
「世間から見たら立派なホモなんだよ。しかも彼女がいるならひと筋になれ!失礼だろうが。」
「嫌だ。」
ゾロの言い種は駄々っ子のそれだ。
俺は苛々した。
「俺もいい加減迷惑してんだ。てめえに入り浸られちゃ勝手にホモの仲間入りさせられて、真っ当な生活できねえじゃねえか。俺だって彼女欲しいしよ。」
「女じゃイけねえくせに。」
俺はカッとしてゾロの腹を蹴った。
でかい図体がぐ、と呻いて蹲る。

「冗談じゃねえ、もうてめえとはこれきりだ。二度と来るな。お別れだ。俺は俺の好きなようにする。」
「だめだ。」
身を折って痛そうに顔を歪めながら、ゾロはそんなことを言う。
もう一度今度は首の後ろに回し蹴りを入れた。
抵抗しないから綺麗に入ってゾロは畳に倒れ伏す。
「クソ馬鹿野郎!消えろ、二度と面見せんな。」
俺はタバコを咥えて火をつけようとライターを取り出した。
なぜだか手が震えてうまくつかない。

ゾロがのろのろと身体を起こして、俯いたままいきなり俺のところに突進してきた。
腰を掴まれてタックルされたみたいに押し倒される。
「うおっ」
なにがなんだかわからないうちに、シャツを引き裂かれた。
こういうときのゾロの力は半端じゃない。
あっという間に身包み剥がれて、無理やり突っ込まれた。
思わず漏れた悲鳴に慌てて自分で口を塞ぐ。
解してないのに、慣らしても、濡らしてもないのに・・・
痛みとショックで目の前が真っ赤に染まった。
けれど慣れたそこは、ゾロを咥え込んでゆっくりとした抽迭にも応えてしまっている。

「うあ・・・いて、いて・・・」
「てめ、俺と別れんじゃねえぞ。」
耳元で睦言のように囁かれるのは呪詛の言葉。
「逃げようなんて思うな。ずっと側にいろ。俺に女がいようが家庭を持とうが俺にはてめえが一番なんだ。それを忘れんな。絶対に逃がさねえ。」
とどめみたいに口付けて、俺の舌を噛む。

「誰か他の野郎見つけようなんて思うなよ。てめえに手出す奴は片っ端から殺してやる。男でも女でもだ。」
「・・・ゾロっ」

舌を噛まれたまま交わす口付けは血の味がした。


この呪縛から、俺はもう逃れられない。
繋いだ部分からじわじわと俺を殺しながら、ゾロはキスを繰り返した。





俺の中を一杯に満たして貪り尽くせば、ゾロは満足して俺から離れる。
それで安心するせいか、行為の後のゾロは酷く優しい。
今も俺の髪を撫で付けながら、タバコの煙を目で追っている。

「今、付き合ってる奴の名はたしぎってんだ。」
唐突にゾロが呟いた。
独り言みたいに。
「道場に通ってた女でな。気が強くて腕も立つが、ちと抜けたところもある。」
ああそれって、ゾロの好みそのまんまじゃん。
「親父がな、倒れて病院で検査を受けたら、もう末期癌だった。」
流石に俺は息を呑んだ。
ほんとに、そんなことになってたんだ。
「余命半年って言われて、・・・俺は一人っ子だし、跡取りがどうのとか心配しておちおち往生できねえなんてほざくから、たしぎを誘った。」
俺はタバコを灰皿に押し潰して、ゾロの腕枕に頭を預ける。
「近いうちに、俺はたしぎと結婚する。」
俺は目を閉じて、ゾロの鼓動に耳を澄ました。
トントコトントコでかい太鼓みたいに鳴り捲っている。
対して俺のは軽いリズムだ。
思ってたよりショックじゃないらしい。

本当なら、たしぎちゃんに失礼じゃないかとか、二股かけんなよとか、ちゃんと別れようぜとか言わなきゃならないんだろうけど、俺は何も言えなかった。
もうゾロに囚われてしまったから。
共犯の片割れとして、一緒に歩んでいくことに決めたから。

「たしぎちゃんを、不幸にしちゃなんねえぞ。」
それだけは約束しろと、そう言って笑って俺はゾロに口付けた。




ゾロの結婚式は盛大に執り行われたと、高校時代の友人から伝え聞いた。
俺はゾロの友人じゃないから招待なんてされないし、新婚旅行の行き先なんかも知らない。
それでもゾロは、一度だけたしぎちゃんに俺を紹介してくれた。
高校ん時の連れだとか言ってたっけか。

たしぎちゃんはゾロが言うより遥かに可愛くてチャーミングな女性だった。
何より目が澄んでいて、きりっと一本筋が通ったところがある。
ゾロじゃなくても惚れちゃいそうだ。
コックの見習いをしていると言ったら、お料理教えてくださいねと勢い込んで頼まれてしまった。
いくらでも教えてあげるよ。
ゾロの好物とか好みの味付けとかね。

それでも新婚の内は自然とゾロの足も遠退いて、その頃俺も専門学校を卒業して就職探しに奔走していたから、結構疎遠になっていた。
たしぎちゃんが妊娠したと聞いたのもその頃だ。
余命半年と宣告されたお父さんがまだ元気に生活していたから、ゾロの結婚はやはり正解だったと認めざるを得ない。


俺は就職と同時にアパートを出て、成り行きで知り合いになった老夫婦から古い洋館を貰い受けた。
なんでも二人はこれから老人ホームで悠々自適に過ごすらしい。
俺一人が住むには少々広すぎるが、立派なキッチンもついていたから、俺はありがたくそこに移り住んだ。

ゾロにはそのことを知らせなかった。



広い家の中を隈なく掃除し、家具を運び入れる。
やはり俺一人にはどうにも広くてぽつんとした感じだが、ここにはゾロを思い起こさせるようなものは何もないから気が休まる。
こうして一人で一生暮らすのも、悪くはないと思えてきた。
今更女の子と暮らすなんてのはできそうにないし、第一相手に失礼だし。
かと言ってゾロ以外の男なんて真っ平ごめんだし。

冷たい大理石の作業台に頬を乗せて、俺は目を閉じて外に降る雨の音を聞いていた。
ぱしゃぱしゃと水溜りを蹴る音がする。
飛沫がどうのとか考えないで、子供みたいに駆ける足音だ。
一度通り過ぎてまた戻って来た。
どんどん近付いて乱暴に扉を開ける音がする。
今度のこれも、幻覚や幻聴じゃない。



もうガキじゃないのに。
俺もお前も。
なりたいものになれるとか、欲しいものを欲しがるとか、いい年していつまでもそんな我侭が通るなんて思ってないだろ。
けれどいつもお前は真っ直ぐに俺を見る。
まっすぐに俺を欲しがる。
そして俺はそれを拒めない。


頭から水滴を滴らせて、相変わらずの凶悪面で俺を睨みながらお前が歩いてくる。

本当に広い家だ。
玄関からどかどか乗り込んでくるゾロの姿がズームアップされてるみたいだ。
俺は作業台から頭を上げてゾロを見た。


そして、なにもかもを諦めて笑った。


END

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